おの: 2004年6月アーカイブ

バス

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計器類は全壊。いろいろなところが取れそうになっているけど元気に走るバス。
バス

引越し先がなかなか見つからないまま、20キロ離れたバリラーム先生のお宅まで自力で通わなければならない日々が始まった。

リキシャーなら単純に計算して片道250円だが、自分の基地に帰ってこなければならないため、そんな遠くまで行ってくれることはまずない。途中で乗り換えるか、往復の契約を結んで待ち時間分を余計に払うかである。日本でなら移動にそれぐらいかかるのは普通だが、インドでは破格に高い。

そこで今日は大学から、リキシャーを使わないで行ってみようと決心。約束の2時間近く前に出発した。

まず校舎から大学の門まで2キロほど。ここを学内循環電動リキシャー「ヴィクラム号」が走っている。いくら乗っても1回5円。歩けば20分かかるが、ヴィクラム号なら3分ほどで着いてしまう。

次に大学の門の前のバス停からコーポレーションというバスターミナルまで20分ほどで9円。や、安い。でも間違ったバスに乗ったりしたらたいへん。行き先はバスの額にデーヴァナーガリー文字で書いてあるが、すばやく通過するのであまり読めない。その辺のおっちゃんを捕まえてどのバスに乗ればいいか聞く。乗ってからも、地理が不案内なところでは降りたいバス停を車掌に告げて合図をしてもらう。

インドのバスの仕組みは、後ろ乗り前降りの料金先払い。車掌が集金に来るので行き先を告げて運賃を払う。車掌は誰からいくら集金しているか一応覚えているが、ごまかそうという人はあまりいないようだ。

バスは扉がない。バス停では、乗客が乗り終わる前に出発するので、最後のほうの人は扉のわきにある手すりに捕まりながら乗り込む。降りるときもバスが止まる前に飛び降りる人が多い。そのため乗り降りは緊張ものだ。ブザーなどはなく、降りたいときは扉まで行って車掌か運転手に直接言う。停車するバス停の放送などは当然のようになく、ときどきインド映画音楽を大音量で流している。動いているのが信じられないような年代もののバスが多い。隙間から、中の動力部が見える。

さて、コーポレーションから乗り換え、アーナンダパーク行きで40分、20円。でもこのバスは30分に1本なので、やたら待たなければいけないこともある。今日は出発したばかりだったので、途中まで同じルートのバスに乗った。バス停から15分歩く。

というわけで大学から約1時間30分、34円で到着。バスはインド庶民の足であり、どの時間でも混んでいる。今日は全く座れず、すごい揺れの中で手すりに捕まって踏ん張っていた。たとえ座れたとしても、本を読むことはおろか、眠ることすらできそうにない。それでもインド人の中には本を読んでいる人、熟睡している人も見かけた。

往復3時間かけて、授業は1時間だけだが、バリラーム先生の授業は3時間かけて来た甲斐があると思える授業で楽しい。わからなければ次々と喩えを変えて説明してくれるし、サンスクリット語も流暢。欠点を挙げるならば、部屋の中に蚊がいてやたら刺されることぐらい。でもこのごろ体質が変わったのか、小さい蚊ならば30分ほどで腫れと痒みが引くようになった。なぜだろう?

瞋恚

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道路を悠々と横断する水牛の群れ。リキシャーやバイクはその隙間を抜けていく
道路を渡る水牛の群れ

仏教の十戒には不瞋恚戒(ふしんにかい)というのがあって、怒りに燃えて自らを失うことを戒めている。怒ることが悪いのではなくて、キれないように自分を制御せよということだろう。しかしインドでは、どうしてもキれたくなる場面に遭遇する。今日はそれが3つあったので夜にはクタクタだった。

はじめは食い違い。先日、アーナンダ・アーシュラムというところに写本のコピーを頼みに行った。担当者がいなかったので必要なリストを渡し、後に電話をして確認するということで帰ってきた。コピー代は、後払いということでいいというので、後は受け取るときに来ればいいはずだった。

だが、電話しても、担当者が全く要領を得ない。5分後に電話をくれというのでかけたところ、写本は利用できないなどと言ってくる。理由を聞くと「ヒンディー語で話せ」、ヒンディー語で話したが電話で聞き取りにくく、お互いに分からない。結局、コピー代は前払いだから来てもらわないと困るという話だった。ぜんぜん伝わっていないことに愕然とする。

2番目は遅刻。引越し先を探すのに、不動産屋と待ち合わせをしたのだが一向に表れない。前回も30分遅刻してきている。電話をして「いちいちこちらから電話しなければいけないのか?」と訊くと「ノーノー。今日はミーティングがあって…あと5分で行きます。」それからまた20分。再び電話をすると「今出ました」と蕎麦屋の出前のようなことを言う。結局、約束の時間から40分遅れで到着。私は本を読んでいるしかなかった。

「これで遅れたのは2回目だ」というとまた言い訳を始めようとするので、それを遮って「我々の国では、時間を守るのが全てだ。よく覚えておけ」と強い口調で言ってやった。こうでも言わないと気がすまない。家に帰ってから「あの時ああ言っていれば」と何度も思い返したくない。言うことを言ってすっきりしたが、不動産屋が案内した家が手違いでもう成約済みだったことには、怒りというよりも落胆。こういう日もあると思うしかない。

3番目は怠慢。3月に本を注文していた本屋で、4月に行ってみると「注文は受けていません。」 「本社に注文したのだから、確認して揃えておいてほしい」と言ってから3ヶ月。今日再び行ってみるとまた、「注文は受けていません。」 ついでに店長も変わっていて「もう1回注文してください」。結局この3ヶ月、何もしていなかったのである。

こんな1日だったが、夜に別の不動産屋から電話がかかってきた。私が会った不動産屋は、自分が紹介したのだから、自分を通さないで直接連絡を取るべきではないなどと怒っている。そんなことは予め言われなかったし、第一その不動産屋は「別のミーティングがある」と言って先に帰っていた。こんなところでナワバリを主張されても困る。礼金の分配があるから必死なのだろうが、そんなことで非難されるとどっちが客なのか分からなくなる。しかし夜の私には、逆ギレする気力は残っていなかった。

映画(8)

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平日の昼間から映画を見るのは何となく気が引けるが、休日は映画館が混みあうので仕方がない。映画を見た分は休日に返上するというつもりで映画館へ。映画館に行く日は勉強もやる気が出る。

お目当ての「ハム・トゥム」はまたしても満席。1回目は5月末にデリーで満席。そのときは昼の回、午後の回、夜の回まで全て埋まっていた。2回目はプネーで昼の回。そのときは時間ぎりぎりだったので今日は30分前に行ってみたが、また満席。というわけで席が残っている映画を見ることにした。

ユワユワ(青春)
〈あらすじ〉コルカタの橋の上で銃撃事件が起こった。撃った男、撃たれた男、そして目撃した男。この3人をめぐって物語が始まる。
まず撃った男ララン(写真右)は血が熱く、刑務所帰りだった。怒るとすぐ人を殴るのが悪い癖で、妻を愛しながらもちょっとしたことで暴力を振るう。西ベンガル州の議員にその腕を買われ、影の用心棒として学生運動の鎮圧を頼まれる。
撃たれた男マイケルは学生運動の指導者として人望が厚く、多くの学生を引き連れていた。恋人は気の強いフランス語の先生。好戦的な運動で議員にマークされ、その用心棒であるラランから命を狙われる。
目撃した男アルジュンは、人生楽しければOKというタイプ。ディスコでナンパした女の子と恋に落ちたが、その女の子はすでに婚約者がいた。最後のデートでとうとうフられてしまったところに撃たれたマイケルが飛び込んでくる。
アルジュンは川に落ちたマイケルを助け、それ以来学生運動に参加していく。しまいには政治のことは何にも知らないのに議員に立候補してしまう。一方ラランはマイケルが死ななかったことを知り、脅迫するためアルジュンを誘拐した。しかしラランの一味で仲間割れが起こり、そのすきにアルジュンは命からがら逃げ出す。仲間を殺して後を追うララン。
ラランはアルジュンを再び橋の上で追い詰めるが、そのときマイケルが現れる。車が行き交う命がけの殴り合いで、ラランはマイケルに叩きのめされ、人殺しの罪で再び刑務所送りとなった。
議員選挙は学生運動が奏功してマイケルもアルジュンも当選。黒幕の議員を一瞥して議員席に腰掛けた。

