おの: 2003年10月アーカイブ

パトナ空港 午前中はパトナの市内観光.とはいえ博物館と遺跡は月曜日で休み,ガンジス河も雨でよく見えず,ゴールガルという穀物倉庫の展望台に登った後は,駅前で買い物をしていた.とはいえ食べ物はハエがぶんぶんたかっていてとても買う気になれない.金属製の神像や額縁に入った神図ぐらいが関の山.それでも人間ウォッチングが楽しい.インドの旅行は買い物ではなくて人間を見るのが醍醐味なのだとつくづく感じた,
 お昼過ぎに空港着.運転手に別れを告げて飛行機へ.プネーへは,4時間で着いた.
 3人での旅行なので,早朝出発などの小回りがきき,トイレや買い物のときは待ってもらえるという柔軟性も高い.また道中,飛行機や車の中でずっといろいろな話ができたのも移動時間が長い旅行なので楽しかった.旅行計画から飛行機・宿・自動車の手配をはじめ,旅行中の諸経費まで出していただいた小島さん,関西ノリで場を和ませて下さった円実さんには,心から感謝をしたい.

 クシナガルの宿はこれまでよりも3倍ほど宿代が高く,その分快適だった.モーニングコールは頼んでもいないのに朝食に合わせて起こしに来てくれる.例によって5:30朝食,6:00出発.

クシナガル
ひとたびは 涅槃の雲に 入りぬとも
月はまどかに 世を照らすなり
 クシナガルはお釈迦様がお亡くなりになられた土地だ.旅の途中で揚げ物に当たって動けなくなり,そのまま息を引き取った.御年80歳.沙羅双樹の下でお亡くなりになられたということでここには大きい沙羅の木がお寺の前に2本植えてある.これまた『平家物語』のモチーフとして名高い.
 涅槃というのは迷いの森から脱出するという意味で,一般にはお釈迦様が亡くなることを意味するが,悟りを開いたことも涅槃というので,前者は無余涅槃(むよねはん)または般涅槃(はつねはん),後者を有余涅槃(うよねはん)ともいう.ここはお釈迦様の体がこの世からなくなった訳で,無余涅槃.お釈迦様の最後を描いた『涅槃経』は,数あるお経の中でも真に迫っていて心打たれるお経だ.私は「汝ら,(私が亡くなることについて)悲悩を抱くことなかれ」というくだりは,いつ読んでも悲しくなってしまう.
涅槃像 寺院の中にはとても大きい金色の仏像が横たわっている.早朝でインド人のお坊さんたちが集まってお経を読んでいた.その側でお拝をして右回りに参拝する.お釈迦様が亡くなるとき,たくさんの弟子たちや神様,動物が集まってきて嘆いている涅槃図は子供の頃から寺で見ているが,その嘆きがここにはまだ空気として残っているようであった.
 そのお祈りの中に上半身裸の男が混じっていた.お寺の外に出て参拝していると,その男がガードマンに囲まれている.棒でべしべし叩かれて追い出されていた.何があったか聞いてみると,その男が参拝してから急にナイフを持って外で暴れていたらしい.ガードマンが1人手の指に怪我をしていた.タイミングが悪ければ我々が襲われていたかもしれない.お釈迦様のご加護というべきか,ガードマンにはお見舞いに10ルピーを出した.
 お寺の前にある沙羅樹は葉が何枚か落ちていた.ここに男がひとりいて,落ちている葉っぱを5枚ぐらい目の前で拾い集め,「50ルピー」とか言ってくる.ここまで図々しいと呆れておかしくなってしまった.葉っぱは自分で拾った.
 帰るとき,涅槃像のレプリカを売りつけられた.「10ドル!」という.無視していると「5ドル!」「1ドル!」「30ルピー!」とどんどん値下がりしていく.その値段ならと2つで30ルピーを提示したら,あっさり了解.お金を支払うと売り子は嬉しそうに,お金を涅槃像に捧げて頭を下げていた.こういう姿には好感が持てる.そのとたん,3,4人の売り子が群がってきた.しかも彼らは皆同じ涅槃像を持っている.結局お土産にいくつか買おうと思ったので同じ売り子からさらに5体30ルピーで購入.最初は10ドル(1200円)だったのが最後は6ルピー(15円).一体原価はいくらなんだろうと訝しくなった.
ヴァイシャリ ここでウッタルプラデーシュ州を後にして,その東のビハール州へ.道中の休憩ではつくばの妻に電話.こんな田舎から日本につながっていると思うと楽しくなる.「ホテル」という看板のほったて小屋があって,裏にある建物がホテルかと思ったが確かめてみるとそれは民家で,ホテルは結局そのほったて小屋だったり.
 国道を進むと,途中から左車線にトラックが約10キロに渡って停車していた.一体何台あっただろうか.小さい車は右車線ですれ違いながら行き来している.途中からすれ違うこともできなくなっていく.そこでトラックの運転手に聞いてみると,事故で先のほうが不通になっているとのこと.しかもその事故は2日前だという.つまりここで待っているトラックは,約2日前からここにいることになる.トラックの荷台では体を洗っている姿や,食べ物を売る売り子の姿も見られた.一体この先何日待つのやら,気の長い話である.
 とはいえ我々はそんなに待つわけにはいかない.幸い小さい車なら通れる迂回路があり,ビハールの田舎に進入していく.そこはこれまでと比べ物にならないような貧しい村々であった.ビハール州は湿地が多くて耕作がよくできず,ウッタルプラデーシュ州よりも貧しい.道のすぐ側は沼か湖,湿地のびちゃびちゃしたところに家が建っている.傾いて沼に落ちそうになっている家もある.舗装はかなり剥がれていて,でこぼこが激しくなっており,むしろこれなら舗装をしないほうがよいのではないかと思うくらい.車が池に落ちやしないかとはらはらした.ときどき,人が限界まで搭乗したジープ(この地方のバス)とすれ違ったが,日本では5人乗りくらいのところに,屋根の上も含めて15人くらい乗っていた.
 しかしこの細道が結局近道となってヴァイシャリまで4時間で到着.ヴァイシャリはかつて繁栄した大都市で仏陀も訪れたところだが,今はアショーカ王柱が唯一完全な形で残っている場所として知られる.入場料2ルピーの博物館があるが,展示物がことごとく小さい上に,電圧が低くて照明がよくなかった.アショーカ王柱のあるところは猿の王様がお釈迦様に蜂蜜を捧げたという微妙な話が残っているだけで,仏蹟の中では影が薄いほうかもしれない.ジャイナ教の開祖,マハーヴィーラの生誕地でもあり,生誕地の整備事業は着々と進行していた.
 ヴァイシャリの博物館の近くにあるレストランはディワーリーで閉まっており,小屋の食堂で軽い昼食.先客が大量にサモサ(※揚げカレーパン)を買っていったので食べるものは少しだけ.そして出てきた水は濁っていた.牛が体を洗っている裏の沼で汲んできたのではないかと思われる.当然ながら飲むのは遠慮した.
 雨も降っていてやや期待はずれのヴァイシャリからパトナーまでは2時間.広大なガンジス河を渡るとすぐそこだ.この都市もかつてはパータリプトラと呼ばれアショーカ王が統治した紀元前3世紀ごろは仏教都市だったが今はその面影もない.ホテルは今回最高級のホテル・マウリヤ.楽しかった旅も明日で終わりだ.

