おの: 2004年11月アーカイブ

石窟寺院めぐり

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 日本人10名ほどでバスをチャーターしてプネー近郊の石窟寺院めぐり。
 石窟寺院とは断崖になっている岩山に横穴を掘って作った寺院。ストゥーパが置かれた本堂(チャイティヤ)と、僧侶たちの住まい(ヴィハーラ)からなる。時代は紀元前200年〜紀元後200年まで上座部が作ったものが第一期,それからしばらく空いて紀元後5〜7世紀に大乗仏教が作ったものが第二期.あとは場所によって金剛乗(密教)や,ジャイナ,ヒンドゥーが後代になって相乗りしたところもある.
 第一期は偶像崇拝を避けて仏像が彫られず,本堂でもストゥーパ(卒塔婆〈そとうば〉の語源となったモニュメントで丸いドーム状の置き物)が本尊になっていた.シンプルな作りになっている.第二期になると大乗仏教徒が盛んに仏像や菩薩像を彫り始める.その上豪奢な彫刻まで残し,壮麗な寺院となった.どちらがいいかは,好みである.
 プネーやムンバイのあるマハーラシュトラ州というところはデカン高原の入り口になっていて,こうした断崖が多いため,石窟寺院が盛んに作られた.そして山の高いところや森の深いところに作られたのが幸いして,破壊を免れて現在に至る.これまでにマハーラシュトラ州全体で23箇所,合計900の石窟が発見されているという(うち400はJannarというところに集中しており,あとはだいたい1箇所あたり10〜20ぐらいずつ).
 有名なのはアジャンタとエローラで,高校の世界史でも習うほどだ.その2つもプネーから1泊すれば十分回ることができる.だが今回訪れることになったのは,通好みの石窟寺院,カルラ,バジャ,ベルサ,シェラルワディという4箇所.いずれもムンバイとプネーの中間に位置し,駐在員の方々はよく行っている様子だった.
 険しい山を登った先にある,当時の仏教の繁栄を物語る壮大な彫刻にしばし心を奪われた.
カルラカルラ(Karla/Karli)
 実は本堂の大きさがインドで一番大きい(525平方メートル)というところなのである.2番目に大きいアジャンタでも369平方メートルで,群を抜いているのが分かる.ただ建設は紀元前1世紀くらいと,やや新しい.他の寺院に負けじと頑張って掘ったのだろう.
 現在はヒンドゥー寺院が出店していて,そこへお参りに来る人と,ピクニックに来る若者・家族連れで大いに賑わっている.中腹まで車で行くことができ,あとはちょっと登るだけで見晴らしのいい高台に上がれるのもいいらしい.入場料はインド人5ルピー,外国人100ルピー。プネーに住んでいることを主張したが,聞き入れられなかった.「インドに高い税金払ってんのに,またここでたくさん取られるのは解せない!」と駐在員の方が言っていた.
 本堂に入ると中央奥にストゥーパがあり,両脇に柱が並んでいる.柱にはブラーフミー文字(お釈迦様の時代から全国的に使われていた文字).後で調べたら,寺院への寄進者の名前が彫られているらしい.どこのお寺も同じだなあと思う.当時はここに僧侶が住まい,在家信者の寄進で暮らしていたという.
 階段を登る参道はずっと両脇に商店が並び,お供え物や軽食,音楽テープ,サリーまで売っている.人もわんさか集まり,駐車場は満車.ムンバイから来たという高校生の一団などがいて,口笛を鳴らしたりしていた.にぎやかさが印象に残る場所だった.

バージャバジャ(Bhaja)
  カルラの近くにある寺院.こちらは最初から徒歩で行くほかなく,かなり登ったところにある.でも石の階段がよく整備されており,登るのに苦労はない.登ったところでまたもや入場料100ルピー.
 ここは小さいリンガ(シヴァ神の象徴)が申し訳程度にあるだけでヒンドゥー寺院がなく,インド人で来ているのは単なるピクニックである.それでもなかなか賑わっていた.お年寄りも見かけられ,あれだけの階段をサンダル履きでよく登ってきたものだと感心する.
 駐在員の松田さんが仰っていた通り,規模は小さいながらも趣のあるところだった.むき出しの岩がかなり残っており,また掘ったところが一部崩れていて,そのため断面図のように構造が分かって面白い.また,14基のストゥーパがずらりと居並ぶところも面白い(普通はひとつの本堂に1つずつ).ストゥーパ屋さん? それとも過去七仏・未来七仏? 不思議だ.

バルセベルサ(Bedsa/Badse)
 少しプネー方面に近いところにある寺院.途中から舗装がなくなり,村を抜けたところでバスを降りると,またしも長い長い階段を登る.まさに今階段を建設しているところで,8割方完成していた.入場料はなかったが,階段が完成した暁には100ルピーになるのかもしれない.そうでなかったらおかしいと思えるほどの立派な階段だった.
 この寺院は,最初期である紀元前2世紀に作られたものだという.その後大乗仏教が5世紀に入って彫刻をほどこした.前方の岩(写真右側にちらりと見えている)を残したままで奥だけきれいに整備した点が特徴.そのため中は日がほとんど当たらず,とても涼しかった.幹線道路からも遠く,山も険しく,しかも入り口が狭くなっているという条件が揃っており,保存状態のよさは抜群.彫刻もひとつひとつ非常に鋭利な形で残っている.
 11月末とはいえ,日中の温度は30度を超え,乾期で太陽の照りつける中で階段を延々と登れば汗だくになる.もう3つ目ということもあり,登ったところでみんな腰を下ろしてへたっていた.
 しかしここにも家族連れ.赤ちゃんを連れてよくここまで登ってきたものだと思うと,インド人根性にまたもや関心.空気はうまいし,見晴らしはいいし,涼しいし,上り下りは健康にいいしで,石窟寺院は人気の観光スポットなのかもしれない.

シェラルワディシェラルワディ(Shelarwadi)
 プネーから20キロほどしか離れていないところにある小さな寺院跡.ここは現在,シヴァ寺院になっていた.入り口に牛の置き物があり,そこにいるおばちゃんに聞いても「仏陀?ストゥーパ?ヒンドゥー寺院ならあるけど…」という反応.小島さんが新聞社に問い合わせて調べておかなかったら,引き返していたかもしれない.
 小さいとはいえ,山をずっと登っていくことには変わりがない.みんなかなり疲れている様子.ゆっくり登ろうかな…と思ったところに,元気のいいおじさんが犬を連れて現れた.「ここは何のお寺ですか?」「偉大なるシヴァ神」と答えつつ,ものすごい速さで登っていく.私も負けじと付いていった.登りながらおじさんは「シヴァシャンバウ…」とシヴァ神の名前を唱え続けている.犬もすたこら階段を登っていく.付いていくうちに.勢いであっという間に寺院まで来てしまった.
 本堂だったと思われるところは見当たらず,僧院跡を改造してシヴァ寺院にしていた.リンガの周りを参拝し始めるおじさん.どうも毎日来ているのではないかと思われる.
シェラルワディの頂上 その奥に一歩足を踏み外したら崖の下という険しい道があり,そこを登っていくとまたもや僧院を改造したやや小さめのシヴァ寺院が現れた.こんなところに僧侶が住んでいたなんて…と思って横を見ると,さらに登る道があるではないか! 不安になりながらも,やたら危険な道をそろそろと登っていく.すると次第になだらかになり,山の頂上が見えてきた.
 何とここに,一件の寺院が建っている.そしてヒゲの長い聖者と,子供連れのおじさんがいた.あっけに取られていると,聖者が「入れ入れ」というので寺院に入り,そこでまたリンガを見る.お参りして出てくると,水を出してくれた.とても怪しくて飲む気にならなかったが,聖者が「大丈夫,濾過しているから」と(英語で)言い,しかもみんなが見ているので仕方なく飲む.なかなか美味しかったし,お腹も大丈夫だった.
 そうしているうちに,他の人たちもやってきた.聖者は珍しい来客を喜び,チャイを作り始める.それを飲みながらしばらく歓談した.聖者は,何とこんな山のてっぺんにある寺院に住んでいるという.サンスクリットはわからなかったが,何となく心の中を見透かされているような気がした.
 歓談していると「シヴァシャンバウ…」とまた聞こえてきた.先のおじさんが下からお参りを終えてここまで登ってきたのだ.あの命がけの険しい道も彼にとっては日課になっているようだ.帰り道もそこを通るのかと思って聞いてみると,安全な近道があることが判明.おじさんが案内してくれ,そこを通って帰る.おじさんも,帰りはそこを通るようだ.
 寺院自体は見るべきものがほとんどなかったが,人との出会いがここで一番の収穫だった.できればまたあの聖者に会いに行きたいものである.
 帰りはもうひとつ,仏教学者アンベードカル博士の寺院をちょっと見学.図書館で生活し,1日20時間勉強していたというマハーラシュトラの偉人である.新仏教を代表する近代的な寺院で,その大きさに驚いた.
 こうして解散は夜7時30分.実に10時間に及ぶ旅行で,階段の上り下りの連続はみんなこたえた模様.私はというと,自転車通学とヨーガのおかげかそれほどつらくなかった.インドに来て健康になったのかもしれない.またもやバスのチャーターからルートの下調べまでお世話になった小島さんにはとても感謝したい(写真提供:小島氏(シェラルワディ1枚目)).