〈感想〉はじめに事件が描かれ、そこに登場する1人1人のストーリーが時間を遡って説明される。一種の謎解きで、それぞれの人物がその事件に至った事情が明らかになっていくのは面白い。特に、悪役であるララン(アビシェーク・バッチャン…アミターブの息子)にも悪に手を染める経緯があって、そこには妻もあり、映画を見て涙を流す姿もあり、でも自分の思いを伝えようとする前に手が出てしまう、そんな人間像が描かれているのが好感を覚えた。
3人の過去の話が終わると場面は再び事件へ。事件の後の展開でも、登場人物の人となりがインプットされていることで感情移入しながら見ることができる。ストーリーに面白い展開がある訳でもなく、また全員で一斉に踊るシーンも一切ないのに見終わったときの充実感があるのはそのためだろう。暴力シーンも、不条理ではないと思うと不思議と嫌悪感がなかった。
俳優がだんだん分かってきたのも楽しみのひとつだ。ジミーさんが出演した映画の主演でもあるララン役のアビシェーク、このところ出演頻度のやたら高いマイケル役のデーヴガン、東アジアでも受けそうな甘いマスクのアルジュン役オベロイ、どれもそれぞれいい味を出している。ベストキャストではないだろうか。一方それぞれの妻・恋人役で出てくる女優はイマイチ。
先日の「メーン・フーン・ナ」でもあったが「クダハフィス(神の守護あれ)」「インシャーッラー(神の意思のままに)」というイスラム教の挨拶。今日は議員さんが使っていた。服装や台詞をよくチェックしておくと、出身や宗教が分かるらしい。そういうものも理解できてくると、インド映画はもっと面白くなるし、現代インドを知る手がかりにもなる。
その辺の道端を歩いている人、小さなお店で暇そうに番をしている人、歩道にしゃがんでだべっている人、どんな人にもこれまで生きてきた長い人生の物語がある。それがあるとき偶然にして出会い、その相互作用でもってまた人生の新しい物語がつむぎだされる。新しい出会いにもっと驚きや喜びを感じられるようになりたい。→公式ページ

ジム通い

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カシミールにいたとき、映画俳優のジミーさんが毎日ジムに通っていたのに触発されてジム通いを始めた。別に筋肉ムキムキになりたいわけではない。3月4月と暑いときに何度もダウンして、体力をつける必要性を感じたからだ。

ジムは今住んでいるアパートから数えて3件隣にあるフィットネスクラブ「パワーハウス」。最近できたばかりで設備が充実しているが、その分(インドの物価に比して)高い。1回あたり150円ぐらい。

メニューは柔軟体操の後10分間のジョギングと自転車、腕立て伏せとスクワット、ベンチプレスとダンベル、腹筋で約1時間ちょっと。インストラクターがプログラムを組んで指導してくれる。私のプログラムは希望によって「上半身」。元来非力に加えて、運動不足のためかなり堪える。汗だくになったかと思えば息が切れたりと、体が悲鳴を上げる。行った日の夜あたりから筋肉痛が始まり、次の日も取れない。

しかしこうした苦しさは一種のストレス解消になる。隣のビルは建設中で、コンクリートに使う砂を重そうに運んでいる工夫が窓から見えるが、労働と運動は全く異質なものだ。

鏡を見ながら力こぶを作ってみた。笑ってしまうほど貧相。「色男、金と力はなかりけり」と自分に言い聞かせる。

映画(7)

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 バリラーム先生について勉強する準備をするべく、不動産屋に連絡して近くの物件探し。今度は大学から遠くなるが、ジャー先生の今までのペースならばほぼ問題はない。不動産屋は小島さんの紹介で、何人かの日本人と成約している方である。今の部屋を紹介したドゥルゲーシュには黙っているが、持ち物件の数といい、車で物件を見て回る手厚さといい、格が違う。

 物件を見終わった後で映画。4月に帰国した直後に公開されていた「僕がいるよ(メーン・フーン・ナ)」は、ずっと見たくていたのだが、気がつくと近くの映画館イー・スクエアでは終わっていた。そこで物件を見て回ったところから近い映画館アイノックスで見ることにした。ここももう1日1回しか上映していない。インドの人気No.1俳優、シャールク・カーンを起用している割には終わるのが50日前後と、早いのではないだろうか。

僕がいるよ僕がいるよ(メーン・フーン・ナ)
〈あらすじ〉パキスタンとの宥和政策を進めるアマルジート将軍は、パキスタンに恨みをもつテロリスト、ラグヴァンの一味に狙われる。その警備にあたっていたシェーカルは将軍をかばい凶弾を受けて亡くなってしまう。同じく警備にあたっていたシェーカルの息子ラーム(シャールク・カーン)は、父の死の間際に自分が愛人の子であったことを知らされ、自分がいたために家を出てしまった母と弟を探しつつ、将軍の娘をテロリストから守る任務についた。
将軍の娘サンジュは大学に在学中で、ラームも学生に扮して紛れ込んだ。何と腹違いの弟ラクシュマンも同じ大学に通っていることが分かる。父親と自分を憎んで家を出た母と弟に正体を隠したまま、ラームはラクシュマンの家に住んで大学に通う。はじめは「おじさん」と呼んて仲間はずれにしていた学生たちも、次第にラームと仲良くなっていくのだった。
しかしテロリストの手は迫ってきていた。サンジュの友達の殺害とサンジュの誘拐はラームの活躍で防いだものの、ラグヴァンは先生に扮装して大学に入り込み、ラームの正体を明かしてしまう。そのためラームは大学を去ることになってしまった。その直後、テロリスト一味は大学を襲い学生たちを監禁する。知らせを受けて引き返すラーム。
ピンチを何度もしのぎながらテロリストをやっつけ、学生たちを解放することに成功した。最後は、ラグヴァンとの一騎打ち。肉弾戦で全く叶わず、もう殺されるというところでラームはラグヴァンの胸にあった手榴弾のピンを抜き、爆死させたのだった。弟ラクシュマンはヘリコプターで兄を助けに来て、ラームは無事生還。
かくしてパキスタンとの宥和政策は平和に進行し、ラームの家族は結束を固め、大学の卒業式ではラクシュマンだけでなくラームも呼ばれてめでたし。

〈感想〉40を過ぎたシャールク・カーンが学生に扮するというので、「コーイー・ミル・ガヤー」のようなのほほんとした学園コメディを想像していったが、のっけから銃撃戦が始まった。最後も壮絶な爆死シーン。私は人がばたばた死んでいくバイオレンス、ホラーものが嫌いである。不条理だし、落ち着かないし、残酷だ。おそらくこれが公開が長続きしなかった理由ではないだろうか。
このテロと軍隊の闘争が基調になっているので、そこにお色気を持ち込もうが、家族の絆を持ち込もうが、安心して見ていられない。「ほら、そんなところで見つめあっていないで! もうテロリストが来るというのに……」
将軍の娘とラームの弟がたまたま同じ大学にいたとか、テロリストの一味がこぞって娘の誘拐に携わるいう設定もどうかと思うが、それ以上にテロリストが主人公だけ特別扱いするのが解せない。他の人はあっさり頭を撃って終わりなのに、主人公のときだけ「3,2,1」とかカウントダウンしてくれたりする。命の重さが違うとでもいうのだろうか。こういうのはハリウッド映画の影響なのだろうか。
というわけでネガティブな感想になってしまったが、テロはインド映画で今一番ホットなテーマだと言える。先日はアーメダバードで4人のテロリストが射殺されたとのこと。現実がそうなのだから仕方がないが、私はもっと夢のある映画を見たい。今度は恋愛映画「ハム・トゥム」でも見にいこう。→公式ページ

一発逆転

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 インドは物事が進むのが日本と比べると非常に遅い。ビザ延長の難しさは有名で、書類を警察の窓口に出して次の週行くと、書類が手付かずのまま同じところにあるという具合だ。これを進めるにはしつこいほど足繁く通うことと、手数料という名の賄賂が必要。

 しかし進むときは驚くほどの速さで進む。つまり少しずつ少しずつ進んでいるのではなくて、まったく進まない状態が続いてから、ある時に一気に進むということなのだ。

 このことを実感した話。これまでの日記でしばしば触れているように、私が頼ってインドに来たジャー先生は、サンスクリット高等研究センターの所長をなさっており非常に忙しい。センターの中ではインド各地から先生を招いて研修コースを頻繁に開き、その合間に集中講義でデリー、コルカタ、ケーララなど全国を飛び回っている。そんな状態でまともに教えてもらえるはずもない。私がこれまで滞在したつごう7ヶ月で、1回1時間の個人授業が行われたのは14回。2週間に1回という超スローペースである。

 そこで別の先生を探し始めたが、それが遅々として進まない。ジャー先生は当然ながら奥さん(講師)ぐらいしか紹介してくれず、その奥さんも忙しい。デリーの学会で知り合ったコルカタの先生はメールアドレスを教えてくれたがそのメールを滅多に読まないため、返事が来ない。プネーのサンスクリット学者に詳しい本屋のサプレ氏が教えてくれるのは遠いところに住んでいる人ばかり。待ちの姿勢だったのは私の怠慢だが、文法学を教えてくれるマヘーシュさんが見つかったので何となく満足してしまっていたというのもある。

