2017年11月アーカイブ

「寺のイチョウの葉が全部落ちたら根雪(春まで消えない雪)」と地元の皆さんが口々に言いますが、異常気象のせいか最近あまりあてになりません。昨年は葉が落ちてから根雪になるまで半月ちかくありましたし、今年は落ちる前から根雪模様です。

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死の随念

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先日、お寺のお供養で、何よりも生きて今日ここにいられるということがありがたいという話をしていたところ、その2日後、妻が自転車で右折車にはねられそうになったという。そのとき身分証ももっておらず、病院に運ばれても身元不明になっていたかもしれないとのこと。こちらも電話が通じなければ仕事があるんだろうなと思うくらいで翌日になってばたばたしていたことでしょう。

車に気をつけるのはもちろんのこと、気をつけていても寝ているうちに心臓が止まってしまう人だっているし、自分や家族が死ぬことは常日頃から想定しておかなければと妻と話をしたところです。

死随念(『清浄道論』)
① 命は奪われている:今もこうしているうちに身体は老化し、どんどん死が近づいている。
② 得たものは無に帰す:いくら健康でも、いくら若くとも、やがて病気になり、老い、死にゆく
③ ほかの人と同じく:自分もやがてお悔やみ欄に掲載される日がやってくる
④ 身体があるからには:同じ人間の身体をもつ以上、同じような病気や事故で死ぬ
⑤ 寿命がある:たまたま病気や事故に遭わなくても、老衰によりやがて心臓が止まる
⑥ 例外はない:全ての生命は、生まれ、病気になり、死に、遺体は朽ち、心は生まれ変わる
⑦ 時間の限界:人間はせいぜい100歳までしか生きられず、残された時間は短い
⑧ 一瞬一瞬の変化:心は瞬間瞬間に生滅を繰り返しており、それがいつ止むかは分からない

「男性を信じられない」30代女性の悩みを東大卒の天才僧侶小池龍之介が一刀両断(FUNDO)

「現代のように男女平準化した時代に、何も差し出さずに「ただ勇ましく庇護してほしいよー」と駄々をこねても、そんな人を心から愛し守ろうと思える聖人君子は、この世にいません」

小池氏が引いている法句経はこれです。

「他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。―狡猾な賭博師が不利な骰の目をかくしてしまうように。(sudassam vajjamannesam attano pana duddsam paresam hi so vajjani opunati yatha bhusam attano pana chadeti kalimva kitava satho.)」(ダンマパダ252)

難しいのは、「裏切られるような期待なら最初からしないほうがよい」という話になると無縁社会の推奨になってしまうし、「相手に期待するなら自分もそれに応じたものを差し出すべき」という話になると見返りを求めることになってしまうところ。

梅花讃嘆

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仏教音楽祭「平和×御詠歌 梅花讃嘆」が開催されました(曹洞宗)

仏教伝道協会主催の仏教音楽祭に、お世話になっているご詠歌の先生方が出演されるというので上京して、東京出張帰りの妻と聴きにいってきました。

ご詠歌が入ったのは『梅花讃嘆~古から新しきものへ~』という曲で、声明から始まり、「高嶺」、「供華」、「正行」、「道環」、そしてこの曲のために作詞作曲された「空華」。これらを師範の先生方がオーケストラ伴奏でお唱えするのです。斉唱だけでなく輪唱もあり、梅花流の新しい可能性を感じることができました(例えば「渓声」を3箇所から同時に始めたらどうかな?とか)。

ご詠歌の先生方だけでなく、ほかの奏者も超豪華。ベルリンフィル元首席のブラウさん、読響コンマスの長原さん、和太鼓の林英哲さんなどの演奏に心奪われ、最後まで堪能してきました。協会理事長になられた木村清孝先生とお会いできたのもよかったです。

「空華」の歌詞「那由多~不可思議~無量大数~♪」のメロディーが頭から離れません。

「悟」と「証」

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年に1度の現職研修会を受講。曹洞宗では55歳以下の僧侶に受講が義務付けられています。

今年のテーマは「坐禅会を始めるために」で、特に「坐禅で悟りを求めてはならない」ということの是非と、マインドフルネスと坐禅の違いが念頭に置かれていました。

「坐禅で悟りを求めてはならない」については、結果としてであっても、悟りを得る坐禅の力は説いてもよいというお話でした。喩えは悪いですが「儲けるためにやってはダメだけど、実際やったら儲かりますよ」ということでしょうか。

話を聞きながら気付いたのは、道元禅師が「無所悟」や「悟を待つ」というように「悟」という言葉には否定的な一方、同じく悟りを意味する「証」という言葉は「修」と対になって使われ肯定的です。だとすれば「悟」と「証」は分けて考えるべきではないかと考えました。

家に帰って調べてみると、サンスクリット語で「悟」はप्रबोध(プラボーダ、正しい気付き)、「証」はसाक्षात्कार(サークシャートカーラ、直接知覚)であり、前者は妄分別の入り込む可能性があるのに対して後者はそれがありません。ダルマキールティが直接知覚を「分別を離れ誤っていないもの」と定義し、その対象は事物の自相であるとしました。自分の心が作り出した世界から離れて、無常であり空である諸法の実相を見ることが修証一等の「証」なのではないかと思います。

あくまで思いつきで、おそらく禅学では幾度となく取り上げられているのかもしれません。ダルマキールティの援用など我田引水なので、禅学に詳しい方のご教示をお願い致します。

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