 国境管理事務所が6時から開くと聞いたので今日もまた5:30朝食,6:00出発.運転手のほうは昨日と同じ手続きなのでテキパキと,しかし1時間ほどかかっていた.そろそろ手続きが終わるかというとき,ネパール帽をかぶった警官に声をかけられる.ラコステのTシャツなどを着ているのでまた売り子かと思ったが,帽子が公務員の目印らしい.話を聞くと,外国人だったら車の手続きだけでは不十分で,各自入国ビザを取らなければならないと言う.そこで手続きが終わった運転手に待ってもらって再びインドの事務所へ.入国手続きの前に,インドで出国手続きをしなければいけないという訳である.
 インドの出入国管理事務所は道端にあって警官が2,3人.小島さんと円実さんの手続きは問題なくいったが,私のところで止まってしまう.私のインド入国ビザには「14日以内に登録が必要」と書かれている.これはプネーに住民登録をするという意味で,警官に住民登録証を見せた.「これではない.登録というのは,ネパール入国許可の登録だ」などと言ってくる.ネパールに入りたかったら,今からプネーに帰って,許可を取ってこいという.そんな無茶な!と目の前が真っ暗になった.multiple
entry(期間中何回でも出入国できる)のビザだと言っても警官はきかない.挙句の果てに「こういう許可証が必要なんだ」とそれらしい書類を出してくる(後日わかったことは,デリーかムンバイならば許可証なしに出国できるが,それ以外では居住地の警察で発行された許可証が必要とのこと).
 ここで小島さんが,「我々は3人で旅行しているんだから,一緒に通してもらえないと困る」とそっと袖の下500ルピーを渡す.警官は何食わぬ顔で「次からは許可を持ってくるように」なんて言ってハンコを押してくれた.日本だったらどちらも罰せられるような行為だが,インドでは当たり前のようにまかり通っている.ともあれ難関を脱して心軽やかにネパールに入った.
 一方ネパールの出入国事務所はとてもスムーズ.ビザも3日以内に戻ってくる場合なら無料.インド人の狡猾さとネパール人の誠実さを一度に見た気がした.この手続きに結局また1時間かかり,合計2時間も足止めを食ってしまった.一行はネパールに入り,ルンビニへと向かう.国境からルンビニへは30〜40分ほど.


あなうれし 花の御園に みほとけの
生(あ)れしよき日ぞ 讃えまつらん
 ルンビニはマヤ夫人がお釈迦様を産んだところだ.生まれてすぐ7歩歩き,右手は天を指し,左手は地面を指して「天上天下,唯我独尊」とのたまったとされる.事実そうだったのだろうか,後世の作り話ではないだろうかなどと考えてはならない.人々の心の拠り所となってきた伝説の重みを蔑ろにしてはならない.また,「唯我独尊」を,「お釈迦様だけでなく人は誰でも尊いものである」とする解釈があるが,私はこれに賛成しない.お釈迦様の尊さは,仏教徒にとって他の何かに代えられるものでは決してない.
 中央には大きな寺院があり,その中に遺跡がある.イスラム教徒によって顔を削り取られた像と,お釈迦様の実在を証明したという仏足跡がガラス張りで保存されていた.寺院の周りにはマヤ夫人が産むときにつかまったというアショーカの木,沐浴池やアショーカ王柱の復元(ちゃちい)があり,全体に明るい感じになっていた.誕生というのは誰であれ喜ばしいものである.
 博物館は日曜のみ開館.周囲には日本人の建築家が作った計画に基づいて各国の寺院がまさにお寺を作っているところだった.「総教日本」という日本のお寺もある.敷地内に店はあったがインドと違って売り子は全く寄ってこなかった.ネパール人の顔つきは日本人に近く,何となく好感が持てた.
東門 さて次はネパール側のカピラヴァストゥ.ルンビニから30キロぐらいにあり,現在はティラウラコットと呼ばれている.行ってみるとルンビニ開発局の職員が入り口にいて案内してくれた.
 現在は東門と西門の跡が残っているという.東門はお釈迦様がここから出家したという門だ.目の前に広がる広大な風景を見ながら,妻子を捨て,何もかも捨ててここを出たお釈迦様の気持ちを察して複雑な気持ちになった.

 両方見た人はたいてい,ネパール側の方が本物のカピラヴァストゥだと思うそうだが,私もそう思った.平地のインド側のカピラヴァストゥと比べて,ネパール側は起伏があり,お城に近い.2500年も経っているのでそれだけでは何とも言えないだろうが,雰囲気はよく出ている気がする.しかしネパールはお金がないと見えて,発掘はほとんど行っていなかった.

 夏草や つはものどもが 夢の跡
廟 さらにその雰囲気を強めたのが帰りに寄ったお釈迦様の両親の廟である.もちろん後世に建てられたものであることは間違いないが,ここでは今もなお,現地の人によって供養が行われていた.我々が来るから見世物として始めたのかもしれないが,とにかく供養が行われていることにかわりはない.
 もはや当時の面影を残さない仏蹟は,他の遺跡と違って信仰の対象でもある.ここに現在進行形で供養が行われていると言うことは,一生に一度訪れるかの私たちにとっては非常にありがたいことだと思った.
 入り口に戻ると子供たちがわんさか集まっていて,群がるようにお金を要求してきた.子供は正直なものだと思ったが,周囲の家の作りを見ると,インドの寒村以上の貧しさが感じられ,可哀相に思われた.

法華ホテル ここにも博物館があるらしかったが,ディワーリー(現地ではラクシュミープージャーと言っていた)のため休み.帰りはルンビニにある法華ホテルという日本のホテルで昼食.日本の高僧が泊まるのだろうかと思うくらい,この場所に似つかわしくないたたずまい.宿泊費も食費も,東京都内のホテル並みだ.和室には畳敷きに布団がもう敷いてあり,その上きれいに掃除されていた.大浴場もある.レストランでは天ぷらなどの日本食もある.1991年にできたというからバブル全盛のころだろうが,12年経った今も手入れが行き届いているのが不気味なくらい.オーナーも客もほとんど来ておらず,40人ほどの従業員がどうやって食べているのだろうか心配になった.
 ネパールからの出国は簡単だった.ネパールの事務官は,「今度はネパールでもっとゆっくり過ごせるように来て下さい」と心温まる応対.その一方で賄賂をもらったインド警官は何食わぬ顔で応対,感謝しろと言わんばかりだったのが,少し頭にきた.
 とはいえネパールは平和な国では決してない.ゲリラがいるらしく,道で何度も検問があった.しかも銃を構えた兵士がドラム缶越しに銃口をこちらに向けていたのが恐ろしい.

またパンク
 国境を越えて一路お釈迦様涅槃の地クシナガルへ.しかしまたタイヤがパンク.近くの村でタイヤを修理してもらっている間チャイを飲んで過ごす.珍しい外国人の訪問で,医者だという人が見にきた.今日はディワーリーだけど仕事はしていると言っているそばから,お呼びがかかって帰っていった.彼の仕事場は道向かい.薬局みたいな小さな小屋があるだけだったので,「医者なのか?」と思って行ってみると,その小屋の中で女の子に注射をしていた.怪我をして抗生物質を打っているらしい.注射が終わってディワーリーの灯りを準備をしているところに,「喉が痛い」と言ったらその場で診察して,青いタブレットを出してくれた.インドの風邪薬は強くて胃腸をこわすと聞いていたので辞退したものの,こういう村医者が日本にもいたらいいなと少し思った.
 途中何度か踏切で止まったが,インドには踏切の有名な話がある.遮断機が降りると,車は右車線にもどんどん入っていく.遮断機が上がったときにすぐに出発できるようにするためだ.しかし踏切の反対側でも同じことが起きている.その結果どうなるか.遮断機が上がったとき,どちらも道路が全車線ふさがっていて車が少しも前に進めなくなってしまうのだ.それでもインド人はつい右車線に出てしまう.自分だけは大丈夫だという信念が,インド人の特徴なのかもしれない.
 この村で日が暮れてしまい,夜道を走ることに.無灯火の自転車が至るところに走っているし,街ではディワーリーで皆騒いでいるので人を跳ねはしないかとヒヤヒヤした.だがどの家でも小さいろうそくをたくさん点してディワーリーのお祝いをしている.電気もろくに通っていない村に,ろうそくの光が無数に浮かび上がってくるのは非常に美しい風景だった.

