おの: 2000年7月アーカイブ

お祭り

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今日は文殊堂のお祭り.35度の灼熱の中,下着・半天・下衣・大衣・袈裟の5枚重ねで,ろうそくの前でお焼香をしながら,太鼓を叩いて祈祷するともうすっかりトランス状態.心頭滅却すればの境地である.
文殊菩薩は獅子の上に座った像だが,これを獅子舞いに結びつけた先人のアイデアは見事だと思う.ご祈祷のあと,獅子舞いが始まり,地区内を3時間以上かけて練り歩く.35度の中いちばん大変なのはお獅子様の中に入っている人たちだろう.本当にトランス状態になれるかもしれない.
お獅子様は警護の導きにしたがって口を開き,勢いをつけて閉じる.子供たちが恐がるこの威勢のいい音は,悪霊退散によく効くような気がする.空気を清浄にするのは強い音波を特徴とするこのような音だと信じられてきたのだろう.感覚的にそれがよくわかった.
ハレとケという言葉で表されるように,老若男女(特に若者)が非日常的に暴れることで,日頃の鬱憤を晴らし,再び秩序ある平和な日常を送る契機とするのだ.力強く太鼓を叩く若者.
だからこそ,子供と若者がいないとこういったお祭りは成り立たなくなってしまう.少子化や過疎化の未来が少々心配になった.

御開帳

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今日は赤地蔵堂の御本尊を初めて見た.文化4(1807)年にこのお堂が作られ,以降いくたびか改修をしているようだが,今生きている人でご本尊を見たことがある人はいないらしかった.なぜなら,5重に囲まれているからだ.
まず,お堂の入り口.鍵を開けて入る.
次に正面の扉.留め金を外して開ける.
次に大きな社.屋根を外さないと中の厨子が取り出せないようになっている.
次にその厨子.扉は実はダミーで開かず,やはり上の屋根を外さないと中をみることができない.
そして厨子の中にまた箱.箱を取り出してふたを開ける.ふたには釘が打ってあり,釘を外してやっと開いた.
この5重のガードをかいくぐって見たものは,木造の20センチくらいの黒いお地蔵様であった.相当古い感じだ.
お地蔵様の側に恵比寿と小さい箱が2つ.1つはミニ地蔵で,もう1つにはなぜか大黒天が入っている.箱にある文字から20センチの方が延命地蔵,ミニが子易地蔵らしい.この箱に地蔵真言が書いてあり,その筆跡から私の祖父(故人)のものと判断された.ということは,この前に開帳してからせいぜい30年ぐらいしか経っていないことになる.
写真を撮って元通りにしまう.出すのもしまうのも一苦労で,数十年に1度しか開帳しない訳がわかった.
ご本尊は古さから彫刻がぼやけてしまっていたが,200年もの間,この村の人たちが手を合わせてきただけの貫禄がある.胸がじんとなった.

お地蔵様について

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●起源
お地蔵様はインド名をボーディサットヴァ・クシティガルバ(bodhisattva-kshitigarbha)といい、古くはインドの農耕女神(大地(kshiiti)を母体(garbha)とする菩薩(bodhisattva))でありました。これが仏典では、お釈迦様の入滅から、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が成道するまでの間、衆生を苦しみから救うようお釈迦様から付託された菩薩として現れるようになり、中国では亡き父母を救う菩薩として、さらに日本では苦しみにあえぐ子供たちを救う菩薩として信仰されるようになりました。子育て地蔵、咳止め地蔵、雪ばらい地蔵など、子供と深く関わるお地蔵様の姿はおなじみです。

お地蔵様は亡くなった親、亡くなった幼子たちの御魂を守り、罪深い亡者を救い、また不安の現実に迷いながら生きている衆生の苦しみを変わって受けて下さる菩薩様なのです。

●御姿

お地蔵様はふつう比丘(出家者)の姿をしておられます。左手には宝珠をもっておりますが、これは仏典や経典の功徳によって病苦などの禍を取り除き、自在に福を招き寄せて、衆生の心願を満足させるという意味があります。また右手には錫杖をもっておりますが、これは修行僧が山野を遊行するときに携行し、振り鳴らす音によって小さな虫や蛇などあらゆる動物たちを逃がし、あるいは殺さないための道具です。

