おの: 2004年3月アーカイブ

極小旅行

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各駅停車 インドには年度末がない。大学の授業は2月ごろから始まったかと思ったら1ヶ月半で終わり、今はどこも試験期間中。4月に試験が終わると、あとは8月まで長い夏休みになる。

 しかし私のように個人的に先生に習っている身では、夏休みのほうが先生の時間が空くだろうと楽しみにしていたら、昨日ジャー先生から5月は忙しくて時間がないと言われた。ジャー先生は普段も忙しいが、夏休みになるとインド各地で行われる集中講義に行かなくてはならず、さらに忙しくなるという。

 5月の連休(インドは連休ではないが)に短期間の帰国をするという話をすると、そのまましばらくいて6月に戻ってきてはと提案された。インドで一番暑い5月に、授業もなく家でぼうっとしていることを考えたら、その提案は悪くない。

 というわけで先日予約したばかりの航空券の変更をしに旅行会社に行く。日本航空ムンバイ支店から紹介された旅行会社はプネーの中心部にあり、家から10キロほどもある。リキシャーで125円(リキシャーは1キロ13円ぐらい)というのはかなり高い。

 航空券の変更が終わって近くにある本屋に立ち寄った後、お昼過ぎだったので美味しい店でもないかと歩いてみる。するとマクドナルドの看板を発見した。「5 minutes」と書いてある。

プネーにはマクドナルドが2件しかない。日本ではどこにでもあるものが、こう少ないと希少価値が出てくるというもので、チキンバーガーを食べたくなった(インドなのでビーフはない)。看板をたどって歩き始める。角を曲がると看板は「3 minutes」になっていた。

 しかしそこからは行けども行けども、マクドナルドが見つからない。途中で道を聞くと知らないのにでたらめなことを言ったおじさんがいて、もと来た道を戻ったりもした。そのうち道端でパーン(ミントや消石灰を混ぜた食後の口直し・まずい)を食べていたおじさんが「今そっちにいくところだから乗ってけ」と言う。

 そこからスクーターの後ろに乗って行ったが5分ぐらいかかった。歩いたら15分以上かかりそうだ。その間に看板は全くない。「3 minutes」というのは車でということだったのだろうか。

 ようやくマクドナルドにたどり着いた。INOXという映画館の1階に入っているところで、全体に冷房がきいており涼しい。マックグリル・バリューミールを食べた。ちなみにビッグマックは「マハラジャマック」になっていた。

 後は帰るだけだが、せっかく中心部に来たのでいろいろ見て回ることにする。持ってきた地図を見るとプネー駅が近そう。駅まで行ったことがなかったのでどんなものか行ってみた。

 駅は思ったほど大きくなかったが、人の多さが壮観。地べたに寝転がって昼寝している人たち、ホームで信じられないような長さの列を作って待っている人たち、券売所に殺到する人たち、軍人さんの一団。警官は物騒な鉄砲を持って雑談している。

 時刻表を見ると、ちょうど家の近くを通る各駅停車ロナワラ行きが20分後に出るところだった。チケットを並んで買ってホームに行き、列車に乗り込む。わりあい空いているなと思っていると「レディース!」という声、そこは女性専用車両だった。隣の普通車両は結構込んでいる。

 列車は驚いたことに定刻に出発した。扉全開で走るので、扉付近にいると風が涼しい。特に鉄橋を渡ったときの風はさわやかだった。肩をどついてくる人がいるので振り向くと車掌だった。簡単に偽造できそうな紙にスタンプを押しただけの券を見せる。

 乗ったのはたったの2駅。料金も13円である。改札はないから、駅のどこから出てもよい。そこからリキシャーに乗ったら、近すぎて10円くらいぼられた(10円をぼられるというのかわからないが)。

 15分ぐらいの小さな小さな鉄道旅行だったが、インドで鉄道に乗るのは初めてでもあり、楽しかった。これ以上長いとつらいぐらいだったかもしれないが、買ってきた時刻表を見たら、プネー発デリー行きは特急でも28時間かかることがわかった(飛行機なら2時間)。ジャンムーやヴァラナシ、ブパネーシュワルなど、信じられないくらい遠いところまで直行列車が出ている。途中の駅もほとんど聞いたことのない名前ばかり。まるで銀河鉄道のようだ。

 しかしどんなに遠くに行くにも格安の鉄道は、予約の手間がたいへんであることを差し引いても魅力的な手段であり、インド人の足となっている。今日もたくさんの人の夢を乗せて列車は走る。インドにいるうちに、長距離旅行をしてみたくなった。

