おの: 2004年2月アーカイブ

石窟寺院

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アジャンタ全貌 インド最大規模の石窟寺院、アジャンタ、エローラを見に小旅行。石窟寺院は11月にプネーの近場を見たが、アジャンタとエローラは高校の世界史でも習うほどの有名なところだ。プネーに住んでいるなら1度は見ておこうと思っていたが、一人で行くのはなかなか億劫なもの。そこへカナダの大学から来ている陳先生の誘いでチャンスがやってきた。もうひとり、大学に研究に来ている四川大学の楊先生も一緒になり、3人での小旅行となった。
 陳先生は仏教哲学が専門。中国生まれだが香港、台湾、ドイツを経て現在カナダで教鞭とをっている。旅行前には「瑜珈行派の識転変」「仏教とポストモダニズム」と題して2日連続の講演を行った。日本の仏教学者にも詳しく、日本語も少し話される。講演でもしょっちゅう「長尾氏が…」「上田氏の見解は…」と日本人学者を引用してインド人をうんざりさせていた。一方楊先生は35歳という若さで四川大学の南アジア研究所インド経済研究室の主任。中印戦争以来インドと中国は仲が悪く、インドで中国人を見かけるのは珍しいが、交流がないわけではない。
 プネーからアジャンタまでは約300キロ。だいたい東京から山形の実家に行くくらいだ。バスで6時間、アウランガバードという都市からタクシーをチャーターして2時間。移動にまる1日かけて、2泊3日で行ければのんびりした旅行になっただろう。しかしさすが体力のある漢民族のこと、陳先生のプランは夜行バスで行って、まる1日見て、そのまま夜行バスで帰ってくるという強行軍だった。0泊1日、つまり日帰りである。
 夜11時30分発のバスはシヴァージーナガルというバスターミナルから出発する。バスターミナルでは、トイレの蛇口をひねったら水が噴き出すというハプニングで上半身を濡らしたままバスに乗り込む。6時間も乗るのに120ルピー(250円)のバスは少し年代もので、道路のデコボコを客席に忠実に伝えてくれる。しかも目の前のテレビではヒンディー映画で歌えや踊れ。こんな揺れてうるさいところで眠れるか!と思っていたがそのうちウトウト。盲人用のデコボコタイルの上を車で走る夢を見た(って現実とほとんど変わらないが)。
アジャンタ石窟・壁画 アウランガバードに着いたのはまだ夜が明けない午前5時。かなり寒い。それでもバス停の周りには客待ちのリキシャーがたむろしていた。陳先生は早速リキシャーの運転手を捕まえてタクシーをハイヤーする交渉をしている。普通リキシャーとタクシーは競合関係にあり、リキシャーの運転手にタクシーのことを聞いても仕方ないのだが、ここはアジャンタをめざす観光客が多いのだろう。リキシャーの運転手でもタクシーの手配に応じる。そうでなければ午前5時に路頭をさまようことになっただろう。
 ハイヤーは結局1日1300ルピー(2750円)ということになり、タクシー乗り場までリキシャーで連れていってもらう。そこで朝食のパンとチャイを購入し、ひとまず空腹を満たす。やがてタクシーは10分ほどで来た。リキシャーの運転手が「My
brother」と呼んだタクシーの運転手はいかにも今起きたばかりという感じで、機嫌が悪そう。バックミラーにはコーランのホルダーがかかっており、イスラム教徒のようだった。インドでは「バード」と付く都市には特にイスラム教徒が多いと聞く。話の取っ掛かりが付かないまま、再び眠り込んでしまった。
 それにしてもデカン高原の朝晩の冷え込みは予想を上回るものがある。昼は30度を超えるのに、夜になると15度ぐらいにまで下がる。長袖一枚だけではちょっと耐えられない。その点、陳先生と楊先生は3枚も4枚も重ね着をして完璧装備になっていた。しかも寒いカナダから来ている陳先生は車の窓を開けてご機嫌に楊先生とおしゃべり。私の方はというと、少しでも暖を取ろうとかばんを抱いて眠っていた。もともと寒がりではあったが、めっぽうインド人体質になっているようだ。
 アジャンタに着いて、ホリデイリゾートという州政府公営の宿泊施設で朝食。仏教徒だというウェイターから話を聞くと、アジャンタに来る外国人観光客のほとんどは日本人だとのこと。こんな遠くまで来る日本人がそんなに多いとわかったのは実際にアジャンタに着いてからである。ウェイターは私が日本人だと知ると、日本をやたらほめる。「カメラ、ナンバー1!」そして中国人もいると知りながら「中国? ノーグッド!」とけなす。冷や汗が出た。楊先生は後で「彼は30年前の中国しか知らない」と憤慨していた。