 葬式仏教というあり方をもつ現代の日本仏教の問題を知るための本をご紹介します。仏教学者が書いた歴史的な経緯や教学的な問題は、現実とのリンクがどうしても薄くなりがちです。そのような本は巷にたくさん見ることができますので、ここでは、現実から出発し、現状に否定的な論調の本を中心にし紹介します。

 中には極論に走っているものも少なくありませんので、人によっては刺激が強すぎるかもしれません(御覧の方が僧侶の場合は特に)。しかし、感情的になることなく、また内輪に走って耳をふさぐことなく、あるいは現実に目を向けないで教義を弄ぶのでもなく、なぜこのような本が世に出るのかということを冷静に考えながら、どうやって問題を乗り越えるべきかをより多くの人と一緒に考えていきたいと思い、あえてこれらを掲載いたします。  僧侶がこのような本を紹介するのは自虐的で、益なしと思われる方がいるかもしれません。しかし、僧侶は全体としての責任もあるはずです。その責任を引き受けずに、自分だけ関係のない顔をしていることはできないと思います。

 ご質問、ご意見をお待ち申し上げます。

今のお寺に仏教はない―既成仏教教団の宗派別問題点―
(著 遠藤誠/現代書館)
 ―法曹界にいた著者が、仏教を求めて遍歴した結果、現代の既成教団の堕落をまざまざと思い知って、各宗派が宗祖の教えにどれほど違背しているか個々の事例を挙げながら厳しく糾弾する。ちなみに曹洞宗は戦争責任・皇家への歩み寄りが問われている。

「葬式に坊主は不要」と釈迦は言った―故人も成仏、遺族も納得の葬式とは―
(著 北川紘洋/はまの出版)
「私の葬式はいいから、自分自身の修行に専念しなさい」とのたまった釈尊の時代のインドから、現代に至るまで葬式や法事という行事がいかにして恣意的に作られてきたかを検証し、僧侶と一般人どちらにも責任を問うとともに、日本における宗教改革の可能性を示唆する。

仏教テレフォン相談10万件の中身 寺と僧への世間の期待と批判・苦情≪葬儀・戒名篇≫
(編 仏教情報センター/国書刊行会)
「葬儀の際、遠方を理由に来てくれなかった菩提寺から、後日100万円の戒名料などを請求された。払えなければ墓地を移転するように言われた。」といった生の苦情を記し、僧侶が現状と課題を分析している。

お坊さんといっしょ
(編 別冊宝島編集部/宝島社・別冊宝島218)
僧侶をめぐるノンフィクション・ドキュメンタリー。僧侶の生活から、家族、事件、そして将来の悩みまで密着取材。決して「坊主丸儲け」ではない、現実の世界で悩みのつきない僧侶の姿を舞台裏から知ることができる。

悪い坊主―なまぐさ坊主でどこが悪い!!―
(著 田村恵照/データハウス)
現役の僧侶が匿名で僧侶の裏側を暴露した本。一介の人間としての弱さ、強欲、不信心、好き嫌い、我が侭、そして悩みが本音で語られている。世の中にはここまできた僧侶もいるのだと思い知るであろう。

電話格闘記(5)

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これまでの経緯は電話その2その3その4参照。ところがまだ続きがあったのである。

電話線は確かにつながっていた。ダイヤルアップ接続でインターネットができるようになったことで目的の大半は達成されたといってもいい。しかし問題は電話機だった。

家に電話をかけてくるのはI氏かK氏か日本の実家ぐらいのもので、電話を設置してしばらくは気づかなかったが、日本から電話があったときに異変に気づいた。電話が鳴ったので受話器を取ったが何も聞こえない。「ハロー、ハロー?」無言電話か混線と思い切ったらすぐに携帯のに電話がかかってきた。どうやら私の声は聞こえるが、相手の声が聞こえないらしい。受話器がおかしいのか、電話機がおかしいのか分からない。

ひとまず不動産屋のプラモードに言ってみた。「わかった。電話屋を見つけたら行っておくから待っててくれ。」…いつものパターンの始まりである。今まで何回これを繰り返したことだろう。今度は自ら電話屋を見つけて頼んだが、「OK。明日行く」と行ったままずっと来ない。私も諦めがついていて、そのまま1ヶ月が過ぎた。

1ヵ月後思い出して、プラモードに言いに行くと驚いている。「言っておいたのになんて怠慢な奴なんだ。分かった。今度俺が連れてきてやる」…そして2週間。インターネットはよく使っているので電話代の請求書が届く。I氏が電話局に行って交換してもらったらどうかと提案するので、電話代を支払うついでに持っていくことにした。プラモードが「この電話はこっそり引いたものだから、電話局に行かないでくれ。俺が何とかするから」と言っていたがもう信用しない。電話屋のせいだということを差し引いても、この件で彼は株を落とした。

引っ越してから電話代を払うのは初めて。市内に10以上ある電話局のどこで支払ってもいいが、現金支払いを受け付けているのは私の知る限り3ヵ所しかない(後は小切手支払い)。行き慣れているナル・ストップの電話局までわざわざ行って支払った後、電話を修理できるか聞いたら、あなたの住んでいる地域ならガネーシュナガルの電話局に行けという。教えてもらってリキシャーで行ったが空港に近いかなり離れた電話局だった。

電話機を出して電話番号を告げる。係のおじさんは電話機をチェックしていたが、壊れているのを認めたらしくあっさり別の電話機に交換してくれた。プラモードが心配していたような心配はなかった。係のおじさんは電話機のメカニカルなことにしか関心がないようだった。呆気ない幕切れにほっとしたような肩透かしを食らったような気分。

約5ヶ月かかった。というわけで今、自宅にちゃんと機能する電話機がある。しかししょっちゅう断線してつながらないのと、つながったと思うと間違い電話が多くて困っている。電話をかけてきて聞きなれない声が聞こえると「誰?」と言ってガチャンと切る。何なんだろう。

仏蹟(4)ナーランダ

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ここが燃えに燃えたという図書館跡。3階建てだったという
ナーランダ

ラージギルを出てバスで15分、ここも馬車かサイクルリキシャーしかない。値段を交渉して馬車に乗り10分。ナーランダ大学跡に到着した。政府が発掘と整備を今も進めており、例によって外国人料金が設定されている。残念ながら博物館は金曜日休館。
ナーランダは世界最古の大学があった場所だ。もとは仏弟子シャーリプッタとモッガーラナの故郷で、仏陀も時々訪れていたところ。仏滅後もシャーリプッタの高名のため寺院が作られ、ナーガールジュナ(竜樹)を輩出している。大学になったのは5世紀で、12世紀まで続いた。7世紀にやってきた三蔵法師はここで5年間学び、当時ここに3000人の教師、10000人の生徒、900万冊の写本があったことを伝えている。門戸は狭く、入試があって10人中2人ほどしか通らなかったという。倍率5倍というわけだ。主として仏教が教えられたが、論理学、文法学、物理学、数学、薬学、なども学ばれていた。仏教論理学で名高いシャーンタラクシタはここの卒業生で、チベットに招かれて仏教を広めた。
滅びた原因はシャンカラ(ヴェーダーンタ学派)やクマーリラ(ミーマーンサー学派)など賢人を輩出したバラモン教の台頭、タントリズムの流行、仏教教団の中の分裂が挙げられるが、決定的なのはムガル帝国による弾圧で、図書館に火がつけられ6ヶ月間燃え続けたという。焼失した写本が今に伝わっていたら、仏教研究はもっともっと盛んになったことだろう。とても悔しい。ガイドは壁を指差して「この辺りが黒くなっているのが火事の跡だ」と言う。
ムガル帝国にだいぶ破壊されたものの、他の遺跡と比べてまだ原型をとどめている。11の建物は周辺が寮、中央が教室になっていて、井戸や浴室、排水溝なども残っている。寮は1部屋に2人住むようになっており、奥が先輩、手前が後輩だったという、ベッドのわきには本棚も。大学といっても僧院なので、麻雀をしたり酒を飲んだりするような真似は絶対にできなかっただろう。ひたすら勉強と崇拝に打ち込むしかないのだ。今なお残る10世紀前後の難解な書物は、このように世間から隔離されたところで長大な時間をそれだけに費やした結果生まれたものなのだろう。私も向学心をもっともっともちたい。
仏像などは全くないのだが、大学の雰囲気が気に入って4,5時間ほど滞在した。帰りはガヤーまでバス。ちょうどディワーリー(ヒンドゥー新年)の日で、全ての家で窓や屋根にろうそくやランプの火を点しているのが見える。全戸で電気まで消して雰囲気があるなあと思ったら、電力会社が2時間、サービス停電にしているのだそうだ。そんなの聞いたことない。宿泊はまた「ブッダホテル」。翌朝発の列車でプネーに向かったが、待ち時間を入れて35時間かかったので帰宅は翌々日である。