 そのまま数ヶ月。「パンディット探しは1年かかる」というのを覚悟しつつあったが、その後急展開するとは思いも寄らなかった。シュリナガルにいたとき、コルカタの先生からメールがあってヴァラナシとチェンナイに私の専門を教えてくれる先生がいるという情報が入った。カシミール地方はガンダーラ地方の隣、「そこに行けばどんな夢も叶うというよ♪(by
ゴダイゴ)」の気分である。

 ところが教えてもらった電話番号が通じない。そのままプネーに帰って再挑戦しているとき、大学で一緒に勉強している日本人のI氏にその先生の話をしたら「それはきっとシュクラ4兄弟のひとりですよ」という。「あ!」と思ってアドレス帳を開いたら、先日本屋のサプレ氏から教えてもらっていたプネーの先生の姓が同じだった。

 シュクラ4兄弟。なんだかだんご3兄弟みたいな言い方だが、シュクラ家は伝統的なパンディット、しかも私の専門でもあるニヤーヤ(論理学・討論術)を専門としている一家である。ヴァラナシでサンプールナ・アーナンダ・サンスクリット大学の主任教授をしているラージャラーム氏、プネー大学哲学科の元教授であるバリラーム氏のほか、デリーとウダイプールにいる。正確には兄弟でなくて従兄弟だが、実の姉もナグプールでサンスクリット学科の教授をしていた。

 ジャー先生と専門は同じだが系統(学派)が異なるらしく、あまり交流はないどころか、微妙な対立関係にある。ジャー先生の口から今まで1度も聞いたことがなかったのはそのためだったらしい(ほかにジャー先生は出身地も遠く一匹狼タイプだというのもある)。

 というわけでバリラーム先生に早速連絡。最初に聞いたとおり、今住んでいるところからは18キロほど、プネー市内の東のはずれにある。ちょうどI氏も行こうと思っていたということで、I氏とリキシャーをチャーター(往復500円)して行くことにした。

 1時間の訪問はとても有意義に終わった。先生は5才のときからこの学問を始めた筋金入りの伝統学者。退官してからも著作活動を続けている。これまで出版された著書は私の関心を広くカバーするものだった。そこで恐る恐る教授をお願いしたところ暖かく歓迎、週に何回か教えてくださるという話に。「教えを請うものは拒まないのが我々の伝統です」と仰る。

 この急展開はどうだろう。プネーに先生が見つからなかったらヴァラナシでも、チェンナイでも、コルカタでもどこにでも行くつもりでいたのに灯台下暗し。帰りは嬉しくておのずと軽口になった。まったく進まない状態が続いてから、ある時に一気に進む。しかし振り返ればそこにはまた多くの人がいる。

 プネーの松尾さんが日本人が残していった本のことを教えてくれ、後輩の石田君が持ち主の近況を教えてくれ、広島大の本田さんが連絡先を教えてくれ、その持ち主である小林さんがデリーの学会を教えてくれ、ジャー先生が詳細情報を教えてくれ、旅行会社のニシャド氏がフライトの変更をしてくれ、学会でたまたま同じホテルに泊まった先生がコルカタの先生を紹介してくれ、そのコルカタの先生がヴァラナシの先生を紹介してくれ、ヴァラナシの先生の名前からI氏がプネーの先生を思い出させてくれ、というように。もちろんその前にもインドに来るきっかけとなったK氏をはじめ、数えたらきりがない。この連鎖はバリラーム先生との出会いによってさらに続くだろう。

 好転するときにやってくるのはチャンスではない。人なのだ。

新しい気持ちで

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 日本での住職、主夫業、そしてシュリナガルでのホームステイを経てプネーに来ると、急に孤独になる。開放感と空虚な感じが入り混じったようなこの気分は、大学入学で上京して以来、何度味わったことだろう。ただしこの度は開放感が少し優った。

 早速先生に授業再開の申し込みをするべく電話したが、ジャー先生は例によってコルカタに出張。週末まで会えないことが分かった。相変わらずお忙しい。マヘーシュさんも他の大学での集中講義と娘の幼稚園入園手続きで忙しく今週は何もなし。あまり期待はしていなかったが、このままでは1ヵ月半がまた何となく過ぎてしまう。

 今日はたまった電気代や電話代を払ったり、シュリナガルでジミーさんに教えてもらったインド映画のCDやDVDを買ったり、なかなか柄のいい服があったので買ったりと、独り暮らし風に送った。雨が頻繁に降り、水たまりや泥が多いので出かけるときは一気に用事を済まそうという考えである。

 途中でラメーシュさんという、去年ホームステイ先を紹介してくれた方を訪問。日本語、特に敬語が非常に上手で、言葉を選ばず会話できる。何でもマハーラシュトラ産のワインを日本に輸出する計画を練っているらしい。デカン高原は実はぶどうの産地でワイン工場も結構ある。足で踏んで作るのかと思っていたが、写真を見せてもらったら近代的・衛生的な工場だった。インダージとNDという会社がお薦めとのこと。今度賞味してみたい。

 シュリナガルの写真プリントを注文しに行ったとき、名前を聞かれなかったのでそのままにしておいたら受け取りの際、名前欄に「Chinese」と書かれていた。中国人は好きだがこういう風に一色汰にされるのは結構ショックを受けるものである。一応抗議をするとあっさり「ソーリー」。サンドイッチを食べているとき話しかけてきたインド人も「中国人ですか?」

 インドでは中国も韓国も日本もネパールも区別の付かないところがあるが、間違われるのはあまり気持ちのよいものではない。もっとも観光地では日本人だと分かると「ヤスイ、ヤスイ、ミルダケ!」と物売りが押し寄せるので、日本人を得意げに名乗るのも良し悪しである。プネーはその点、安心だと思う。

平穏を取り戻す

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 50日ぶり(長いな)に戻ってきたプネーは、雨季に入っていた。デリーで飛行機に乗ったときは機内が汗だくになるほど暑かったが、空港を降りると外は涼しい。プネーとはつくづくいい場所なのだと思う。

 シュリナガル中でいたるところに見かけた警官や銃は、プネーでは空港ですらほとんど見なかった。アーメダバードで射殺されたテロリストが潜伏していたという記事もあったが、これなら潜伏しやすいだろう。日本にもアルカイダがいたのだ。

 気候と警備だけでなく、客待ちをしているリキシャーのおじさんすらも優しく見えた。デリーでは外国人と見ると値段を10倍にもふっかけてくる(しかもドルで払えとかいう)のがいて気が抜けないが、こちらでは10円か20円ぐらい値上げしようとするのが関の山。今回は空港からエリア別に料金表が作られており、それに従って値段が決まった。

 家はさすがに埃だらけになっていたが、大事なものは棚にしまっているので問題ない。翌日さっそくお手伝いが来てきれいに掃除をしてくれた。予定よりも1週間遅れて帰ってきたのにお手伝いさんが早速来たということは、この1週間毎日様子を見に来ていたということらしい。誠実だ(ちなみにお手伝いさんの家には電話がないので、緊急の連絡はできない)。

 お盆にはまた帰国しなくてはならないので、今回のプネー滞在はわずか1ヶ月半。その間に成果があがるとよいのだが……。

6月上旬はシュリナガルに滞在

また会う日まで

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 帰宅の日。カシミール・パンディット探しは続行しており、カシミール大学の元サンスクリット学科教授が近くに住んでいることが分かった。ところが今はジャンムに行っていて留守中。タヒルさんが連絡を取ってくれるとのことで一件落着とした。

 家族中の見送りで出発、帰りは叔母さんがエスコートしてくれた。飛行機に乗るまでに車の検査、持ち物検査、身体検査がそれぞれ2回ずつあったが、叔母さんが乗っている警察に付いていって時間を短縮。車がずらりと検査待ちしているそばをすいすい通り抜け、荷物検査もほとんど開けずに済まし、空港では飛行機に乗るまで、警官がひとり随行してくれた。警官同士の会話に「マダム・シャズダ(叔母さんの名前)のお客様で」というのが聞こえてきた。だがここまで手厚いと、VIPというよりも護送されている犯罪者のような気もしてくる。

 空港での熱い見送りを受けて飛行機に乗り、デリーまで1時間、デリーからプネーまで1時間30分のフライト。タヒルさんの家にステイしていたときは会話と食事に夢中であまりほかのことを考えられなかったが、独りになるとさまざまな思い出がよみがえってくる。シュリナガルがいいところだったのは、タヒルさんの家族がいい人たちだったからにほかならない。どんなに素晴らしい景色よりも、一緒にしゃべったこと、一緒に笑ったこと、一緒に歌ったことが心に残っている。感謝してもしきれない。