アジャンタ石窟・居並ぶ仏像 さて朝食をとって石窟寺院の入り口まで行くと、タクシーを置いてバスに乗り換えなければならなかった。頂上は駐車場がなく、ふもとから4キロを州政府の観光バスがピストン輸送しているのである。バスは客がだいたい埋まると出発する。頂上に着いたのは9時30分ころだった。こうした特別バスに乗るとだんだんわくわくしてくるものだ。窓口で拝観料250ルピー(約800円)を出し、山を登り始める。
 アジャンタには紀元前2〜紀元後7世紀にかけて穿たれた合計28の石窟寺院がある。地理的に入り組んだところにあり、仏教が廃れた後には現地でもずっと忘れ去られていた(それだけインドは広いということ)。19世紀にトラ狩りをしていたイギリス人が偶然発見し、今日の脚光を浴びるに至る。1000年以上誰も近づかなかったことから彫刻も破損せず、美しい壁画が残っている。インド政府は壁画を化学処理したり、崩れそうな部分の保安作業をしたりと、各所で修復作業中だった。
 それにしもまず、これだけの岩をよく掘り出したものだということに感心する。ガチガチの岩を切り出し、当然人力で少しずつ少しずつ運び出す。いったい何年の歳月を費やしたことだろう。それから壁に緻密な彫刻を施していく。崩してしまったら代えがきかないところを、じっくり、細心に掘っていったのだ。そしてそこに生活する仏教僧。確かに涼しいし川もすぐ下を流れているが、食料は遠方から調達してくるしかない。想像を絶する作業を支えた、仏教への信仰心が今もなお肌で感じられた。
 石窟にはたいてい中央奥に1体、大きな仏陀が鎮座している。顔立ちは厳しかったり優しかったりさまざまだが、暗闇の中にひっそりとたたずむ威厳や風格は心を打たれる。それを囲むように菩薩や諸天部が居並んでおり、その大きさにまた異次元に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。異次元というよりはむしろ、仏国土というべきか。
 28の石窟をひとつひとつ見ていくと、休憩もそこそこに普通に回ったつもりなのに3時間かかった。2月とはいえ30度を超える日射はかなり堪える。陳先生と楊先生は水などをちゃんと用意してきたが、私は空身だったので飲まず食わずで我慢するしかなかった。3月以降になってもっと暑くなったら、きっともつまい。見終わったのが正午過ぎ、頂上バス停近くのレストランでターリー(定食)を食べ、水を飲む。ここにも日本人の団体客がいた。年配の方もいたが炎天下の中、たいへんだっただろう。
アジャンタ石窟・涅槃像 観光客のほとんどはインド人である。だがホリデーリゾートのウェイターが言っていた通り、外国人とおぼしき中では日本人が圧倒的に多い。バックパッカー風の若者、団体旅行の年配客、カップル。バス停で寄ってくる売り子がもっているパンフレットには、英語のほかに日本語のもあるし、売り子も日本人だとわかると「コンニチワ!」「ミルダケ!」「ヤスイヨ!」と日本語を連発してくるのもこれで納得できる。だが日本人同士であっても、旅の情緒を大事にしたいせいかあまり話しかけないようだ。私が挨拶してみると、夢から醒めたような顔でこちらを見てくる人が多かった。
 さて昼食をとるとまたバスに乗ってふもとへ。土産物屋には目もくれず一行はもうひとつの石窟寺院であるエローラに向かった。ちなみに土産物屋にはざっと見た限り、宝石の結晶だとか、ガリガリに痩せた仏像だとか、民芸品風のバッグや帽子などがあった。ふもとでも食事を取ることはできる。アジャンタからエローラまでは1時間ちょっと。暑さと歩き疲れで再び眠り込んでしまう3人。陳先生は助手席で運転手に何度ももたれかかっていた。外の景色は大きな山と、広いステップ。民家が一軒も見えないなかをタクシーは飛ばす。
 エローラに着いたのは午後3時。こちらはアジャンタの後に作られたとされており、大乗仏教も後期となって密教色の強い彫刻が多い。なまめかしい女性の彫刻がずらりと並んでいたりする。そしてもうひとつの特徴は、ジャイナ教、ヒンドゥー教寺院が並存していることだ。仏教が廃れた後も、同じ場所にヒンドゥー教、ジャイナ教徒が寺院を作り続け、10世紀までに34の石窟が作られた。仏教のものはそのうち12を数えるに留まる。