●縁日

お地蔵様の縁日は毎月二十四日。青森・恐山や東京巣鴨・とげぬき地蔵でお祭りが催されています。

●赤地蔵堂

長井市草岡にある赤地蔵堂は文化四(一八〇七)年に建立されました。洞松寺十六世文明恵紋大和尚(安永三(一七七四)~文政三(一八二〇)年)によるもので、当時亡くなった多くの子供を供養するために建立したものと考えられます。文明恵紋大和尚の石碑は地蔵堂側、青巒木水居士・勘三郎の碑と並んで静かにたたずんでおります。

赤地蔵というのは朱塗りのお堂からその名がつけられました。お堂の内面の柱は黒漆塗り、金箔で、合天井に一枚一枚極彩色の絵が描かれており、また土突の砂利石の一粒一粒に経文が書かれておりました。長い年月といく度かの修理によって往時の面影をうしないつつありますが、立派なお堂です。

かつては「ねずみ除け地蔵」として親しまれ、土葬の時代には、草岡地区の葬儀引導場として使用されています。

参考文献:椎名与左衛門「草岡赤地蔵堂今昔記」 (西根史談会『西根の歴史と伝承』第一集八十頁)

子供の名前

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そろそろ私の年代も既婚者が増え,子供が生まれてくるようになった.私も以前は子供の子供らしさが嫌だったのに,このごろは無性にかわいいと思うようになり,自身のライフステージの変化(学生から家住者へ)が来ているのだろうかと思う.
さて,このごろの親は子供の名前をつけるのに四苦八苦しているという話を聞くが,その結果最近の子供の名前はひどいのが多い.
奇をてらった特別な読み,強い思い入れが入った難字,ちょっとひねりをきかせた普通名前に使わない字.子供がかわいそうだと思わないのだろうか.
初対面の人に呼ばれるとき,テストで名前を書くとき,電話口で名前の漢字を説明するとき,携帯にその人の名前を入力するとき,などなど.いつも苦労しなければならずその子供の人生は真っ暗だ.「どうしてこんな名前をつけたんだ?!」と親を恨むときがきっとくるだろう.
名前はありきたりな方がいいと思う.覚えてもらいやすいし,どんなにありきたりでも同姓同名などという事態はまず起こらないからだ.名前はその子供の定義ではなく,他人と区別するための恣意的な固有名である.
将来,新聞で凶悪犯罪者が凝りに凝った名前だったりする日が来るだろう.そのとき,何人かの人が思うかもしれない.「ああ,こんな名前じゃなければもっとましな人生だったろうに・・・」

お酒

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4日続けて飲んだ。自己新記録。
毎日適量飲むのがよろしいらしいが、体がうけつけない。飲むと眠りが浅くなったり喉が乾いたりするため、避けられない場合にしか飲まないようにしている。
単に体質の問題だが、ときどき卑怯にも「戒律で」などということがある。仏教には「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」という戒めがあり、実際東南アジアのお坊さんが飲んだりしたらあっという間に破門である。古代インドはなおさらのことであったようだ。
日本ではこの戒律が「飲みすぎない」と解釈されている。元来異性との接触を禁止した「不邪淫戒」が「不倫しない」と解釈されているのと同様、骨抜きである。
一方で、菩薩行の一環として世間と同じ視点にたつべく、世間一般の人々と同じように(これを「同事」という)酒を飲むのも大事であるという考えがある。お高くとまっていては相手にされない。
そんなことを考えながら飲む酒はあまり美味しくない。飲酒が破戒ならば罪悪感、同事ならばウソも方便という感覚、いずれにしても酒を楽しむことに結びつかない。いや、単に体質の問題なのだろうか。

