2012年11月アーカイブ

家事と葬儀

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毎週金曜日は長女の習い事と、妻がつくばから帰ってくるので慌ただしい。布団を上げて、散らかっているものを片付けて、掃除。これを朝のうちにやっておけばいいが、外出の用事があると夕方になる。まさに時間との戦い。

今日は母が忘年会だったので、母と長女を送り、スーパーで夕食の食材を買って一旦帰宅。選択した子供たちの運動着を乾燥機にかけて(ティッシュまみれで取り除くのに時間がかかった)、長女と妻を迎えに行き、帰宅して夕食の支度。食べ終わって妻がひと仕事している間に食器を片づけ、妻が子供たちをお風呂に入れている間に掃除機がけと布団敷き。そして妻と子供たちがお休みの今、歯を磨きながらネットをしているところだ。

ふと家事と葬儀は似ているところがあると思った。家事はルーティン化しているので、始まってしまえばあまり頭を使わないが、始まるまでの段取りが重要である。限られた時間の中でどこまでできるか、どの順序でやったら早いかを考えるのは結構頭を使う。

葬儀も、始まってしまえばあまり頭を使わないが(故人の成仏を祈ることに念を集中している)、段取りには神経を使う。自宅かお寺かホールか、伴僧は何人で、自分の役目は何か、会葬者の人数はどれくらいか、弔辞弔電は何本あがるか、葬儀社のスタッフは式中にどれくらい手伝ってくれるか、こういった要素を加味して、葬儀の内容が微妙に変わるのである。そのときになってから動いたのでは変な間ができる。○○が終わったら△△、△△が終わったら□□と、先の先を読んで行動していかなくてはならない。

家事の達人は、段取りまで直感で組み立てられる人だと思う。ちゃんと考えないと行き当たりばったりになってしまうのは、まだ未熟ということだろう。精進精進。

水鳥は空の道

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水鳥の 往くも帰るも 跡絶えて されども道は 忘れざりけり

道元が「応無所住而生其心を詠む」という題で詠んだ和歌である。梅花流では『高祖承陽大師道元禅師第二番御詠歌』としてお唱えされる。

この歌詞について、次のように解説されていることに以前から疑問があった。

水面に遊ぶ鳥がさわりなくすいすいと自在に泳いでいます。「往くも帰るも」は水鳥があちらこちらと泳いでいる情景であり、「跡絶えて」は水鳥の泳いだ後にのこる波の跡がなくなっていくさまです。跡はないけれども歩むべき道を忘れてはいません。 (『梅花流指導必携・解説編』)

水鳥が静かに水面を泳いでいる。あちらへ行くかと思えば、こちらの方へ向かっている。自由で何の屈託もなく、その泳ぐ様子には何らかの跡形も見られない。しかしその水鳥は、その足で絶えず水をかき、警戒を怠らず、自分の本来の進むべきを忘れずに、その向かうところを知っている。(『新版・梅花に学ぶ』)

水面で「跡絶えて」道に迷うことなどあるだろうか。どんなに大きな湖であろうとも、岸辺には目印があるはずで、それは誰の目にも分かるし、忘れるはずもない。それよりも空路という解釈をしたほうがしっくりくる。

水鳥たちは、秋は南へ渡ってゆき、春は北へ帰ってゆく。行路には何の跡をも残さないが、しかし、水鳥たちはその行路を忘れることがない。(松本章男『道元の和歌』)

しかしながら、どちらも典拠のない解釈に過ぎず、決定的でなかった。そこに最近見つけたのが『法句経』。羅漢品に次のような記述がある(和訳は中村元『ブッダの真理のことば・感興のことば』・岩波文庫)。

satImanto uyyuJjanti te nikete na ramanti te pallalaM hitvA haMsA iva okam okaM jahanti //91//
こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。
心淨得念 無所貪樂 已度癡淵 如鴈棄池

yesaM sannicayo natthi ye pariJJatabhojanA yassa suJJato animitto vimokkho ca gocaro tesaM gati AkAse sakuntAnam iva durannayA //92//
財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。―空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。
量腹而食 無所藏積 心空無想 度衆行地 如空中鳥 遠逝無礙

yassa AsavA parikkhINA AhAre ca anissito yassa suJJato animitto ca vimokkho gocaro tassa padaM AkAse sakuntAnam iva durannayaM //93//
その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの行く路(=足跡)は知り難い。―空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。
世間習盡 不復仰食 虚心無患 已到脱處 譬如飛鳥 暫下輒逝