 入場料はもっとも大きいカイラーサナータ寺院(ヒンドゥー教)に入るときにのみ必要で、仏教寺院を見るのは無料。無料の分、手入れもあまり行き届いておらず、あちこちでかけた仏像が散見された。とはいえ要所要所に政府に雇われた管理者がいて、いたずらしようとする子供や若者に注意したり、掃除をしたりしている。身なりから給料は決して高くないだろうと推察された。「この道の先には何もない」という人がいたが、あれは係として雇われているのか気になった。
エローラ石窟・ストゥーパと仏像 エローラの石窟寺院は数こそ少ないものの、ひとつひとつがやたら大きい。ヴィハーラ(僧侶の住居)窟としてはインド最大のもの、3階層のマンションのようになっていて一室一室に仏像が安置されているものなど、規模の大きさはアジャンタをしのいでいる。急峻な山の上にある他の石窟寺院と比べて、エローラはなだらかな山の上にあり、石工たちも集まりやすかったのだろう。足の疲れも気にならず、ずっと見て歩いて3時間。アジャンタと同じ時間を費やして見られたのは、仏教寺院だけだった。
 見ごたえは確かにあった。圧巻は3階層のマンションの最上階にある仏像群。1体3メートルほどの仏像が、数え切れないほどずらりと並んでいる。その前を合掌し続けて歩く。正面の本尊は鍵がかかっていたが、係の人が開けてくれ、中をロウソクで照らしながら案内してくれた。中央に釈尊、両脇に弥勒・観音菩薩、そのまたとなりにたくさんの菩薩が並んでおり、暗闇からぬっと浮き出てくるさまは荘厳そのもの。さらに裏側にはプラダクシナー(右回りの礼拝)用の通路まで掘られてあった。そこを腰を低くして通る。本尊の前には悪魔にまたがる小さな仏像も彫られていた。なかなか芸が細かい。
 見終わるともう6時で、カイラーサナータ寺院も閉まっている。ジャイナ教寺院、ヒンドゥー寺院まで見るには、時間だけでなく体力もそれほど残っていない。シヴァが祀られているヒンドゥー寺院だけちょっと見て、休憩を終えると帰途に向かった。エローラからアウランガバードまでは小一時間。タクシーの運転手もようやく仕事が終わるとあってか、「アウランガバードの運転は道が混んでて難しいんだぜ」と軽口になる。リキシャー・自転車・歩行者が所狭しと行き交うインドの都市では、どこでも車の運転はたいへんだろう。
 陳先生は「チかれた」と笑顔で話しかけてくる。私は「太累了(とても疲れた)」と返す。楊先生も調子に乗って「日本人のみなさん、私はヤンです」などと言い始める。しまいには中国語・英語・日本語を入り混ぜて3人でワイワイ。一人旅にはない楽しみが、旅行中の会話である。
エローラ石窟・仏陀マンション 帰りのバスは午後8時発のものを予約できた。料金は160ルピー(400円)と高めだが、帰りも出発は11時30分だと思っていたので時間が早まったことにほっとする。軽い夕食をとって、やってきたバスに乗り込むとなんと寝台バスであった。どおりで運賃が高いわけだと喜んだのもつかの間、なんと1寝台に2人寝なければならないことが分かる。これはつらい。楊先生とうなぎの寝床のようにして寝る。狭い。しかも道路のデコボコでまた揺れる。痛い。そしてどんどん冷え込んでいく。おまけに咳まで出始めた。寒い…。山形・東京・つくばでどういうところに寝てきたかが走馬灯のように駆け巡る。
 生きた心地がしないまま、何となくウトウト。楊先生の背中が温かかったのが助かった。プネー着は午前2時ころ。もうこれ以上乗るのは我慢できないと思い始めたころにやっと到着した。このバスはそのままムンバイまで行くので、降り遅れるとたいへんなことになる。一番後ろの席でもあったので降りるのにモタモタしていたが、陳先生たちが車掌に言ってくれたお陰で無事降りられた。旅の連れ合いはこういうときにありがたい。
 そこからリキシャーに乗って、家に着いたのは午前3時前だった。プネーの夜もまた非常に寒い。バスの中で冷え込んでいた上に、リキシャーの風に当たってしゃべる気力も失せていた。家は存外暖かく、九死に一生を得る思いであった。次の日、目が覚めたのは昼の12時である。
 心身ともにリフレッシュできたというのは偽らざる心境だ。だが今回の旅行は、インドの暑さと寒さがいかに厳しいか身にしみて経験するものとなったのも確かである。これでは体調を崩しても仕方がない。水と多めの上着。今後これほど無茶な旅行をするとは思えないが、よく覚えておきたい。