仏蹟(3)ラージギル

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ラージギル


今もなお 鷲の高嶺に 月ぞすむ
人は入佐の 山とおもえど


ブッダホテルを早朝に出発にして、オートリキシャーでナンディニ・パークというバスターミナルまで30分。そこからバス「ビハール・シャリフ」行きに乗って2時間30分、90円。小高い丘に囲まれた旧都ラージギルに到着した。ホテルでは5時間かかると言われていたが、日本政府ODAによる舗装道路は快速だった。
ラージギル(ラージャグリハ)は仏典で王舎城と呼ばれる仏教にかかわりの深い土地だ。ラーマーヤナやマハーバーラタの時代にまで遡る記録に残っているインド史上最古の都で、仏陀の時代にはビンビサーラ王とその息子のアジャタシャトル(アジャセ)が統治しており、仏陀はこの2人によく招かれた。ビンビサーラ王が予言者から「あなたは今度生まれてくる息子に殺されるでしょう」という予言を受け、生まれてきたアジャタシャトルを幽閉する。しかしアジャタシャトルは母の助けで脱出、そして王を殺して自分が王座に就く。後に深い後悔に苛まれたアジャタシャトルは仏陀に帰依するのだが、この話がもとになってアジャセ・コンプレックス(ファザコン)という心理学用語が生まれた。
周囲を5つの山に囲まれ、攻め込まれにくいようになっている。それぞれの山はほどよい高さで、道があれば頂上まで30分ほどで登ることができ、それぞれの山の頂上にはジャイナ寺院が建てられている。その例外がラトナギリ(多宝山)で、ここには日本山妙法寺の藤井日達(にちだつ)上人が1969年に開いた世界平和塔(シャーンティ・ストゥーパ)がある。ここにはロープウェイのリフトが日本人(の資金)によって作られており、仏教徒か否かを問わず観光の目玉になっている。
しかし仏蹟として注目すべきはそのストゥーパではない。そのすぐ近くにあり、数々のお経の舞台となる霊鷲山(りょうじゅせん・グリッダクータ、サンスクリット:グリドラクータ)である。ロープウェイ乗り場から歩いて頂上まで20分ほど。ここも日本人(の資金)によって道が整備されており、とても登りやすい。「霊山橋」と名前のついた橋までかかっている。頂上には大きな石が斜めに突き刺さったようなかたちをしており、これが鷲の頭に似ていることから名前が付けられたが、今でも崩れずにそのままの形をとどめていた。
仏陀はラージギルに立ち寄ったとき、竹林精舎(ヴェーヌヴァーナ)に住まいつつ、ここまでわざわざ登ってきて説法を行ったとされる。経典が編纂されるのは仏滅後だが、その第1回仏典結集がこのラージギルで行われたということもあってか、冒頭が「このように私は聞きました。ある時、仏陀は王舎城の霊鷲山で...」と始まるお経が多い。法華経、般若経、観無量寿経などがそうだ。多くの場合がフィクションだとしても、この山に登ると祇園精舎にいたときのように仏陀の声が聞こえてくるようだ。しばらくの間坐って、般若心経と高嶺の御詠歌をお唱えしたが、その間訪れる人は誰もいなかった。
そこから3キロほど離れた別の山のふもとにある竹林精舎は整備され、外国人料金50ルピーで入場するようになっている。確かに竹が生えていて、その中央に仏陀が沐浴したというカランダ池がある。ここも人があまりおらず閑静な場所だった。そのすぐそばには大理石でできた日本山妙法寺がある。門前のチャイ屋は1杯5ルピーとか言ってきたので怒ったら3ルピーになった(喫茶店や空港などを除いて、チャイは1杯2〜3ルピーである)。
さらに山に近づくと、シヴァ寺院になっている温泉精舎がある。温泉が湧き出ており、これが癒しの効果を持っているとかで近くの住民が沐浴や洗濯をしている。入る気はせず、ちょっと眺めていたらバラモンがお祈りにやってきた。「仏教徒ですから」と断っても「(俺は)ノー・プロブレム」と言ってシヴァ・リンガを参拝させ、温泉に足まで浸からせ、その都度お布施を要求してくる。財布を開けて10ルピーを出そうとすると「100ルピー札があるじゃないか」などと言ってくるのでこちらも「私もプリーストだぞ。そういうやり方は...」と怒る。それで退散するかと思いきや、今度は「彼が仏教のプリーストだ」と次なる相手を......。ほかにも何人かから声をかけられた。ここに住み込んでいるバラモンではなく、早朝や夜に行けばいないらしい。でも温泉にちょっとだけ浸かることができたし、写真も撮らせてくれた(本当は禁じられている)のでよしとしよう。
この温泉精舎から20分ほど山を登っていくと第1回仏典結集が行われた七葉窟(サプタパルニー・ゲーハ)がある。窟といっても岩の下に隙間があるといった感じで、近くにあるシヴァ寺院の管理の関係上、午後3時以降は登山できない。そのため翌朝また行く羽目になってしまった。ジャイナ寺院の奥に何かあるのかと思い獣道を茂みをかきわけながらしばらく進むと、見晴らしのいい高台を見つけた。でもそのあたりは白いサルがたくさん生息していて、こちらの様子を絶えず伺っていたのが少し怖い。








タンガ。サンスクリット語のトゥランガ(速く走るもの=馬)に由来する
タンガ

というわけで見どころ満載のラージギル、それぞれが離れたところにある上、山を登らなければ見られないものがあるので時間がかかる。ホテルはバスを降りてすぐ近くの「ホテル・アーナンダ」(1泊250円)。移動はほとんど馬車だったが、これがなかなか快適。馬の状態によって全部速さが違うのが面白い。どなられてもぶたれてもちょっと足を早めただけですぐ元の速さに戻る。御者もあまり観光ずれしておらず、素朴な人が多い。馬車に揺られながら、馬のたてがみを見て何ともいえぬくつろぎを覚えた。この街には、オートリキシャーが走っておらず、時々バスが駆け抜けるほかはこの馬車かサイクルリキシャーしかいない。そのため空気が澄んでいるのが嬉しかった。
起伏のある地形と、見慣れない乗り物。これだけでわくわくしてくるものだ。結局ここには1日半、行ったり来たりしながら過ごした。これだけいたのに、時間がなくてロープウェイに乗れなかったのは残念である。またもう1度来てみたいと思う。
夜に市場に出てみると、サイクルリキシャーのおじさんたちがヒマそうにしている。日が暮れると客足も途絶えるのか、雑談しながら1日の疲れを癒している。そこに混じって馬車の値段の話や仏陀の話などに花を咲かせる。「仏陀は人間の姿をした神様だからねえ」「いいえ、仏陀は人間です。だからこそ人の苦しみを知り、それを乗り越える方法を示すことができたのです」などと異教徒相手に布教モード。最初に女を買わないかと言ってきたおじさんは、リキシャー仲間に追っ払われていた。

ボードガヤ

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11月1日からヴァラナシでの学会とコルカタでの調査で北インド。それに付随してまだ訪れていない仏蹟を巡礼している。
今日はボードガヤ。お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開かれたところで、仏教の四大聖地の中でももっとも重要かつ豪華な場所だ。
ここに来るまで知らなかったのだが、お釈迦様は菩提樹の下で悟りを開かれてから7週間を、近くを転々として過ごしたという。つまり7つの瞑想スポットがわずか100メートル足らずのエリアに集中している。

  1. 菩提樹・・・麻原彰晃が座ってから厳重に柵が作られた金剛座

  2. アニメーシャローチャナ・ストゥーパ

  3. チャンクラマ・チャイティヤ

  4. ラトナグラハ・チャイティヤ

  5. アジャパラ・ニグローダ樹・・・ここでスジャータの乳粥を受け取る

  6. ムチャリンダ湖・・・本当はここから1.5キロ離れたところにある

  7. ラージャヤータナ樹・・・この後1に戻り、49日が満了。説法のためサールナートに向かう。


この7つを順に回ってお拝をしていくのはオリエンテーションのようで面白く、15分ほどで終えると深い満足感を得た。
明日は霊鷲山(りょうじゅせん、ラージギル)。眺望がすばらしいとのことでまた楽しみである。

仏蹟(2)ボードガヤ

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ボードガヤー

明けの星 仰ぐ心は 人の世の
光となりて 天地(あめつち)にみつ
ボードガヤ(ブッダガヤ)は釈尊が悟りを開いて仏陀になった土地で、仏教の四大聖地の最も重要な場所とされる。生誕の地ルンビニと涅槃の地クシーナガル、初転法綸の地サールナート、そのどこよりもたくさんの信者が参拝しており、活気があった。これもひとえに世界遺産にも登録されている大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)によるものだろう。アショーカ王が紀元前3世紀に建てたのが始まりで、その後シヴァ寺院になったり、しばらくは打ち捨てられたりしていたが、ビルマ人の僧侶が19世紀から修復運動を始めて今日に至る。寺院の裏手には菩提樹が葉を広げており、その根元に釈尊が座っていた場所とされる金剛座がある。ここには今もなお見えない力が漲っており、それが僧侶や信者を引きつけてやまないような気がした。
半年に及ぶ苦行と瞑想の末、苦しみに満ちたこの世から逃げ出すことを諦めたとき、自身の感覚が研ぎ澄まされてくる。呼吸、鳥の鳴き声、木の葉、そして太陽の光―釈尊は考えることをやめ、それらをあるがままに受け止めた。バラモン教が説くアートマンはなく、全てのものが無我であると悟ったとき全ての邪見は消え去った。そして大樹の下で黙想し、何日か後、深い黙想状態に入っていた夜が明けたとき、全てを悟って仏陀となった。西暦前528年、春の満月の日だったと言われる(日本では12月8日が成道の日とされている)。その大樹は仏陀にちなんで菩提樹と名づけられ、この地もブッダガヤと呼ばれるようになる。
この後仏陀はサールナートに赴いて最初の説法を行うことになるのだが、その前にここで49日を1週間ごとに場所を変えながら過ごしたと言われる。まず第1週は菩提樹の下、金剛座にて。
アニメーシャローチャナ・ストゥーパチャンクラマナ・チャイティヤ第2週は少し離れた場所で立ったまま、菩提樹を見つめ続けていたという。その場所には「アニメーシャローチャナ・ストゥーパ(瞬きをせずに見ていた塔)」があり、中には目をぎょろりとさせている仏陀の像が祀られている。
第3週は再び瞑想をしつつ、菩提樹のまわりを行ったり来たり歩いた。そこには蓮の花が咲いていたということで、現在は石で作られた蓮の花が18個並び、仏陀の足跡を表す。

