2011年8月アーカイブ

修士以来の指導教官が、日本学術振興会の科学研究費助成事業を取得して、「インド哲学諸派における<存在>をめぐる議論」プロジェクトを立ち上げた。その研究会で、長野県松本の信州大学へ。

松本に行くのは初めてで、路線検索の通りに羽前成田―赤湯―大宮―長野―松本というルートで行くことにした。直線で行くことはできず、N字型のルートで6〜7時間。さらに松本駅からバスで15分。意外に時間がかかる。新宿周りのほうが乗り換えがよかったかもしれないが、篠ノ井線の姨捨駅から見た盆地の眺めが最高だったのでよしとする。

道中は本を読んだり、ボードゲームの翻訳をしたり、寝たり。長野駅で1時間ほど待ち合わせの間に、ネットカフェに行ったら信州大学シミュレーションゲーム会の部室を教えてもらったので。大学に着いてすぐ訪問したが、夏休みのせいか誰もいなかった(カギは空いていたが)。

まずはひと通り自己紹介。インド哲学の若手研究者が約30名が勢ぞろいするのは見ものである。外国留学からわざわざ一時帰国して参加した人もいた。そして今回のプロジェクトの趣旨が説明された後、研究発表が始まった。私は発表がないので気楽なものである。

基調講演は桂紹隆・龍谷大教授で、アビダルマから二諦説・三性説に至る存在の分類と、ヴァイシェーシカ学派とサーンキヤ学派のカテゴリー分類を概観した。次に丸井浩・東大教授は、長尾雅人氏の空の存在論と、W.ハルプファス氏のインド古典存在論から、基本的な論点を抽出した。藤永伸・都城高専教授は、ジャイナ教の存在カテゴリー分類を年代順に整理してまとめ、加藤隆宏・ハレ大研究員はヴェーダーンタ学派のバースカラについて、シャンカラとの対比から宇宙原理と個我の異同を説明した。桂教授は、初期仏教を含めたインド哲学全体のコンセンサスを提案したが、学派による隔たりは非常に大きく、一口に「インド哲学では」というのは難しいことが浮き彫りになる。

和気あいあいとバスで宿に行って、温泉に入ってから夕食会と二次会。熱い哲学議論には加わらず、お寺や地震の話でのんびり。毎年4月に行われている新入生歓迎の研究室旅行のようで懐かしい。10年以上も前の話だが、あの頃私は何を考えて研究に没頭していたのだろう。40歳も近づいたせいか、どこか冷めている自分がいた。

翌日は広島大のイジェヒョン氏によるバルトリハリの「二次的存在性」について。奇しくも4年前にお亡くなりになった谷澤淳三・信州大教授の最初の論文テーマだったという。過去と未来の言語表現を可能にするため、文法学派ののバルトリハリは仮の存在性を想定した。そこには時間の実在も背景にあって面白い。次にウィーン大学に留学中の江崎公児氏は、ウダヤナの刹那滅論批判にみられる滅や無の実在性についてである。「無は存在する」という後期ヴァイシェーシカ学派の枠組みは、インド哲学の特異点と言えるだろう。そして最後は鈴木孝典・愛知文教大講師によるヴァイシェーシカ学派の目的論。ヴァイシェーシカ学派は自然科学といわれることが多いが、解脱論を説いている箇所もあり、その目指すところは簡単に判別できない。そこがはっきりしていなくて中立的であるがゆえに、ほかの学派が利用しやすかったのではないかと思われた。

全体討論では、存在論は言語哲学と切り離せないという提起が多くなされていた。インド哲学では、主にヴェーダの解釈学から始まった経緯から、語句と語句の対象の関係が深く考察されている。言葉の対象の実在を認めるバラモン教系諸派と、全ては心の中での出来事に過ぎないという仏教唯識系諸派で大きな論争が繰り広げられた。また、神の存在論証や、解脱の方法論とも密接に関わっている。これをどこまで広げ、どこまでまとめられるかが今回のプロジェクトの勝負となりそうだ。

このプロジェクトは今年から4年にわたって行われ、最終的に専門外の研究者や一般読者にも分かりやすい書籍にまとめることをめざしている。私はどこまでコミットできるか分からないが、年に1回くらいの研究会に顔を出しながら、昔研究した「ものとものの共通性」の特質をまとめなおしてみようかと思っている。そのほかに、丸井先生から早く博士論文をまとめるよう(会うたび言われているが)言われたり、桂先生から議論に関する術語集をまとめるように提案されたりと、身に余る激励を受けた。昨年、学会発表するきっかけになった後輩の結婚式もそうだったが、年に1度くらいはこうした場に出て刺激を受けることが必要だと思う。