不可触民

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『不可触民と現代インド』 山際素男著、光文社新書123

インドの悪しき身分制度として名高いカースト制度。カーストとは15世紀にインドを訪れたポルトガル人がつけたもので、インドではヴァルナと呼ばれる。僧侶・司祭階層のバラモン、王侯・戦士階層のクシャトリヤ、商人階層のヴァイシャ、これらの階層に仕えるシュードラ。これらはさらに無数のジャーティという職業集団に分けられる。そしていずれのカーストからも弾き出された不可触民層がいる。

上位階層は3000年前に北インドに侵入したアーリア人の末裔である。アーリア人はインダス文明以来のインド先住民族ドラヴィダ人を征服して、奴隷とした。それ以来、インドは少数の支配階級が政治・宗教権力を手中にし、強固な身分制度をもって君臨してきたのである。ここまでは高校の世界史でも習う知識だろう。

アーリア人は低い身分の男性が台頭してこないよう、結婚は男性のほうが女性より身分が高くなければいけないというアヌローマという制度をしいた。身分の高い階層の男性はどの階層の女性とでも結婚できるが、低い階層の男性は自分の階層以下の女性としか結婚できない。

こうして現在も全人口のわずか15パーセントが残り85パーセントを支配しているという状況が続いている。バラモンは教育関係、クシャトリヤは軍事・政治関係、ヴァイシャは商業関係を独占し、残りは低賃金での労働を余儀なくされる。当然貧富の差も大きい。特に不可触民は触るだけでなく見るだけでも不浄とされ、インド社会から差別され続けてきた。清掃や汲取りなどの社会に重要な役割を担っていたにもかかわらず、お寺にお参りすることすら許されなかったのだ。

今、彼らがインドを変えるべく立ち上がっている。その精神的支柱になっているのが、仏教だ。仏教は全ての人間の平等をうたい、貧困にあえぐ人々に手を差し伸べてきた。不可触民出身でインド憲法を作ったアンベードカルという人物が指導者となり、その遺志を日本人僧の佐々井秀嶺という人物が継いで、現在ではすでに人口の1割、1億人以上が仏教徒に改宗しているという。この本は彼らがバラモン支配体制に抗い、人権を勝ち取る闘争を描いている。

この話を読む中で、バラモン教がアーリア人の支配原理として作用してきたことを知る。ヒンドゥーの神々はアーリア人の絶対性を象徴するものとして君臨し、何人もこれに逆らうことを許さなかった。ヴェーダや法典も、アーリア人を中心とする社会の秩序を説き、その真理が永遠に変わらないことを強調している。インド哲学の根底にある「真理は自明である、変わることはない」というのは、自分たちの支配を正当化する方便になっていたのである。

それを考えると、バラモンの支配原理となってきた哲学を研究することに疑問も生じてくる。「不変の真理」のもとで3000年にも渡って苦しんできた人々がいること。そして彼らの闘いはまだまだ終わっていないこと。私はなぜインド哲学を学んでいるのか、一から考え直さなければならないようだ。

健康

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本日の夕食近所のゴーパールさんというお宅を日本人から紹介してもらい、今週から夕食は弁当になった。

ダヴァと呼ばれる段重ねの弁当箱を家にもっていくと、奥さんがつめてくれる。野菜料理2品、スープ、チャパティ、ご飯という内容で、野菜料理とスープは日替わりだ。自分の家で食べる料理を多めに作って分けてくれるので、塩分は少な目で美味しい。日曜日を除く毎日の夕食を作ってもらって、月々300ルピー(750円)ぐらいという価格もありがたい。日本だったら一食分の値段だが、レストラン通いだと800ルピー(2000円)は下らないだろうから、お金の節約にもなる。

