蛇のたとえ

先月の経典勉強会は中部22『蛇喩経』。お釈迦様の誕生日にちなんで。

「たとえば、蛇を追い求め、探し歩いている男が大きな蛇を見つけたとしよう。そしてとぐろやしっぽをつかむとしよう。蛇は暴れて、彼の手や腕などを噛み、彼はそれによって死ぬか、死ぬほどの苦しみに至るだろう。なぜなら、蛇を誤って掴んだからである。全く同じようにある愚者たちが教えを学んでも、その教えが長きにわたって彼らに不利益と苦しみをもたらすのは、教えを誤って理解したからである。」

お釈迦様の教えは劇薬のようなもので、身体から認識までの五蘊を誤って我であると思いこみ、それが死後も存続すると考えている場合は毒になるという。そういう考えを持っている人にとってお釈迦様は虚無論者に映るかもしれないけれども、「私は以前も今も、苦しみと苦しみの止滅だけを教えるのである」とおっしゃる。非我の知が、苦しみをなくす前提だというわけだ。

お経をひたすら読んでいると、ふと、自分自身が普段思っていたようなかたちとは別のかたちであるような気がして、心が軽くなることがある。知らず知らずのうちに抱え込んでいたものを手放す感覚。明日から1週間、本山で過ごしますが、そのような感覚になれることが楽しみで行くのかもしれないなと思う。

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