 プネーに着くとタヒルさんから電話があって、「何だか分からないけれど無性に寂しい。家族中みんな寂しがっている。あなたのいた部屋にはまだ誰も入れない。」というのを何度も繰り返す。「あなたはもう我々の家族だから、何かあったらいつでも電話して下さい。もうすぐ雨季だから水に気をつけて。タマネギをたくさん食べるように…。」お父さんは「今すぐ戻ってきなさい。いつでも待ってるよ」とまた熱いメッセージ。こちらはもう言葉に詰まってしまった。

 日本の家族と別れてインドに暮らしていると、別れるつらさに鈍感になってくる。それは頭のスイッチを切って悲しみを避ける一種の自己防衛かもしれない。しかし今回の別れは、昨年秋にプネーに着いたときの胸の痛みをまざまざと思い出させた。決して遠くない将来に、必ずまた行こうと思う。

面影

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 いよいよ明日が帰る日となってしまった。ここ数日、夜になるとタヒルさんは「あなたがいなくなるとひどく寂しくなる」と目を赤くする。家族もみんな口々にそういう。はじめは社交辞令かと思ったが、あまりに何度も何度も言われるとこちらもだんだん寂しくなってしまう。

 どうやら今年の3月に亡くなったおじいさんと私が重なっているようだった。私が居間でいつも坐っている場所は、これまでおじいさんが坐っていた場所で、おじいさんは私と同じく髪を短くしており、私が頭をなでる仕草や、あごのひげをいじる仕草、足を組んで貧乏ゆすりをする仕草が、いちいちおじいさんを彷彿とさせるという。特におじいさんを敬慕していたお父さんは殊の外で、日中私が家を離れている間でも寂しがっている。そんな秘密を聞いてしまうとこちらも何か不思議な縁を感じてしまう。

 夕方にSMVD(シュリー・マハー・ヴィシュヌ・デーヴィー)大学の学長と会う。この大学は今年の7月からジャンムに新設される科学研究の大学で、インド哲学の講座があるという。カシミール大学のラズダン教授も招聘されるということで彼女からこの大学の存在と、学長を紹介してもらっていた。たまたまシュリナガルに来ていたが会合が多くて忙しい。そこにタヒルさんが丁寧な電話を入れてアポイントメントを取り付けてくれた。しかるべき人物から状況を教えてくれるという。

 そのほかは家族にお土産を買ったり、飛行機のチケットを手に入れたりと帰り支度。夜は叔母さんの招待を受け、意識を失いそうになるほどたくさんご馳走になった。驚いたのはお手伝いだと思っていた女性が警察官だということ。きちんと訓練を受けたれっきとした警察官だが、叔母さん世話係として配属になり、朝から晩まで叔母さんの家で掃除や洗濯をしている。副警視(Deputy
Superintendent Police)という地位の叔母さんのところにはこのような世話係の婦警2人、ボディーガード4人が付いているという。いかに彼女が重要な地位にいるかが分かる(ちなみにタヒルさんのお父さんは警視正でボディガードは8人いた)。さらに叔母さんは持ち家を貸したり、ネットカフェに投資したりしていて財力も並ではない。さらに旦那さんは銀行の支店長。夫妻とも超多忙だ。

 最後の夜にあたり、叔母さんからとローン家からそれぞれ、ショールや服などのお土産を頂戴した。今度はぜひ家族を連れてきてと何度も念を押される。一方私からの置き土産は娘の写真。この滞在中、何度も請われて見せているうち家族中がファンになり、タヒルさんがリクエストしたものである。タヒルさんは「もうあなたは客ではなくて我が家族であり、私の兄だ。今度は義理の姉(私の妻)と姪(娘)を必ず連れてきて」という。兄弟のいない私にはこうした温かい言葉は身にしみる。

カシミール博物館今日の観光スポット

カシミール博物館
シュリナガル唯一と思われる博物館。カシミールで発掘された7世紀ごろの石仏が何体か見られた。先日訪れたハルワン遺跡から出土した装飾の瓦も展示されている。そのほかにカシミールに生息する動物の剥製。開館時間は10〜16時で無料。だが今日は州政府の閣僚が亡くなったとかで3時過ぎに閉館。写真撮影は禁止されているが、閉館前のごたごたしているところに行き、タヒルさんに壁になってもらってこっそり撮影。


ホテル・グランドパレスホテル・グランドパレス
シュリナガル初の五ツ星ホテル。かつては「ホテル・オベロイ」という名前だったが、経営陣が替わって「ホテル・グランドパレス・インターコンチネンタル」という長い名前になった。ツイン2人で一泊17,000〜50,000円(今回は見ただけなのでただ)。ホテルの前の公園にはバラが咲いており、プール、テニスなども楽しむことができる。笑ってしまうくらいものすごい太い葉巻をくわえたおじさんが散歩していた。

言語

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 カシミール語は独特の言語だ。基本的な構造はダルド語という言語らしいが、時代を経るにつれてサンスクリット語、ペルシア語、英語から多くの語彙を取り入れてきた。

 イスラム教徒ならではの挨拶。ヒンドゥー教の「ナマステー」と同じく、おはよう、こんにちは、こんばんは、さようならの全てが「アッサラーム・アライクム。」 ただしヒンドゥー教徒には「ナマステー」と言う。宗教によって使い分けなければならないのは少し神経を使うが、間違ってもあまり目くじらを建てる人はいない。今日、近所から遊びに来ていたおばあさんに「アッサラーム・アライクム」と挨拶をしたらタヒルさんから「この人はナマステーだよ」と教えてもらったが、おばあさんは「かまわないかまわない」と笑顔。

 一方、挨拶されたほうは語順を逆にして「アライクム・アッサラーム」と返す。「アッサラーム・アライクム」「アライクム・アッサラーム」…こうして並べると語が対称になっており、偶像崇拝を禁じるイスラム教の抽象的な美しさを感じる。意味は「あなたに平和あらんことを」だが、そんなに重くなく町中のいたるところで聞かれる。男同士ならば握手をしながら言うことが多い。時には抱き合っている姿も。いただきますは「ビスミッラー」、ごちそうさまは「アルハムドリルラー」。そして「インシャーラー(神の思し召しのままに)」「クダハフィス(神のご加護あれ)」は口癖のようにいつも使う。いずれもアラーの神に感謝をささげる言葉だ。

 自己紹介。「アッサラーム・アライクム、ミョン・ナーウ・チェ・オノ。ミョン・レッツ・チェ・アティーシャ。アティーシャ・ヴェーヌー。シュクリヤー。バ・アウス・ジャパン・ピヤット(バ・ミヤール・プネー・ピヤット)。ミョン・ガリク・チェ・ミェン・ザナン・キョーコ、ミェン・クール・アキコ、ビ・バ。ミョ・チェ・キターブ・パルン、インターネット、ビ・ボードゲーム、パサン。ツァ・サンキット・ガイー・クシー。」

 夕食の前後、女性陣はテレビを見る。9時半から11時半が夜更かしなインドのゴールデンタイム。『どこの家にもある話(カハーニー・ガル・ガル・キー)』と『姑も昔は嫁だったから(キョンキ・サース・ビー・バフー・ティー)』の二本立て。どちらも同じ脚本家で、もう3年も続いているという。タイトルから想像もつくが嫁・姑・小姑の難しい関係を扱った話で、日本でいう橋田ドラマのような感じだ。おそらくわざと平凡な顔の役者を起用し、毎日見ても飽きないようにしている(主役が楽太郎師匠のような俳優だった)。展開は冗長でリアクションは大げさ。ショックを受けるシーンでは必ず「ガーン」という効果音と共にアップとなり、それをスローモーションで繰り返す。男性陣はお父さんを除いてケッという顔で見ているが、女性陣は真剣だ。

 シュリナガルでは毎日4時間、計画停電がある。時間帯は朝・昼・晩とシフトするが、不便だと感じることが多い。各家には発電機が用意されているが、あまり電気を使わないよう、テレビもほとんどつけずラジオを聴く。夜の9時半以降は計画停電がなく、ゴールデンタイムのテレビ鑑賞ができるというわけだ。しかし計画でない停電は1週間に2,3回あり、真っ暗な夜を過ごさなければいけないときもある。このあたりはシュリナガルだけの話ではない。ただ、シュリナガルは水が豊富で断水はまずないのが幸せだ。ギザと呼ばれる温水器が停電で止まっているときにはガス温水器(ガス・ギザ)がある。