弁当をつめるときに「バース(もういい)?」と言いながらつめるのだが、こちらが「バース(もういい)」と言ってもさらにひとさじ余計につめてくれるので、いつも大盛りになってしまう。あっさりしているから胃もたれはしないものの、あまり食べ過ぎると太りそうだ。野菜料理ではナスやキャベツの煮物(味付けは全部カレー味)が特に美味しい。

さて、日本にいるときから咳が止まらなくて困っていた。寒くて乾燥した空気のためである。インドに来れば暖かいから治るだろうと高をくくっていたが、いかんせん空気が悪い。朝は家の前のスラムで煮炊きしている煙、道に出れば排気ガスだらけ、大学に行けばゴミ捨て場のゴミが燃えている。普段なら気にならないのだが、敏感になっているとたちまち咳が出る。その上インドに来てから久しぶりに会う人と話すことも多く、喉もやられる。夜も目が覚めてしまうありさまでつらかった。

日本では出発直前に医者に行って気管支拡張剤をもらっていたが、あまり効き目がない。ゴーパールさんの家に弁当をもらいに行ったとき、家の中でお祈りをした後の線香の煙でゲホゲホ咳き込んでいた。それに見かねたゴーパールさんが、医者を薦めてくれる。下の階に住んでいる電気屋も、同じ医者の名前を言っていたので、評判はよいだろうと思って行ってみた。

インドの開業医は、午前中と夜に診察していることが多い。午後は暑くて客足が少なくなるので、昼寝タイムとなるようだ。夜の8時に行くと待合室は結構混んでいた。受付では保険があるかも聞かれずしばらく待つ。30分ほどして診察となった。

机の上には使い終わった注射器があり、それを見て注射だけは勘弁してもらおうと思う。診察は英語で行われ、喉を見たり、聴診器を使ったりすると、処方箋を書いてくれた。これで70ルピー(175円)。薬は近くの薬屋で130ルピー(325円)。あわせて500円で全部済んだ。保険もないのにこの価格は安い。薬の内容は抗生物質、咳止め、眠り薬、シロップの4種類。

インドの医学は進んでいると言われるのであまり心配は要らないが、薬の強さはインド人仕様。早速薬を飲んだその日は、眠くなったばかりでなく腕の感覚も鈍るという強い作用だった。おかげで夜もぐっすり眠れる。咳の数は確実に減ったが、今のところ薬で無理やり押さえつけている感じ。早く治ってほしいものだ。

自転車(2)

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自転車(2台目)昨年一時帰国する直前に自転車が盗まれてしまった。2つ鍵をしていたのだが、もうひとつがチェーンが緩かったらしく、見事に縄抜けされていた。アパートの駐車場には警備員がいることにはいるが、夜は家に帰ってしまうのでどうしようもない。となりのお姉さんはスクーターを盗まれたことがあるという。

自転車泥棒は東京でもよくあることだが、こちらでは重要な移動手段なのでなくなると結構つらい。大学まで自転車なら10分で行けるところを歩いて25分。リキシャーに乗りたくもなるというものだ。ちなみにリキシャーで行くと5分、35円くらいだが、時間帯によってはリキシャーがつかまらないこともある。

そこでインドに戻って最初にしなければならなかったのは自転車探しだった。幸いにも下の階に住んでいる電気屋のオヤジが余っている自転車を譲ってくれることになり、700ルピー(1750円)で入手。ふっかけられたような気もするが、近所づきあいもあるので仕方あるまい。

今度の自転車はマウンテンバイク系。タイヤが太くて安定感があり、でこぼこ道もへっちゃらで、パンクもしづらいようだ。ただ、これまた相当年季が入っているものなので、問題もない訳ではない。

一番大きな問題は、ブレーキが左(後輪)しか付いておらず、なかなか止まらないことだ。急ブレーキをかけるときは両足も動員しなければならない。それでも制動距離は5メートルぐらいある。とっさの場合は止まるよりもよけることを考えなければならない。

