2012年9月アーカイブ

七世の父母

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「六親眷属、七世の父母、有縁無縁三界の万霊、法界の含識に回向す」
法事などの供養でお経の後に読む回向文である。解説によれば読経の功徳を、父母・妻子・きょうだい、七代遡っての直系先祖、欲界・色界・無色界のすべてのみたま、あらゆる処にいるいのちあるもの全てに捧げるという。

お盆のとき、『仏説盂蘭盆経』の原型となったとされる『餓鬼事・舎利弗の母』をもとに次のような話をした。

仏教では、私たちがこの世に生まれる前に前世があったと考えます。前世の前にも、さらに前世があり、生まれ変わっては死に、また生まれ変わっては死ぬということをはるか昔から繰り返してきました。これを輪廻といいます。そして前世には、必ずしも今の家に生きていたわけではありません。しかしそのときにも、父がおり、母がいたことは確かです。その父も母も、私たちと同じように次々と生まれ変わっているわけです。

お盆のお経のもとになった話に、お釈迦様のお弟子さんで舎利弗という和尚さんが、4つ前の前世で母親だったという幽霊に出会う話があります。幽霊はお寺に入れないのですが、元母親ということでお寺に通され、舎利弗に窮状を訴えました。舎利弗はほかのお弟子さんと共に、その幽霊を供養したところ天女に生まれ変わったといいます。

この話から、親子の縁というものは、何度生まれ変わってもなくなることはないと分かります。
お経の後にこの功徳を「七世の父母」に捧げると申し上げました。ふつうこの言葉は今の家の七代前までの先祖と取られていますが、舎利弗のお母さんの話を踏まえると必ずしも今の家の先祖に限る必要はないと思います。前世での父母、その前の前世での父母…というように、7つ前の前世までの父母に功徳を捧げると考えてはいかがでしょうか。

その人たちは生まれ変わって、今も私たちと同じこの世を生きています。また親子になっているかもしれませんし、友人やご近所さんかもしれませんし、あるいは赤の他人かもしれません。その方々に思いを馳せてみて下さい。苗字など関係ないことも分かるでしょう。「袖振り合うも他生の縁」という通り、仏教では私たちに完全に無関係な人はいないと考えます。したがって、誰かを供養するときには「生きとし生けるものが幸せでありますように」という心構えになると思います。全てに対する慈しみの心で手を合わせて頂ければ、自分の心も穏やかになるでしょう。

日本仏教はつくづく先祖教だと思う。お釈迦様より大事なのは直系の先祖であり、お釈迦様は先祖の守り神ぐらいにしか捉えられない。仏様が原義的にはお釈迦様ではなく、亡くなった先祖のことを指すと思っている人も多い(それは「ほとけ」という和語にも原因があるのだが)。しかし明治以来の家制度はどんどん崩壊し、社会は家ではなく個人から構成され、「檀家」ではなく「檀信徒」と呼ばれるようになった。このように家の縛りが解体される世の中で、自己と向き合い、改めて仏教に救いを感じる方もいるのではないかと思う。

前世や来世の話をすると、一番大切なのは現世、今日の一日、今の一瞬であって、前世を振り返ったり、来世に願をかけたりして現世を疎かにしてはいけないと諌める方もいるかもしれないが、私はそうでないと思う。舎利弗の母の話が示すように、今の家族と再び縁を結ぶ可能性は必ずしも高くない。そもそも、人間に生まれ変われるかどうかすら定かではない。だとすれば、今につながる無数の絆を思い、周囲にいる家族や友人を大切にして、その恩に少しでも報いることができるように善く生きるしかない。そう思えるのは、前世や来世に思いを馳せてこそだろう。

昨日、市PTAの研修会で、「映像メディアの幻想と弊害―むかつく・きれる・不登校・大人になれない青少年の背景にあるもの―」というタイトルで仙台の小児科医の講演会を聴いてきた。

タイトルの通り、現代の子供が自己肯定感がない、自尊心がない、笑顔がない、その原因はテレビの見過ぎ、(デジタル)ゲームのやりすぎが大きな原因だという話で、メディア漬けを脱して、現実的体験や親子の絆を取り戻そうという講演だった。

根拠として三白眼をした携帯ゲーム中毒患者の子供が、ゲーム断ちをしたら1か月後こんなに笑顔を取り戻したというような比較写真を次々提示し、笑顔や会話を司る前頭葉が、ゲーム中ははたらいていないというデータ(いわゆる「ゲーム脳」)を見せる。

講師にはたいへん失礼ながら、公演終了後、真っ先に挙手して反対意見を述べさせて頂いた。現代の子供が抱える問題は、メディアに一因があるにしても、全ての元凶という言い方は問題の根本を見誤っている。自己肯定感がない、自尊心がない、笑顔がないというのはまず大人が抱えている問題であり、子供はそれを忠実に映しているだけではないか。根拠として、一部の中毒患者の症例から全ての子供に広げるのは過度の一般化であること、坐禅時の脳もゲーム脳と近くそれ自体が問題だといえないこと、実際問題、テレビ・ゲームに代わるものを探すのは容易でなく、そのストレスが大きいことを述べた。

講師の先生は明らかに顔が曇っていて申し訳なかったが、社会の責任、親の子育てへの積極的な関与という言葉を引き出すことができた。特に「子供と花札やトランプでもして」という回答は大いに満足した。

現代は家族の絆が薄れているというのと、メディア漬けの子供が多いというのは間違いない事実であろう。しかしその因果関係は、メディア漬けだから家族の絆が薄れているのではなく、家族の絆が薄れているからメディア漬けになると考えたほうが自然だと思う。

ではなぜ家族の絆が薄れているかといえば、「他者や自己の存在感が希薄になっている」(南直哉)という、テレビ・ゲームよりももっと根源的な問題なのだ。それは例えば働いても働いても昇給しない(どころか最近では就職すら危うい)デフレ社会だったり、個人や個性を尊重する教育だったり、さまざまな要因によるものである。それぞれの事象が良い面と悪い面の両方を抱えており、何か1つをスケープゴートにしても解決しない。

実際には、家族に問題を抱えている子供を学校や地域がサポートしていくことが、「ゲームやめろ!」なんていうよりずっと大切なことである。

もうひとつ、講師の話に抜け落ちているものは「遊び」への理解だったように思う。「気晴らし」という言葉が出てきたが、遊びは単なる気晴らしではない。子供は仕事(学び)と遊びを区別しておらず、真剣に遊ぶ中で、好奇心や社会性などの生きる知恵が育まれていく。だから多くの親がテレビ・ゲームより楽しい遊びを提案できないということが問題だというなら諸手を上げて賛成で、こんな反論はしなかっただろう。

講師も、私の反論に答えたいことはもっとあったようで、終わってから直接お話しさせて頂こうかと思っていたが、拍手でお見送りとなった。終わって会場を出ると知人が次々と現れ、ムキになって反論してしまったことが恥ずかしくなってしまった。でも「私もそう思って聴いていました」と言ってくださる方もいて慰められる。

家に帰って長女に講演の話をしたら「うちのクラスにはゲームをするけど、いつも笑顔でクラスの人気者がいるよ」というコメント。論理的でたいへんよろしい。講師は子供を素直に育てましょうと仰っていたが、こんなことをいうのは素直ではないのだろうか。いろいろ考えて夜もなかなか寝付けなかった。

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