今日の観光スポット

パールガーンパールガーン
シュリナガルから96キロ東にあるリゾート地。途中まで国道1号線で道が広く、車で飛ばせば2時間で着く。周囲を高い山に囲まれ、リッダー川に沿って松林と芝生が広がっている。川は床石のせいで青く見え、川辺でその色とせせらぎを聞きながらのんびり過ごす。来る途中では遊牧の羊や山羊、馬などをよく見かけた。また急流を利用して7人乗りゴムボートも楽しまれていた。
リッダー遊園地リッダー遊園地はジャンム・カシミール銀行が経営しているアミューズメントパーク。メリーゴーランドやパイロットなど7つのアトラクションが動いていた。私とタヒルさんは回転・遠心力系(?)が苦手なのでカートだけを楽しむ。昔ナムコ・ワンダーランドにあったお互いにカートを衝突させ合うアトラクション。カップルが乗っているカートをついつい集中攻撃してしまうのは昔の癖だ。平日はがらがらだったが、日曜日は混みそう。

ご馳走

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 カシミール大学でサンスクリット学科の主任、サティヤバーマ・ラズダン教授と会う。

 授業などで忙しい上に、ストライキで大学に来れなかったりする。教授の専門は言語学で、今ひとつ話が合わなかった。そのうち一緒に来ていたタヒルさんと車の話になってしまう。とても親切に教えてもらったが、教授の知る限り私の専門を教えてくれる先生はいなさそうだった。カシミール・パンディットの伝統に属する学者は大部分、90年代前半にカシミールを出てしまったのだという。肩を落としつつ、観光地を回って帰宅。

 シュリナガルに来てからというもの、ご馳走攻勢が続いている。カシミール料理はイラン料理をアレンジしたマトン料理。肉だんごをスープで煮た「リスタ」、ひき肉を串にまいて焼いた「カバブ」、スパイスにつけて揚げた「カンティ」など、どれも美味しいが重い。「客に薦めるのは主人の権利」とまで言いつつ、これでもかと言うほど食べさせてくれる。

 いくら断ってもどんどん持ってくるので、最近は戦略を変えた。それはゆっくり食べること。前のが残っていると薦めづらいし、こちらも断りやすい。これまでは緊張していることも手伝って一気に食べてきりがない状態に陥ることが多かったが、この戦略に変えてからは体調もすこぶるよい。それでも勧められると「ナヒーン・シュクリヤー(結構です)」「クリパヤー・バス・キージエー(終わりにしてください)」「アルハムドリルラー(ごちそうさま)」などと言って断る。考えてみればこんなことで悩むほど、日々穏やかに過ぎているということで、プネーに戻ってから大丈夫か心配になってくる。

今日の観光スポット

シャリマール庭園シャリマール庭園
ダル湖の東側に位置するムガル帝国時代の4庭園のひとつ。第4代皇帝ジャハン・ギールが妻のために作らせたもの。500メーターの奥行きがあり、ずっと噴水が並んでいる。水遊びをする家族連れの姿が多かった。写真の構図は以前の10ルピー札(アショーカ王柱のもの)の裏側に用いられている。庭園内では写真屋がカシミール衣装を貸していた。入場料5ルピー。


ウント・カダルウント・カダル
「ラクダ橋」はムガル帝国時代にダル湖に張り巡らされた道路の残骸。左右は湖に沈んでおり、橋の部分だけがぽつねんと残っている。道がつながっていないので、シカラで行くしかない。橋に着いたらシカラを降りて登ることもできる。辺りは小さい蓮の葉がたくさん浮かんでいて美しい景色になっていた。ニシャット庭園のシカラ乗り場から15分ほど。

ダンス

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近くの学校からピクニックで来ている一行。楽しい踊りを披露した
タンマルグのピクニック

 タヒルさん、ジミーさん、叔母さんの子どもたちと車で遠出。シュリナガルから西に50キロ離れたスキー場、グルマルグは、夏もピクニックで賑わっている。シュリナガルでも十分に涼しいが、ここは寒いという域だ。借りたジャケットを着ても震えるほど。

 一番奥に何とケーブルカーがあった。インドでこうした大掛かりな乗り物にお目にかかるのは初めて。4人乗りでさらに高いところに行くことができる。上はもっともっと寒いという。のんびりしているうちに開業時間が終わってしまったが、また来たら乗ってみたい。仕方がないので代わりに馬に乗ることにする。

 馬は近くの村から連れてきたもので、1時間250円ぐらいで乗せてもらえる。私の乗った馬はポックリ、ポク、ポックリ…何だか足取りが覚束なく、時々進路をそれて道端の草の方に向かって行く。付き人いわく「腹が減っているようだ。」足取りは遅くなりがちで、その度に付き人に叩かれていた。

 乗馬は思いのほか難しい。揺れが大きいのでバランスを取らないと落ちそうになる。前後左右に姿勢を変えながら乗っているのは上半身の筋肉を使う。さらに時間がたつとお尻が痛くなってきた。だが地面が泥地でも坂道でも、疲れないし足が汚れる心配もない。長距離を乗りたいとは思わないが、そのよさは分かった。

 乗馬を満喫しているうちに夕方になったので帰途に。帰り道タンマルグを通りかかると公園に人が集まっている。200人はいただろうか、近くの学校からピクニックで来ている一行が、テープで音楽を流して次々と踊っていた。あまりに愉快な踊りだったのですっかり見入る。電池がなくなって音楽が切れると、みんな帰り支度を始めたが、私があまりに喜んでいるのでタヒルさんがアンコールをリクエスト。音楽はタヒルさんのカーステレオから流した。タヒルさんいわく、私がここ2,3日で一番楽しそうだったという。

 帰りの車では映画『カルホー・ナホー』の主題歌をみんなで歌いながら、楽しく帰った。インドのピクニックでは歌を延々と歌うという話を聞くが、今日の車内はまさにそうなっていて、タヒルさんが「さあ一緒に!」「もっと大きい声で歌うと楽しいな」などと促すので、しまいには陽気に歌ってしまっていた。

今日の観光スポット

グルマルググルマルグ
スキー場の部分は広大な芝生になっていて、目に優しい。乗馬、ゴルフ、散策などを楽しむことができる。ゴルフは誰でも遊べる手軽なもので、家族で遊ぶ姿が見られた。真っ直ぐに伸びた高い松の木と、頂上に雪が残る山々、夏は夏で別世界に来ているようだった。

郵便局

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中央郵便局入り口の厳重な警戒
中央郵便局

 出かけるとき、タヒルさんがお手伝いのアルタープに「3,4日は帰ってこない」と冗談を言ったらアルタープが泣いてしまった。アルタープいい奴。

 日本の家族に手紙を出すため、中央郵便局に行く。しかし驚いたことにここも厳重な警戒態勢が敷かれていた。まず正門は閉まっており、外に車を停めて裏門まで歩いていかなければならない。入り口に着くと左右には土嚢、1人ずつ通れるようにシャッターが閉まっていて、入ると持ち物検査。カメラや携帯は持ち込めない。目の前には例によって銃口がこちらを向いている。

 ハガキ2枚出すためにここまでされるのは、今ひとつ腑に落ちない。銃はシュリナガルに来てからあちこちで見かけるが、何度見ても不安になってしまう。ここで生活している人の神経はこの点どうなっているのだろう。

 それから大学に行くことになったが、途中のダル湖畔でデモが行われており、回り道をしなければならなかった。政府が観光のためダル湖の中央にある島を埋め立てる計画があって、そこの住民は別の場所に移住させられることになっている。移住に反対する住民たちのデモだった。

 さらに市内ではストライキ中。こちらはイスラム教の指導者が強盗に殺されたとかで、警察が容疑者をなかなか見つけられないのに苛立った市民が、高等警察の発動を求めて仕事を休んでいる。大学に行ったはよかったが、先生がストライキで足止めを食って休んでいた。インドのデモやストライキはみんな本気なので恐い。迂闊に近づくと石が飛んでくる。

今日の観光スポット

ハルワン仏教遺跡ハルワン仏教遺跡
 近年発掘されたシュリナガルで唯一の仏教遺跡。六阿羅漢の林(シャド・アルハド・ヴァーナ)と呼ばれていたものが縮まってハルワンになったらしい。伝記によるとここで第四回仏典結集が行われ、またナーガールジュナ(竜樹)も住んでいたという。カシミールは紀元前後ごろから500年あまり、仏教の一大中心地だった。三蔵法師もここを訪れサンスクリット語を学んでいる。
ハルワン 山の中腹を利用して3段になっており、1段目には僧堂が2つと本堂、3段目にも僧堂があった。2段目はまだ土の中だが彫刻を施した壁が発掘されているらしい。ほかの仏教遺跡と同じく今はレンガの壁や台座が残っているだけだが、ここで当時最先端の仏教研究が行われていたことを思うとこちらも向学心が湧いてくるような気持ちだ。
 ここもシャンカラ寺院と同じく絶景ゆえに電子機器の持ち込みが許されていない。タヒルさんが係員を口止めしてこっそり撮影。