 インドでは、パソコンが壊れやすいと言われている。

 その一番の原因は電圧の乱高下と停電の頻発で、物価が10分の1のインドでも日本と同じ価格のパソコンに、インド人も電圧安定機と非常用バッテリーで対策を立てている。インドに留学していた先輩からも「使わないときはプラグを外す」など、口を酸っぱくして言われた。

 私は停電になっても何時間かもつノートPCなので、高価なバッテリーなしの電圧安定機だけで済ましている。そのPCが突然クラッシュ。作業中にフリーズしてそのまま起動しなくなったのである。電圧のせいではどうもないようだ。

 起動するとハードディスクがガリガリと奇っ怪な音を立てるが、ウィンドウズは立ち上がらない。その読み込もうとしている音がまた耳障りで、2,3度挑戦してすっかり観念した。その夜は、どこまでバックアップを取ったか必死に思い出しながら、冷や汗にまみれてなかなか寝付かれなかった。

 さて、東芝のダイナブックには1年間の海外保証がついており、インドも対応していたのがこのパソコンを選ぶ大きな理由だったが、藁をもすがる気持ちでその海外保証を頼むことになろうとは、あまり想像したくなかったことである。翌朝、国際電話で日本の窓口へ電話した。

 窓口の方はとても親切に対応してくれたが、いかんせんここはインドである。まず現地の修理会社を選定しなければならない。いきなりバンガロールとか言われても、パソコンを担いで飛行機に乗るのは嫌だ。インドの宅配便や小包郵便は、どうしてもパソコンを任せる気になれない。

 さらに修理会社が決まってもまだ関門がある。部品は日本から送るということで、税関でストップしたりすると何日かかるかわかったものではない。5月の連休に一時帰国したときに修理に出したほうが早そうな気がしたが、連休前後の日本は半月ぐらいかかるとのことでこれも無理。

 ただひたすら待つしかないことを悟る。することのなくなった翌日はロード・オブ・ザ・リングの2回目を見て、翌々日はビールを一人でかっくらって寝た。自棄酒・自棄映画というわけだ。ロード・オブ・ザ・リングはもう客があまり入らなくなったので正午過ぎから入場料100円ポップコーンつきで上映していた。

 しばらくは家で本を読んだりしていたが、暑くてしかたがない。そこで近くのネットカフェに通い始めた。1時間50円でISDNの上に、冷房も入っているので午後や夕食後に行くのが日課となった。そのうち日本語IMEが入っていることに気づき、日本語でメールやホームページ更新、さらには勉強までし始めた。近くに結構韓国人が住んでおり、彼らが韓国語IMEをダウンロードするとおまけで日本語が入るらしい。

 その一方で、パソコンを何とかする方策も別に模索していた。幸いなことに、一緒にサンスクリットを勉強している日本人の?T氏に相談したところ、ひとまず見てもらえることになった。彼はコンピュータ業界に勤めたことがあり、ノートPCのハードディスクを交換したりもしているという。

 話を聞くと、ノート用の2.5インチハードディスクはインドでも売られており、互換性があるのでノートを分解して交換することもできなくはないとのこと。分解してしまえば保証対象外となるのは承知の上で、1日も早い復旧を望んだ。

 しかしハードディスクを交換する場合でも、セットアップCDが必要ということになる。当然といえば当然だが、交換したハードディスクには何も入っていないので、そこにウィンドウズをインストールしなければならない。違法コピーもガードが堅くなっており、仮に他の人のCDをインストールしようとしても動くかわからないという。

 セットアップCDは日本。そこで妻に電話をしてEMSで送ってもらう。金曜夜発送で、翌週の火曜日の昼には自宅に届けられた。CDが10枚以上ある上に、マニュアルも入って重量は1キロを超え、送料は3000円以上だったが、普通郵便でも何百円ほどの違いだったらしい。

 EMSを開けると、中には妻がちょこっと描いた娘の似顔絵が入っていて勇気付けられる。まずマニュアル通りに再セットアップを試みた。ガリガリ…ガリガリ…相変わらず奇っ怪な音である。再セットアップが始まって5分ほどしたところで、画面に変化が見られないのとその音に耐えかねたのとで中断してしまった。このハードディスクは壊れている、それが私の直感だった。

 しかし直感というものはあてにならないもので、I氏にパソコンとCDを託すと、一晩で再セットアップができたと言って持ってきてくれた。I氏の話では、ハードディスクに物理的な損傷が起こると、プログラムが別の箇所を選んで書き込み始めるそうな。賢いものだ。しばらく時間がかかったが、そのうち奇怪な音も消え無事再セットアップできたという。分解しないで解決したことは、とても嬉しかった。