アジャパ・ニグローダラトナグラハ・チャイティヤ第4週になると菩提樹のすぐそばでアビダンマ・ナヤと呼ばれる深い瞑想に入る。ラトナグラハ・チャイティヤという建物が目印。
第5週はアジャパ・ニグローダという別の木の下に場所を移して瞑想を続け、ここでガリガリに痩せていた仏陀にスジャータという村娘がキールという乳粥を捧げる。

ラージャヤータナ樹ムチャリンダ湖第6週は、やや離れたところにあるムチャリンダ湖。この湖の底に住むコブラの王様ムチャリンダが瞑想を妨げに来た魔羅と呼ばれる悪魔から仏陀を守った。
第7週にいた場所はラージャヤータナ樹が目印になっている。ここで人類を苦しみから救おうという誓いを立て、2人の商人タパッスとブリアリカから食べ物の布施を受けて、再び菩提樹に戻る。そして菩提樹に礼拝した後、この地を去ってサールナートに赴いたという。
さて私がコルカタ発の夜行列車でガヤー駅に着いたのは午前5時。駅前にある「ブッダホテル」にチェックインした後、オートリキシャーでボードガヤに向かった。約10キロの道のりは霧がまだかかっており、非常に寒かった。夜がだんだん明けてくる。これぞまさに仏陀が悟りの朝に見た太陽なのかと思うと感慨深い。
大菩提寺は入場料一切なしで自由に入ることができる。中は意外と狭く、そしてフローリングがしてあったり仏像がやけに金ピカだったりもするが、ほっとする温かさだ。朝早くから僧侶や信者が集まってお経やお拝を捧げていた。私もその中に混じってしばらく坐ってみる。何か大きいものに守られているような安心感があり、気持ちがとても落ち着いた。
境内はたくさんのストゥーパがあるがそれほど大きくはなく、ものの15分ほどで1周してしまう。朝ごはんを食べようと出ると、予想通り物売りが菩提樹の葉を売りに来た。ヴァラナシ以来、物売りには極度の警戒感をもっていた私はやや強い口調で断って、朝ごはんのドーサを頼んだ。しかしこの時点でまだ9時。はてこれから1日どうしたものかと考えていると、またさっきの物売りが朝ごはんが終わったかと言ってやってきた。土産はさておき、近くを案内するというのだ。お金は好きなだけでいいと言ったが、50ルピーとこちらで指定した。渋々了承するその男。
彼の名前はバッチュ・シン。後を付いていくと自転車を出してきた。この後ろに乗れという。でこぼこ道を自転車に揺られながらのんびり。市場を抜けて橋を越えると、そこにはのどかな村が広がっていた。通りすがりの人が珍しそうに私を見る。道はだんだん狭くなっていき、途中から自転車を置いてあぜ道を歩いていく。「ここはサイクルリキシャーでも来れない。自転車が一番さ」などと得意げなバッチュ。最初に連れてきてもらったのは仏陀に乳粥を捧げたスジャータを記念して作られたストゥーパだった。発掘された後があるが、古いレンガが残る小高い丘に過ぎない。
スジャータ寺院そこからまたしばらく歩くとスジャータ寺院。裏にはビルマ人が建てたもう1件のスジャータ寺院があり、さらに近くにはシヴァ寺院がある。ここではガリガリに痩せてあばら骨が浮き出ている仏像にスジャータが捧げものをしている像が祀られている。それほど古いものではないようだが、大菩提寺からずいぶん離れているにもかかわらず、こうして丁寧に祀られているのはありがたさを感じた。寒村に暮らしながらなけなしの一杯を勇気をもって差し出したスジャータの慈悲は、釈尊を通してはるか遠く我々のところまで届いている。
そして釈尊が成道後第6週を送ったとされるムチャリンダ湖へ。大菩提寺の境内にある湖はコピーだという。これがなかなか遠くて、2キロはあったのではないかと思われる。朝とは比べ物にならないほど暑くなってきたので、バッチュは途中自分の家に寄ってセーターを脱いできた。子どもたちが家から出てくる。4人の子どもがいるそうだが、バッチュの年令は私と同じだった。
それからフランス人が創設したという孤児院を案内される。ヴァラナシだったらもうこの時点で寄付を要求されるのを覚悟しなければならないだろうが、1時間見学して帰るまで、寄付の「き」の字も出てこない。バッチュはただ自分の村にある珍しいものを見せたくて連れて来たのだし、孤児院の先生方も子どもも珍しい外国人が来たということを喜んで迎えるのだった。私の心はここでほぐれた。
このところビハール州は天候不順続きで、農家には大きな打撃を与えている。その結果生活が困窮し、みなしごや捨て子が多く出た。そうした子どもたちがこの学校で生活しながら勉強している。フランス人の校長先生が里親制度のようにしてフランスから経済的支援をしてくれる人を探し、経済面をまかなっているという。英語と算数の授業を見せてもらったが、教育メソッドはユネスコのものを取り入れているとかで、充実した内容に見えた。特に授業中に私語を禁止せず、思ったことをどんどん言わせるやり方は子どもたちも楽しそう。始まってまだ3年というが、ここの卒業生がインド国内外で活躍する日が期待される。
再び大菩提寺に変える途中、バッチュは草むらにある石碑に祈りをささげた。彼の亡き父親のモニュメントだという。この辺りでは、お墓はないがこうした石碑がところどころにある。そしてそこはバッチュの家の田んぼだった。この田んぼでバッチュの先祖たちは、数え切れないほどの時間を仕事に費やしてきたのだろう。そしてバッチュも土産売りの合間をぬって、この田んぼを耕しているのだ。このとき、自転車をこぐ彼の背中がとても大きく見えた。
半日近くまわって50ルピーとはあまりに安すぎるが、それは約束。その代わりバッチュがもっていた土産を見せてもらい、仏足を拓本にした布や、菩提樹の木の皮に掘った仏像などを多めに購入した。バッチュはこれが嬉しかったのか、昼食を食べるところまでずっと一緒にいてくれ、手紙をくれと住所まで教えてくれた。もっとも、住所を書いたのは別の青年で、バッチュは字の読み書きができない。こういう人間に出会うことができたのは、幸せなことだった。
帰りはガヤーまでテンポ(オートリキシャーよりちょっと大きい乗り物)。行きは一人乗りだったので80ルピーかかったが、帰りは相乗りで10ルピー。ブッダホテルは駅前なのに1泊150ルピー。一見刑務所の独房のような感じだが、テレビまで付いていたる。お湯は頼んでもってきてもらうが、バケツ1杯のお湯を用意するのに30分かかる。ビハールは噂どおり停電の多い街だったが、その分どこのホテルにも大きい自家発電機が付いていてあまり困らない。方々の自家発電機から出る黒い煙が、街中を煙たくしているぐらいのものだ。
聖地を見たその日に不謹慎なことであるが、駅前のレストランでビールを飲んだ。料理を注文したらボーイが小声で「ビールありますよ」とささやいてきたのだ。頼んでみるとビール瓶には新聞紙が巻かれている。ヒンドゥー教もイスラム教もこの地は厳格で酒に対する目が厳しい。しかしだからと言って新聞紙を巻いたら余計目立ってしまう。周りの人たちもちらちら見ているような気がして、不謹慎感が5倍ぐらいに高まった。

2004年11月10日(水)-----
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夜行列車を予約したので翌日は1日観光となる。コルカタはムンバイ以上に建物や公園があるところだが、私は2つに絞ってみることにした。ひとつはカーリー寺院、もうひとつはインド博物館である。カーリー寺院の話はお食事中の方注意なので、行った順序と逆に書く。心臓の弱い方は、博物館の記述が終わったら読むのをやめてほしい。

インド博物館は、その名の通りインド最大の博物館。デリーの国立博物館、ムンバイのプリンス・オブ・ウェールズ博物館よりも見ごたえがある。とりわけ仏像の豊富さと美しさには、心奪われるばかりだった。









左上からガンダーラ仏(?)、マトゥラー仏(3c.)、サールナート仏(5c)
ビハール仏(10c.)、ジャワ仏(10〜12c.)、ビハール仏(10c.)
ガンダーラ仏マトゥラー仏サールナート仏
ビハール仏ジャワ仏ビハール仏


坐禅の像を見ながら、ふと我々の坐禅と左右反対であることに気がつく。曹洞宗の結跏趺坐は右足を先に組み、その上に左足を乗せる。法界定印の組み方も右手の上に左手を乗せて作る。ところがインドの仏像は、例外なく右手・右足が上。左手が不浄手であるという文化は日本にも伝わっているので、これが理由ではあるまい。どこで反対になってしまったのか、詳しい人にちょっと聞いてみよう。