シュラヴァスティ
きえてゆく 鐘のひびきに ききいれば
いつか澄みくる わがこころかな
 昨日に続き再びシュラヴァスティへ.旅程を考えて日が明けたらすぐに見始めるのがベストだということになり,5:30朝食の6:00出発.宿の朝食は6:30からだったが,交渉したら出してくれた.
 シュラヴァスティは祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)と呼ばれるお寺があったところだ.日本人には『平家物語』の文頭「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり」で有名.お釈迦様がここで25回もの雨季を弟子たちと過ごして,説法をしたとされる.鐘はないけれども少し離れたところに日本人が作ったものがある.今は発掘されたいくつかのストゥーパ(記念碑)や,僧堂の跡があるが,お釈迦様の時代のものではない.
 早朝に仏蹟を巡るのはとても気持ちがよい.空気も引き締まっており,すがすがしい気分である.本堂にはお釈迦様の台座があり,インド人の僧侶が一人お経を読んでいた(写真).その側で五体投地の三拝をしてから,どんなお経を読んでいるか覗いてみた.『マハーパリトラーナ』というパーリのお経.ちょっと声に出して読んでいると,僧侶がこのお経をあげると言って差し出してくる.断ると,お寺に行けば同じ本があるから大丈夫だと言って勧めてきた.お金はほしくなさそうだったが,この聖なる場所で毎日読まれている有難いお経本を,むやみに私の家の本棚に入れるべきではないと考え,結局受け取らなかった.この僧侶の穏やかな目が忘れられない.
 シュラヴァスティは小高い丘になっており,雨季を過ごすにはなかなか快適な場所だろう.台座でお拝をしていると,お釈迦様の声が聞こえてくるような気分であった.僧侶たるもの,お釈迦様の教えを常に求め続けなければならない.
 この後近くにあるマヘートと呼ばれるエリアへ.ここには大枚をはたいて祇園精舎を寄進したスダッタ長者のストゥーパと,改心した殺人鬼アングリマーラのストゥーパがある.
 シュラヴァスティを後にして一行はカピラヴァストゥへ.国道でない細い道を行くので4時間.ここは舎衛城と訳されるところで,お釈迦様が王族として育ったところだ.3つの門から街を見に出かけて老病死の苦しみを目の当たりにし,4つ目の門で出家者を見て出家を決意したとされる「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の話は有名な話だ.お釈迦様の出家後,跡継ぎを失ったこのお城は,お釈迦様の存命中に滅びてしまう.
 このカピヴァストゥのあった場所が定かではない.国境をはさんでインド側にあるものと,ネパール側にあるものとの2つがあり,インドとネパールが相譲らない争いになっている.もちろんインド人にとってカピラヴァストゥと言ったらインド側にあるものだけを指す.道を訊いたほとんどのインド人は,カピラヴァストゥがネパール側にもあるということすら知らない様子だった.

 そんなわけでインドがプライドをかけて整備しているカピラヴァストゥは,ほかの聖地よりもきれいになっていた.中央にストゥーパがあり,復元されたレンガと,広大な芝生,池,花まで植えられている.あまりに人工的でゴルフ場のようにも見えた.だがこんなインドの端の端まで訪れる人はまれであるらしく,近くには宿も店もない.ただ田畑が広がるばかりである.公園管理事務所には2,3人いたが,遠目からこちらを見ているだけだった.入場料も無料.
 さて次の目的地であるお釈迦様の生誕地ルンビニは,ここから30キロも離れていない.お釈迦様のお母さんのマヤ夫人(ぶにん)が里帰り出産でこのお城から出発したが,ほどなくルンビニで産気づいてしまう.だからカピラヴァストゥはルンビニから遠くないという訳だが,今この間にはインドとネパールの国境があり,インド人・ネパール人だけが超えられる.外国人は50キロほど離れたスノウリという街で手続きをしないとネパールに入国できない.それがわかって一行はスノウリへ.
国境 スノウリにある国境は,意外なほどにぎわっていた.インド人とネパール人は手続きなしで行き来できるため,双方から人がどんどん出入りしている.したがって門も開けっ放しで,我々が黙って通っても誰にも咎められないような感じがしたほど.空路なら10分で手続きが終わるのでそれぐらいだろうと思っていたのだが,この入国手続きに予想外に時間をとられた.運転手が書類をもってあっちこっちに行ったり,インドルピーをネパールルピーに両替したりしているうちに小一時間ほど経ってしまう.
 そこでまた昨日の夕方のことを思い出した.これからルンビニに行っても日が暮れるまでまた30分ほどしかない.ネパールのカピラヴァストゥは見ることすらできないだろう.そこで手続き終了寸前の運転手を呼び止めて,手続きを中止してもらう.払ったお金は返ってこないので,運転手はどうしても今日中に行きたい様子だったが,明日の手続きに必要なお金はこちらが出すということで納得してもらい,宿に入ることにする.
 夕方の余った時間,スノウリの街中を見物.といっても見るべきものはなく,店を見て回るだけ.観光客向けの店もなく,バケツとか,自転車とか,ハエがたかったお菓子なんかを見て回った.当然買うものもなし.国際電話があったので山形に電話.祖母には「今ルンビニの近く」と伝えた.蚊に刺されながらコーラを飲んで宿に帰る.
 ここの宿は食事は美味しかったが,それ以外は最悪.電圧が足りないらしく,暗いしお湯も出ない.夜中に蚊に悩まされて何度か起きた.もっとも,バックパッカー(低額旅行者)にとってはこれでもかなり贅沢なほうだろう.国境近くで1人,日本人のバックパッカーに会った.バスでヴァラナシへ行くという.

 この日が実質的な旅行の第1日目.早朝の飛行機でラクノウまで1時間.ホテルから空港までのタクシーは,フロントでは150ルピーと言われたが実際は200ルピーだった.ホテルからのタクシーは値段が上がるのが普通らしい.
  ラクノウは仏蹟がたくさんあるウッタル・プラデーシュ州の中枢都市だ.デリーからはそれほど遠くない.この空港で旅行代理店が手配した運転手付きの車に乗り込む.手配したといっても白ナンバーだった.運転手はマノージ・グプタ(30).対向車の間合いを見極めた追い越し運転と人並もクラクションを鳴らしながら猛スピードで駆け抜ける豪快さの一方で,曲がり角に来るたびに必ず通りがかりの人に道を訊く慎重さも持ち合わせており,移動時間はかなり短縮された.5日間,合計1300キロを走行したが,人はもちろんのこと,犬や山羊も轢かなかったのは奇跡に思われる.英語はあまりわからず,ヒンディー語で話をする場面が多かった.