ここでは、水鳥の跡は空(AkAsaアーカーサ/梵AkAzaアーカーシャ)にある。「応無所住而生其心」も、内容的に「心淨得念」「無所貪樂」「心空無想」「虚心無患」に通じる。漢訳もあることから、道元も親しんだ可能性が高い。道元の和歌の典拠は、このお経にあると考えてよいのではないだろうか。中村博士は「人格を完成した人の生活の道は、凡夫のうかがい知り得ざるものがあるという趣意である」と解説している。

この『法句経』をもとにして解説すると次のようになるだろう。

水鳥たちは、春になると北へ行き、秋になるとまた同じところに帰ってくる。空の道は見えないが、通るべき道を忘れていないということである。仏祖も、何事にもとらわれなき心で涅槃に達した。その境地は凡夫には分からないものかもしれないが、修行を続けているものには自ずと開けてくるものである。

空と鳥といえば、道元の次の一節も忘れてはならない。

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。以鳥爲命あり、以魚爲命あり。以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修證あり、その壽者命者あること、かくのごとし。(『正法眼蔵』現成公案)

鳥が空なしでは生きていけないのは誰でも理解できる。問題はそこをさらに進んで、空が鳥なしでは存在できないとした点である。道元はこれによって修証一如を説くが、そもそも湖(娑婆)を脱して空に羽ばたかなければ、修も証もない(湖にいたままでもよいというのは天台本覚思想だろう)。修行と悟りの道は、必ず空にある。

と、ここまで考察を進めてきたが、梅花流で「湖の道」という解釈が通用しているということは、何か別な典拠があるのかもしれない。諸賢のご高説をお伺いしたい次第である。

法句経原典講読

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先月から今月にかけて、市内の集会所「まちの楽校本町館」にて、3回にわたる仏典講座を開催した。『法句経』をパーリ語原典で読むという試みである。

『法句経』などの初期経典は、お釈迦様の言葉(仏説)が多く(全てではない)含まれたお経だと言われるが、北伝仏教ではあまり重視されなかったため、伝統仏教ではほとんど読まれることがなかった。近代のヨーロッパ人研究者によるインド学によって、日本でも徐々に知られるようになってきている。『般若心経』の難解さと対比すると、平易で分かりやすく、心にさっとしみこむだろう。

講義では文法的な解説をせず、ローマナイズした原文をさらっと読んでもらって、逐語訳していき、全体の解説をするという内容。中村先生の岩波文庫版も適宜参照したが、できるだけ自分の言葉で翻訳するように努めた。条件節にあったnaが帰結部に移っただけで意味ががらりと変わるなど、翻訳すると分からないことも発見できた。

1回目は怒らないことがテーマ。ダンマパダの冒頭の6偈である。

dhammA manopubbaGgamA manoseTThA manomayA ce paduTThena manasA bhAsati vA karoti vA tato dukkhaM naM anveti vahato padaM cakkam iva. //1//
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその者につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。

dhammA manopubbaGgamA manoseTThA manomayA ce pasannena manasA bhAsati vA karoti vA tato sukhaM naM anveti anapAyini chAyA iva. //2//
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその者につき従う。影がその体から離れないように。

maM akkocchi maM avadhi maM ajini me ahAsi ye taM upanayhanti tesaM veraM na saMmati. //3//
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだく者には、怨みはついに止むことがない。

maM akkocchi maM avadhi maM ajini me ahAsi ye taM na upanayhanti tesaM veraM saMmati. //4//
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだかない者には、ついに怨みが止む。

idha verena verAni kudAcanaM na hi saMmantI averena ca saMmanti esa sanantano dhammo. //5//
実にこの世においては、怨みをもって怨みが止むことは決してない。怨みをすててこそ止む。これが永遠の真理である。

ettha pare mayaM yamAmase na ca vijAnanti tattha ye ca vijAnanti tato medhagA sammanti. //6//
「ここにいる我々は皆、死を免れない」とみんなは知らない。このことわりを知れば、争いはしずまる。

