おの: 2003年2月アーカイブ

中陰の花

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玄侑宗久作/文藝春秋
 現役僧侶が芥川賞を受賞したということでとても気になっていたのだが、オカルトっぽいかなとこれまで読んでいなかった。
 人が死んでから49日の間を中陰(ちゅういん)という。その間故人がどういう道を辿るか古来よりさまざまなことが言われてきたが「死んでもいないのにどうしてそんなことがわかるのか?」と思うとその手の話はいかがわしい。檀家さんの前ではあくまで伝承だと前置きをして話すことにしている。
 しかしこの作者、芥川賞を受賞してからいろいろなところに連載などをしている。これがいちいち面白いのでとうとう買ってしまった。
 読んでみてびっくり。そういう死後の世界にいかがわしさを感じている僧侶が主人公なのだ。
「せやけど訊かれるやろ、極楽はあるか、ないかって」「たまにね」「どない答えてはんのん」「だから、相手次第や。信じれば、あるんや。信じられなければ、ない」
 まるで私ではないか。そして物語を通して死後の世界は、あくまでこの世に生きるごく普通の視点からのみ、描かれている。知ったようなことは何も書かれていない。そのことに深く共感する。
 釈尊は死後の世界については「あるとも言えないし、ないとも言えない」と言った。さらに「どちらとも言えない」とも、「どちらとも言える」とも言うことすら禁じた。死後の世界を詮索するよりも、自分の今生に目を向けることが大事だと。
 しかしながら、人は身近な人間の死に直面したとき、その後の行き先を考えずにはおれない。そしてそれは、単に生きている人の気の持ちようで、心の傷を癒されさえすればそれで万事よいのか、この物語は問いかける。成仏とは一体…?
 学ばなければいけないことは、まだまだ多そうである。

「力をもいれず、心をも費やさずして仏の位に入る(正法眼蔵生死)」
3泊4日で御詠歌の研修会。梅花流師範養成所を修了した中から推薦された全国30数名の僧侶が集まり、朝の8時から夜の8時までみっちりと御詠歌をお習いする。すでにある程度の詠唱技術が前提となっているので、所作(作法)、細かい節回しや曲想を集中的に見てもらう。
基本的に1人ずつなので、皆に聞かれている緊張の中での発表となる。その上に先生のご指導も手厳しい。以前ならば途中でくじけないように誉めて下さったものだが、今は指導者として通用させるため、もっぱら悪いところを指摘されることになる。こちらも本気の本気だ。
「どうやったらもっと深みを増せるか」「どうやったら曲の雰囲気をもっと出せるか」…よりよいお唱えをすることに全身全霊を傾けていると、だんだんもの狂おしくなってくる。テンションが上がって、心は平静ではいられない。
もっとも、感情の高まりは歌一般にあることだろう。人はなぜ歌を歌うか、踊りを踊るかと言えば、普段の立居振舞では表わしきれない感情を表現するためだと言える。歌や踊りの本質はそこにある。御詠歌も然り、「法悦」―仏教にめぐり合えた喜び―という感情がその動機になっている。
しかしこうした抑えきれないダイナミックな心の動きを表出させているとき、心は寂静とはほど遠い状態にある。法悦と寂静―どうやってこの2つに折り合いをつけていくかが悩ましく感じられた。
もっと修行を積めば、御詠歌全てがスキーマに組み入れられ、心をも費やさずして体中から仏が流れ出してくるという日が、果たしてやってくるのだろうか。

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