おの: 2006年11月アーカイブ

3日目は日曜だったので、お経読みや来客で娘は部屋に閉じこもっていた。よいこで遊んでいるのだが可哀相に思う。
お昼は兼務しているお寺の餅供養に連れていく。「『(囲炉裏に)あだれ』って、標準語でなんていうなんべ?」と盛り上がる役員さんたちに、人見知りして挨拶もできない。だが餅もお菓子もバクバク。
夕食後、近くの温泉に連れていった。広い浴場を歩きまわり喜ぶ姿にほっ。風呂上りにはドライヤーを使いたがった。ソフトクリームをぺろりと平らげ、スーパーボールを買ってもらってご満悦。
4日目は葬儀だったのでほとんどおかまいなしで、テレビを見たり、部屋でお絵かきをしたりと保育所と比べて退屈な1日だったと思う。
葬儀終了後すぐにつくばに向けて出発。福島あたりから2人とも眠ってしまった。さらに東京からの高速バスは、常磐道が渋滞していて2時間もかかり帰宅は10時。
ほとんど隙のない4日間で、本も読めずメールも読むだけ、ボードゲームのサイトも更新できずだった割に娘と遊べた時間も少なかったが、親の全力投球ってこんな感じなのかなと自己満足している。

子連れで山形(2)

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昨日はもともと移動日だったので、夜の御詠歌講習以外何もなかったのだが、あっという間に過ぎてしまった。
朝食後、母から境内の掃除を指示される。ブロアーにガソリンを入れて作業開始。吹き飛ぶ落ち葉に、娘がキャーキャー言いながら喜んでいる。
ここ数日晴れの日が続いていたので落ち葉も乾いて飛ばしやすくなっていたが、イチョウの葉は別。ある程度たまるとびくともしない。結局途中から竹箒に切り替えた。
箒で掃き掃除をしていると、いろいろなことが頭に浮かんでは消えていく。雑念がなくなるというまでにはいかないが、もやもやしていることが整理されるようないい気分になる。作務もひとつの大事な修行。ちなみに娘はすぐ飽きて部屋でお絵描き。
昼食をはさんで掃除が終わったのは3時過ぎていた。それから娘と買い物へ。山形で着る防寒着を買う。ゲーセンでアンパンマンの乗り物に乗ったり、ぬりえの本をチェックしたり、本屋で立ち読みをしたりしているうちにすっかり1時間。
帰宅すると急いで夕食をとって御詠歌の講習である。娘も参加したが、遊び始めたので怒られて泣きながら退場。
今日は日曜日なので用事満載。夜にでも温泉に連れていければいいなと思っている。

子連れで山形

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週末に用事があって山形に行くのはいつものことだが、このたびは4才の娘が一緒に行きたいというので連れてきた。
当初は土日の一泊の予定が、お葬式が入ったため金〜月曜の3泊4日に。保育所も2日休むことになり、長丁場で何をしようか考え中。
昨日は、保育所に送る車をつくば駅で降りて姉は山形、弟は保育所へ。この頃弟のせいであまりかまってもらえず、ひとり遊びの多かった娘は歌を歌いながらスキップするほどの浮かれよう。
つくばエクスプレス、武蔵野線、京浜東北線といつもの乗換えで大宮から新幹線。隣り合う席がなくて自由席でB,C席に座る。
娘は駅で買った雑誌を早速開いたがすぐに車酔い。揺れへの弱さは親譲りだ。幸いゲロは吐かず、見かねた後ろの席のサラリーマンが席を譲ってくれた。山形新幹線の温かさ。
おかげで窓際に座れた娘はしばらくすると元気を取り戻し、お菓子をパクパク食べ始めた。紅葉に色づいた山々の車窓を背景にお菓子を食べ続ける娘の姿を見ると、喩えようもない幸せを感じる。
駅までは母が迎えに来ていた。寺に戻ってすぐ着替えて枕経。昼食をとってから、靴が古いというので買い替えに行ってきた。道中疲れたのだろう、娘はすぐこっくりこっくり。
家に帰ると新聞を取ってというので渡すと、テレビ欄を確認してドラえもんを見たいという。つくばにはテレビがないので、テレビも娘の楽しみになっているのだろう。ちなみに声優が変わってから初めて見た。
入浴して10時に就寝。山形はつくばと比べ物にならないほど寒い。何度か目が覚めてしまったが、娘は10時間以上、トイレにも行かずぐっすり。
今日は本屋に連れていくことになっている。娘は本屋に行くと2時間近く過ごすので、それだけで半日になりそうだ。

寺役員研修会

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 日曜日は私が住職になって初めての寺役員研修会。しかも温泉に一泊付きという「洞松寺開闢以来(総代の談)」の大きな事業となった。