しかし帰り道もやはりボードゲームの翻訳。メールとチェックすると、新たな翻訳依頼が来ている。こうして秋は毎年、翻訳三昧になっているが、はたして勉強できるのか、乞うご期待。

曹洞宗でよく読まれている修証義の第一章に続いて、第五章も現代語に訳してみた。第1章は悪因苦果への言及が多く、決して気持ちよく読めるものではないが、第5章は感謝がテーマなのですっきりする。インド人しか悟れないとか、雀や亀が恩返しするとか、現代的にはあまり受け入れられそうにない話もあるが、そのあたりは素朴に読んでおきたい。

第1章と同じく、法事などで読んでもらうことを前提として、逐語訳にしたり注釈を加えたりせず、思い切って意訳してできるだけ短くしている。それでも原文と比べて文字数が3割くらい増えた。

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修証義 行持報恩(現代語訳)

菩提心を起こすということは、多くは須弥山の南方に住む人にしかできないことです。私達も縁あって、この人間世界に生を受け、お釈迦様の教えに出えたこと、何と嬉しいことでしょうか。心静かに思いめぐらしましょう。正しい教えが世に広まっていない時は、正しい教えのために身も心も捧げようと思っても叶いません。正しい教えに出えた今の私達を喜ぶべきなのです。実に、お釈迦様が仰るように、最高の悟りを教えて下さる師匠と出逢うには、生まれにも、顔や容貌にも、欠点にも、行状にもとらわれず、真実の智慧を大事にして、毎日朝昼晩に仏様を礼拝し敬い、煩悩の心を起こさないようにしなければなりません。今、私達が仏教に出逢えたのは、お釈迦様とそのお弟子様たちが代々伝えてきた慈悲のおかげです。これがなかったら、どうして今日まで伝わることができたでしょうか。一句の言葉、一つの教えさえも、感謝しなければなりません。ましてや仏教の多くの教えに対するご恩に感謝しないことがありましょうか。雀や亀ですら助けられた恩を忘れず、助けてくれた人を守り続けました。動物ですら恩を忘れません。人間がどうして恩義を知らずにいられるでしょうか。その恩返しはほかでもなく、ただ毎日の生活しかありません。すなわち、一日一日の生命をおろそかにせず、自分だけのために使うまいと生きることです。時が経つのは矢よりも速く、人の生命は草の葉の露よりもはかないものです。どんな手段で、過ぎ去った一日を取り返すことができるでしょうか。むなしく長生きしたところで、後悔ばかりの日々と、悲しむべき肉体しかありません。しかしそんな煩悩に支配された百年の間に、一日でも誠実に生きれば、百年の生涯だけでなく、来世の百年も救われるのです。この一日の生命は、かけがえのない大切な生命です。誠実に生きる生命を、自分自身でも敬いましょう。私達の生活によって仏様の生命が顕れ、仏様の大いなる道が通じます。したがって私達の一日一日の生活は仏様の種であり、仏様の生活そのものです。仏様とはお釈迦様のことです。お釈迦様とは、私達の純粋な心です。過去現在未来の仏様は、みなお釈迦様となるのです。これが心こそ仏様ということです。誰の心が仏様なのか、よく考え生活していきましょう。こうして仏様のご恩に報いることができるのです。
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お寺の経本が古くなったのを機に、オリジナルの経本を作ることにした。お葬式で読んでもらう修証義第1章・同第5章・般若心経に、この頃法事で読んでいる慈経、そして慈悲の瞑想と御和讃供養編の歌詞、さらに修証義第1章・同第5章・般若心経の現代語訳を加えた。現在、ゲラ刷りが終わって校正中である。

十善業と十重禁戒

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曹洞宗のお葬式では、最初に戒名を授ける式で16条の戒律を示す。仏法僧への三帰戒、悪を作らず、善に励み、人を救い助けるという三聚浄戒、そして人としてやってはいけない十重禁戒である。

この十重禁戒は、最初の五戒までは覚えやすいが、残りの五戒はすぐに思い出せなかった。内容的に重なっていたり、お坊さんへの利益誘導とも取られかねない条文が入っているためである。