 それでめでたしめでたしとなるはずだったが、もうひとつ問題が待ち構えていた。バックアップ用にとっていたCD−RWが変なのである。ごく最近書き込んだデータがなく、代わりに去年の暮れに書き込んだ古ーいデータが出てくる。これでまた冷や汗の眠れない夜を過ごすことになった。

 翌日はまたネットカフェに駆け込み、4台あったCDドライブ全てでどう読めるか試させてもらう。そのうち1台から、やや新しいデータが読み出せた。しかしそれでも最新版ではない。今度はK夫妻の家に行って試したが今度は1ファイルも読み出せない。大学に行って女子留学生専用のコンピュータを特別に使わせてもらったが同じ結果。

 CDドライブごとに読み出すファイルが違うので、まだ最新データが出せるCDドライブがあるのではないかと諦めがつかない私は、I氏を頼って彼の家に。彼のCDドライブでもダメだったが、彼には秘密兵器があった。ディスクのデジタルデータをしらみつぶしにスキャンしていくソフトである。さすがだ。

 しかしそのスキャンは想像を超える時間がかかるものだった。夕方5時ぐらいから始めて、結局終わったのが翌午前3時。200メガのデジタルデータを読むのだから仕方がないが、読み込むスピードが異様に遅かった。おそらく書き込み時のエラーのせいで読みづらくなっているようだ。ほかのCDドライブでも結果が違うのはそのせいらしかった。

 待つ間に外で食事をしたり、インド哲学論議を交わしたり、パソコン利用法を聞いたり、ドリフのコントの思い出話をしたりしていたのでずっと楽しかったものの、最後はもう眠くてしょうがなかった。もっとも、勉強を中断されて何時間も付き合わされ、挙句に帰り送ってくれたI氏の迷惑ははかりしれない。

 結局新しいデータは出てこないまま。でもその長い時間は、私をあきらめさせるのには十分であった。翌日は睡眠もそこそこに、気合を入れて復旧作業を開始できた。淡い記憶を頼りにデータを復旧していくのは時間がかかるが、1度やったところなので2回目となるとより多くのものが見えてくる。怪我の功名というべきか。

 バックアップはその日のうちに、自分宛のメールに添付して出した。サーバに残しておけばまたいつ壊れるともしれないパソコンよりは安心できる。CD−RWは懲りたのでメモリースティックでも導入しようかと考えている。

 今日はウィンドウズアップデート20メガ、インターネットセキュリティー更新に10メガなどでまる一日。日曜日はプロバイダ料金が課金されないが、電話代はしっかりかかる。その合間にI氏から教えてもらったLaTeXでサンスクリット文書を作る勉強。修士論文ではワード文書が何度も壊れて泣きを見たので、今度の論文はLaTeXでいきたい。

 夕方からは?T氏秘蔵のDVD『シベリア超特急』を鑑賞する。製作・監督・原作・脚本をあの水野晴郎が手がけたという、どちらかというとマニア系の邦画だ。1944年、ヒトラーとの会談を終えた山本陸軍大将(水野晴郎)は部下の佐伯大尉、青山外交官と共にイルクーツクから満州に向かうシベリア超特急に乗り込む。1等車に乗った軍人など10人の乗客は、次々と殺されていく。犯人は誰か? という話。台詞の7割が英語で、日本人も頑張って話している。列車が全く揺れない舞台セットを差し引いても、いい雰囲気を出していた。

 話は逸れてしまったが、これから部品がインドに届いたときどうするかが次の悩みどころである。インドの修理会社は奇跡的にプネーで見つかったが、バスで1時間以上かかるところ(バス代は片道20円だが)。しかし?T氏の話では一度傷がついたハードディスクは、傷が増えやすくなっており、また近いうちに壊れる可能性があるという。

 保証期間内で無料だし、今後のことも考えると交換してもらうことになるだろうが、またウィンドウズアップデートやらを想像すると気が遠い。今度帰国したときにADSL回線で一気に片をつけよう。その前に届くことを祈るばかりである。