アヨーディヤ
 一行は一路アヨーディヤへ.ここは仏蹟ではなく,ヒンドゥー教の聖都とされる.アヨーディヤに行くという話をしたら,インド人の友人に「私も行ったことがないのに!」とえらく羨ましがられた.陰謀で都を追い出されたラーマ王子が,妻のシーターと弟のラクシュマンを引き連れて14年に渡る大冒険を繰り広げ,凱旋したときに,街の人々が灯りをともして祝った故事(『ラーマーヤナ』)が,ディワーリー(梵・ディーパーヴァリー 灯りの列)の元になっている.折りしもディワーリーの時期,この街は数日前までかなり危険な状態だったという.
 中心にあるラーマ寺院の裏に,イスラム教のモスクが建設されるとかどうとかで,イスラム教徒とヒンドゥー教徒が争っている.ヒンドゥー教徒は聖地奪還と言わんばかりに全国からアヨーディヤを目指して行進を始め,紛争を回避しようとする警察に大勢の人が拘束・逮捕された.政治問題も絡んでいるらしい.危険な状態が続いているならば訪問中止も考えられたが,マノージは問題ないと言っており,実際にも抗争の跡すらない平和な街だった.問題のラーマ寺院に参拝.行者がたくさんいて出迎えてくれた.お参りしているときに「Money!」というのは興醒めだったが,それにもだんだん慣れてきている.
犬猿の仲 近くにはハヌマーン(猿の神様)の寺院もあったが,本物の猿もたくさんいた.屋根をどたどた走り回ったり,道端で何か拾って食べたりしている.犬猿の仲というけれども,落ちている食べ物をめぐって猿が犬を威嚇するのを見て,本当なのだと思った.写真は争いが終わって去っていく犬とまた食べ物を見つけて食べている子供の猿.

プリー屋 昼食は屋台でプリー.お父さんと娘だろうか,2人でやっている.お父さんが調理,娘が盛り付けと配膳.隣の屋台でチャイを飲む.食事をしながら店主や休んでいるおじさんたちから情報収集.カタコトのヒンディー語でも,ジェスチャーを交えながら話をすると結構通じるものである.アヨーディヤをめぐるヒンドゥーとイスラムの争いのことを少し聞くことができた.
 ここから一行は北上,シュラヴァスティへ.ラクノウからアヨーディヤは80キロぐらい出せるいい道が続いていたが,ここからは国道であるにも関わらず,悪い道が多かった.舗装がはがれて穴だらけの街道,街や村に入ると極端に狭くなる道,時速は30キロが精一杯.ここから5日間,ほとんどこの調子だった.

パンク そんな道なので車がパンク.スペアタイヤに交換して,近くのパンク修理屋に駆け込む.空気つめとパンク修理だけのお店で,1回10ルピー程度.それでも空気をつめるコンプレッサーがあるだけ豪華だ.それなのに従業員が3人くらいいて,2人が小屋の中で暇そうに昼寝していた.隣の小屋は床屋になっており,パンク修理が終わる頃に客が一人やってきたが,パンク修理屋の親父が対応していた.パンク修理兼床屋,日本ではまずあり得ない職業の組み合わせだろう.
 道中何度か休憩をしたが,田舎ではトイレがない.「Toilet kahaan hai?(トイレはどこですか)」と訊くと「Toilet
nahiin hai!(トイレはありません)」という答え.どうぞその辺でご自由にということなのだ.道路の上で堂々とウンコしている子供もたくさんいた.女性だったらけっこう厳しい旅行かもしれない.

子供たち 都市部ばかりを回る旅行だが,こうした片田舎に突然止まってそこに住む人々の生活ぶりを知るのもいい機会である.都市部ではすぐに子供の物乞いがやってくるが,ここまで田舎になると子供も緊張して近づいてこない.左は警戒しながら逃げていく子供たちをやっと呼び止めて撮った写真.親も子供がさらわれるのではないかと言わんばかりに不安そうに見ていた.パンクが直るまでの30分ほど,ノスタルジックな光景に浸ることができた.
 ちょうどこの辺りからお釈迦様が活動した領域に入る.土地は広く豊かで当時ならば相当富裕な国であったことがうかがわれた.僧侶のような物を生産しない人々が行乞で生きていくためには,それなりに豊かである必要があるだろう.現代は土地が豊かでも経済的に豊かでないことが多いが,2500年前からあまり変わっているとは思えないのどかな田園風景に,とても心が安らいだ.
 シュラヴァスティに着いたのは17:30.日がどんどん沈んでいき,あっという間に暗くなってしまった.30分でここを見るのは時間的にも気分的にも無理な話.急いでぐるぐる回っていると,ガードマンが木に貼り付ける金箔を渡してきて,それを貼り付けてから50ルピーを請求された.急いでいなければ断ることもできたのだろうが,失敗.旅に余裕は大事である.
 6時になると日は完全に暮れてしまい,外国人入場料の2ドルがもったいないくらいで,ガードマンに掛け合って同じチケットで明日も入れないか交渉してみたが無理だった.その上売り子が群がってくる.素焼きのミニ仏像とか,パンフレットとか,挙句には日本円の500円玉を売ろうとするのまでいた.しかも日本語を心得ていて,「先生!先生!」と呼びかけてくる.さすがにこれにはウンザリ.
 シュラヴァスティに宿はなく,近くのバルランプルのツーリストバンガロー(国立宿泊所)に宿泊.客はほとんどおらず,公務員である従業員はとても暇そう.夕食の注文を3人で取りに来たり,テレビが映らないと言ったらまた3人で交換してみたりと,人が明らかに余っている様子だった.しかしそんな対応が誠実に見えて好感が持てた.

 仏蹟はインドの北東部,ネパールとの国境付近にある.今住んでいるプネーという街はインドの中西部にあり,博多から札幌くらいの距離がある.そこで第1日は大学が終わってから移動日となった.プネー発19:30の飛行機でデリーまで2時間.空港近くに宿泊.
 デリーの空港出口ではタクシーの客引きがうようよ.小島さんと,部下の円実さんは旅慣れたもので150ルピーのプリペイドチケットをカウンターで購入し,タクシーに乗り込む.ところが運転手が「Extra 20 Rupees!」などと言ってきた.理由を聞くと荷物代などと言う.カウンターでは荷物を見せた上で運賃を支払っているので,日本人だから小金をせしめようという魂胆が丸見え.3人がかりで運転手に文句を言って支払わなかった.そのうちタクシーは道を間違えてあちこち行った挙句,結局空港近くの宿に到着.運転手は着くと今度は「Extra 60 Rupees!」などと値上げしてくる.結局ホテルマンに追い払ってもらったが,チェックインが終わるまで入り口でじっとこちらを見ていた.
 もしプリペイドでなかったら,道に迷うふりをしてあちこち走り回り,高額なタクシー料金を要求してきただろう.インド人の抜け目のなさに,旅行者は油断してはならないことがいきなりわかった.

第1回:2003年

コメント(0)

 毎年10月,北ドイツの中都市エッセンでは「シュピール(Spiel)」という国際ボードゲームメッセが開かれる.世界中のボードゲームファンが4日間に14万人つめかけ,新作のボードゲームに興じるお祭だ.日本からも少なからず行っており,私も昨年初めて参加してその楽しさを堪能した.今年は10月23〜26日.インドではディワーリーという正月期間中で授業もない.ドイツへは,日本から行くよりも近いだろうとかなり真剣に検討していた.
 そんなところに,プネーで働いている企業駐在員,小島さんからお誘いがかかる.ディワーリーに,北インドの仏蹟を回る計画.これは大きな魅力であった.エッセンは遠いが,日本からでも割と行きやすい.しかし北インドというと,時間がかかる上に現地移動の交通手段が悪く,バスや電車を半日も待っているのではかなわない.小島さんが計画したプランでは,空港から車をチャーターして5日間,仏蹟の名所を効率よく回るというものだった.エッセンへの諦めはしばらくつかなかったが,何が大事かを自分によく言い聞かせ,お釈迦様の足跡を辿る旅へと出発した.