したがってスピードもあまり出せないわけだが、スピードをある程度出すとチェーンがなぜか外れるようになっている。チェーンが外れるとペダルをこいでも進まない。停まってチェーンをかけなおさなければならない。行き届いた配慮?である。

今度は盗まれないようにしっかりチェーンをかけているが、どうなることやら。

映画(4)

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ロード・オブ・ザ・リングロード・オブ・ザ・リング(ネタバレなし) 3部作の完結編。第1部・第2部と何とか毎年見てきたが、今年は日本で見られないことになった。しかしこれほどの映画ならインドでも上映されるだろうと思っていたら案の定、近くの映画館で上映されていた。時間を新聞で確認して、自転車で見に行く。
 インドでアメリカ映画を見るのは初めて。戸田奈津子の日本語字幕はもちろん付かないが、かえって映像に専念できるだろうと安心していた。第1部は、日本語字幕を読むのに気を取られてディティールまで見切れず、映画館に2回行ったものである。

 ところが始まってびっくり。何と中国語の字幕が入っているのである。これが気になって仕方ない。ミスター・フロドは「弗拉多先生」、サムは「山姆」、メリーは「梅里」、ピピンは「比平」…何だか中国映画のようだ。アルウェンが“I choose mortal life.”というくだりは「我選択凡人的生活」となっていて、感動的な場面で独り笑ってしまった。

 そしてインドの映画館のしきたりとして途中で必ず休憩が入る。客はポップコーンやアイスクリームを買いに行く。映画館の思惑通りといったところだろう。インド映画は休憩が入るように作られているが、アメリカ映画にそんなところはない。場面が切り替わるところでブツ切りだ。もっとも、いくつかの場面が同時進行する今回の映画ではそれほど気にはならなかったが、K氏によると「ラストサムライ」のいいところでIntermissionが入ったのはつらかったと言う。

 3時間というインド映画と同じ時間だったが、あっという間に過ぎた。第1部、第2部から続いていた暗い場面が第3部の終盤まで続くので、最後のカタルシスはものすごいものがある。インドらしく最後のいいところで隣の人の携帯がなったり、あまつさえ前の人が携帯で話し始めたりしたが、さほど気にならなかった。日本と比べると映画の音量が大きく、多少のおしゃべりならかき消してしまう。

 冒険映画ということでラブストーリーは控えめになっている。その埋め合わせなのか分からないが父と娘の場面が少なくない。そういう場面が来るたびにぐっと来てしまうのは、日本にいる娘を思い出してしまう私だけかもしれなかった。

女神

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 プネー周辺の寺院めぐり。寺院といっても仏教ではなく、小島さんがこれまでに調査した土着の神様たちが祀られた寺院である。

 プネーは何といっても顔が象の神様ガネーシャの信仰が盛んだ。街のあちこちにガネーシャの祠があり、大きなお祭もある。だが、プネーから一歩外に出るとヒンドゥー神話に出てこないような土着の神様たちが信仰されている。小島さんがそこに目をつけていろいろ下調べをし、10箇所近くのお寺や祠を巡った。

 こういった神様たちはくりっとした目とオレンジ色に塗られた体に特徴がある。たいていはちょっと変わった形の石からできており、彫刻などはなされていない。その飾りっ気のなさが素朴で心温まる。

 今回一番大きかったのがマソーバー(モサビ)寺院の本山というところ。バラモンがマントラを唱えながら皆でご神体にスプーンで水をかけていた(写真)。この後まもなくして、正午のお祈りの時間となる。人がたくさん集まってくると、バラモンがマイクでマントラを唱え始める。皆は思い思いに手を叩いてお囃子。そのうち全員がその場でくるっと回転したと思ったら、正面から皿をもった人が出てきた。皿の上では火が燃え盛っている。皆はこの火に殺到し、手をかざして頭に頂いていた。

 いったいこのマソーバー神とは何なのか、お寺の人に聞いてみるとシヴァ神の化身だという。確かに正面にはシヴァ神を讃えるサンスクリット偈が掲げられており、寺院の2階にはシヴァ神の像がもあったが、何となく後付けくさい。K氏とあれこれ推測したが、この地方で昔から信仰されていたマソーバー神に、信者獲得や時代のトレンドからシヴァが割り当てられたのではないかと思う。他のところでも、土着の女神像にお参りをしている人が「これはパールヴァティー神だ」と言ったりしていた。