浦島太郎

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今日、上京してきた。研究室に行くと授業は先週で終わっていたという。むなしさが漂う。
先週水曜から金曜に葬式のために帰省。台風をやりすごして土曜に上京したが月曜にまた葬式が出て、帰省。今日上京。
授業は先週の水曜から今日まで全欠。せっかく上京してきたが、明日には土日の法事のためにまた帰省。日曜には?E上京する予定だが、来週水曜に?F帰省する。2〜3日おきに往復している始末である。その間に夏休みになってしまった。
上京してくると時間が確実に過ぎていることを否応なく認識させられる。自分の勉強ができないこともつらいが、いつの間にか「懐かしい人」になってしまっていることがこたえる。
「世間の縛着は衆苦に没す」

犯罪者差別

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17歳の犯罪が取り沙汰されてずいぶん経つが,朝日新聞で同年代による投書が掲載されていた.
その中で戦慄を覚えたのが,
「厳罰を与えるべきだ.更正させる必要なんてない.税金の無駄だ」
という意見.世の中ここまで来たものかと思うことしきりであった.
ここには,犯罪者に対する明らかな差別がある.この差別は正当なものなのだろうか?
確かに被害者の関係者の心情から見れば犯罪者が普通の人間と変わりない生活を送ることができるのは許せないだろう.犯罪を重ねて新たな被害者を生み出す恐れもある.
更正させる必要がなく税金が無駄だと言うなら,死刑しかない.
しかしここには問題がある.まず,人間は悪いことをした人・していない人という厳格な区分があるように映ることである.これは正しくない.悪いことをしていない人などこの世にはいないはずである.単に法に触れておらず,自覚もないから悪いことをしたことのない人に区分されるように見えるだけだ.自分の行いを反省しないで他人の過ちを責めるのはどうしたものだろう.
次に,普通の人以外は差別されてもよいという考え方を助長する恐れがある.以前にこれと同じ非人道的な表現を障害者差別で見たことがある.
「遺伝子検査で障害があるとわかっているのに産んだ子供を社会が面倒を見る必要はない.税金の無駄だ」
また同じことが公共広告機構の「ジコ虫」にも表れている.モラルのないことは確かに問題だが,そのことで人間であることを否定してしまっていいのだろうか.本当に虫扱いしてよいのならば,即刻殺してもよいことになる.
「人間の姿をした虫が・・・」
「個性の重視」という教育や,責任なき個人主義の取りこみの結果,日本はこれからもどんどん差別する社会になっていくのだろうか.正義をふりかざすこの投書を読んで,その思いを強めたのであった.

山形ネタ

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昨日ラジオで天童の方が,
「白い紅花を咲かせた」
と喜んで話していた.「紅花かい?!」とツッコミを入れてしまった.
(ベニバナは固有名なのでこの場合実は矛盾はない.(例「全然卓越していない卓也君」)実物を見てみたいものである)

だんまぱだ

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愚かな人と長い道のりを歩くのは,心が安まらない.愚かな人と住むのは,常に辛い.−仇敵と住むようなものである.
心ある人と住むのは楽しい.−親族に出会うようなものである.(ダンマパダ207)
「愚か者」とは,学のないものという意味ではなく,自己中心に生きている人,自分さえよければ他人などどうでもよいという人である.そのような人と住めば,自分ばかりが傷つく.
「心ある人」とは他人のことを思いやりながら自分を立てている人である.お互いに相手の立場や考えを知り,心を通い合わせながら一緒に暮らしていくことは楽しい.
この2つの対句には落とし穴があるように思われる.非常にわかりやすいこの格言が,自分を愛する人とだけ交際し,自分と相容れない人と交際しないという人間の取捨選択を述べていると考えるならば,それは危険である.
「怨憎会苦」という言葉がある.愚かな人と住む苦しみである.しかしこれは,愚かな人との接触を断つことによって解消されるものではない.それではどんどん自分を孤独に追い込んでいくことになるだろう.
この格言は「人を選べ」ということを教えるのではなく,あくまで自分が「愚かな人」ではなく「心ある人」であれということを教えているのだ.さらにこれを皆が実践し達成すれば,すばらしい世の中になるという釈尊の壮大な世界計画であろう.
自分が変わらなければ状況は全く変わらないのだ.
(この文は奈良先生の引用をもとに考察したものである)

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