おの: 2001年7月アーカイブ

まじ!

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今回の参議院選挙で,驚くべきはがきが来た.
見かけは普通の候補者だったが,よく見ると「○○寺住職」とある.白髪混じりの髪型からも,びしっと決めたスーツ姿からも,そしていかにもな笑顔からも,その人が住職だとはわからなかった.
そして「宗門のみなさまご支援ありがとうございます」というようなことが書いてある.誰が支援したんだ?と思ってよく見ると,宗務総長(宗教法人としての顔)の名前が.
突然吐き気のようなものに襲われ,シュレッダーにぶちこんだ.ちなみにこの方→http://www.muratanaoji.com/
しかし,もう1通.今度は県内の候補者であったが,推薦状のコピーが添えられている.仰々しい推薦状にもやはり,宗務総長の名前だ.「貴台を参議院議員候補者に推薦します」と立派な楷書で書いている.これもシュレッダー行き.ちなみにこの方→http://www6.ocn.ne.jp/~kanzi.k/
前者は自由党候補,後者は民主党候補である.今度の選挙に曹洞宗として何をしたいのかもわからなかったし,もしかしたらどうでもいいのかもしれない.宗教団体が政治に関与することはよく聞くが,自分が属するところであると,拒絶反応が出る.何とかできないものだろうか.

知り合いのYさん宅へゲームをしに,笠間に出向く.
家から出発して1時間30分くらいで到着.水戸線の連絡が悪かったのでわざわざ友部に迎えに来ていただいた.
山形と変わらない田園風景.Yさんのお宅は山を背にした田園の中にあった.昭和初期の建築だということで,石門から和洋あわせた平屋から,妙に心の落ち着く佇まいである.
入り口には「さくら」ちゃんという犬が待ち構えていて,しきりにじゃれてくる.家の中に入るとYさんのご子息「光」君(約9ヶ月)が畳の上でうつ伏せに眠っていた.ついさっき寝たばかりだという.
あいさつも適当に,早速1ゲーム.ゲームが始まると大人の喚声で光君が起きてしまった.しかし機嫌はそんなに悪くない.ベビーサークルに手をかけてゲームをしている我々をじっと見ている.とても可愛い.その光景がなんとものどかで,心が和む.
光君はたどたどしい足取りと微妙な動きで遊んでいたが,次第にゲームに興じる大人たちのところに行きたくなり,声を上げてきた.お父さんにだっこしてもらうともうご機嫌で,今度はお父さんの腕の中で盤面の行方をじっと見ている.
1ゲームが終わり,昼食の準備をしてもらっている間,その可愛さにいてもたってもいられなくなって光君と遊ぶ.人見知りはせず,指をつかんできて自分の口に入れ,生えたばかりの歯で噛んできた.笑顔も素敵.ときどき「アワァ」「ウー」などと言ってくるのもたまらない.
昼食を食べてから午後もずっとゲーム.光君はその間ベビーサークルで遊んだり,お父さんにだっこしてもらってゲームを観戦したり,お母さんにご飯を食べさせてもらったり,汗だくになってシャワーに入れてもらったりしていたが,終始上機嫌であった.目が合うと「ウャー!」と叫んで喜ぶ.このインタラクティブさが心地よい.
夕方になるとさくらちゃんがほえるので散歩に出発.田園を背景にして犬と赤ちゃんがいる構図は,映画のワンシーンのようである.緑が目にしみる.さくらちゃんも光君も,とっても嬉しそう.
散歩から帰ってからもゲームは続けられた.次第に暗くなりゆくYさんの家の中は,忘れていた何かを思い出させるようだった.
夜深くなると夕食を食べて駅までお見送り.光君は涼しい車内ですぴすぴ寝ている.まる1日かけた小旅行は,心身ともに癒される本当に幸せなものとなった.

講演会

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駒沢大学の池田魯参先生の講演会.タイトルは「只管打坐」である.
まずこの言葉の意味合いからお話は始まった.
1.「まあ坐れ」中国語では気軽な感じもあるという.「とりあえずビール」のようなものだろうか.
2.「ひたすらに打ち坐る」死んでもかまわず坐るという心意気.覚悟と気合が入っている.「坐禅マニア」と言えるだろう.
3.「ただ坐る」俗世とのつながりを断って坐禅を日常のものとする.修行であると同時に悟りの姿であるという.
坐禅によって人はよりその人らしくなるのであり,決して釈尊になるのではない.坐禅をしたからといって得意になってはいけないという戒めである.沢木興道師は「坐禅をしたって,何にもならないよ」とのたまっていたという.得意になった瞬間,坐禅の功徳は消滅する.「不染汚(ふぜんな)の修証」というものである.
そしてこのような坐禅と仏道修行をめぐる中国禅僧の楽しい話が展開された.随所にすらすら〜と出てくる禅僧の台詞はさすが禅学の大家である.彼らはみな破天荒である.言葉を誠実に使っているのか,適当に弄んでいるのか全くわからない.だいたい,仏の教えを正しく押さえた上で弟子に伝えているのかも疑問だった.仏教にはこれが正統であると呼べるものなどないと言ってしまえばそれまでなのだろうか.釈尊に倣った修行をして,その結果ある程度深い宗教体験し,それをインパクトのある言葉で表現したら,歴史に残る名僧のできあがりである.
そもそも,どんなに気をつけても間違いや過ちを犯す人間たちによって伝えられてきたものに,如実・完全無欠という意味での「正しさ」を期待すること自体無理である.「正しさ」とはそれぞれの時代の生きる人々にどれだけよい影響を及ぼしたかという程度の問題に過ぎない.
だから神が必要になるのに,どうして仏教は神を否定して安定していられるのだろう.池田先生は終始笑顔であったが,聞いている私の頭はずっと迷いだらけであった.

Morning Concert

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芸大に在学中のオケの先輩伴野さんが出演するというので、奏楽堂に聴きに行く。
芸大の学生が2人ずつ、協奏曲を演奏するという11回のシリーズの8回目。ヴィオラは伴野さんだけである。今回の指揮者は小林研一郎氏。
曲目はシュニトケの協奏曲。シュニトケというとオーケストラアンサンブル金沢がシチェドリンとカップリングで出した「合奏協奏曲」くらいしか知らなかったが、あちこちに気の利いた仕掛けが施されており、とても面白かった。特にハープシコードとの掛け合いは耳にも新鮮である。
(シュニトケのページ→http://www.age.ne.jp/x/ramos/schnittke/index.htm、オーケストラアンサンブル金沢のHP→http://www.oek.or.jp/index.htm
この曲に流れるテーマは「死」。演奏中には以前流行った「臨死体験」をしているような気分に襲われたが、演奏が終わって伴野さん自身の解説を読むと「荒れ狂う人生」「死の入口での、人生の悲しい概観」と書かれている。まるで冥界の番人ハーデスのような顔つきをした伴野さんの内面を垣間見る気がした(読んでたらごめんなさい!)。
会場にはOGの木村さんが小児科の患者さんを連れてきていた。音楽の効用のは意外に大きいらしい。小学生のときに肺炎で入院して、夜の不安をラジオで打ち消していた古い記憶がよみがえった。ちなみにもう1人はラフマニノフのピアノ協奏曲だった。
演奏者は演奏マシーンであってはなるまい。「ミスなく、ソツなく、面白くなく」という無味乾燥の奏者ばかりにならないためにも、紆余曲折を経た伴野さんの存在は非常に重要だし、応援していきたいと思う。

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