 仏陀もヒンドゥー教徒にかかればヴィシュヌ神の化身だ。インドにはたくさんの神様がいるが、その実はひとつの神様がいろいろな姿をとっているのだという考えをよく聞く。日本の八百万の神とは発想が異なる。以前ホームステイしていた家族によると、神様は本当は目に見えないものであり、それが人間の前に現れるときに、さまざまな姿をとるのだという。ブラフマンを人格をもつ宇宙原理としたヴェーダ以来の一神論的な傾向が息づいているようだ。

 寺院はもちろん、どんな小さな祠でもお参りする人があとを立たない。家族連れで来ている人たちもいる。インド人の信仰深さを再認識した小旅行だった。

流暢

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弁論大会第16回西インド地区日本語弁論大会に質問係として参加する。

 この大会は全国大会の地方予選を兼ねる。地方予選はほかに東インド・コルカタ、南インド・チェンナイ、北インド・デリーで行われ、各上位入賞者が全国大会に進む。全国大会の優勝者には日本旅行がプレゼントされるという。近年の日本語熱で大会参加者のレベルも上がっているようだ。

 この大会は地元に住む日本人が審査員というかたちで協力しており、日本人会の伝手で私にも役目が回ってきた。質問係とは、弁論が終わった後でその内容について質問をして、発表者の即興的な会話能力をそれとなく試すという仕事。記憶力では世界に名高いインド人のこと、中には日本人や日本語の先生が書いた文章を丸暗記して大会に臨む人もいる。そこで本当に自分の言っていることを分かっているのか、チェックする必要があるというわけだ。

 この質問というのが、やってみてなかなか難しいものだと分かった。「○○という言葉の意味が分かりますか?」などというあからさまに人を試すようなことを言って追い詰めてはいけない。また発表にあまりに関係のないことを聞いてもいけない。質問が難しすぎてもいけないし、簡単すぎてもいけない。発表が終わったばかりの人を励ましつつ、日本語の運用能力をさりげなく試す。そのためには発表内容をよく把握し、しかも発表者に応じた細やかな心配りが必要となる。

 発表の間ずっと言葉を注意深く聞きながら同時にどういう質問がいちばん効果的かを考える。試験は要らないという話をした人に「試験がなかったら、どうやってみんなが勉強すると思いますか?」、迷信の話をした人に「インド人が神様を信じるのは迷信だと思いますか?」、微笑は大切だという話をした人に「あなたが最近微笑みかけた人は誰ですか?」…などなど。発表者は22人。持ち時間はひとり3〜4分で、質問時間が2分。後半は頭が朦朧としてきた。

 ジュニア部門で優勝した人のテーマは「戦い」。スポーツの例を挙げながら、戦いは自分を伸ばすという話だった。質問では「戦いには国と国の戦いもありますが、戦争は必要だと思いますか?」とつっこんでみると、「自分の国だけが得をするための戦争はいけません」という見事な回答。日本人は「戦い」という言葉を好まないことは、後で発表者に伝えた。彼はイラク派兵で国会が紛糾したことも知っている様子だった。

 シニア部門で優勝した人のテーマは「消しゴム」。失敗してもくじけずに将来のチャンスを待てば、それが消しゴムとなってそれまでの失敗は帳消しになるという話。斬新なアイデアだ。「消しゴムには四角いものもあれば、丸いものもあります。」などずっと消しゴムそのものの話だったのでいったいどうなることやらと思ったが、最後に人生の失敗にまで広げてうまくまとめた。ただ、途中で「消しゴムがなくても人生何とかなる」というような話になったのでクエスチョンマーク。質問は消しゴムが必要なのか否か聞くため、遠まわしに「あなたはこれまで消しゴムで消したいと思ったことはありますか?」答えは「あるけれども、将来のチャンスが消してくれると思っています」という穏当な答え。自分の失敗談を進んで言うようなことはさすがにあるまい。

 審査員は全員日本人。私は質問に専念して審査には入らなかった。質問と審査の両方をするのはたいへんだから分業しているのだという。審査よりも質問の方がたいへんだったねと、後でたくさんの人に慰労していただいた。そこで思ったのだが、審査が絶対評価(ひとりが終わるごとに採点表を回収)だったので、結果的に序盤不利だったと思う。審査員の中に審査基準が形成される前に審査されてしまうからだ。ジュニア部門の前半は粒ぞろいだったのに、ひとりも入賞しなかったのは納得がいかなかった。ましてや序盤は緊張度も高く、何かと不利だ。終了後に審査会議を行うべきだったのではないかと思う。