暑さにはめっぽう強いと思っていたが、さすがに40度を超えるような暑さは未経験。インド人に「It's very hot!」というと「No, No, it is hot but not very.」という。夏のデリー、ヴァラナシなどは50度近くまで行くから、それと比べれば普通の暑さと。
日中は外を歩いていられない。3月にこれだけ暑いのは異常気象らしい。例年なら3月はせいぜい34度ぐらいで、40度を超えるのは4月中旬から1ヶ月ほど。
夕方になって日が沈みかけてからやっと外を歩き回る人が増えてくる。今日はアパートの1階に入っている床屋に行き髪を短くしてもらった。ヒンディー語で「chote se choti karo(できるだけ短くして)」という。カット・顔そりで100円。洗髪なし。
これまで見た一番簡素な床屋は、電柱に鏡をくくりつけてその前に椅子を置いただけの屋外床屋。けっこう繁盛していた。
狭い道で車とリキシャーがすれ違えないでいた。お互いずっとクラクションをならし続けてにらめっこ。そのうち、おじさんが車を誘導し始めたが、実に無責任な誘導で、リキシャーとすれちがう側をまるで見ていない。その上石に乗り上げそうになったところで真横にジェスチャーしていたが、車は横に進めない。
しばらくして無事すれ違い、車がこちらにやってきたが運転手は涼しい顔をしている。この光景に、後ろでひとり笑っていた。
夏はスイカがうまい。今日はメロンを発見。スイカが75円でメロンが25円とはどういうことかわからないが、両方で100円。冷蔵庫で冷やし中。
ネットカフェで日本語でメールを書いていたらとなりのおにいさんが話しかけてきた。サンスクリット語を習っていること、しかもバラモン教を勉強していることを話すとうれしそうに握手を求めてくる。サンスクリットとヒンドゥイズムは彼らの愛国心をくすぐるらしい。
ネットカフェに冷房が導入されていた。室外機を使わず、水を循環させて冷やす装置。なかなか涼しいので、日中からここに入り浸りそう。



先日初めて「ジャイ・ビーム!」と挨拶してくるおじさんに出会った。この挨拶は手を合わせながら言うと光線が出るわけではなく、インド新仏教の父、アンベードカル博士のファーストネームを取って仏教徒の挨拶にしているものだ。本で読んではいたが、このプネーにも仏教の波が来ていることに驚く。
※現在PCが壊れているため、「インド留学記」も当分はてなダイアリーを利用します。

サイト更新

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相変わらずネットカフェから。
 パソコンは直っていないが、WindowsXPで日本語入力ができることを発見。というわけで先週分を更新した。こういうときに限っていろいろニュースがあるものだ。
 ネットカフェの環境について。いちおうISDNらしいが、あまり早くない上にいきなりブレーカーが落ちることがあるので油断できない。こまめのセーブが必要。
 さらにすごく暑い。冷房が入っているネットカフェなど、こちらで見たことがない。扇風機が何台か設置されていて、あとは換気扇があるぐらい。今は1台、背中の後ろで大きいのが回っている。まあ、外はもう42度ぐらいあるので、それと比べればまだまだ涼しいのだが。
 利用料は1時間50円。家からも歩いて3分ぐらいなので毎日来ている。今日はもう4時間ぐらいいたことになる。
 メールも毎日読んでいるし、ちょくちょく更新していくつもり。バックアップを取っていなかったルール和訳、サイトのページが残念だ。まだ頭に残っているが、一から作り直すのはつらい。
 みなさん、データのバックアップはこまめに取りましょう。

PC broken!

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Yesterday my PC was hung up! Maybe HD does not work at all(a srange sound;;).
It takes much more time to be repaired in India. I am sorry, but I can not touch my pages for a while.
Neverthless I can read email in Japanese(at a cyber cafe). I wait for your email.

映画(5)

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ネパールの恋Love in Nepal(ネパールの恋)

ストーリー
 ムンバイの広告代理店で働くデザイナーのアビーはぐうたらで女好き。新しくやってきた女上司のマクシは時間も守らない上にしょっちゅう口説いてくる彼にいつも手を焼いていた。そんなとき、広告の撮影で一行はネパールに行くことになる。美しい自然が残っており、交通費も安く上がるという理由だった。
 アビーは夜にホテルで酔っ払って、ネパール旅行に同行していたサンディーを口説き、彼女の部屋に行く。そこで踊ってそのまま眠ってしまったが、朝起きると何と隣りでサンディーが死んでいた。警察の追っ手から逃げなければいけなくなるアビー。しかもマフィアが嗅ぎ付け、彼を脅してくる。マフィアの本部に行くが殺されそうになり、命からがら逃げ出した。こうして警察とマフィアの両方から追いかけられる破目になる。会社の同僚やネパール人ガイドが彼を助け、マクシと2人で幽霊屋敷にかくまわれる。
 屋敷まで追いかけてきたマフィアは幽霊を怖がっており、アビーはマクシと2人で幽霊の真似をして難を切り抜ける。そこにアビーを助けたネパール人ガイドがやってきたが、何と彼こそが殺人犯だった。サンディーに愛を告白したが取り合ってもらえず、かっとなって殺してしまったのである。
 ネパール人ガイドはサンディーを口説いた彼をなじりながら殺そうとするが間一髪、アビーは銃を取り上げてガイドを撃ち殺す。その後警察もやってきたが事件の真相は了解済みだった。

