2019年4月アーカイブ

著・雨宮処凛。朝日新聞の連載"Dear Girls"で知った本。お茶や食事の用意、飲み会でのサラダの取り分けなど、女性がするものだと思っている人に、ミラーリング=男と女を入れ替えて考えてみることで見えてくるものがあるという。夫の不倫を謝罪する妻はいても妻の不倫を謝罪する夫はおらず、夫・彼氏以上に稼いだときに隠してしまう妻・彼女はいても夫・彼氏が妻・彼女以上には成功するなと言われることはない。「女の本当の幸せ」を説くオッサンはいても「男の本当の幸せ」などというオバサンはいない。若い頃は自分の性がいつも誰かに買い叩かれたり値踏みされたりして、主体的に考えることさえ許されない。男女平等はただ女性の負担が増えただけで、妻、母、祖母と「年相応に生きろ」という圧力があらゆる場面ではたらき、この「呪い」は一生続く。

ネガティブ要素満載だが、ミラーリングのすすめだけでなく、独身者同士が孤独死を防ぐための「ちょっとした迷惑をかけ合える関係」は独身者のみならず、個人化する現代において重要な指摘である。

そのへんに置いておいたら家族も読んでいた。そういう意識で世間の「当たり前」に疑問を抱いてほしい。

法華七喩

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佐々木閑『大乗仏教―ブッダの教えはどこへ向かうのか』でまとめられていた「法華七喩」を講読。声聞・独覚・菩薩の三乗を方便として、最終的には誰でも仏になれる一乗があることが、法華経の中では「三車火宅」など7つの喩え話で示されている。お経では細部まで描かれているものもあり、実話に基づいているのではないかと思うほど。

一番納得感があったのは、目的地が遠くて諦めそうになっているのを途中にごほうびを設けて導く「化城宝処」。実際、気の遠くなるような長い仕事も、小さい目標を設定していくといつの間にか終わる。考えるほど深みが感じられるのは、気付かれないように衣の端に縫い付けられていた宝玉に気付く「衣裏繋珠」。上杉謙信の「宝在心」も、これに触発されたものだろうか。