善悪

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 こちらでは毎日日曜日のような生活をしているが、本当の日曜日となると家族みんなが休みで家におり、親戚も遊びに来るので何となく賑やかだ。午後から家族みんなで出かけようという話になったが、目的地チャシュマ・シャイで全員が揃ったのは午後7時だった。

 その前に我々は出発して2箇所を見て回り、チャシュマ・シャイに着くとタヒルさんがシク教のターバンを巻いた一団と口論を始めた。訳を聞くと、チャシュマ・シャイに来る前に寄ったパリ・マハルの駐車場で当て逃げされたらしい。確かに車の横が少しへこんでいた。タヒルさんは車のナンバーを覚えていて、その車をチャシュマ・シャイで捕まえたのである。

 あちらは7,8人いる集団に、タヒルさんとジミーさんが敢然と立ち向かう。始めはつかみかからんばかりの剣幕だったが、だんだん穏やかになり、最後は握手をしながら口論していた。
「車にぶつけるのは仕方ない。でも黙って逃げるのは悪いことだ。だから彼らには、何も要求しないからぶつけたことだけ認めろと言ったんだ。でも彼らはなかなか認めない。認めたら多額の修理代を請求されると思ったんだろう。」

 そこにタヒルさんの叔母さん登場。日曜日で公務は休みだが、ボディーガードは2人、私服を着てしっかり付き添っている。叔母さんの家族も警察の車に乗って一緒にやってきた。機関銃を持ったボディーガードの1人が、その口論に入る。これで相手はもう観念したらしく、ぶつけたことを認めて和解となった。タヒルさんは修理代も何も一切要求していない。

 日本だったら警察を呼んで保険を使うにせよ、示談で済ますにせよ、修理代(だけ)が問題となる。しかしここでは、行いの善悪が問題でお金は二の次、三の次だった。悪いことをすれば、神に罰せられる。でも懺悔すれば赦されるだろう。日本人がいつしか忘れてしまった大事なことを、この事件を通して感じ取った。

今日の観光スポット

シャンカラ寺院
ダル湖に近いスライマン山の頂上にある寺院。歴史は古く、紀元前2世紀、ジャルーカ王(アショーカ王の子)の時代まで遡るらしい。当初は仏教寺院だったが、現在は入り口にシャンカラ、中央にシヴァが祀られている。ハウスボートが何百も並ぶ風景を一望できる。しかしこの絶景が災いして、携帯電話やデジタルカメラなどの電子機器は治安上持ち込めない。
イスラム教徒が6割以上を占めるシュリナガルだが、この寺院をはじめとしてパールヴァティー、ハヌマーンの寺院もある。

パリマハルパリ・マハル
シャンカラ寺院とは別の山の中腹にある庭園。かつては仏教寺院だったらしいが長く忘れ去られ、後にシャー・ジャハン帝の息子ダラ・シャコーがスーフィズム研究所に作り変えた。そよ風に吹かれながら、ダル湖の美しい風景を楽しむことができる。


チャシュマ・シャイチャシュマ・シャイ
シャー・ジャハン帝が作ったムガル庭園。湧水があり、山の奥底から湧き出た冷たい水は健康によいということで大勢の人が水をくみに来ている。故インディラ・ガンジー首相もここの水を毎日空輸でデリーに取り寄せていたという。
近くに要人の住居があるため警察でもらう入場許可証を必要だったが、このたび解禁されて誰でも入ることができるようになった。入場料5ルピー。

警戒

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厳重な警備。中には民家もあるのに…。銃口が恐いので横から撮影。
厳重な警戒

 シュリナガルはインドのほかの地域と比べて警戒が厳しい。

 警察署や寮の近くは鉄条網、バリケード、金網、土嚢が張り巡らされており、防弾チョッキ、迷彩服姿で機関銃を持った兵士や警察が始終見張っている。土嚢の隙間から銃口を出されると、かなり恐い。長い銃を持った警官が街中で知り合いと抱き合っている姿も何となく異様だ。

 タヒルさんのお父さんの話では、ここ3年は何も事件らしい事件は起こっていないのでこうした警戒態勢は緩められるべきだが、警察だけでなく国防省も関係しているため、上からの指示が末端に下りてくるのに時間がかかっているのだという。

 今日の目的はカシミール・パンディットに会うこと。カシミール・パンディットとはこの地にサンスクリット文化をもたらした司祭階級で、現在もなお独自の文化と知識を伝えている。紛争が続いた時期にだいぶカシミールから脱出してしまったようだが、それでも結構残っている。パンディット(賢人)だからと言って皆があらゆる知識に精通しているわけではない。日本の僧侶が皆、仏教に精通しているわけではないのと同じである。中には文盲もいるという。

 私が会いたいのは、サンスクリットの、しかも私が専門としている分野について知識がある人。そういう人がいるかどうか、近くに住んでいる高名な先生に会いに行くことになった。その先生はサンスクリットをあまり知らないようだが、カシミール・パンディットの社会では長老格であり、サンスクリットを専門にしている誰かを紹介してもらえるのではないかということだった。

 ところが、この先生の家がある一帯は軍事施設があって、入り口が厳重に警戒されている。どの入り口にもバリケードがしてあって、アリ一匹通さないぐらいだ。土嚢やレンガで囲まれた小屋の中から、銃口がいつも出ている。ここの兵士が通してくれない。タヒルさんがあれこれ説得したが聞く耳すら持たなかった。扉に「インド軍、あなたのために」などと書いてあるのが虚しい。

 結局、兵士に頼んで先生を門まで呼び出してもらい、先生の承認を得て入ることができた。タヒルさんが「見な、これがインド軍だ」といらついていた。ここまで苦労して入ったが、先生は子どもたちを相手に算数の授業中。忙しいのでまた明日といういつものパターン。このパターンは慣れているので、さほどがっかりしなくなった。

 夜には結婚披露宴を見に行く。知り合いの結婚式ではないがタヒルさんが情報を探して案内してくれた。民家とは思えない大邸宅。さらに驚いたのは花婿披露宴と花嫁披露宴に分かれていること。私が案内された花婿披露宴は、客も男だけだった。花婿と花嫁は客が帰ってからやっと一緒になれる。そのとき、花婿が家を去ったふりをして花嫁を泣かせる儀式が行われるという。そのうちタヒルさんの結婚式があるだろうから、そのときにじっくり見てみたい。

 晩御飯は毎日11時ごろ、終わると12時になってしまうが、朝も遅いからつらいことはない。オールドデリーの店の話は面白かった。
「ターンディーチョークでは買うな。買ってしまったら洗うな。洗ってしまったら(縮むが)泣くな。泣いてしまったら(恥ずかしいから)誰にも話すな。」
タヒルさんが初めてデリーに行った中学生ぐらいのとき、ここでお父さんにズボンを買った。3000ルピーのところ2000ルピーでよいと言われたが、ホテルに帰るまで開けるなと言われる。ホテルに帰ってみると、見本とは違う小さいサイズのズボンだった。仕方なく自分がはくことになったが、洗うとさらに縮んで弟しかはけないぐらいになってしまった。安物買いの銭失いということ。

 ホームステイしていると、観光名所だけでない見聞を広められる。それが文化を知るということであり、人を知るということでもある。

生活

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タヒルさんのカーショップ。タヒルさんが不在中は従兄弟が代わりに働く。
タヒルさんのカーショップ

タヒルさんの仕事が溜まっているというので、お店に一緒に着いていく。そこでは従兄弟が代わりに働いていた。こちらは近くのインターネットカフェを紹介してもらってネットサーフィン。

 インドのパソコンはWindows 98が大部分で、2000やXPはあまり見かけない。98で日本語を読み書きする場合、Global
IMEというものをダウンロードしてインストールしなければならない。日本語のIMEは5メガ、ダウンロードに20分かかった。シュリナガルでは高速回線な方だだというが、ひたすら遅い上に時々回線が切れるので、メールを一通り読むだけで1時間近くかかった。

 インドでは全く珍しくないが、ここシュリナガルにも物乞いはいる。街頭で車を停めていると、誰彼となく寄ってくる。手を口に近づけて(「食べ物」)、それから差し出す(「下さい」)という仕草は全インド共通なのだろうか、ここも同じだった。タヒルさんの話では、彼らはデリーなどから流れてきたのだろうという。シュリナガル自体に貧富の差はあまりなく、露天商のおじさんでも立派な家を持っている。