感想
 Love in 〜という映画はこれまでLove in Tokyo、Love in Goaが作られている。そのシリーズかと思っていったが、どうも違ったようだ。ポスターを見ると拳銃を持っているマフィアや、「第三次世界大戦勃発か?」という文句。明らかに甘い恋愛物語ではなかった。しかしバイオレンス映画かというとそうでもなく、途中の休憩直前にサンディーが遺体で見つかるまで物語は平和に進行した。
 休憩後はインド人が大好きらしい逃走シーン。そもそも自分が女たらしだったことが原因で起こった事件で、自分が渦中の人なのに、至って呑気なアビーのセリフに皆笑っていた。シリアスな場面にギャグを入れるのがこの映画の狙いなのかもしれない。
 筋はさておき、インド人が隣国のネパールをどういう眼で見ているか垣間見ることができたのが興味深い。ネパール人ガイドは殺人犯と分かるまでコミカルな役目だったが、同行していた代理店の男の役職が「マーケットマネージメント」と聞くと、「いいバザールありますよ」と言って笑わせる。ガイドが「顔がネパール人っぽい」と言うと、その男は鏡を見てえらく悩むシーンもある。ネパールのホテルのバーテンダーは蝶ネクタイなどしているがアビーが酒をがんがん飲むのを見て目をぱちくり。またマフィアの本部はアヘン窟になっていて気だるそうな若者たちがたむろしていた。こうしたシーンから分かるネパール人像は、田舎者、前近代的、無法者といったものだ。ネパール人が見たら怒るかもしれない。
 途中アビーのモンタージュが作られてしまうシーンがある。ホテルの従業員が前日酔っ払っていたアビーを見ており、スケッチの得意なアビーの女友達が頼まれて顔を描いているうちにそれがアビーであると気付く。そこでトイレから携帯でアビーに連絡を取るというところ。アビーが「中国人か、日本人に描き変えてくれ」というセリフ。インド人は笑っていたが、こちらはあまりいい気がしない。ヒンディー映画は本質的に娯楽映画であるがゆえに、外国人の貶め方はあからさまなのだ。
 事件が解決したところで踊って終幕となり、マクシとの恋も実ったのかよくわからない。セクシーなシーンも多いし、もしかしたら対象年令高めなのかも。これまで評判の高かった映画ばかり見てきたから分からなかったが、こういうのをB級映画というのかもしれない。

日帰りバス旅行

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スワルゲート プネー近郊のワイという街へ写本調査に行く。

 ワイはプネーから70km南にある小さな街。ここにプラジュニャー・サンスクリット学校というのがあって近隣の写本を集めている。その数1万2千本。いろいろなものがあるという噂をよく聞いていたので、大学を休んでK夫妻と3人で行ってきた。

 ワイ行きのバスはプネー南部のバスターミナル、スワルゲートから出ている。家から30分リキシャーに乗り、朝9時15分発のバスに乗り込んだ。バス時刻はインターネットで調べられるらしいが、結局窓口で確認しないと本当かどうかはっきりしない。

 バスが動き出すと車掌が料金を集めに来る。ワイまで40ルピー(100円)。常にほとんど満員の乗客だったが、途中の村々で乗り降りするので終点までずっと乗っていたのは少なかった。おじいさんおばあさん、学生、家族連れなどが乗っていてしばし旅情にひたる。

 ゴーゴー音がうるさい割にスピードがあまり出ないバスは、エアコンなど当然のようについておらず窓全開。バス停は10分に1回ぐらいあり、結局70kmを2時間以上かかって到着。ワイはプネーよりもさらに標高の高いところにあり、途中ひとつ山を越えていく。プネーよりもやや涼しい気がした。

 サンスクリット学校はバス停から歩いても行けるようなところにあったが、道が分からないのでリキシャーで行く。こじんまりとした建物で、自力で見つけるのは難しそうだった。早速、ライカルという秘書のおじさんにあいさつをして写本の話を切り出す。

 ところがおじさんの答えは「紹介状が必要」。大学の先生はそういうものは要らないと言っていたし、プネーの中で写本所蔵しているところもすぐにコピーを取らせてもらっていたし、プネーで本屋を営むサプレ氏が連絡しておいてやると言っていたので、この対応は意外だった。しかもプネー市内と違って往復5時間もかかるところである。目の前が真っ暗になった。