七番目の喩えとして如来寿量品に出てくる「良医病子」は一番おなじみで、一休さんの「毒の水飴」はこれのパロディなのではないかと思った。

限られた人のための釈迦の仏教が、いかにして大乗仏教という一大ムーブメントとなったのか、富永仲基の「加上の説」に沿って5つのお経を見ていく。「青年」と「講師」の対話形式になっており、長大で複雑な大乗経典の特徴が明快に示されている。メモしておきたい箇所数多。
大乗仏教は在家集団からではなく部派仏教の内部から生まれたという説を筆者は支持する。「昔から伝わっているお経には書かれていないけれども、論理的に正しければ、それは釈迦の教えと考えてよいのではないか」(p.39)この主張が、仏説ではない大乗経典の誕生に結びついたという。
『般若経』では、「私たちはすでにブッダと出会って誓いを立てているのだから、菩薩である」(p.61)と考え、空というシステムによって「本来は輪廻を繰り返すことにしか役に立たないはずの業のエネルギーを、悟りを開いてブッダになり、涅槃を実現するために転用することができる」(p.68)として多くの人が日常生活で実践可能な六波羅蜜を示す。さらにお経そのもの、教えそのものをブッダと捉え(法身)、お経を讃えることを勧める。大般若会は、ブッダと出会うための法会であるということになろう。
『法華経』も、誰でも前世でブッダと出会っているという見方を受け継ぐが、『般若経』では分けられていた声聞・独覚・菩薩をひとまとめにして救う一仏乗を、法華七喩という巧みな喩えを使って説く。お経が絶対的な力をもったため空というシステムはいらなくなり、現世利益もつながると考えられるようになる。誰でも仏になれるという主張は、中国から日本に大きな影響を与えた。
『浄土経』は「パラレルワールド」たる極楽浄土の概念を創造し、念仏だけで往生できると説く。さらに親鸞は「すでに私たちは極楽に行くことが約束されているのだから、念仏は願うためではなく感謝のために唱えるのだ」(p.151)と解するようになった。一世界一仏の原則により、すでに阿弥陀仏のいる極楽浄土でブッダになることはできないが、無限の多世界を想定することで、極楽からさらにその先の世界に行ってブッダになると当初は考えられていたがやがてその原則は曖昧になる。
『華厳経』は「別の世界にいるブッダが移動できないのなら、ブッダ(毘盧遮那仏)が自らの映像(釈迦牟尼仏)を私たちの世界に送ってくれると考えればよいではないか」(p.171)というアイデアによって一世界一仏の原則を守り、「自分がすでにブッダであることを自覚する」だけだから修行はいらないと悟りの問題を解決済みにし、現世利益を第一とする実利的な仏教に向かわせた。
『大乗涅槃経』も「もともと私たちの内部にブッダは存在していて、私とブッダは常に一体である」という如来蔵思想を説く。これがヒンドゥー教との違いをなくし、インドにおける仏教衰退の理由になったと筆者は見ているが、道教などをベースに釈迦の仏教から禅定を取り入れた禅もこれと同様、「私たちの内側には仏性があり、それに気づくことが悟りへの道である」と捉えて、煩悩を消すためではなく、自分がブッダであると確認する作業として坐禅修行を位置づける。修行不要論が加速する中で、修行の大切さを改めて説いたことから、著者は「私は日本の名僧・高僧と呼ばれる人たちの中で最も釈迦に近かったのは道元だと思います」(p.214)という。これが日本で武士階級の共感と尊敬を生み、支援を得ることになる。
しかし日本仏教には「律」(仏教教団の規則)はないまま現代に至ったため、お金でお布施をもらう、結婚して子供を作る、お酒を飲む、お寺に来た人から僧侶が直接拝観料を取るといった、律では禁じられた行為がまかり通るという特殊な状況を生み出している。科学的に証明できないことを心の問題に置き換える「こころ教」の世界的広がりもあいまって厳しくなっていくだろうが、人の苦しみを取り除くという、釈迦の仏教にも大乗仏教にも共通する理念をもって、ホスピスケアや自殺防止などに関わっていくべきであると結ぶ。
付論として最新の仏教学成果である『大乗起信論』の中国撰述説について少々。
日本仏教は大乗仏教の流れの中にあるが、大乗はブッダの教えそのものではないし、部派仏教から釈迦本来の教えに戻したものが大乗仏教なのでもないし、宗派の教祖は釈迦と同じ思想をもつ完全無欠な人物でもない。宗教的感情や正統性を示したいという思いによって、学問が歪められてはならないと著者はいう。本書のように客観的な目で大乗経典の展開を理解し、自分がいる場所を位置づけた上で、その中にどっぷりと潜り込んでいくということが、「因果にくらまず」ということではないかと思う。

『寺院消滅』の著者による現代日本の霊魂観を、寺院や僧侶の視点も交えて描き出す。

強化ガラスで保存された平将門の首塚、孤独死現場の清掃をしている人たちが感じる誰かからの視線、東日本大震災から1年半後によく現れた幽霊、遺体を埋めるお墓とお参りするお墓の両墓制がある地域、青森のイタコ、沖縄のユタ、アイヌのトゥスクルなど現代のシャーマンをルポルタージュし、柳田國男の研究や三島由紀夫の霊魂観を紹介し、現代宗教法人と僧侶に霊魂について行ったアンケートを分析する。

一般に僧侶が積極的に霊魂について語らないのは、釈尊の唱える「無記」(今の苦しみをどうやって取り除くかが大事であってあの世のことなど考える暇はない)、オウム真理教事件以降のオカルトの忌避(見たこともないことを見てきたように語るのは怪しい)、宗教的恫喝の回避(先祖を祀らないと祟るといって不安を煽らない)などがある一方、葬儀や法事に鎮魂という意味があることは否めない。そのニーズを全く無視して仏教を説いても、「葬送の担い手が仏教僧侶でなくてもよいという考え方になって(浄土宗・畦昌彦)」しまうだろう。直接的にはできなくても、家族を亡くした人には霊魂についての思いがあることを常に意識して、その思いに寄り添い、間接的・結果的に鎮魂になるような供養を心がけていきたい。