1.不殺生戒 殺してはならない
2.不偸盗戒 盗んではならない
3.不貪婬戒 浮気をしてはならない
4.不妄語戒 偽りの言葉を口にしてはならない
5.不酤酒戒 買ってまで酒を飲んではならない
6.不説過戒 他人の過ちをあげつらってはならない
7.不自讃毀他戒 自らをほめ、他をそしってはならない
8.不慳法財戒 他に施すことを惜しんではならない
9.不瞋恚戒 怒りに燃えて自分を失ってはならない
10.不謗三宝戒 仏法僧の三宝を謗り、不信の念を起こしてはならない

これを、十善業と並べてみると覚えやすいことがわかった。十善業は、身・口・意の順に並んでおり、身体に関わる戒律が1〜3、言葉に関わる戒律が4〜7、心に関わる戒律が8〜10となっている。そして8〜10は、貪瞋痴の三毒に対応している。

1.不殺生
2.不偸盗
3.不邪淫
4.不妄語
5.不綺語 おべっかを言ってはならない
6.不悪口 悪口を言ってはならない
7.不両舌 二枚舌を使ってはならない
8.不慳貪 欲張ってはならない
9.不瞋恚
10.不邪見 仏教を否定するものの見方をしてはならない

十重禁戒は不酤酒戒を加え、不綺語、不悪口、不両舌の3つをを不説過戒・不自讃毀他戒の2つにまとめたものと考えれば、合点がいく。不慳法財戒も、「もっとお布施下さい」という意味ではなくて、貪りをなくすことが主眼であり、不謗三宝戒は「お坊さんの悪口を言うな」ではなくて、仏教によって無知をなくすことが主眼である。お坊さんが仏教に外れていれば、それを批判するのは悪口でも謗三宝でもない。

さて、現代においてこの10の戒律の中で最も大切なものは不瞋恚であると、このごろよく思う。仕事でも、家庭でも、怒りで我を失ったがために信頼を失い、取り返しがつかなくなるケースをよく見るからである。特に、酒を飲んでそうなるのは本当にたちが悪い。

このごろ法事で『慈経』を読んでいるが、読んだ人が最も感銘を受けるのは次の部分である。「うちの父ちゃんに聞かせてあげたい」と。それだけ怒りというものに手を焼いている人が多いのだろう。

「どんな場合でも、人を欺いたり、軽んじたりしてはいけません。怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。」

穏やかな人であり続けようと願うこと。これは、仏道の修行だけでなく、社会生活においても大切なことである。

先日、仙台からセールスマンが来て、水フィルター掃除機をとうとう購入した。これがたいへんすばらしくて心奪われながら掃除をしていた。

水フィルター何年か前、つくばにいるときに一度売り込みに来た。布団からこんなに皮脂が取れますよというデモ販売で、気に入ったことは気に入ったのだが、値段を聞いてびっくり。30万円以上もする。すぐに断ったものの、セールスマンが粘って気まずい思いをしたものだった。

そういうことがあったので、今回電話が来たときには、「10万円以内なら」とはじめに条件を言っておいた。ダイソンのサイクロン式掃除機+αくらいの予算である。無理だろうと思っていたが、中古もありますからと言ってセールスマンがやってきた。

前回は布団だったが、今回は本堂の畳。水を入れて、掃除機を回すと、わずか8畳でものすごい汚れが水にたまった。やはり性能はいい。値段は前と同じで30万円以上、リースでも月々6900円だった。「中古なら10万円台で……」「お電話で申し上げた通り、10万円が限度です」「分かりました。本社に確認してみます」と、デモ販売で使用した中古品をもってくるという。

そして昨日セールスマンがもってきたのがドイツのハイラ社の掃除機。社名は聞いていたので、予め本社のサイトで調べていたが、本体価格が159ユーロ。パワーノズル129ユーロなどを合わせて、400ユーロくらいの品物のようだ。プラグを日本製にするコストと輸入コストを考えれば、新品でも10万円くらいが適正価格ではないかと思われた。

商品紹介の動画は、売る気が全く感じられなくて却って信頼がもてる。

セールスマンが帰ってから、嬉々として家中を掃除して回った。ときどき水フィルターを見て、「うわぁこんなに汚れがたまったよ」と思っていると、掃除に夢中になってしまう。水の中にユーカリオイルを垂らしておくと、部屋中がいい匂いになるのもいい。ちょうどお盆前で、本堂の掃除にも大活躍してくれそうだ。

強いて難をあげるとすれば、汚い水を入れたままにしたくないので、いちいち水を出し入れしなければいけないところか。どんなにいい掃除機でも、掃除しなければきれいにならないのは道理なので、宝の持ち腐れにならないようにしたい。

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