ワイ しかしこのまま引き下がるのも情けない。カタログを見せてもらって何があるかチェックし、続いてどういう手続きをするか聞いた。先生の紹介状を送ると、許可証が発行されるとのこと。書類のやり取りは郵送で行うことにし、あと1回だけ来ればよさそうな話になったので納得。いずれにしてももう1回来なければならないような予感はしていたので、諦めもついた。サプレ氏は結局連絡していなかったそうな。あのオヤジめ。

 というわけで用件は1時間ちょっとで終わり、とぼとぼバスターミナルへ。途中に大きなガネーシャ寺院があり、その前の川では洗濯をしたり、子供たちが水浴びをしたりしていた。自分たちが入りたいとは思わないが、プネーの川と比べれば格段に澄んでいる。この寺院と川がこの街の唯一の観光地らしい観光地だ。

 昼食を食べて14時30分のバスに乗る。帰りは3時間かかったが、うだるようなバスの暑さに眠りつつ大汗をかく。座席も狭いのでプネーに着いたら足がおかしい。K氏宅でスイカを食べ、その後レストランでビールを飲んだ。

 目的が達成されなかったというのもあるが、もう1回行くと思うと気が遠くなりそうだ。

ホーリー

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ホーリー 今日はホーリーという春祭りの日だった。太陰暦で期日が決まるので、毎年一定ではない。こんなに暑くなって春というのもなんだが、インドの春とはこんなものかもしれない。色のついた粉をかけあって騒ぐ。北インドの都市と比べるとプネーはおとなしいもので、しかも郊外ではあまり騒がしい感じはしない。それでも2,3日前から店頭で粉と水鉄砲(粉を水で溶いた色水をかける)が売られており、K君も子供に見事やられたというので家で大人しくしていることにした。

 窓から時々騒ぎ声が聞こえてくる。見ると美容院から出てきたばかりの御婦人にビルの上からバケツで水をぶっかけているところだった。ご婦人方は怒るどころか、キャーキャー騒いで笑っている。そのうちにまた一杯水をぶっ掛けられた。

 夕方になると隣りの夫婦がアパートの下で親戚か何かと粉をかけあって騒いでいる(写真)。ただかけるだけでなく、背中に入れたり頭にまぶしつけたり、とっても楽しそうだ。この親戚はわざわざ車に乗って粉遊びをしにやってきていた。

ホーリー 私が窓から覗いているとき、ちょうど下の階の窓からお姉さんの頭に水風船が直撃! 上を見上げたお姉さんと目が合ってしまう。「ナイーナイー!」自分がするのではないことを説明するのに一苦労。でも皆ゲラゲラ笑っている。不思議な光景だ。

 それから降りていってみると、お前もするかと言わんばかりに粉を持っている。これには辞退して、写真だけ取らせてもらった。道端で見ていると手や顔を赤くしている人が通っていく。若い人だけでなく、お年寄りも色がついているからおかしい。

 暑気払いという感じであろうか、これからの暑い季節を元気に乗り切りましょうというメッセージが感じられなくもなかった。

勉強

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哲学科 インドに戻って1ヶ月になるが、メインの教授であるジャー先生からは1度も教えてもらえなかった。

インドに着いたその日にすぐ(2月3日)行くと「18日までインド科学のセミナーがあるからできない」と言われ,半月後の18日に行ったら「Come
tomorrow !」と言われ、次の日に行ったら「インド経営学のセミナーがあるから3月9日から」と……。怒っても仕方がない。忙しくて時間がほとんどないのは事実だ。昨年のインド物理学あたりから、サンスクリット学とどれくらい関係があるのか?というようなセミナーが続いている。先生はインド全土から集まる教授たちの接待そのほか運営で大忙し。その合間にデリー、ムンバイ、コルカタ、南インドと行ったり来たり。大学でたまに見かけるときは、ゲッソリしているかイライラしているか。

 個人授業が無理ならばと正規の授業にも出席してみたが、休講は多いし、先生の気まぐれで授業が進んだり戻ったり、演説をしたと思えば説教をしたりちぐはぐなので出るのをやめた。最近やたらインドの叡智は最高!という話になるのは歳のせいだろうか。