自然

コメント(0)

正門 授業も大部分が終わり,大半の時間は図書室で本を読む生活.コピー機がないので,気になった箇所はせっせとノートに写す.手は疲れるけれどもコピーを取っただけでよくよく読まずに安心してしまうのと違って,考えながら写すのでよく頭に入るものだ.読むべき本はどんどん増えていき,きりがない状況.人の話を聞くのと違って気づかれはしないが,目はとても疲れる.その分,終わってからの「今日もよく勉強したなあ!」という達成感は精神衛生上なかなかよろしい.
 キャンパスに所狭しと並んだビルが大学のイメージだったが,ここに来て覆された.正門から中央まで1キロ近くあり,その間はほとんど森の道になっている.その中にところどころポツン,ポツンと建物があり,サンスクリット語と英語で学部名が書かれた看板が木の陰に隠れているような感じだ.キャンパスを一歩外に出ると排気ガスとクラクションだらけの道路に沿って建物がずっと続いているので,これだけ大きな森が取り残されているのは珍しい.話によると,この森のお陰で夏場は市街地と比べて数度温度が下がるという.
 ほとんどが森だけに大学の中は自然がいっぱい.最初に驚いたのが牛.道路をのんびりと集団で歩けば,バスもリキシャーもよけて通るしかない.私が把握する限り,牛は4匹いる.茶色い牛(写真)がなかなかりりしくて好きだ.キャンパスの中心を歩き回っては生ごみと草を交互に食べる.暑いときは自転車が止まっている中で昼寝.母牛が子牛をなめていることもある.見ていて飽きないが,何しろ大きいので危なくてあまり近づけない.いきなり走り出すこともあるのだ.
牛 インドでは神様の乗り物として聖獣とされており,牛乳を搾るのと牛車を引かせるけれども決して食べたりしない.私が丑年生まれということもあって,心なしか親近感を覚えてしまうが,あちらは人がいようといまいとおかまいなしにのんびりしている.
 次に驚いたのがイノシシ.自転車で走っていると急に茂みからガサッと音がしたと思うとすごい速さで前を横切っていった.しかもこれまた3,4匹集団で移動している.けっこう図体がでかいので自転車に横から衝突されたら怪我することは避けられまい.野良犬もいる.インドに来る前狂犬病の予防接種をしてきたものの,狂犬病の犬に噛まれたら死亡率100パーセントというのを聞いて犬を意図的に避けている.もっともこちらの野良犬もあまり人に近づいては来ない.
 今は正門からではなく,西門から入る.こちらはさらに建物が少なく,森林浴しているような気持ちよさだ.森はうっそうと茂っているが,地面に草は不思議と生えていない.そこで近所に住む人が薪などの燃料を集めているからかもしれない.人間が通るのかイノシシが通るのかわからない獣道.ふらふらっと森の中に入ってみたくなる.ただしこういうところは街頭もないので,暗くなる前に脱出しなければならない.
 この前校舎の前で人を待っていたら,足がチカチカ痛いので焦って見ると,サンダルからアリが這い登って私の足を噛んでいるところだった.かなり小さいアリだが何匹もいて痛さは強烈.しかも小さいためなかなか払い落とせない.片足を上げてケンケンしている姿を,通りがかりの人が不思議そうに見ていた.
 生命力の強さを思い知る.私も負けていられない.

チャリ

コメント(0)

私の自転車 大学へは自転車(写真右)で行く.引っ越した当初はリキシャーで通っていたがあまりに近いので運転手がよく乗車拒否をする.特に皆が帰る夕方なんかに「アウンド(今住んでいるところ)へ」と言うと,おっちゃんは怖い顔で首を振る.すぐ前のおっちゃんもそのやりとりを聞いていてこちらが行き先を告げる前に首を振る始末.こうして軒並み乗車拒否されて,仕方なく歩いて帰ったこともある.歩いて帰る場合は20分くらいだが,最初は道がわからなかったので遠回りして30分以上かかっていた.

 学生の多くはバイクかスクーターで通学している.日本ならスクーターくらいの値段ででかいバイクが買え,スクーターなら新車でも5,6万円といったところなのだが,まず道路が怖い.道路がカオスのこちらでは事故は日常茶飯事なのに,ヘルメットをかぶっている人はほとんどいない.保険もまず入っていない.ぶつかったり,ぶつかりそうになったらその場で言いたいだけ言い合って,気が済んだら終わり.轢き逃げ,当て逃げ上等.はねられたらはねられた方が悪い.邪魔だと思ったらすぐクラクション.その上スクーター1台に2人乗り,3人乗り,4人乗り….こんな道路では,とてもとてもバイクなど運転する気になれない.道路の隅っこをのんびり走るのが吉と,自転車を買うことにした.

 ところが今住んでいる近くに自転車屋がなかなか見つからない.この街はバイクが標準なのだ.結局大学の正門の近くにあるバイク屋さんで,奥の方に投げ捨てられたように置いてあった中古自転車を800ルピー(2000円)で購入.不動産屋のドゥルゲーシュに「何でそんな大金をこんな自転車に!」とまた怒られた.

 調整してもらって乗り始めたが,乗って5分で異常発生.後輪がガタンガタンいうのだ.パンクしてないのにどうしてかと思ったら,タイヤの中につぎはぎのゴムが入っていた….結局タイヤを交換してもらう.ところがそのタイヤがまた3日後に崩壊.後輪が回らなくなってしまった.リキシャーに自転車を乗せてバイク屋に向かい,80ルピーでまた交換してもらう.それ以降は特に油をさしてもらってからすこぶる順調だが,筋が完全に消えている前輪のタイヤも非常に怪しい.

 しかし自転車のお陰で大学まで10分.映画館にも,バンダルカル東洋研究所にも自力・無料で行けるのが嬉しい.運動にもなるし,事実乗って1,2週間で足に筋肉が付いた気がする(それだけ重い自転車だということ).今住んでいるところから大学までは緑も多くて空気もきれいだが,市街地に行くほどリキシャーやバスが撒き散らす真っ黒い排気ガスを思いっきり吸う羽目になるのが難.それとチェーンがズボンをときどき噛んでズボンの裾が油で黒くなるのもイヤだ.

 アパートでは盗まれないように壁にチェーンでくくりつけているが,どうやらこれだけボロイ自転車だと,あまり盗まれることはないらしい.一体いつ作られて,何人の人が乗ってきたのだろう.あまりの年季の入り方に,畏れ多い気すらしてしまう.はじめは「安物買いの銭失い」と後悔し続けていたが,今ではとても愛着をもっている.

散策

コメント(0)

バンダルカル東洋研究所 今日の午後からの授業は,講師が遠方からの移動でまだ到着していないという理由で休講.今日中に着けば明日は授業があるとのことだった.まことにインドらしい.

 そこで空いた時間に,前々から行こうと思っていたバンダルカル東洋研究所というところの図書館に行ってみる.大学から自転車で20分くらい.時刻は14時,35度という炎天下,排気ガスもうもうの中を行くのは途中で倒れそうになった.「こんなに遠かったっけ?道に迷ったかな…」と思ったとき,ちょうど門が見えてきた.