2回目は、愛着をもたないこと。まるで無縁社会を支持するような内容で、賛否両論が巻き起こった。

piyehi appiyehi kudAcanaM mA samAgaJchi piyAnaM adassanaM appiyAnaM dassanaM ca dukkham //210//
愛する人にも、嫌いな人にも、いつでも会ってはならない。愛する人に会えないのと、嫌いな人に会ってしまうのは苦しみである。

tasmA piyaM na karirAtha, hi piyApAyo pApako yesaM piyAppiyaM natthi tesaM ganthA na vijjanti //211//
だから愛する人を作るな。愛する人と別れるのは災いである。愛する人も嫌いな人もいない者たちには、しがらみがない。

piyato soko jAyatI piyato bhayaM jAyatI piyato vippamuttassa soko natthi bhayaM kuto //212//
愛する人から心配が起こり、愛する人から恐怖が起こる。愛する人のいない者には心配はない。恐怖もどうしてあろうか。

sIladassana sampannaM dhammaTThaM saccavAdinaM attano kamma kubbAnaM taM jano piyaM kurute //217//
節制と見識を備え、真理を確立し、真実を語り、自分の務めに励む者を、人々は愛する。

nipakaM saddhiM caraM sAdhuvihAriM dhIraM sahAyaM sace labheta sabbAni parissayAni abhibhuyya tena attamano satImA careyya //328//
聡明で、高潔で、思慮深い伴侶をもし得ることができたならば、一切の苦難を乗り越え、その者と共に喜び、心を配って生きよ。

nipakaM saddhiM caraM sAdhuvihAriM dhIraM sahAyaM ce no labheta vijitaM raTTHaM pahAya rAjA iva araJJe matAGgo nAgo iva eko care //329//
聡明で、高潔で、思慮深い伴侶をもし得ることができなかったならば、征服された国を捨てる王様のように、森の象マターンガのように、独りで歩め。

ekassa caritaM seyyo bAle sahAyatA natthi araJJe matAGgo nAgo iva appossukko eko care pApAni ca na kayirA //330//
独りで生きることは尊い。無知な者たちとつるんではならない。森の象マターンガのように、少欲にして、独りで歩め。そして悪いことをするな。

3回目は慈悲について。積極的に人を助けるという内容ではなく、危害を与えないという消極的なものだが、実践は難しい。

sabbe daNDassa tasanti sabbe maccuno bhAyanti attAnaM upamaM katvA na haneyya na ghAtaye //129//
みんな暴力を怖がり、みんな死を恐れる。自分自身と同様に考えて、ほかの者を殺してはならない。殺させてはいけない。

sabbe daNDassa tasanti sabbesaM jIvitaM piyaM attAnaM upamaM katvA na haneyya na ghAtaye //130//
みんな暴力を怖がり、みんな命を大事だと思っている。自分自身と同様に考えて、ほかの者を殺してはならない。殺させてはいけない。

yo attano sukhaM esAno sukha kAmAni bhUtAni daNDena vihiMsati so pecca sukhaM na labhate //131//
自身の幸せを求めるのに、幸せを望むほかの者たちを暴力で苦しめるならば、その者は来世に幸せを得られない。

yo attano sukhaM esAno sukha kAmAni bhUtAni daNDena na hiMsati so pecca sukhaM labhate //132//
自身の幸せを求め、また幸せを望むほかの者たちを暴力で苦しめないならば、その者は来世に幸せを得られる。

kaJci pharusaM mA avoca vuttA taM paTivadeyyuM hi sArambhakathA dukkhA paTidaNDA taM phuseyyuM //133//
誰に対しても、ひどい言葉を言うな。言えば、あなたにひどい言葉が返ってくるだろう。実に、言い争いは苦しみである。暴力があなたに返ってくるだろう。