仏像以外の展示物としては、ベンガルの近代画や、インド少数民族の生活紹介が印象に残った。インドのはるか東南、マラッカ海峡近くにあるインド領アンダマン・ニコバル諸島では下半身の前部にだけ蓑をつけたほぼ全裸の民族が生活している一方、インド東部アッサム地方の近くにはほとんど中国人のような身なりの民族がおり、西インドにはターバンを巻いた民族たちがいて……この国は広い。日本も南北に長いが、ここまで変化に富んではいないだろう。

あとは鉱石や化石、動植物の展示などひとつひとつ見ていくのは全く不可能なほどの展示がひしめいていた。博物館ショップでは石像のレプリカを売っていて、手ごろな価格で日本にもって帰ったら成田で捕まりそうなかなり大きいものまであった。

さてもうひとつ、カーリー寺院はこの間プネーに立ち寄ったゲーム仲間のV1さんから教えてもらったものだ。悪魔を滅ぼす女神カーリー(ドゥルガー)は残忍な性格で、ヒゲを生やした男たちの生首をネックレスにし、さらに何本かある手ですごく危なさそうな剣をかかげ、また別の生首の髪をもってぶら下げている。その上目もいっちゃっているし、舌も出ているので怖い。去年ビハールで買ってきた絵は、勉強部屋におけなくて台所に飾っているほどだ(その前に買うなという話も)。

カーリー信仰をしている人には、女神に人間の耳や鼻をささげようと、山地で盗賊を続けている者もいる。警察に銃殺されるのが先か、それとも神に誓った数(100とか)だけ耳や鼻を集めるのが先か。そこまで極端な信仰は稀だがこの女神は広く信仰を集めており、そのドゥルガー祭は全インドで大々的に行われている。

さてそのカーリー神が自殺して、ヴィシュヌがその身体を切り刻んだときに足の小指が落ちた場所(どうしてインド神話ってこう……)が、ここのカーリー寺院となった。ここでは朝から晩までひっきりなしにヤギの首を刎ね落としてカーリー神に捧げている。

寺院の境内には専用の処刑場があり、子ヤギから大人のヤギまで次々と連れられてくる。処刑場には2台の断頭台があって、屈強な男が羽交い絞めにして断頭台に首をセットする。もう1人のおっさんが金属の棒で首を固定したあと、カーリー神がもっているのと同じような刀でスッパリ。ヤギは私を睨みながら、そのまま白目をむいた。

身体はしばらくの間動き続けるので、首を切った後その辺で暴れさせておくのだが、自分の首を自分の足で蹴ったりすることがあり、V1さんが「シュールでした」という以上のものがある。ヤギを寄進した信者には、そのおっさんが生首からとった血を額にちょびちょびと付けていく。その間、切り口から出てきた赤い何かを犬がペロペロ。動きが止んだヤギは門の外で皮をはがれ、信者に振る舞われる。あらゆる意味で信じられない光景。V1さんは半日も眺めていたというが、フランス革命などを想像してしまった私には5,6匹ぐらいが限度だった。

こんなことを言うと信者の人に失礼だろうが、仏教の不殺生戒は家畜を犠牲にして行うバラモン教の祭式と対極にある(もちろんバラモン教でもバラモン殺しは重罪になるなど、全ての殺生が是認されていたわけではない)。こんな光景を目の当たりにしたらこの世をはかなんで出家したくなるようだ。

もっとも、日本もちょっと昔は生きているニワトリの首を刎ねる光景が普通にあったわけだし、現代においてもおよそ肉という肉は全て生き物を殺すことによって生じるわけだから、ここが特別というわけではない。彼らを残忍だと思うならば、わが身も残忍だと言わなければならぬ。他の命を奪わなければ生きていけないという生命の本質を隠して、人を殺してはいけないと教えても子どもたちは分からないのではなかろうか。ビーフを食べながら捕鯨反対をしている奴らは、そういうことをどう考えているのだろう。

……などとありきたりなことを考えつつ博物館に向かったが、お釈迦様の首だけの石像とヤギが重なって仕方なかった。








インド唯一の地下鉄。思いの外近代的だった
コルカタの地下鉄

逃げるようにしてヴァラナシを後にした私が向かったのは、インドで3番目に大きい都市コルカタ(カルカッタ)である。特急ラージダーニ号を使えばもっと早いのだが、夜中に着いては宿の手配が面倒だからと、夜行列車を使って朝到着する便を選んだ。

列車の同じコンパートメントでは2人に子どもを連れた夫婦と同席。プリンスという名前の赤ちゃんは1才ちょっとで人形のようだったが、オムツをしておらずあたりにしょっちゅうおもらしをしている。女優のカジョールをちょっと思わせるお姉ちゃんは退屈そうで、ちょっとふざけてはお母さんに引っぱたかれていた。

劣悪な環境のせいか赤ちゃんが泣いてなかなか眠れなかったのに、今回はLB―1段目の座席ベッドだったので朝6時に親父に起こされる。UB―3段目を借りてごろごろしているうちに、ハウラー駅に着いた。

コルカタにはコルカタ駅というものがない。ターミナルになっているのがハウラー駅と、シアルダー駅の2つだ。ハウラー駅で降りた場合、市内にはフグリー川を越えていかなければならない。船も出ているが、たいていはバスかタクシーに乗ってハウラー橋を渡る。駅前にはメーターのタクシーがずらりと並んでいる。

コルカタでの目的は写本調査。イギリス人ウィリアム・ジョーンズが1784年に創立したアジア協会は蔵書2万、写本8千点をもつインド最大級の図書館だ。今もなお高い水準の研究活動が行われており、世界の学者がここに来て調べものをしている。前もって1ヶ月も前に手紙を送っていたが、よく伝わっていなかったようで、手続きは全部最初から。

しかしここでプネー大学のジャー先生の名前が効いた。ジャー先生はご当地ベンガルの出身である上に、来月ここで集中講義を行うことになっている。ジャー先生の名前を出すと、手続きはどんどん進み、お目当ての写本を見てコピーを頼むところまで一気に進んだ。最初はパスポートを見せろとか行っていたのに大違いである。

それからアジア協会で最近出版された本を購入して、ひとまず宿を探すことにする。すぐ近くにやたら豪華なホテル「ザ・パーク」があったので値段を訊いたら1泊8000ルピー。本を買いすぎて荷物がすごいことになっていたのと、旅行の疲れも溜まってきていたので、インド居住登録証を見せて6000ルピーで泊まることにした。これは9月にT氏と泊まったムンバイのオベロイタワーズに次ぐ高級ホテルだ。

さすが高級ホテルだけあって、本の荷造りと発送、翌日の切符予約、近くの見どころやネットカフェの案内まで至れり尽くせり。テレビでトムとジェリーを見ながら、快適な一夜を過ごす。食事は外の安い店で食べたが、立ち食いのチキンカバブ・ロールや、レストランの魚料理が美味で、ヴァラナシで食べられなかった分を取り戻すことができた。

チョウカンバ出版に行った後、ネットカフェでメールを読み書きしていたらすっかり日が暮れてしまった。だがI氏との待ち合わせがあったのでガンジス河に向かう。「夜にガンジス河付近を歩くのはやめましょう。何ヶ月かに1回、外国人が行方不明になっています」とガイドブックに書いてあったのを思い出したのは、ガート(河辺の沐浴場)についてからだった。

ヴァラナシで最も大きく、また代表的なダシャシュワメード・ガートは、チョウクから大通りをまっすぐ行くと到着する。ちょうど何かのお祭が行われており、男たちが河辺に並んで鈴を鳴らしながら手旗信号のようなポーズをとっていた。すでにガートに着く前から次から次へと客引きが寄ってきていたが、ガートでは行く手を遮る客引きの多さ。立ち止まるとそれがさらに増え、囲まれてしまうので、ゆっくり踊りを見ている暇もない。まるでハエか蚊のようだ。

踊りを見るのもそこそこに、I氏との待ち合わせ場所を目指して河沿いに歩く。ダシャシュワメード・ガートは人だかりだったのに、それ以外は人がほとんどいない。ときどき犬がうろついているか、2人組の男とすれ違うくらいだ。電灯もほとんどない真っ暗闇。これぐらいなら、客引きに囲まれている方がましだなあ……と思い始めた頃、火を焚いているのが見えた。火葬場のあるマニカルニカ・ガートである。

「写真撮影は禁止だぞ」と注意されながら火葬場の中に入っていくと、日も暮れているのにあちこちで火が上がっており、さらに次々と担架に乗せられた死人がやってくる。火葬が終わって灰を片付けているところ、船から薪を運んで積み上げているところ、死体を乗せているところ、火をつけて煙が上がっているところ、炎が燃え盛っているところ……全行程が分かるほどたくさんの火葬が行われていた。

すぐさま1人の男が寄ってきて、火葬の様子を眺めている私に説明を始めた。「ガイドは要らない!」と言っても言っても、話をやめようとしない。死体の上にかけられた布の色で性別や年がわかること、身分によって焼き場が3つに分かれていること、すぐ裏にはマザーテレサが作ったホスピスがあって、回復する見込みのない病人が最期のときを待っていること、彼らのための薪代がなくて困っていること、だからあなたの寄付が必要なこと、私を信用できなければホスピスに直接行って寄付してもいいこと……予想されたことだが、結局お金の話だった。あっさり断ると、「私は説明する前に、後から議論しないと約束しました。つべこべ言わないで寄付してください。(英語)」私もこの言葉にカチンと来た。「ガイドは要らないって最初に言っただろう!(ヒンディー語)」