 その代わりというわけではなかったが、日本人3人で毎朝1時間、サンスクリット文法学の個人授業を受け始めた。サンスクリット文法学とは紀元前4世紀に完成された、驚くべきほど系統立てられた壮大な体系だ。日本語で言うと「『ない』の前は未然形」「『行く』の格助詞は『に』」「『立つ』などの連用形は促音便』というような感じの規則が何千と、その適用の順序まで考えて整然と並べられている。これをひとつひとつ解説し、議論していく。1日に勉強するのは1つか2つの規則だけだが、そこには深い歴史があり、さまざまな解釈があって面白い。言葉というものは生き物だから、次第に規則に当てはまらない例も増えてくる。それをどう説明するか。歴代の文法学者が四苦八苦してきた痕跡をじっくり学ぶ。

 先生はマヘーシュ・デオカールという若い先生で、来日経験もある。全盲なのにその何千もの規則は全部頭に入っていて、どんな質問にも分かりやすく答えてくれる。分からなければ説明をどんどん丁寧にしてくれ、時には気さくにぶっちゃけ話も。しかしそのぶっちゃけ話も深い教養に裏付けられており、尊敬してやまない。

 終わってから図書館に行って復習。これで午前中はだいたい終わる。学食で昼食をとって帰宅。午前中はジャー夫人による祭事哲学の講義もあったが、出席して2週間ほどで終わってしまった。

 帰宅の道は非常に暑い。2月に入ってから毎日温度が上がっていき、3月初めで最高37度ぐらいになった。おかげで手も顔も真っ黒に日焼け。37度は日本だったらたいへんなことだが、インドでは標準的な暑さだ。これから4,5月にかけてさらに暑くなり、45度ぐらいまで行くという。暑いのはわりと平気な私だが、大丈夫だろうか?

 でも家の中は30度ぐらいだから耐えられないことはない(猛烈に眠くなるのが欠点だが)。天井の大型ファンの下で、ラジオを聴きながら博士論文の準備。休憩にはスイカ(1玉100円)やパイナップル(1房50円)を食べたり、日本から持ってきた本を読んだり、インターネットをしたり。煮詰まったら散歩に出てラッシーやドーナツを食べる。甘いものばかり食べている気がするが、暑いとどうしてもそうなってしまうようだ。水も1日2リットル飲む。

 今月からもうひとり、哲学科のマンガラー・チンチョーレーという先生と仏教論理学の勉強ができることになった。図書館で読んでいた本の著者を何気なく見たら「プネー大学」と書いてあったので調べてみると、すぐ隣の建物にいたのである。早速訪問してみたところ快く迎えて下さり、すでに何度か話をしたがよくものを知っている。仏教論理学とは、仏陀の正しさを論理的に証明しようとする立場から生まれた、これまた壮大な体系だ。日本や西洋に研究者が多い。しばしばインド人を疎外して研究が進められていることに先生は怒っていた。この前来ていたカナダのチャン先生なんか、ずっと日本の学者のことばかり話していたから余計にそう言うのだろう。

 ここの哲学科では主任のプラディープ・ゴーカレー教授も仏教論理学に取り組んでおり、日本の大学における哲学科とは趣が違う。もちろん彼らは西洋哲学も教えている。チンチョーレー先生の授業をちらりとのぞくと黒板に形式論理学の記号が並んでいた。洋の東西を問わず、またオリエンタリズムに組することなく哲学を追求するという態度は見習うべきものだ。

 現地のパンディット(伝統的学者)探しは続行中。サンスクリット語しか話さないという先生と75才の先生の2人から教えてもらえる可能性が見つかったが、住んでいるところが遠かったりしてなかなか会えない。パンディットは見つかるまで1年かかるというが、どうなるかとやら。

 さて、ジャー先生が上記のように1週間に1時間時間を取って頂くのも不可能か、たとえ可能でも申し訳ないような状態なので、来年度(今年9月)から別のところで勉強をしようと検討し始めた。幸いプネーはたくさんの学者が訪れるところで、コルカタにあるサンスクリット3大学のムコーパディヤーイ教授、ダス教授、ライェーク教授と直接会うことができた。これにヴァラナシ、ティルパティも候補に加えて、比較的時間の取れる先生を探している。いずれもプネーより過酷なところだが、勉強できなければプネーどころか、インドにいても意味がない。

 一方写本(手書きの古いテキスト)調査も本格化、バンダルカル東洋研究所、アーナンダ・アーシュラマ、ヴァイの3ヶ所を探索。アーナンダ・アーシュラマは1枚コピーするのに3ルピーだが、バンダルカルは1枚4ルピー+1冊100ルピー、コピーできないレアな写本は写真撮影料が何と1枚100ルピーと、べらぼうに高い。『ニヤーヤ・マンジャリー』というインド哲学史上とても重要な本があったが、これを全部撮影しようとすると10万円ぐらいかかる計算だ。