 終わってから会場を移して入賞者と夕食会。こんなに熱心に勉強してもらえるなんて、日本語を母語とする私にはとても感激だったし、誇りにも思った。彼らの前途が開けていくことを心から祈る(写真提供:竹内氏)。

プネー再訪

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 昨年暮れに帰国してから1ヶ月半ぶりに戻ってきた。日本ではお寺の行事に追われ、寒さと乾燥のせいか咳が止まらなくなる。帰国する前日に医者にかかって軽い喘息という診断。気管支拡張剤を携えてのインド行きとなった。インドはもう初夏の陽気で咳も収まりつつあるが、排気ガスもうもうで空気の悪いところには極力行かないようにしている。



 前回のエアーインディア機に懲りて今回はJAL便にした。成田空港からデリーまで直行で9時間半。バンコク経由のエアーインディア機と比べると混んではいるものの、早くて快適だ。このルートはデリーで一泊し、翌日朝に国内便でプネーに向かうため、到着はやや遅れる。それでも宿で約12時間休むことができ、疲れが翌日に残らないのですぐ仕事を始めることができた。国内便が2時間も遅れるのは想定外だったが。


  • エアーインディア便
    成田―バンコク―デリー―ムンバイ―(乗合タクシー)―家
    ○安い、翌日早朝に着く ×寝る時間もなくずっと移動
  • JAL便
    成田―デリー(ホテル泊zzz...)―(飛行機)―プネー空港―(リキシャー)―家
    ○途中でゆっくり休める ×高い、着くのがやや遅れる



 インドの国内線エアー・サハラでは、このところ乗客プレゼントキャンペーンが行われている。この仕組みが面白い。


  • 賞品カタログを見てAコース(2000ルピー)、Bコース(1000ルピー)、Cコース(500ルピー)からひとつ選ぶ。
  • ほしい賞品と賭け金額をカードに記入して提出。
  • コースごとに賭け金額を多く書いた人から希望の賞品をゲットできる。
  • 賭け金は実際に払わなくてはならない。ただしこれは基金を通して社会福祉に役立てられる。

 Aコースの賭け金額は最低2000ルピーだが、賞品は4000〜5000ルピー相当のものが用意されている。同様にBコース1000ルピー、Cコース500ルピーについても賞品は賭け金の最低額よりずっとよいものになっている。ただしこれはあくまで最低額。賞品をゲットするにはいくらか高い額を記入しておかなければならない。最低額と賞品定価の間でどの額にするか考えどころ。もっとも、ほかの乗客の賭け金との比較で決まるのだからどうしようもないところがある。ゲーム感覚だ。
 このような少々ややこしいルールをわざわざ作ってキャンペーンをやっているところを見ると、煩雑な手続きを好むインド人の性格が分かるような気がした。



 プネーに戻った当日はまず大学に行って時間割を確認したり先生と個人授業の打ち合わせをしたりする。先生方は授業が始まって忙しくなっており、個人授業再開の目途はしばらく立たない模様。電気代、電話代、家賃の払い込みを済ませればまた普段の生活が始まるが、自習の時間がまた増えそうだ。何のためにインドにいるのか分からなくならないように、新しい先生を探したり、写本調査の予定を立てたりし始めている。



先日のカラオケで、ひんぱんに入荷情報が入っていて歌いたくなってしまったので購入。「合法的にモノを壊す」という期待を裏切らない爽快感。一方、一緒に買ったNo Planは全くダメだった。歌が少ないし、内輪だし、ひねりがない。

ゲラゲラ

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「21世紀の仏教を考える会」でお坊さんに一般から寄せられた要望のひとつに、「お葬式のとき控え室でゲラゲラ笑わないでほしい」というのがあった。法要の最中だけ神妙な顔つきをして、控え室に戻った途端バカ話。遺族がいかに悲しみにくれているか、そこに対する想像力が全くない。
過日近くのお寺の住職がなくなり、今日は火葬の日。集まったお坊さんたちは法要が終わるとはたして、ゲラゲラ笑い話を始めた。遠巻きに見ながらヒヤヒヤ。

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