議論を始めた我々に遺族が面白い顔をするはずがない。「これ以上見るんなら、あっちの建物に行ってくれ」火葬場の隣にあるホスピスは、火葬を見学できるようにもなっているのだ。しかしホスピスに行けばあちらの思う壺。「帰る!」といって火葬場を後にした。ところがところが、ガイドは「帰るってさ!」といってもう1人呼ぶと、2人がかりで私に付いてきた。ガイドブックでは火葬場から待ち合わせ場のガンガーフジまですぐのようだったが、道が狭くて枝分かれしている上に、かなり遠い。ガイドたちと口論しながら、ときどき「ガンガーフジはどっちだ?」と言って案内させる私。ガイドたちはしまいに「警察を呼ぶぞ」などといって脅し始めたが、「それはこっちの台詞だ!」と突っ込みつつ、早足で逃げ切る。自称警察とか、ぐるになった警察がやってきたらひとたまりもない。

口論と早足と興奮で、心臓をどきどきさせながらたどり着いたガンガーフジ・レストラン。ヴァラナシで日本食が食べられる数少ないレストランだ。待ち合わせしていたI氏はわずか10分ほどの間に次々と麻薬の売人に声をかけられたという。最悪な街だなあここは、と思いながら入ったガンガーフジの中華丼も最悪だった。具がまずいのはまだ我慢できるとして、ご飯が土の味なのだ。私は味覚音痴で何でもうまいと思ってしまう性質だが、お腹ペコペコなのにまずくて食べられないという経験はいつ以来だろう。7時30分からの店内コンサートの準備も始まっていたが、早々に店を出た。ここに日本人女性の2人組が食べに来ていたが、何を食べたのだろう。

ガンジス河近くの道は狭い上に混んでいて、サイクルリキシャーの渋滞ができている。次々と日本語で話しかけてくるインド人を無視しつつ、そこでひたすら歩いて大通りまで戻り、リキシャーを探すが今度は暴利料金。駐車禁止のところで客引きをしていて、警官に棒で殴られたばかりのリキシャーに隙を突いて乗り込み、やっと通常料金で帰ることができた。ふう。

ラームナガル城塞翌日はI氏と4キロほど離れたラームナガル城塞へ。古代の王国カーシーのお城で、ガンジス河を対岸の高い位置から見ることができる数少ない場所だ。今もマハラジャが住んでおり、一部が博物館として開放されている。直線距離はないが大橋を渡っていくのでかなり遠回りな上に、道が悪いので時間がかかる(船で渡ってきた方が早そうなくらい)。中の展示物はどれも薄汚れていた上に、見張りのおじさんがガイド料やら写真撮影料やら要求してくるので感興がわかなかったが、ガンジス河を前景にしたヴァラナシの街の広がりは確かによい眺めだった。ここでも日本人カップルに遭遇。いろんなところにいるなあ。

戻ってきてから再びガートへ。サンダルを脱いで足だけガンジス河に入り、「贖罪完了」。昼間だとそれほど客引きもうるさくない。子どもが寄ってきて「ちんこ!カモン」とか言って売春の斡旋をしてきた。おそらく日本人がふざけて教えたのだろう。罪深いことである。ここにはこんがり日焼けした日本人のおじさんと目が合って、なぜかばつが悪そうな顔をしていた。

夕方にガンジス河近くでもう1件の日本食レストラン、モナリザを訪れる。ここも道が入り組んでいてヴァラナシ経験のあるI氏でも迷いそうになっていた。私は後を付いていっただけでどの方角に歩いたかさえも定かではない。ご飯恐怖症になっていた私はじゃがいもクッパ、I氏はバナナケーキを食べた。隣りでは日本人のお姉さんがインターネットをしている。どこに行っても日本人、こんな環境に好きで来ること、そして何気なく生きていることに驚く。日本人って、案外たくましいのかも。

この街で過ごした数日間で、日本語で話しかけてくるインド人に警戒心と嫌悪感を抱くようになってしまった。旅の情緒をぶち壊し、得意顔でお金をせしめようとする奴らは、とびきり貧しそうな子どもたちを狙い、大金を渡して写真を撮っている西洋人の次に嫌いである。

学会の次の目的は本探し。ヴァラナシはパンディット(バラモン教学の伝統教師)の故郷といってもいいほどパンディットがたくさんおり(シュクラ先生もヴァラナシ出身)、彼らが書いたサンスクリットの本が昔からたくさん出版されている。インド学の出版社を代表するモティラル、チョウカンバ出版を筆頭に、小さいところまで入れるときりがない。








チョウカンバ・サンスクリット・シリーズのオフィス。兵隊さん(絵)がやさしくお出迎え
チョウカンバ・サンスクリット・シリーズのオフィス

そのひとつ、チョウカンバ出版に足を運んだ。街の中心部、チョウクから歩いていけるところだが、リキシャーも通れないぐらいの細い道が迷路のように張り巡らされているので、絶えず人に聞きながら進む。やたら奥まったところに「チョウカンバ・スラマーラティー」の看板発見。入ってみるとそこはまるで江戸時代の問屋のようだった。

入口に土間があり、その奥に座敷がある。高さ50センチぐらいの台の上で番頭さんがソロバンを…ソロバンはないが、注文書を整理していた。本を担いだ人たちが行ったり来たりしている。座敷に通されてしばらく欲しい本を告げ、しばらく待っていると、「注文した本はここにないから、奥の店にいけ」という。店を出てさらに小路を進んでいくと、その行き止まりに今度は「チョウカンバ・サンスクリット・シリーズ」という看板を発見。チョウカンバがいくつもあるのは紛らわしい。

さて入口から2階に上がると、同じように座敷で番頭さんたちが仕事をしており、若い衆が本を運んでいったり来たりしていた。本の名前を3冊挙げ、30分も待っていると2冊揃った。1冊は店にあったが、もう1冊は向こうのチョウカンバ(さっき行ったところ)から買ってきたという。よくわからない。

座敷の壁には額に赤い線の入ったおばあさん2人とおじいさんの絵がかけられており、その下、座敷の一番奥には額に同じ模様の入ったおじさんが陣取っている。こんなに分かりやすいものはない。絵の人が先代社長で、おじさんが今の社長なのだ。

社長は仕事の手が空くと、絵について訊いた私に丁寧に教えてくれた。1892年、チョウカンバ出版はここで営業を始めた。初代社長の絵はないが、中央に飾られているおばあさんが初代の奥さんで、出版社を切り盛りしていた。初代社長には4人の息子がいたが、家を継いだ長男(絵の人)のほかに弟たちもそれぞれ独立。これがチョウカンバ支店の始まりである。今はその孫、つまり今の社長の世代がさらに枝分かれし、おまけに仲違いもあってたいへん複雑なことになっているという。「ほかでも元祖を名乗っているところがあるけど、ここが本当の元祖なんだ」と社長。額の赤い線はクリシュナ信仰のマークである。

社長によると3冊目の本はどこのチョウカンバに行ってもないだろうという。しかし大学で出展していたチョウカンバ・バヴァンの店員が「店に行けばある」と言っていた。行き先を聞く私に、社長は親切にも電話をしてくれた。まずサンスターンという出版局にはなかった。「バヴァンはそこから卸しているんだからないと思うぞ」と言いながら、電話だけかけてくれ、「お前が話せ」と受話器をよこす。それでバヴァンにも探している本はないことと、この社長はバヴァンとは仲が悪いんだということが分かった。112年も営業していれば人間関係も複雑になるのか。その点モティラルは今年で101年だが、ジャイナ教徒だからか分からないが統率が取れている。

「今度来たらまた寄ってくれよ。」社長の暖かい言葉にヴァラナシでは珍しく心が緩んだ。

ヴァラナシ(2)学会

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さてヴァラナシに来た一番の目的は、駅近くのサンプールナ・アーナンダ・サンスクリット大学で開かれた「全インド東洋学会」である。インド各地で2年に1回開かれ、今年42回を数える由緒ある学会で、参加者は3,000人にものぼる。そのほとんどがインド人で外国人は我々を含めて4、5人しかいなかったのではなかろうか。

ヴェーダ、哲学、詩学、写本学、宗教学、東南アジア、コンピュータなどいくつかの部会に分かれて1人5分ぐらいずつ、原稿を読む。ヒンディー語と英語が半々といったところ。質は玉石混交もいいところで、ほとんどは石の方だ。博士号をもっている人でも、中学生の感想文でもありえないような要約を語るだけだったり、ほとんどマッドと呼んでいいようなこじつけだったり。









正面の白いテーブルには年配のパンディットが座る。左から2番目の赤い布を肩にかけているのがシュクラ先生。結構重鎮らしい。
パンディット会議

しかしもともとそのような発表を期待してきたのではない。今習っているシュクラ先生が参加するパンディット会議が一番の楽しみだった。インドに散らばるパンディット(バラモン教学の伝統的な教師)たちが一同に集合し、サンスクリット語だけで議論をする。議題は予め配布されており、六派哲学と文法学それぞれについて3つぐらいずつ。

これがカルチャーショックともいえる刺激だった。まず伝統的な方法なのか地べたに円くなって座る。司会が名前を呼び上げて、1人ずつ5分間ぐらいの発表。原稿を見ている人はほとんどいない。「誰々の見解によれば、この定義は〜〜。しかし〜〜という別の定義もあって、この2つは相容れない。それをどのように解決するべきか、私は考えました。」まず恐ろしいまでの記憶力。一息では言い終わらないような長い定義を早口で、一気にすらすらーっと話す。実際定義を言い切らないうちに息が切れてしまう場面も多かった。そしてそのしゃべるスピードは、内容の難解さも手伝って常人にはとてもついていけない。

