おの: 2006年4月アーカイブ

年に1度行われる御詠歌の大会役員になったため、今日から週末を山形で過ごす。
息子はようやく慣らし保育が終わって昨日から全日保育となり、娘と一緒に帰ってこられるようになった。だが、それぞれ準備が違うので送迎はたいへん。昨日の朝、1人で送ってみたが息子を抱っこしながら娘の道具を揃えるのは手も頭も疲れた。
8時40分、送迎+仕事はたいへんだなあと思いつつ、子どもを保育所に連れていく妻を見送ってから洗濯物干し、布団たたみ、風呂掃除。昨日のゲーム会の写真整理。
今日の18:00から山形で行われる打ち合わせに、何時の新幹線なら間に合うかを調べてみると11:40に家を出なければならないことが分かる。この時点で10:20。あと1時間ちょっとしかない。
郵便局とスーパーまで必死で自転車をこいでいって用足しと買い物。家に戻ると11:10。速攻でカレーを作り始めたが「20分煮込みます」のところで挫折した。「途中です。あとはよろしく」と書き置きを残して、11:42発のバスでつくばセンターへ。
南流山、南浦和、大宮と乗り換えて13:34発の新幹線に乗る。昼食は新幹線の車中でちらし寿司。あとはゲームのルールを読んだり、昨日のゲーム会のレポートを書いたりと、優雅に過ごした。
結局一睡もしないまま赤湯で長井線に乗り換えて17:00羽前成田着、母に迎えに来てもらって17:10帰宅。
そこからがまた慌しい。20分で頭を剃って、速攻で衣に着替えて結婚指輪を外して、車を30分飛ばして18:00に打ち合わせ会場着。1時間程度の練習だったが、鼻水と咳がもたげてたいへん。
帰宅して夕食。昨日のゲーム会のレポートをアップロードして、この日記を書いて一段落。今日の速攻につぐ速攻はまだ風邪が治りきっていない体に結構こたえた。
主夫から僧侶への早変わり、今日の前半と後半ではまるで違う人間を生きているかのようだ。疲れることでもあり、刺激的なことでもある。

『仏教vs.倫理』

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「人間」のルールである倫理だけでは回らなくなっている現代、死者という他者を媒介にして超・倫理を模索する試み。

……と書くと何やらオカルティックだが、亡くなった家族や知己のことを思い出して、自分の生き方に何らかの指針を与えるということは、多くの人がしていることだろう。物言わぬ故人は、その沈黙によって我々に行動を迫るのである。

筆者はこの態度に根拠を与えるものとして、『法華経』を提示する。法華経では釈尊が過去から未来にかけて他者として関わり続ける死者として捉えられ、菩薩を媒介にして我々衆生に関係を迫る。

でも話は仏教を信じれば万事解決ということでは決してない。現状肯定によって社会差別や戦争参加を促してきた本覚思想を批判し、大乗仏教の説く慈悲にも満幅の信頼を寄せず、「死者を食い物にする」ような現状のままの葬式仏教も否定する。仏教もまた、問題を洗い出し鍛え直さなければならないのである。

日本において死者と長い間向き合ってきた仏教にとって、葬式仏教自体は決して否定されるものではないという。むしろ死者の声を聞きとり、生者との共同できる体制を作るためにきちんと考え直し、哲学を打ち立てることが大切であると。

理念だけではない、実現可能な方策を、釈尊を含むあらゆる権威を排しながら謙虚に、しかし強かに考究する態度は引き込まれる。また論考の途中で言及される清沢満之、毎田周一、高木顕明、島地黙雷、田辺元など、あまり知られていない近代の仏教思想家・哲学者の思想と活動、広範な経典や禅語の引用、神道や戦争問題とのかかわりも興味を喚起され勉強になった。現代仏教学は多岐な分野にわたる学際的なものだと思うが、ここまで幅広くできる人はそういるまい。

仏教学者にとっても、僧侶にとっても、読んだら何かせずにはいられなくなるような、刺激に満ちた本である。

『ホットドッグ・プレス』の連載だったということで、あまり期待してはいけないのかもしれない。インドの性愛指南書『カーマ・スートラ』を「愛の駆け引き」という観点から見直した本。

誘惑の方法から気のない相手を袖にする方法まで、セックスの周辺にある男女のふるまいを中心に取り上げる。もちろん、セックスそのものについても爪を立てる、歯でかむなどの特徴的な要素に焦点をあてつつ紹介するが、『カーマスートラ』の眼目は単なるハウトゥーセックスではなく、広範な男女関係全てにわたるものであるというのが筆者の主張だ。

帝政ローマ期に著されたオウィディウス『アルス・アマートリア』、中国・前漢期に作られた『素女経』から、極端な快楽主義を唱えた18世紀フランスのシャルル・フーリエ、そして現代日本のカリスマAV男優・加藤鷹まで古今東西の幅広い性愛文献を渉猟し、『カーマスートラ』との異同を説いている。