 物乞いは無視するのが一番だと思っていたら、タヒルさんたちは積極的に話しかけている。タヒルさんはよく「ごめんね(マーフカルナー)」と謝り、ジミーさんは「どうして働かないのか」と詰る。こうすると無視よりもずっと早く退散することがわかった。無視していると、気づかないのかと思ってより強くアプローチしてくるようだ。

 夜には本屋でカシミール語の入門書とシュリナガルのガイドマップを購入。本を開くとアラビア文字がずらっと並んでいる。インドの公用語のうち、カシミール語とウルドゥー語はこのアラビア文字で書かれている。ただし、文字は一緒だが語彙や文法はアラビア語と全く違う。ウルドゥー語はヒンディー語とほとんど変わらないが、カシミール語はアラビア語ともヒンディー語とも違う。

 タヒルさんの家では主にウルドゥー語が話されている。お母さんがパンジャーブ出身、お父さんが北カシミール出身なので、家族全員が分かる言葉として折衷策としてウルドゥー語を用いる。しかし彼らは地元でカシミール語も分かるし、話せる。カシミール語の本を一番喜んでくれたのはお父さんで、これから毎日カシミール語を教えてくれるという。

 プネーでは現地語のマラーティー語とヒンディー語は誰でも分かる言葉だったが、現地語+インド共通語の両方を話すという構造はここも同じ。考えてみれば私も山形弁と標準語を使い分けているから、何も特別でないのかもしれない。ただ、現地語と標準語があまりにかけ離れていて、全く別の言語であるというのが違う。

カシミール語はなかなか面白い響き。少し覚えて帰れたらいいなと思う。

タヒル家

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左からジミー、お母さん、お父さん、タヒル、スミル、タンヴィーラ
ローン家

 タヒルさんの家は、ちょっとありえない家である。

 お父さんは元警察署長。定年退職後は処罰した犯罪者たちの報復に遭わないよう専ら家で過ごしているが、その眼光は衰えない。第一印象は恐いが話してみるととても柔軟な思考の持ち主であることが分かる。お母さんはパンジャーブ州出身で、心配りの細やかな人だ。ここにタヒルさんを長男として三男一女。

 長男のタヒルさん(29)はカーディーラーで、目抜き通りに大きい店を構えている。子どもの頃から車が好きで、会社勤めを経て開業してから6年、顧客の信頼は厚くリピーターが多い。長男らしくどっしりと構えていて、めったに笑わないが情に厚い。シュリナガルとカシミールをこよなく愛し、仕事を休んで案内してくれている。

 自動車メーカーはホンダ、スズキ、三菱、またカーステレオではケンウッド、ソニー、パイオニアなど日本ブランドが目立つ。ここカシミールには工場がなく、車は全てデリーから運んでこなくてはならない。途中の山道はトレーラーが通れないので10台の車を運ぶときには10人のドライバーが必要。そこで月に2回はデリーに飛び、車の買い付けとドライバーの手配をしているという。

 長女のタンヴィーラさん(26)はビハール州にある歯科大学の修士課程に在籍中。すでに歯科医の資格は持っているが更に研鑽を重ねてアメリカに留学するつもりらしい。夏休みで帰省しており、お母さんやお手伝いさんを手伝っている。礼拝は家族で一番、いつもきっちりと行う(メッカの方角を向いて礼拝するのでテレビや台所を向いているのがちょっと面白いけれど)。眼光の鋭さと顔つきの優しさは両親ゆずりだ。

 次男のスミルさん(23)は警察官。法律の知識に詳しく、警察学校を首席で卒業したエリート。23才という若さで警部であり、4人のボディガードが付いている。子どもの頃から正義感が強く、曲がったことには手を貸さなかったという。1億円の裏金を暴いたとき、賄賂に300万円を提示されたが、それを蹴った話はお父さんから聞いた。現在は国家管理職試験のために準備中。しかしそういう肩書きが似合わないほど気さくで、家族への気配りは欠かさない。特にお兄さんのタヒルさんには本当によく尽くす。まもなく試験対策セミナーでデリーへ行き、数ヶ月戻ってこないという。

 三男のジミーさん(21)は何と映画俳優。やたら映画に詳しいと思ったら、そういうことだった。子どもの頃から映画が好きで、バンガロール、ムンバイと仕事を探し、モデルを経て現在に至る。これまで2本の映画に出演していて、これからの活躍が期待される。現在『7人のテロリスト』(どこかで聞いたような)という主演作品を撮影中。普段はムンバイに住んでいるが、気候が悪いためよくシュリナガルに帰ってきて、お兄さんの店を手伝っている。甘いマスクと明るい性格で、今の仕事は適職だと思う。









ローン家は夏涼しく冬暖かいレンガの家。
ローン家

 このほかにお手伝いさんのアルタープ(16)。幼い頃に両親を病気で亡くして身寄りがなく、学校にも行けなくなっていたところを、3ヶ月ほど前にローン家に雇われた。雇うといっても半ば養子のようなもので、家族が勉強を教えて学業を再開させようとしている。気が利かないことが多いが、類まれなる素直な性格で家族のみんなから愛されている。

 そんな家族が住んでいる家は、市の中央にある4階建ての豪邸。居室には美しいじゅうたんが敷かれており、使っていない部屋もいくつかある。私はその中の居間に住まわせてもらっている。じゅうたんを2枚敷いた美しい部屋だ。

 今日は今日とてカシミール大学へ。昨日はスミルさんと代わって今日は弟のジミーさんが運転手。広くて美しい大学で、プネーからここに移りたいくらいだ。学食でマンゴージュースを飲みながらポテトチップをかじる。その後イスラム寺院やムガル帝国時代の庭園を案内してもらい、ライチジュースなどを飲んでのんびり過ごした。

 夕食はイスラム記念日ということでワズワンという特別なマトン料理。本当は20品目以上あるというが、今回は6品目だけでお腹いっぱい。こちらに来てからご馳走攻勢が続き、確実に太っている気がする。

今日の観光スポット

ジャミアマスジッドジャミア・マスジッド
1385年に建てられた半木造の巨大モスク。3度の消失を経て、現在のものはムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブによるもの。どこから取ってきたのかというほど太く長い松の柱が300本使われている。モスクが集まる近くの交差点はかつてテロの標的になっていて、何度も爆発事件が起こったが現在は平和。
メッカ側の門ではたくさんの人が集まって昼の礼拝が行われていた。


マクドゥーム廟マクドゥーム廟
シュリナガル中央、コヒ・マハーン山の中腹にあり、カシミールでイスラム教を広めた聖者の棺が安置されている。棺の周りの部屋には男性しか入ることができず、女性は窓から拝むことになっている。
窓際にいる老人から祝福を祈ってもらい、お菓子をもらう。

ハウスボート

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ハウスボートの室内。クルミの木の彫刻が美しい。ほのかな木の香りがする。
ハウスボート室内

 ハウスボートで過ごす一夜は、幻想的だった。

 室内の凝りに凝った調度品はどれをとっても素晴らしく、暗めの照明に照り映えるそのさまは、最高の雰囲気だった。一人できたのがもったいない。叔母さんが取ってくれた最高級の部屋、しかも3ベッドで5人寝られる大きな部屋に一人でいるのはとても寂しい。タヒルさんが「寂しいなら一緒に泊まろうか」と言ってくれたのを、それもどうかと思って断ったけれど、ここは一人で過ごすところではないと思う。一人では暇を持て余してしまい、本を読もうにも照明が暗く、結局ぼんやりと過ごすしかない。

 それに前の日は荒れ模様の天気だったので湖上は涼しいというよりもむしろ、寒い。朝から毛布を一枚多めにかけてもらったベッドの中にずっといた。ボーイさんが親切で、ご飯を食べ終わると、「ライスは美味しかったですか? カレーは美味しかったですか? ティーは美味しかったですか? それはよかったです、ありがとう」とメニューひとつひとつを訊いてくる。「オーケー、サンキュー」と言うとき、頭を思いっきり横に振るのが面白い(インドの「はい」は、首をかしげるような感じで横に振る)。

 シカラに乗って陸に上がると、夢から覚めたような気分になった。たくさんの観光客が行き交い、警察の前では武装警官が10人以上警備している。ここ2,3年は事件がないというが、テロ対策で警察の警備は厳しい。警官は防弾チョッキを着て大きな銃を持っており、装甲車もたくさん見かける。湖の周りにも、50メートルに1人ぐらいの割合で武装警官が配置されていた。

 タヒルさんが車でやってくる。シュリナガルに来た最大の目的である写本調査が今日の仕事。バラモン教・仏教はかつてカシミールで独自の発展を遂げ、多くの哲学書がここで記された。今から1,000年も前の話である。こうした哲学書は、手書きで紙や椰子の葉に写すことで後代に伝えられた。写本というのはこの手書きで写した紙のことで、たいていは書かれてから100年以上経っている貴重なものである。写本調査はインド哲学研究者にとって不可欠の仕事で、どこに何の写本があるか情報交換しながら探している。