しかしさらに恐るべきことに発表が終わると、いや発表が終わらぬうちから、一斉に他の人たちが反論し始めるのである。話に付いていくだけでも骨が折れるのに、それに対して「いや、それは違う! なぜならこの定義は〜〜と解釈すれば問題はないからだ」「そうではない! 誰々の〜〜という解釈でそれはすでに解決されている」云々と理知的に反論していく。

その剣幕にはただ圧倒されるばかり。声の大きい方が勝ちなのだ。カミナリ親父がぶち切れたとしても、ここまで迫力は出ないだろう。マイクがなくても耳にびんびん響くため、中にはマイクを取り上げられている人もいた。理知的なだけではダメで、発言権を取るためには声の大きさもなければならない。授業では家の外まで声が響くシュクラ先生でも、反論を最後まで聞いてもらうのは難しいようだった。

これだけの声を張り上げたら私はとても正気ではいられない。シュクラ先生が休み時間に「これがインドの議論なんだよ」と笑いかけてきたのに頷きながら、理知的に考えながら怒号を発するというのはいったいどういう頭の中なんだろうかと訝しく思った。とにかく、かっこいい。

さて、インド全国から3,000人も集まってくるのだから開催地はたいへんである。サンプールナ・アーナンダ・サンスクリット大学ではグランドにじゅうたんを敷いて食事会場とし、特別に大きな鍋で料理を提供していた。宿泊施設としては眠っていた学生寮を修理して対応。そもそもホテルに泊められるような予算はない学会だから(参加費は5日間の食事・宿泊費・駅からの送迎・学会誌込みで1人2000円程度)、ほとんどの人が大学の中で生活していたわけだが、よく収容できたものである。









むき出しの電線(左上)、貸出のバケツと水桶(左下)、ずれているかんぬき(右下)に注目。おまけにドアのたてつけも悪くて、怒りのキックをお見舞いした跡がある
ナヴィーン・ホステル

その代わり、私がI氏と一緒に泊まった「ナヴィーン・ホステル(新寮)」は筆舌に尽くしがたいものだった。低予算旅行の経験が長いI氏も、「これまでで最低から2番目の宿」という。まず第一に、名前の割に全く新しくない。「それは相対的に新しいとか、単なる名前だけの話じゃないのか」と惨状を聞いたバフルカル先生は仰っていたが、「ナヴィーン」の響きは空しい。

次に、この学会に向けて修復をしてきたのだろうが、それがまだ終わっていないどころか、学会中ずっと工事の音が絶えなかった。しかも外壁のペンキ塗りとか、どうでもよいところは完了しているのに、トイレやシャワー室、電気の配線など肝心なところが未完了なのだ。我々が宿に着いて最初にしなければいけなかったことは、バケツと水桶の貸出の手続きを取ることだった。水道は中庭の中央と、シャワー室にあるだけ。もちろん、お湯はない。

部屋を案内されてI氏がリュックサックを下ろそうとしたそのとき、I氏の背中から火花が飛び散り、煙が上がった! 見るとそこにはむき出しの電線が。「そこは危ないから気をつけてね」と係。コンセントをつけないなら電気を流すな! 事故で感電死しても補償金は50万円というこの国で、電線の下で寝るのは寝返りを打つのも怖い。

棚は埃で真っ黒、窓の格子にはガラスがなくて吹き抜け、やけに狭いのに無理やり入れたベッドが2つ。もともとあったらしい机と椅子はドアの前に無造作に投げ出されている。眠るとき以外はいたくない部屋だった。早速蚊取り線香や飲み水を買いに出かけることになる。

ところがさらに難関が待ち受けていた。ドアに錠をくくりつけるかんぬきがずれて設置されているのだ。蹴りを入れて無理やり入れようとしたら、かんぬきはグニャリと曲がった。ようやく錠をかけることはできたが、防犯にまるで役に立たないことは目に見えていた。

こんなところに4泊も泊まることは無理。I氏とその結論に達するまで時間はいらなかった。その日はもう遅かったし、1泊なら話の種になるだろうということで泊まってみることにはしたのだが、そのためには外の闇酒屋でビールをたっぷり飲んで、部屋についたら即ダウンという状況を作らなければならなかった。

サールナート

千万(ちよろず)の 後の世までも 咲きかおる
御法(みのり)の花の御親讃えん
仏教の四大聖地のひとつに数えられるサールナートは、釈尊が初めて説法を行ったところ、つまり仏教発祥の地である。悟りを開いて仏陀になった釈尊は、苦行にこだわって鹿野苑(ろくやおん、パーリ:ミガダヤ、サンスクリット:ムリガダヤ、ムリガダワ)にいた5人の仲間のところに赴き、この世は全て苦しみであること、その原因は無知であること、苦しみをなくすためには真実を知るべきこと、真実を知るためには8つの正しい行いを実践するべきことを説く。いわゆる苦・集・滅・道の四聖諦と正見・正思・正語・正行・正命(正しい生活)・正精進(正しい努力)・正念(正しい注意)・正定(正しい坐禅)の八正道である。ときに釈尊35才。45年にわたる説法がここから始まった。
生き地獄のヴァラナシからわずか10キロ、オートリキシャーで40〜80ルピーほどで行くことができる。ヴァラナシとはうって変わって閑静な落ち着いたところだ。ヴァラナシの学会の前日、ここにある国立チベット研究所に宿泊していた私とI氏はまる1日を使ってのんびりと過ごした。








ダーメカ・ストゥーパ。5人のお坊さんがいるのが見えるだろうか
ダーメカ・ストゥーパ

ここのメインは巨大なストゥーパ、ダーメカ(サンスクリット:ダルマチャクラ)である。6世紀ごろに作られたといわれているがやけに大きい。中に入ることはできない(入口がない)。朝には近くの寺院からお坊さんが集まってきてお経を読んだり、プラダクシナー(右回りで1周する崇拝、右遶(うぎょう))をしたりしていた。
ストゥーパの前には僧院跡があり、その中央にムールガンダクーティ寺院(根本香積寺)の跡がある。釈尊が初めて説法を行った場所にちなんで建てられたもので、今は土台のみ姿をとどめる。その隣りにはアショーカ王柱も残っている(頭部は博物館に保存されている)。ストゥーパの反対側にも同じ名前の寺院があるが、これはスリランカのマハーボーディ教団が名前を借りて20世紀に建てたもの。古さはないが日本人絵師が描いた仏陀の生涯の壁画があり、またすぐ隣りには菩提樹と説法シーンを模した人形があって、こちらの方が見応えはある。
寺院跡の背後が鹿野苑で、囲いの中ではあるが今も鹿が生活している。ちょっとした動物園になっており、口を開けたまま全く身動きのしないワニや、狭いオリに何十匹も入れられたガチョウなどがいた。
遺跡の前には博物館があり、アショーカ王柱の頭部のほか、転法輪の印(胸のところで右手を「OK」、左手を「キツネ」のようにして組み合わせたかたち)をとった有名な仏像を見ることができる。物売りもしつこくなく、安心して参拝することができた。
どこにいってもお釈迦様もさぞ気持ちよく説法できそうだと思うほどの清々しさ。仏教は一切が苦しみであるという点からスタートするが、決してニヒリズムではない。苦しみを乗り越えて幸せを求めるというところに力点がある。この地には何かポジティブ思考を発露させる空気が漂っているような気がした。
遺跡の中ごろにはジャイナ教寺院があって、敷地が思いっきりかぶっていた。19世紀に建てられたものだという。そこからすればこの地が仏教の聖地として今日のように整備されたのはずいぶん最近の話で、それまでは荒れ放題で誰も手をつけてこなかったことが分かる。インドの仏教はこの地で完全に滅びていたのだ。

第2回:2004年

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小島さんが昨年選定した仏蹟は、最寄の空港から遠く、また鉄道も不便なところにあった。「残りはパトナから簡単にいける」という言葉を頼りに調べてみると確かにその通り。そこで翌年、ヴァラナシでの学会、コルカタでの調査の後に鉄道とバスを使い、1人でのんびり回ってみることにした。11月だったが閏暦の関係で今年もディワーリーにぶつかり、昨年のことを思い出した。
これで四大仏蹟の巡礼は満願。もともと億劫にしていた私にきっかけを与えてくださった小島さんには改めて感謝したい。仏縁というと大仰だが、何となく成り行きで留学してきたインドで、人の縁でお釈迦様と会うことができたのは、今後の人生にとって大きな意義をもつことだろう。

ガンジス河・ダシャシュワメードガートガンジス河沿いにあるヒンドゥ教の聖地ヴァラナシ。ヴァーラーナシー、ヴァーナーラシー、バナーラス、ベナレスなどと色々な呼び方があるが、ヴァルーナ川とアッシー川に挟まれた地域であることに由来するらしい(サンスクリット語的には並列複合語「ヴァルーナとアッシー」から派生した所有複合語「ヴァルーナとアッシーをもつ街」といったところか)。