 ここの図書館は1日,1ヶ月,1年,死ぬまでと選んで利用料を払う.1年だと500ルピー(1250円).事務室でお金を払って領収書を見せると,ライブラリアンのおじさんが顔を覚えてくれてそれ以降は顔パスとなる(利用証などはなし).さすが記憶力の国,インドだ.日本人だというと,和田先生(名古屋大学),宮元先生(国学院大学),故阿部先生(前明治大学)など,これまでここを利用していた研究者の名前が次々に出てきた.阿部先生が先ごろお亡くなりになったのもライブラリアンのおじさんは知っていた.阿部先生はここにあるゲストハウスに長いこと住んでおり,マラーティー語が上手だったという.

 ここの図書館は完全閉架式で,本の名前と番号を言うとライブラリアンのおじさんが持ってくる.そのせいか本の状態はとてもよい.ただ,大学の図書館と比べて充実しているかというと,どっこいどっこいのようだ.大学の図書館になくて探していた本は,こちらにもなかった.もっとも写本などは充実しているから,今後じっくり探してみようと思う.

 貸し出しはさらに500ルピーのデポジットを収めなくてはならない.お金もなかったし,ひとまず今回は様子見なので借りないことにした.閲覧室はとても快適で,閉館時間の17時30分ぎりぎりまで過ごしてしまった.大学の図書室よりも明るくて目に優しい.近くにあったら毎日通うのだが.

チャトルシュリンギー寺院 帰りに大学のすぐ近くにあるチャトゥルシュリンギー寺院へ.山の上にあり,門のところで自転車を降りて階段を上っていく.真っ赤な顔をしたピカソの絵のようなご神体である.例によって靴を脱いで参拝,プラダクシナーといって参拝が終わったら左から時計回りにご神体の周りを一周する.これは日本でも神社のお参りや,仏教の法要などで行われているものと共通したやり方だ.

 参拝が終わるとさらにその上に階段があることに気づく.のぼってみると,プネー市内を一望できるとても見晴らしのよい広場があった.大学もすぐそばにあるはずと探してみると,何と目の前の森が大学であった.森の中からところどころ背の高い建物がちらちら見えている.大学の中にいても緑が多いとは思っていたが,これほどとは.時刻もちょうど夕暮れ時,景色と心地よい風が気持ちよい.また行ってみたい.

 帰りにお寺の前で物乞いの子供たちに会う.彼らは非常にみすぼらしい身なりをしており,何も言わずとんとんと叩いて呼びとめ,手を口に入れるジェスチャーをして,それから手を出す.余所では相手にしないことにしているが,お寺でもらった謎のお菓子を食べる気がしなかったのであげた.子供たちは大喜び.お寺にお参りした後は,よいことをしようという気持ちになるものだ.

 それから大学の前で自転車に空気をつめてもらって,ついでに油をさしてもらう.自転車は見違えるように軽くなった.こんなんだったら,散策前に自転車屋に寄るべきだった….

食事

コメント(0)

朝食の例 インド滞在1ヶ月.食事が安定してくると生活も安定したような気になるものだ.

 朝だけ自宅でパンにスライスチーズ,スクランブルエッグ,炒めたピーマン,トマト,ゆでたオクラ,牛乳,バナナといったところ(写真右・牛乳はミロ入り).昼食と夕食は野菜がほとんどないのでここでしっかり食べる.卵1個4円,トマト1個3円,バナナ1切れ3円,牛乳1リットル60円.いずれも休日に近所の市場で買っておく.卵屋さんは鳥肉も(その場でしめて)売っているが,まだ買ったことはない.この前行ったとき物陰から鶏のすごい悲鳴が聞こえてきてからそんなに食べたくなくなってしまった.ちなみにお隣は羊肉屋.当然のことながら,お店の前では貧相な羊が草を食んでいる.

 八百屋さんと果物屋さんは別で,市場に何件も並んでいる中からよい品と誠実そうな売り子を見て決める.だいたい買うところは決まってきた.品は指差しで示すし,金額は英語で言ってくるのでマラーティー語を使う必要がない.ただ「このパパイヤはどうか」「このポテトはどうか」といろいろ勧められたときにだけ,「ナコー(要らない!)」と強めに言うのが効果的.相手はニヤッとしてそれ以上勧めない.八百屋には人参,茄子,瓜,キャベツ,カリフラワーなども売っているが家にある調味料が現在塩だけなので見合わせている.

学食 昼は大学内の学食(写真右)にて.食堂が2つと,屋外が1つ.食堂では50円前後,屋外は軽食で30円前後.だいたい全種類食べたと思うが,お気に入りはプリー・バージー(チャパティを揚げたものにカレーが付いている).そしてラッシー(飲むヨーグルト)25円は必ずといっていいほど飲む.ほかにラッシーを飲んでいる人はあまりおらず(たいていチャイ(ミルクティー)を飲む),いつもラッシーを頼む東アジア人として店員に覚えられているような気がする.

 軽食を食べられるところは,いつも勉強している建物のすぐそばにあり,休憩時間などにはチャイ8円,ジュース30円などを飲む.ここは大学の中心部にあり,学生がいつもたむろしている憩いの場になっている.売店では売り子によって値段が変わり,おばあさんのときは8ルピーのジュースも10ルピーのジュースも全部12ルピー.おかあさんのときは1歳にも満たない赤ちゃんを地面に寝かせて店番をしている.おとうさんのときはすぐどこかに行ってしまい,大声で呼ばなければならない.

 大学に行かない休日などは,近所のパン屋さんでサンドイッチを買ってくる.50〜80円くらい.ほとんどのサンドイッチはマサラとコリアンダー(香草)が入ったインド風味で,中が黄色い.それ以外のものを食べたいときには値段の高い店に行かなければならない.

 夜は自宅近くのレストランにて.歩いていける近場に5件ほどある.そのうちよく行く3件はベジタリアン専門で肉や卵は出ない.よく食べるのはターリー(チャパティとご飯にカレーと付け合せがついた定食)で60円〜80円.そのほかにビリヤーニ(チャーハン)もよく食べる.インド料理の付け合せは必ずといっていいほど生の玉ねぎスライス.これにレモン汁を絞って食べる.レモン汁をよくかけないと胸やけするので注意が必要.「チャイナゲート」という中華料理屋もあるが,チャーハンも焼きそばも,全部赤い.そして辛い.和風中華があるように,インド風中華もあるものだ.

 お腹が空いていないときは立ち食いの軽食屋がすぐ近くにある.だんごやヨーグルトや乾麺を砕いたものやスパイスを手当たり次第に入れる料理やお好み焼きのような料理がここにはある.ココナッツミルクのデザートがお気に入り.価格は学食なみ.それからもう1件,夜にラッシーを売っている店がある.食べたりないときはここでもラッシー.家に帰ったらミネラルウォーターをしょっちゅう飲む.1リットル30円,2リットル48円.暑いということもあるが,外食は結構塩辛いので喉が渇くものだ.スナック菓子はどこにでも売っているが,これを買ったらおしまいのような気がして,手を出していない.

 日本で一人暮らしをしていた数年間は朝はパンと牛乳とバナナ,昼はラーメン,夜は700〜800円の定食が普通だったので,それと比べると健康的かつ経済的と言えるだろう.肉・魚はほとんど食べていないが,その代わり甘いものの比率がぐんと上がった.大学の行き帰りに中古の重い自転車をこいで運動している.