 ここシュリナガルのカシミール大学には、『ニヤーヤ・マンジャリー』という書物の写本が3つあるとイタリアの研究者が報告していた。しかし、90年代の紛争のため足が遠のき、その写本の存在は伝説とさえ言えるほどになっていた。本当に存在するのか、どういう状態で保管されているのか、それを確かめるのが今回の主要な目的である。








大学キャンパス。涼しくて芝生に坐っている学生が多い。遠くにはモスクが見える。
カシミール大学

 カシミール大学は、素晴らしく整備された美しい大学だった。きれいに刈り込まれた並木、色とりどりに咲き誇る見たこともない花々、その中に規則正しく点在する各学部の建物。プネー大学の森に慣れていると、ここまで計画されて作られた壮大なキャンパスに感動してしまう。文学部は一番奥の建物で、サンスクリット学科はさらにその奥にあった。アラビア語学科の大きな看板の下に小さい看板がある。これだけで力関係が分かるというものだが、先生は主任教授と講師の2人だけで、学生も5人しかいないという。

 ここで教授にあいさつをして図書館に向かう。図書館は7階建ての大きな建物で、蔵書量は驚くほど多い。しかし未整理で、その上本棚が倒れて散乱しているのもあり、何がどこにあるか全然分からない。サンスクリットの本はヒンディーとごちゃ混ぜになっていた。写本もこの調子かと暗澹たる気分になる。

 しかし写本は別の部屋で厳重に管理されていた。係員が鍵を開けて中に入る。カタログを開くと、あっけなく『ニヤーヤ・マンジャリー』の写本が3つ、確認された。しかも同じカシミール人の著作である『ニヤーヤ・ブーシャナ』まである。カタログになければ虱潰しに探さなければならないと思っていたのでヒャッホーと小躍りしたい気分。番号を言って出してもらった写本は、いずれもシャーラダ文字(8〜10世紀にカシミールで用いられていた文字)という、貴重なものだった。

 問題はその次。写真撮影もコピーも不可なのである。つまりそこで見るしかない。デジカメでフラッシュはたかないと言っても「規則だから」とどうしても聞いてもらえない。仕方なく、翌日から毎日通って書写することになった。書写と言っても、コンピュータにあるデータと照合するというものでそれほど疲れる仕事ではないが目は疲れる。昨年の写本学で習ったシャーラダ文字が早速生きることになったのはよいが、普段見ない文字なので時間もかかる。どうしたものだろうか。

 それはさておいて、大学を後にしダル湖を遊覧。また警察のシカラに乗り、日が長いので8時過ぎまで湖上でのんびりしていた。湖上でも物売りの舟がひっきりなしにやってくるが、さすがに警察のシカラに近づいてくるのは少ない。少女が蓮の花を売りに来ただけだった。高い山と深い森に囲まれた湖の上をゆらゆら。

 この日はハウスボートをキャンセルしてタヒルさん家にステイ。11時ごろに夕食を食べて長い一日は終わった。

今日の観光スポット

ハズラトバルハズラットバル・モスク
ムハンマドの髪が安置されているという重要なモスク。祈りをささげていたら髪が天に向かって伸びたという伝説がある。現在あるものは改築されたもので、もとはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハンが建設した歴史ある建物。
カシミール大学の近く、ダル湖畔にある。セキュリティーチェックが厳しく、鞄の中を全部見られた。モスクの中に入るときにもさらに身体検査がある。


クッタルカーナクッタル・カーナ
「鳩の家」と呼ばれるマハラジャの別荘地。ダル湖の中央にあって、周囲は蓮畑で囲まれている。水上警察が駐留している。

チャールチナリ
ダル湖に浮かぶ小さな島。チナルの木が4本立っていることから名づけられた。ぽつんと浮かんでいるので湖岸からでもよく見えるが、シカラでしかいけない。昔はよく映画撮影に使われたという。レストランハウスボートあり。

破格

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ダル湖の遊覧船シカラ。後ろの山にはシャンカラ寺院がある。
ダル湖

 シュリナガルは、想像を絶する素晴らしいところだった。

 デリーから飛行機で1時間、雲を抜けるとインドらしくない風景が広がってくる。緑深い山々、湖、水を張った田んぼ。着陸したときには、小雨が降っていて肌寒いくらいだった。周囲は山に囲まれており、まるで日本、しかも東北地方に帰ってきたかのような錯覚を覚えた。連日40度を超えるカンカン照りのデリーから、避暑に訪れる人が多いのも納得できる。

 とはいえさすが紛争の火種になってきたところだ。飛行機に乗る前は2重、3重のセキュリティチェックを受け、飛行機を降りてからも観光客登録をさせられた(観光客の安全のためという名目)。空港も軍事施設のように物々しい塀があり、たくさんの軍隊を見かけた。もっとも、警戒を甘くしてテロが起こる心配と比べれば、これくらいの方が安心できる。

 空港を出るとたくさんの客引きが…って観光客登録のところにいた人が手引きをしていた。どこまでが公務でどこからがプライベートなのかわからない。「友達がいるので」と断っていたところにタヒルさん登場。「何だお前は」と観光客登録にいた人が公務の顔に戻る。ちょっともめた挙句、タヒルさんが自分の住所と電話番号を書いて決着。観光客登録の人は「ノー・プロブレム」などと言って帰っていく。

 外国人がシュリナガルに来るときの障害はこの2つであると思う。つまりテロと客引きの不安。テロについては、近年本当に平和なので外務省は退避勧告を早く解除してほしい。ここが退避勧告地帯になるならば、アメリカ合衆国はとうの昔にしておくべきだろう。客引きも、警察が必要以上と思えるほど厳しく取り締まっているのでぼられる心配はあまりない。問題はむしろ観光客が押し寄せて泊まるところがないという点にある。今や1ヶ月に10万人が訪れ、しかも長期滞在が一般的なので、混むのがよく分かる。

 タヒルさんはカシミール人。つくばで知り合ったバングラデッシュの留学生ジェニファーさんが紹介してくれた。タヒルさんとジェニファーさんはイスラム教徒つながりである。アメリカナイズされたキリスト教やヒンドゥー至上主義によるとイスラム教徒は全て悪者になってしまうが、その大部分は私たちと何ら変わらないごく普通の人たちである。偏見をもつのはたやすいが、取り除くのは容易ではない。

 タヒルさんのお父さんは警察署長まで務めた人で、叔母さんも現在、警察の要職に付いている。タヒルさんとは何度もメールのやり取りをして、シュリナガルの安全状況を訊いてきたが、家族が地域を守っているから安全だというのには説得力があった。しかし、インドの警察の本当の力を思い知ったのはシュリナガルに着いてからである。








湖上に浮かぶハウスボート。宿泊料金はランクによって異なり、300〜5,000円。
ハウスボート

 タヒルさんの車でちょっと走ると、湖が見えてきた。湖には大きな船が何艘も浮かんでいる。シュリナガル名物ハウスボートである。かつてイギリスがここを避暑地にしたとき、王様が土地を貸してくれなかったので湖に豪華な船を浮かべていたのが今につながる。美しい彫刻をあしらった船がずらりと並ぶさまは壮観である。湖岸からはシカラという小さな船に乗っていく。

 このハウスボート、今が最盛期でみんな泊まりたがるためなかなか部屋が見つけられない。タヒルさんが湖岸に着いたとき、叔母さんが待っていた。叔母さんが、警察の力で空き部屋を探してくれたとのこと。本当のところは予約でいっぱいだったのを、何とか空けさせたというところだった。さすがインドの警察である。叔母さんに感謝を述べたら、「それには及ばない」と笑って職場に戻っていった。叔母さんの肩章は星3つで、ボディーガードがいつも2人付いている。こういうのを無敵というのだなあ。

 その後叔母さんの部下がハウスボート行きのシカラを手配してくれ、夜に再び行ったときには警察官がじきじきに警察専用のシカラを運転して連れて行ってくれた。タヒルさんの車で案内してもらう途中についでに乗せた警察官はお父さんの元部下。いかつい銃を持っている3人組がタヒルさんと談笑している。こちらはびびり通し。

 雨足が強くなって予定していた公園は見られず、タヒルさんの家に遊びに行って家族の皆さんと食べたりしゃべったり。娘の写真を見せたら家族みんなが集まってきて「人形みたい」と言われ、いい気になる。おやつのつもりが、ナッツ類、お菓子、グレープジュース、サフランティー、カシミールカバブ、チキンカレーと次から次へと美味しいものが出てくる。すっかりお腹いっぱいになって、ハウスボートに帰ってからは夕食がほとんど食べられなかった。

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