イタコの口寄せの「型」が(239ページ)、仏式の供養でも参考になりそう。

①神仏を招くための経文や祭文をよむ。
②死者の魂を憑依させる。
③降りてきた死者は、生者に対し「口寄せしてくれた礼」を言う。
④現在の心境を語り出す。
⑤別れた時は辛かったが、今は「あの世」で元気にしていることを伝える。
⑥家族の情愛に感謝しており、家族・親族の供養で往生、成仏していると話す。
⑦家族に対しての予言と今後への忠告。
⑧別れの言葉。
⑨魂を送り返す儀式。

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞

東大の入学式で上野千鶴子氏が式辞。東京医大の不正入試問題から、東大の男女格差の話へ。ジェンダーギャップ指数の高等教育で日本は149カ国中103位(2018年)。今は女性の方が高学歴なのが国際的に普通という中で、日本では女性に学問は要らないという風潮がまだ根強いことを物語っている。「「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。」

「恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。」女性でない私も、涙が出そうになる言葉だ。

法華経観音普門品より。

「若有女人 設欲求男 礼拝供養 観世音菩薩 便生福徳智慧之男 設欲求女 便生端正 有相之女 宿植徳本 衆人愛敬(もし女性が男の赤ちゃんを望むならば、観音さまを礼拝し供養すると、すぐに福徳と智慧を備えた男の子を生むことができ、女の赤ちゃんを望むならば、(観音さまを礼拝し供養すると)すぐに端正で美しく、前世で徳を積んだおかげでみんなから愛される女の子が生まれるだろう。)」

男の子は才能なのに対し、女の子は容姿が(しかも前世の業で決まるようなものとして)重視されているのが、お経が作られた1800年前では仕方ないとしても、現代では人権的な問題をはらんでいると思う。どんなに才能があっても、容姿が悪い女性はいけないのだろうか? そもそも、容姿の良し悪しを他人が決めつけてよいのだろうか?

現代でも、女の子には「可愛い」、男には「頭いい」と褒めておけばいいと思っている人がいて辟易することがある。

蛇のたとえ

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先月の経典勉強会は中部22『蛇喩経』。お釈迦様の誕生日にちなんで。

「たとえば、蛇を追い求め、探し歩いている男が大きな蛇を見つけたとしよう。そしてとぐろやしっぽをつかむとしよう。蛇は暴れて、彼の手や腕などを噛み、彼はそれによって死ぬか、死ぬほどの苦しみに至るだろう。なぜなら、蛇を誤って掴んだからである。全く同じようにある愚者たちが教えを学んでも、その教えが長きにわたって彼らに不利益と苦しみをもたらすのは、教えを誤って理解したからである。」

お釈迦様の教えは劇薬のようなもので、身体から認識までの五蘊を誤って我であると思いこみ、それが死後も存続すると考えている場合は毒になるという。そういう考えを持っている人にとってお釈迦様は虚無論者に映るかもしれないけれども、「私は以前も今も、苦しみと苦しみの止滅だけを教えるのである」とおっしゃる。非我の知が、苦しみをなくす前提だというわけだ。

お経をひたすら読んでいると、ふと、自分自身が普段思っていたようなかたちとは別のかたちであるような気がして、心が軽くなることがある。知らず知らずのうちに抱え込んでいたものを手放す感覚。明日から1週間、本山で過ごしますが、そのような感覚になれることが楽しみで行くのかもしれないなと思う。

朝日新聞4月3日投書欄より。

お坊さんを呼ばない葬儀がまだ一般化していないからこそ、このような言葉も出てくるのだろう。一応でも何でも、葬儀に僧侶が必要だと思ってもらっているうちに、できることをしておかないと。

この投稿の、「お坊さんがいないと近親者たちの会話の場が広がって良いお葬式になった」というのがヒント。地域に普段から入って、檀家さんといっぱいお話して、僧侶が遠くに住んでいる家族よりも近親者だと思ってもらうぐらいになりたいと思っている。

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