インド映画2

コメント(0)

バグバンタイトル:Baghban(バグバン)

ストーリー:
 主人公マーロートラはICICI銀行(実在のインド銀行)を定年退職し,4人の息子たちに妻のプージャーと共に老後の面倒を見てくれるよう頼む.しかしそれぞれ独立し,家庭も持っている息子たちは誰も一緒に住みたくない.そこで息子たちとの同居を諦めさせるため,マーロートラとプージャーを別々に,しかも6ヶ月交替で引き取るという提案をした.だが夫妻はしぶしぶ了承し,住み慣れない家で別々の生活を始めることになる.
 果たしてその生活は全く幸せではなかった.居候のように邪魔者扱いされ,何一つ自由にさせてもらえない.嫁はあからさまに嫌なことを言い,息子も嫁をかばうばかり.しかし2人にとって何よりもつらかったのは,夫・妻と別居させられていることであった.2人は毎日のように電話をし,手紙を書いてそのつらさを紛らわせていた.
 そんな中マーロートラは近所の喫茶店の主人と知り合いになり,主人の勧めで「バグバン(庭師)」と題する彼の半生記をタイプライターで作り始める.家では息子夫婦にタイプライターがうるさいと怒られ,喫茶店で日がな書いていた.妻との手紙のやり取りが唯一の慰めだったが,ある日メガネが壊れて手紙を読めなかったために,その喫茶店の奥さんに妻からの手紙を読んでもらう.その手紙は,涙なくしては読めないものだった.喫茶店の主人と奥さんはマーロートラを気遣い,いつもあたたかく迎えた.
 そして6ヶ月が過ぎ,今度は別の子供たちの世話になるため移動することになる.しかし2人は結婚生活を始めた街で落ち合い,行くあてのないデートをする.しばらく再会を喜ぶも,これからのことに途方にくれていたとき,たまたま遠くに住んでいた養子のアーロークと再会.その養子は靴磨きだったところをマーロートラ夫妻に取り上げられ,妻と一緒に留学先のロンドンから帰ってきていたのだった.血のつながりのない息子だったが,写真に毎朝手を合わせて両親以上にずっと慕っていた.その夫婦のところに世話になり,久しぶりに幸せな生活を送る2人.
 しかし長居もしておられず,帰途に着く.電車で行くといったマーロートラたちに,アーロークは高級外車をプレゼント.そして懐かしの我が家のところを通りかかったとき,例の喫茶店の主人が小切手を持ってきた.彼が喫茶店にタイプライターと共に置き忘れた半生記を出版社に持っていったら,たちまちベストセラーになっていたという.
 ベストセラー祝賀会では集まった息子たちをさしおいて養子があいさつをし,マーロートラが涙ながらに妻への愛を語る.同席した妻も涙を流しながら聞いていた.子供たちは邪険に扱ったことを詫びるが,マーロートラは耳を貸さず妻と立ち去っていく.→公式ページ

感想:


  • タイトルは「庭師」という意味.種をまいて,一生懸命育てても,それが自分のために実るとは限らないというテーマ.ポスターには「あなたは家族に頼れますか?」と書かれていた.客層もシニア(お年寄り)世代が多かったようだ.インドでも都市部では核家族化が進んでおり,他人事ではないらしい.
  • 入館料はS席100ルピー(250円)。土日は高くなることがわかった.S,A,B席とあり,S席は一番上で以下だんだんスクリーンに近づいていく.客はほとんどS席に座り,日本でS席といわれる真ん中ら辺はガラガラだった.今度はA席にしよう.
  • ストーリー主体の映画で,ダンスも少なめ(主人公夫妻が年配で派手なアクションができないからかも).ただ筋書きの多くがセリフで進行しているので,ヒンディー語がわからないとストレスがたまった.息子たちがショッキングなセリフをいうところとか(ガーンという効果音はあったけれど).
  • ヒーロー役の養子アーローク(サルマン・カーン)が婚約者と踊るシーンがある.デートの待ち合わせにバイクで現れる末っ子.当然ノーヘルの上に口にはバラをくわえている.笑った.
  • 息子夫婦にいじめられる夫妻の描写がいちいちリアル.マーロートラが家長の席に座ろうとすると嫁は「お父さんはこっち」と末席を指示する.朝マーロートラが新聞を読んでいると「夫が読むから」と言って取り上げられる.プージャーが息子の職場に行くと「母さんを家から出すなと言ったろ!」と嫁を怒る息子.息子の誕生日プレゼントを届けるため職場に行ったことがわかると「そうやって私がかまわないのを詰るつもりなのね」と憤る嫁.そのたびにマーロートラやプージャーのアップとガーン!という効果音がしつこいくらいだった.
  • 日本では定年退職前後というと,たいがい夫婦の愛は冷め切っているような気がするが,この物語では終始アツアツカップル.夫が仕事をしていたときは,朝はネクタイをしめ,帰りは時間を見て夫がベルを鳴らす直前に扉を空ける.一緒に暮らしているのにお互いの写真をポートレートに飾り,息子たちの前でもいちゃいちゃし,夜は腕まくらなんかしている.定年を迎える誕生日には妻特製ケーキ.だからこそ離れるのが悲劇になったのだろうが,実際のところ新婚さんでもそこまでするだろうか?
  • 夫婦別々にさせられてからは,妻の手紙を読むたびに涙を禁じえない主人公.手紙の内容が分からなかったにもかかわらず,妻と離れて暮らす私と重なって思わず胸が熱くなった.電話を通して2人が歌を歌いあうシーンもあった.
  • 再会のシーンはヒンディー語が何となく分かった.混雑する駅のホームで涙を流しながら抱き合う二人.妻「皆が見ているわ」夫「かまわない」妻「何言っているの,もう…」
  • 休憩時間を入れて3時間.長い!
  • 後日分かったことだが,マーロートラ役のアミターバ・バッチャンという役者は日本でいうところの田村正和.ペプシコーラや万年筆,果てはトラクターの宣伝にまで登場している.アミターバは日本では「阿弥陀」と音訳されている.アミダババア(※「俺たちひょうきん族」というテレビ番組で明石家さんまが扮していたキャラクター)?
  • さらに,プージャー役のヘーマ・マリーニは幻の子役で何と35年ぶりの映画出演.幻滅を恐れて遠ざかっていたがこのストーリーに惹かれて出演を決意したという.この映画が話題になっている理由のひとつであろう.

大学

コメント(0)

サンスクリット高等研究センター(CASS).ここで勉強していますこちらに来て1ヶ月くらいになり,大学の様子もだいぶつかめてきた.

今月は授業が終わり次第だいたい試験期間中となり,正規の授業は終わりつつある.この後今月末にディワーリー(ヒンドゥー正月)があって,次学期は1月1日からとなる.

私は当初,教授と一対一でテキストを講読するという目的で来た.ウダヤナという11世紀の学者の『ニヤーヤ・パリシシュタ』という本だが,旧ニヤーヤと言われるスートラ註釈史と,新ニヤーヤと言われる専門用語だらけの体系を両方知っていないとよく読むことができない.その両方に手が届く世界有数の学者が,V.N.ジャーと言う私の先生だ.現在プネー大学サンスクリット高等研究センター(CASS・写真右)のディレクターをなさっている.英語も訛っておらず,難解な術語も平易に説明でき,何より人に教えるのが好きという性格で,学生の誰もが尊敬してやまない.

だが講読は今のところ週1回,1時間だけ.今週と来週はその1回すらもつぶれてしまった.今の時期は学期末でさまざまな講演会が入り,インド各地から訪れる学者の接待にお忙しい様子だ.そこで余った時間,授業に出席してみようと思って出ているのが文法学.週5回,毎日1時間ずつサンスクリット語の文法学書『シッダーンタ・カウムディー』のカーラカ章というところを読む.こちらの先生はM.デオカールという若い先生.全盲であるがスートラはおろか,注釈まで頭に全部入っている.カーラカ章は読んだことがあるところだったが,微に入り細を穿つきめ細やかさに,すっかり気に入って出続けている.