sace upahato kaMso yathA attAnaM neresi eso nibbAnaM patto asi te sArambho na vijjati //134//
もしあなたが、こわれた鐘のように自身を鎮めるならば、永遠の安らぎに到達できる。あなたに言い争いはもう起こらない。

yathA gopAlo daNDena gAvo gocaraM pAceti evaM jarA ca maccU ca pAninaM AyuM paceti //135//
牛飼いが棒で牛を牧場に追い立てるように、老いと死が生きとし生けるものの命を追い立てる。

alaGkato api ce santo danto niyato brahmacArI samaM careyya sabbesu bhUtesu daNDaM nidhAya so brAhmaNo so samaNo sa bhikku //142//
どんな身なりであっても、穏やかで、慎み深く、自己を制御し、清く正しく、謙虚に振る舞い、生きとし生けるものに暴力をふるわなければ、その人こそ真の聖者であり、真の修行者であり、真の僧侶である。

毎回、参加者から感想をお伺いし、私自身益するところ大であった。また来期、別のお経で講座を開いてみたい。

旗の順序

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仏旗のイメージ先日の晋山式で、仏旗(五色旗)の色の順序を聞かれたが全く見当がつかなかったので調べてみた。

Wikipedia:仏旗

旧来の配色では「緑、黄、赤、白、紫」という順序が正解。いずれも仏陀の身体部分を表しているというので、そのお姿を思い浮かべると覚えられそうだ。

緑・・・頭髪  黄・・・肌  赤・・・血  白・・・歯  紫・・・袈裟

イメージ的には、髪を緑色に染めた黄金のお釈迦様が、鼻血を出しながら白い歯を見せてニッコリ笑っている顔と、その下に紫色の袈裟をまとった体というように上から思い出していくとよいだろうか(ごめんなさい!)。

旗といえば、施食会の旗の順序も迷う。『曹洞宗行持規範』では、下のような順序になっている。五如来幡と大幡(真言)は『甘露門』の通りなので間違いにくいが、四天王がややこしい。実際、私が師匠から受け継いだ資料にも別様に記してあった(左から南東西北)。覚え方としては麻雀のトンナンシャーペー、一番強い多聞天(=毘沙門天)が右といったところだろうか。この順序にも云われがあるはずだが、そこまでは調べきれていない。まずは覚え書きに留める。

唵摩尼縛日哩吽
北方多聞天王
西方広目天王
南無多宝如来
南無妙色身如来
南無甘露王如来
南無広博身如来
南無離怖畏如来
南方増長天王
東方持国天王
唵麼尼駄哩吽泮乇

 

動画配信『仏式クリスマス法要・サンタ菩薩供養』などで知られる真言宗の僧侶・蝉丸P氏が、仏教と、現代僧侶と、インド哲学について極めてオタクな視点で斜めから見た書。「お盆やお彼岸などの忙しい時期を除けば、暇はあっても全て拘束時間内ということで、必然的にインターネットに接続している時間が長くなります」という立場は私も同じなので、共感して読めた。ネットやゲームの専門用語については丁寧な脚注が付されていて、そちらも勉強になる。

般若経典が俺のジャスティス。
法華経しかありえねーだろ常識的に考えて。
浄土経典の救済力は異常。
密教経典が最速で悟りだっつーの。

などという具合に、ネット用語が散見されてクスクス。宗教をOSに、宗派を同人による二次創作活動に、仏壇を携帯電話に(本尊はアンテナとSIMカード、宗派は通信サービス、住職は回線工事者だとか)、戒名料をネットゲームのアイテム課金に譬えるなど斬新で面白い。

そればかりでなく、簡素化される葬儀や、南方上座部仏教至上主義への警鐘など、現代の仏教に対する意見も大いに考えさせられる。批判されることの多い伝統仏教も、「安心を担保」するという機能があるというのは、自らはあまり強調できない(宗教的な恫喝と誤解される)だけに溜飲が下がる思いがした。

著者のように、現代的な視点で仏教に取り組みながら、伝統の保守や再評価をきちんと行なっていく姿勢をもちたい。

もうすぐクリスマスだが、この時期になると毎年この動画を見てしまう。

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