ヒンドゥー教徒なら一生に一度はここに来てガンジス河で沐浴するのが夢。ガンジスの河につかるとこれまでの罪は全て清められ、天界行きが約束されるという。そのためインド全土から年間100万人を超える巡礼者が訪れるわけだが、なぜだか日本人も多い。ガンジス河の流れを眺めているとめまぐるしい日本の生活を忘れることができるのか、インドといえばヴァラナシだと思って何となく来てしまうのか、それとも取り締まりの緩いハッパ(マリファナ)が目当てなのかしらないが、街で見かけるアジア系のほとんどは日本人であるといってよい。他の都市に多い韓国人はあまり見かけないから、そのあたり国民性が出るのだろうか。ちなみに日本人といってもお金持ち風の人はおらず、カジュアルな身なりをした若者である(中には真っ黒に日焼けした、ほんとうにインドが好きそうなおじさんなどもいるが)。 

そのようなわけでリキシャーや物売りが日本人と見ると食いついてくる。タージマハルのあるアグラはインド人でもぼったくられる街で悪名高いところだが、こと客引きのしつこさに関してはここの足元にも及ばない。特に夜の駅はすごかった。プネー発の急行でヴァラナシの駅に着いたときのこと。列車を降りた直後から、もう客引きが寄ってくる。どこ行きたい? 宿はどこ? いいホテルがあるよ……英語、ヒンディー語、日本語が飛び交う。しかも一度に何人も寄ってたかってくるからたまらない。

幸いこの日はラタさん(「デオカール夫妻」参照)がサールナートの国立チベット研究所のゲストハウスを確保しておいて下さり、「バーラト・サルカル(インド政府)」と書かれた車の迎えまでついていた。しかしリキシャーのおじちゃんたちは客引きの手を一向に緩めない。ラタさんに付いていく我々に「付いていくな! こっちにこい」と怒鳴りつける。地面にびっしりと人がゴロ寝している駅前の広場を、「車はある」と応酬しながら通り抜けていく。これがヴァラナシなんだなあと、妙に感心した。


ヴァラナシ、ゴードリア交差点リキシャーの客引きは、目的地に着いたばかりの人やあまつさえまだ別のリキシャーに乗っている人にまで声をかける。何の考えもなく、動物的に客を探しているようだ。料金は交渉制なので、相場を知らないとまずぼったくられる。観光客だから現地に住む人の値段で乗ろうとすること自体間違っているのだが、かといってみすみす言い値で乗るわけにもいかない。

言い値を半分ぐらいにしてみて、イヤならいいよ、他のリキシャーを探すからという素振りを示す。相手が慌てて値段を下げてきたら勝算あり。乗る気がない素振りを絶えず示しながら、それをさらに下げていく。相手よりも精神的に優位にたつことが大事で、したがって夜遅くや急いでいるときなど、こちらが不利な状況ではきつい。そうなったら恫喝という奥の手を使うしかないが、口げんかはとても疲れるので避けたい。

こうしたやり取りも元気なうちはゲーム感覚で楽しいのだが、いつもいつもそうだと次第に疲れてくる。しかし新しい元気な客引きが次から次へと現れ、こちらに勝ち目はなさそうな気がしてくるのだった。

Ticket to Ride in India

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04年11月旅行地図 11月1日から2週間にわたって、学会と調査、そして仏蹟巡礼のため東北インドを旅行。鉄道で往復4000キロを87時間(結構早い?)、3000円(安っ)で移動した。


  1. 急行ギャーンガンガー(智恵のガンジス)号、プネーヴァラナシ行で29時間
  2. 学会を終えて急行ヴィブーティ(威力)号、ヴァラナシ発ハウラー(コルカタ)行で17時間
  3. 調査の後に急行ドゥーン(谷)号、ハウラー(コルカタ)発でガヤーまで8時間
  4. 仏蹟を巡礼してからハウラー=ムンバイ急行でガヤーからカリヤーン(ムンバイ近くの駅)まで29時間
  5. カリヤーンから各駅停車でカルジャット(デカン高原の登り口にある駅)まで1時間30分
  6. カルジャットから各駅停車でプネーまで2時間30分

左の図で黄色い先が往路、緑の線が帰路。帰りはプネー行きの直行便がなかったため、ムンバイ近くまで行ってから折り返さなければならなかった。
(C)白い地図工房

 長距離を走るインドの急行列車には多くの場合、2段ベッドの寝台車、3段ベッドの寝台車、冷房なしの一般寝台車、冷房なし椅子だけの二等車がある。冷房があると運賃が跳ね上がり、そのくせ寒すぎて体調を崩すので、夏でもない限り一般寝台車しか選択肢がない。

 
一般寝台車 一般寝台車は通路を挟んでそれぞれ二段、三段ベッドになっている。二段ベッドの方は長さが今ひとつ足りず、身長があると足を曲げて寝なければならない。一方、三段ベッドは日中、二段目を倒して背もたれにする。こうして一段目(Lower Bed)は座席、二段目(Middle Bed)は背もたれになるわけだが、三段目(Upper Bed)はそのまま。日中の座席はLBの人が窓側、UBの人が通路側、MBの人がその中間となる。

 LBの人は窓からの眺めと涼しい風を享受でき、UBの人は寝たいときに寝られる。どちらがいいかは人それぞれだろうが、長時間になればなるほど昼寝ができるUBに軍配があがりそうだ。座席はLB、UB、MBの順で予約されるため、MBになりたくなかったら切符を早めに買うことだ。

 車内は揺れて本を読めるような環境ではない。おしゃべりをするか、ものを食べるか、眠るか、ぼーっとするか。はじめの数時間はよいが、10時間、20時間と経つにつれてだんだん脳みそがとろけてくるようだ。ほどよい暖かさや単調な線路の音も手伝って、乗客はみんな目が虚ろ。

 しかし物売りは絶えずやってくる。チャイ(劇甘ミルクティー)、軽食、冷たい飲み物、果物、本、食事の注文。その中に混じってコブラの蛇使い、床掃除をしてお金を求める物乞い(雇われているのではなく、途中から乗り込んで自主的にやっている)、超下手な歌や楽器でお金をせびる物乞い、何もしないでお金をせびる子どもたちなど。

 とりわけ強烈なのが女装してお金をせびりにくる人たちだ。中には本物のヒジュラ(両性具有者)もいるらしいが、たいてい厚化粧をしてサリーやパンジャービードレスを着ているだけの野郎たちで、これが一番しつこい。女性(の姿をしている人)には無下に断れないのを承知で、あごをなでたり、頬をつねったりたたいたりしてくる。「ねえ、あんた〜、お金よこしなさいよ。ほら私たちこんなにきれいでしょ!」……目の前に立たれると直視できない。笑ったり侮辱したりすると猛烈に怒るそうなので目をつぶって首を振り、去るのをひたすら待つ。

 
途中停車 発着時刻は意外と正確だった。途中で1〜2時間遅れても停車時間を縮めたりしてできるだけダイヤ通りに戻そうとする。それでも途中の信号で管制官が居眠りをしているのか知らないが、30分も途中停車をすることがある。そういうとき乗客は列車から地面に降り、線路に座って休憩。日本だったら罰金どころかニュースになってしまうだろうが、なにしろ列車のドアは手動式だから止めようがない。汽笛が鳴ると乗客は腰を上げて乗り込み、列車は何事もなかったかのように出発する。

 車内生活の快適さについてだが、トイレはそのまま線路直行で垂れ流しのため、車内はあまり汚れない。洗面所もついており、顔を洗ったり歯を磨いたりすることはできる。しかし入浴はもちろんのこと、着替えもままならないので暑いとちょっときついかもしれない。今回はむしろ、夜の寒さが厳しかった。北インドは一足早い冬が来ているらしく、寒くて目が覚めるほど。一般寝台車には毛布も枕もないので、I氏のアドバイス通り靴下と肌がけが役に立った。

 手荷物の管理は大事。義理の兄がインドで鉄道旅行中、ちょっとウトウトしている間に荷物を盗まれたことがあったという。カバンには鍵をかけ、さらに座席の下にチェーンでくくりつける。三段目ならば、上に置いておくのも一手だ。今回は荷物を最小限にしておいたため、鞄を枕にして寝ることができた。これが一番安心。

 駅や列車の中で犯罪に対する注意を促す掲示をよく見かける。「見知らぬ人からもらった食べ物を口にしないで下さい。死に至るか、泥棒にあう可能性があります」というのはいわゆる睡眠薬強盗対策。その中に「物乞いには何も与えないで下さい」なんていうのもあった。インド国鉄もなかなかたいへんである。

 ゴミは全て窓からポイ捨て。バナナの皮や、素焼きの茶碗ぐらいならまあ牛が食べるか土に返るだろうからいいとして、紙コップ、食事の銀紙、ビニール袋になってくると頂けない。駅の線路はゴミだらけ。しかし初めはゴミをかばんにしまって駅のゴミ箱にまとめて捨てていた私も、わずか10時間ほどで窓から捨てる人になってしまった。罪悪感をもっていたのも初めの2,3回だけ。「環境とかエコロジーとか言っても、どうせシヴァが全部破壊してしまうんだし、その後にはまた秩序だった世界が作られるんだったら、インドの線路端にアルミホイルがたとえ100年間残ったとしても、たいした問題ではないのではないか?」などと考えて自己を正当化する。そんな奴らが、インドをそこら中ゴミだらけの国にしているわけだが。

 さまざまな驚きと発見にみちた初の長距離鉄道旅行だったが、車窓の景色、同乗しているインド人の素顔、駅で見かける人や牛は情緒たっぷり。旅費の面だけでなく、とても得した気分になることができた。

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