そこに先週から,写本学の特殊講義が始まった.インド各地の大学で教えるシニア研究者向けに,古代から中世にかけてインドでさまざまに発展した文字を習うもので,3週間ぶっ通しで月〜土,9時〜17時(昼食休憩2時間)の濃い授業だ.シャーラダ文字という中世カシミール地方の文字を習いたくて先生に許可を得,ちゃっかり出席.ブラーフミー文字というアショーカ王時代の文字から,ベンガーリー,シャーラダ,ネワーリーなどの北方系,テルグ,カンナダ,グランタなどの南方系,それに暗号化された文字シャンカ(貝)文字など「これが文字なの?」というようなところまで隈なく習った.最初は信じられなくても,3時間くらい練習していると名前くらい書けるようになるのが楽しい(下の文字一覧参照).

こうした特殊講義は不定期に行われているらしく,私が来るあたりまではバルトリハリから非パーニニ派など文法学系の集中講義,その後ティルパティから先生が来てヴェーダーンタ学派の講義などが行われていた.どういう講義が行われるかは前の週くらいにいきなり貼り出されるので常にチェックが必要だ.

あとは残りの時間に,サンスクリット会話をヴィナヤクという学生から習っている.彼は日本語を習っているので,1時間習って,1時間教えるという感じでサンスクリット語と日本語の交換授業.文献は10年近く読んでいるが,「ありがとう(dhanyavaadah)」とか「さようなら(punar
milaamah)」と言った基本的な挨拶語や,メガネ(upanetra)・自転車(dvicakrikaa)・時計(ghati)などといった語彙は出てこないものである.「6時になっても私の弟が来なかったら,リキシャーで来て下さい.(shadvaadanaanantaram
api mama anujo na aagataz cet, bhavaan tricakrikayaa aagacchatu)」…実用的な文だなあ.一方,日本語会話の方も「自転車では30分かかりますが,バイクでは10分かかります」というようなどこかおかしな文を英語で説明するのが面白い.

ひとまず今月中旬まではこのような感じで忙しくなった.写本学と文法学が終わったら,自習の時間が増えるだろう.いろいろ読みたい本が増えている.

〈コンピュータ利用の授業で習った「ISCII(イスキー)」という文字コードを元に公開されているフォントたち〉

(言葉は全部「オーム,ナマハ,ブッダーヤ(南無帰依仏)」.左上から
西部地域…デーヴァナーガリー文字(サンスクリット語,ヒンディー語,マラーティー語共通),グジャラーティー文字,パンジャービー文字
東部地域…ベンガーリー文字,オリヤ文字
中部地域…カンナダ文字,テルグ文字
南部地域…マラヤラム文字,タミル文字

仏教寺院参拝

コメント(0)

 こちらに来てから,少しずつ日本人の知り合いが増えた.この街に住んでいる日本人は大きく分けて3種類ある.日本企業の駐在員,現地企業に就職している人,それから学生.話によると300万人のこの都市で50人くらいのものらしい.その中に日本人ネットワークが張り巡らされており,私も人づてに紹介されていくうちにこのネットワークにリンクした.

 ネットワークの目的は交流である.日本にいたら話す機会もネタもないような人たちでも,この異国の地では「仲間」になる.日本の話題,日本的な話題を日本語であれこれ話すのは,ストレス解消にもってこいだと言うことは1ヶ月もいない私でもよくわかった.裏返せば,いかに常日頃インド人との意思疎通に苦労するかということでもある.言葉も違えば,考え方もまるで違う.そこに一から説明をするのは特に企業ではさぞ骨の折れることだろう.

ご本尊 その「日本人会」のお誘いで,近所の仏教寺院に参拝した.駐在員の方々が運転手つきの車で送って下さり,8人で行った.情報を集めるところから始まって,訪問の約束を取り付けたり,方々に連絡したりと,ただ集まるだけではない手間に頭が下がる思いだ.夜7時頃,車に乗って着いた建物は確かに「buddh
vihar(仏教精舎)」と書いてあった.それほど大きくない平屋の白壁で周りは空き地になっており子供たちが遊んでいたが,お寺が開いて我々が中に通されると皆もどんどん入ってきた.礼拝の開始時間である.

 奥の間にあるご本尊にはタイから送られたキンキラキンの釈尊像.インドでは仏教が逆輸入されていることがよくわかる.そこに線香とお花を供えて,礼拝が始まる.「ブッダーン,サラナーン,ガッチャーミー(南無帰依仏)…」前に座っている僧侶(完全に在家)の先導で老人から子供まで三帰依文などを唱える.音程は日本のお経と比べるととても高く,叫んでいるといった方が当てはまっている.

 最初の唱えごとが終わると,日本人から何かないかと言われたので私の血が騒いだ.軽い挨拶をした後,般若心経の読経と御詠歌(紫雲)の奉詠.そして普回向といういわゆる「本尊上供(ほんぞんじょうぐ)」を行った.はじめは緊張したけれども,だんだんと異国の地で心細いところにお釈迦様にめぐり合えた安心感がこみあげてきた.そして終わった瞬間,「サードゥ,サードゥ(満足,満足)」と聞いていた全員が示し合わせたかのように唱えた.通じ合った瞬間である.

 その後また唱えごとがあって,終わると瓶のコーラをご馳走になり,続いて日本人が一人ずつ自己紹介をすることになった.マイクの感度が悪いと思ったら,スピーカーはお寺の外に備え付けられており,あたり一面に我々の声が鳴り響いていたのには驚き.私は外国語サークルで慣らしているヒンディー語の自己紹介.聞いている人の目をよく見ながら,テンション高めに話すことが大事で,反応はとてもよかった.「今度来たときはマラーティー語で」と司会が言って会場は大拍手.一緒に来た人の中にはその後「マザナーウ…アヘー(私の名前は…です)」とマラーティー語に挑戦している人もいて,聞いている人はその度に大いに盛り上がった.

 終わって帰る段になっても「私のおじは大学に勤めていて…」とか「仏教徒がどうしてサンスクリット語を(パーリ語じゃないとダメらしい)?」などといろいろ(英語で)話しかけられて,なかなか楽しかった.中でも「私の名前はシッダールト(※お釈迦様と同じ名前)です」というのにはびっくり.子供がひっきりなしに握手を求めてきた.いったい何者なんだろう,我々?

 集まった人は身なりがきれいで周囲の家もきちんとした建物だったが,中には駐在員に雇ってくれないか尋ねてきた人もいたそうで,決して楽な暮らしではないことが分かった.インドの場合,仏教徒の多くはヒンドゥー教の縦社会から外れた被差別民であり,そういった差別の状況が改善しているとは言いがたい.彼らにとってお釈迦様は本当に救いの主であり,厚い信仰につながっている.それに比べたら,お経を読んだくらいでいい気になっている私は,彼らの足元にも及ばない.

 しかしそんな反省をよそにその後我々が行ったところは高級レストランで,駐在員の方々から料理やビールをご馳走になる.背に腹は代えられず,会話を楽しみながらめいっぱい美味しく頂いたが,途中ふっと,今あの仏教徒たちは何を食べているのだろうと気になった.

このアーカイブについて

このページには、おの2003年10月に書いたブログ記事が含まれています。

前のアーカイブはおの: 2003年9月です。

次のアーカイブはおの: 2003年11月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

アーカイブ

リンク用バナー