これだけ面白い切り口がたくさんあるのに、紙数の都合か執筆の方針なのか、表層的な印象がして単なる「ネタ本」に感じられた。「官能の『カーマスートラ』解読」とあるならば、背後にある快楽の哲学的問題や東西の文化比較(例えば、厭世主義・禁欲主義との関係とか)まで掘り下げてほしかったと思う。まあ、そんなところを『ホットドッグ・プレス』の読者は求めていないのかもしれないが。

仏教と葬祭

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曹洞宗で永平寺系の僧侶から構成される有道会で、記念シンポジウム『曹洞宗21世紀構想〜これからの寺檀関係と葬祭のあり方』が開かれた。参加はしなかったが、その報告が全寺院に送付され、興味深く読んだ。
本来は生活の中の信仰であるはずの仏教が、葬式・法事に特化してしまい「葬式仏教」と揶揄されるようになって久しいが、最近ではその葬式ですらままならなくなってきた。「葬式仏教大いに結構。きちんとその役目を果たせるならばね(研修会の講師)」である。
高いお布施を出すぐらいなら、僧侶抜きで近親者のみの告別式・お別れ会をした方がいいと考える人が、地方から首都圏に出た団塊の世代を中心に広まりつつある。
実際に僧侶なしですますというケースはまだ少ないようだが、葬儀社が遺族の心のケアまで始めると、僧侶はただの飾りにどんどん近づいていく。ここに危機感を抱く若い僧侶は少なくない。
曹洞宗ではこれをテーマにした研修会やシンポジウムが各地で行われ、曹洞宗研究センターからは2003年に『葬祭−現代的意義と課題』が出版された。葬祭を教学的・現代的にどう位置づけるかを多角的に検討している。
今回のシンポジウムでは、没後作僧(曹洞宗の葬儀は死者を僧侶にして送り出す出家葬だけで、在家葬の法式がない問題)や戒名(僧侶にしたのに在家名の「居士」などを使っていたり、位階で差別したりする問題)の問題も大きいが、やはり一番は霊魂を認めるかというところにあるようだ。
仏典は死後の世界(輪廻)を認めるが、不滅の魂(インド哲学で言うアートマン)は認めないという、アンビバレントな態度を取る。死後何が残って、次の生に相続されるのかは、プドガラだと言ってみたり、アーラヤ識だと言ってみたりして、古来仏教の泣き所であった。
これは現代の僧侶にも引き継がれ、「霊魂はあると思えばある。ないと思えばない」というような、どっちつかずの態度を取ることが多い(例えば玄侑宗久『中陰の花』)。しかし、葬祭・法事は多かれ少なかれ、霊魂の存在を前提にせざるを得ない。そこにどう理論的な根拠を与えるか。
私はこの問題が、バラモン教の祭事教学ミーマーンサー学派のように研究されていくのかと思っていた。例えば「僧侶の引導から見えない力が生み出されて、この次元に小さい穴を開け、原子よりも小さい死者の魂を別次元に送り出す」というようなオカルティックな説明をつくっていくのは実りがないことだなあと。
しかし今回のシンポジウムで曹洞宗総合研究センターの粟谷良道氏が、葬祭の問題は「現代僧侶論」になると説いたことにはとても感心した。つまり問題は葬祭の形骸化にあるのではなく、僧侶の俗化にあるということだ。
僧侶が地域の人々から尊敬され信頼されている限り、葬儀法が多少分かりにくくても、細かいところに齟齬を来たしていても、あまり親切でなくてもありがたいのである。普段の生活ぶり、教化ぶりがものをいう。
そのためにはお寺に引きこもっていないで、いろいろな人と濃い人付き合いをしておくことが必要になるのだろうなと思っている。人に尊敬され信頼されるには、こちらも人を尊敬し信頼しなくてはなるまい。せちがらい世の中ではあるが、だからこそここに寺院が生き残る手立てがあるのだ。
雪が解け法事のシーズンが始まる。ルーティンワークにならないよう、ひとつひとつの法事に自分にとって新しい意味を見出して行きたい。

古代ギリシア以降,切り離されていたレトリックの2つの側面〜修辞と論証〜を認識論から組み立てなおし,古今東西の用例を加えながら分かりやすく説いた書.

柱となるのが直接的類似性・プロトタイプによる提喩(シネクドキ),結合性・クローズアップによる換喩(メトニミー),そしてその両者をまたぐ間接的類似性による隠喩(メタファー)の3つ.それぞれの違いを詳しく論じながら,これが修辞法でも議論法でも大きな役割を果たしていることを示す.

論理的思考がもてはやされる現代だが,多くの人に説得力をもち,共感を呼ぶのは必ずしも論理的に正しいものとは限らない.言葉自体の問題ではなくて,その背後に横たわる人間の認識パターンがものをいうからだ.誰しもネットで情報発信できる今,2000年以上の歴史を経て,一時廃れていたレトリックの重要性が高まっている.

アリストテレスからキケロ,クインティリアヌス,さらにはペレルマン,トゥールミンに至るレトリックの歴史が平易に解説されていて分かりやすい.また豊富な実例・引用は,それを読んでいるだけでも面白い.

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