 今のところはサンスクリット文法学の授業で1日がもっているようなところ。マヘーシュ先生は4月からヴァラナシに移るとのことで、その後どうなるか今のところ全く分からない。

僧侶

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『破天〜一億の魂を掴んだ男』
山際素男著/南風社

 インドといえば仏教の故郷であるが、12世紀ごろから衰退し、多くの人がヒンドゥー教やイスラム教に改宗してしまった。それが何世紀と続いてきたが、第二次大戦後状況が変わりつつある。新仏教(ネオ・ブッディズム)と呼ばれる復興運動が起こり、今では人口の1割、1億人が仏教徒と言われている(政府統計では1%とされるが、急増している様子)。

 日本で話をしていて気付いたのは、多くの人が、インドで仏教が衰退したことをまず知らないことだった。田舎ではインド=仏教国という印象が強い。また仏教が衰退したことを知っている人でも、戦後になって仏教徒が急増していることを知らない人が大部分だ(私もそうだった)。そして、新仏教について知っている人でも、この復興を担っているのが実は日本人の僧侶だということを知らない。インドはかくもつかみにくい国なのである。

 佐々井秀嶺師、68歳。岡山県新見市の出身で人生紆余曲折の末に出家し、真言宗の僧侶となった。僧侶となってからも紆余曲折あってインドに渡り、1988年にインド国籍を取得、プネーと同じマハーラシュトラ州のナグプールというところに住んでいる。この本は師の半生記を綴ったものだ。

 師の生き方は常に険しい道を選ぶというもので、僧侶としても、日本人としても他に類のない稀有な人物である。このような人物が現代に生きているということ自体、とても驚くべきことだ。

 はじめインドに来たのは仏跡巡礼のためだったという。ラージギル(王舎城)で日蓮宗系の日本山妙法寺の活動を手伝い、日本に帰るかというときに夢のお告げがあり、急遽帰国を取りやめてナグプールに向かう。ナグプールでインド仏教徒と出会い、やがてその真摯な姿によって次第に信頼を得、お寺を建設してもらうことにまでなった。そこを足がかりに各地で改宗式を行い、仏教徒を次々と増やしている。

 ブッダガヤにある大菩提寺(マハーボーディ寺院、釈尊が悟りを開いたところに建てられたもので、玄奘の『大唐西域記』にも出てくる由緒ある仏跡)の管理がヒンドゥー教徒に牛耳られているというのに異を唱え、「大菩提寺を仏教徒の手に!」とインド政府に直接訴える運動を展開している。ヒンドウー教徒に遠慮してなかなか動かない政府に対し、これまで何度も抗議してきた。その手段が、いつも断食なのである。政府が降参するまで、飲まず食わずで座り込む。終わってから病院に担ぎ込まれてカンフル剤を打たれるのは毎度のことだ。

 こんな苦行は、常に命がけだ。体もぼろぼろになる。それでも彼はやめない。命も惜しまぬその姿は多くのインド人に感銘を与え、仏教徒に改宗する者、抗議運動に加わる者も増えていった。デリーでデモを行うとなると、すぐに何万人も集まってくる。これには首相も無視するわけにはいかず、佐々井氏は何度も官邸に招かれ、歴代首相とサシで話をしてきた。相手が首相だろうと州知事だろうと、声を荒げて詰め寄る。インド社会で長い間差別されてきた低層カースト出身の仏教徒に自信を与え、インド社会全体にまで波及しつつある。

 圧巻は1998年にインドが核実験を行ったときのこと、デリーで特大のスピーカーを使ってデモを行い、「おー、大馬鹿者のバジパイ首相よ、出て来い!」と国会の前で怒号を挙げたことだろう。「私に腹が立ったら、この場で撃ち殺すがいい。何十万もの人間を一度に殺す気でいる汝に私一人を殺すことなどわけもないであろう。さあ、殺すがいい。私は仏陀と共に哂ってやろう。この大馬鹿者の恥知らずめがと」

 仏教徒、とりわけ日本人は争いを好まない。しかしこのインドの国では、争いなしに変わるものなど何一つないのだ。もちろん彼らの闘争は武器を一切もたない。それゆえに命がけになるし、勇気も試される。そして視点は常に苦しみの多い人生を生きている人たちに注がれている。彼らの救済こそが目的であり、生きがいであり、喜びなのだ。今の日本仏教界が、彼から見習うことは何と多いことだろう。「僧侶は職業ではない。生き方なのだ」というある老師の言葉が重くのしかかった。

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