 寺役員会は総代4名、各地区の世話人14名からなる組織で、護寺会費(寺費)や寄付の集金、境内の草刈・雪囲い・除雪などの作業をお願いしているが給与が出ない名誉職。年に1,2回、慰労のための飲み会がある程度だ。

 先代住職のとき近隣の寺院めぐりをしていたが、そうした研修会はもう10年以上途絶えていた。それが、先ごろ行われたお隣の真言宗のお寺との合同総代会で、あちらがずいぶん遠いところに泊りがけで研修会をしているというのを聞き再開の運びになったというところである。さらにそれを聞いた私が兼務住職をしているお寺でも、夏に研修会を開催した。

 研修内容は置賜管内の3ヶ寺を参拝し、仏像の配置や本堂や庫裏の間取りを見学、住職からお寺の由来や台所事情を伺うというもので、私自身もためになった。隣町でもところ変われば品変わる、である。

 研修が終わって赤湯温泉・いきかえりの宿 瀧波(http://www.takinami.co.jp/)に宿泊。これまで赤湯温泉にはいいイメージを持っていなかったが、ここは料理も温泉もよかった。初めての泊りがけ研修で宴会のお酒も進み、大賑わい。ちょうど長井市長選の投開票日だったので、夜遅くまでニュース速報を待ちながら飲んでいたようだ。

 翌朝は6時に目が覚めて風呂に行くともういっぱい。世間の朝は早いものだ(うちのお寺は夜更かしで、朝は滅法遅い)。朝食はもちが出た。名物らしい。

 車で帰る役員と別に、私は駅から新幹線。秋葉原でたけるべさん、大葉さん、草場さん、韓国人デザイナーと試作品、ルッカチッタ、八八、ゴニンカンを遊ぶ。八八は初なのにインストの通訳。

 それから教授からの呼び出しで本郷。さらにヤポンブランドの打ち上げで中野。帰宅は午前1時で、もうヘロヘロになっていた。火曜日は医者に行って喘息の薬をもらい静養。

臨済宗のお寺に生まれ育ち、近くの同じ臨済宗のお寺に嫁いだ奥さんのこれまでと今を書き綴った本。

大きなお寺だけにとても忙しそうだが、訪れる人・電話する人への細やかな気配りを忘れないお寺の奥さんの鏡であることが分かる。

ただ、読み物としてみると、事細かに数字(お寺の行事で出す料理の皿数とか)が挙げられている割には、その先のだから何?が見えず、「うちあけ話」というよりもただの日記という感じがした。仏教に対するこの方の信仰についてもほとんど触れられていない点もさびしい。

『寺門興隆』に連載されている「なんたって寺族の言い分」のほうがよほど面白いと思う。

先月に引き続き、御詠歌の講習会。今回は、定員オーバーで宿泊できなかったので知り合いのお宅にでも転がり込もうかと思ったが、家事もあるので毎日つくばから日帰りした。

表参道徒歩20分というお寺で、家からの移動時間は往復5時間。朝5時に家を出て、夜8時に家に着くという生活。家に帰ると皿洗いや子どもの風呂入れをこなす。子どもの笑顔を見るとほっとするものだ。道中は本などのんびり読んで過ごす。なかなか優雅である。

宿泊ができれば、早朝から朝課(朝のお経読み)や坐禅、夜の懇親会があるのだが、それがないので物足りなさいっぱいだった。同じ講習会に参加した人ともほとんど交流できなかった。

参加者は僧侶が2割であとは寺族(お寺の奥さん)さんである。母親ぐらいのおばさまたちは若い僧侶をちやほやしがちなので、ちょっと油断すると天狗になってしまう。謙虚な姿勢を忘れがちで、何度か自己嫌悪に陥る。

人権学習ではステレオタイプや固定観念が引き起こす偏見や差別を学習。人間をカテゴリー化して一緒くたに扱うのではなく、その人その人を見て、「徳あるは褒むべし、徳なきは憐れむべし(修証義)」を実践していきたい。

講習の最後では、新曲「まごころに生きる」を二部合唱にしたり、輪唱したりしたが、最後に手話を交えて唱える。こういう、心をひとつにしているような感覚はほかでは味わえないだろう。

来月は二級師範の検定があるので、無事合格できるようあと1ヶ月精進したい。

どこまで本気なのか分からないような本だが、インド人の交渉の巧みさを実例を通して学ぼうという本。

「言い負かす」とあるが、基本的に相手を尊重して友好的な状態を作り、その中で自分の言い分を聞いてもらおうというものだ。筋さえ通っていればよいというものではない。

インド滞在中、観光地で仏像を10ドル(1200円)で売りつけられ、最後は6ルピー(15円)で買ったということがあった。これは私がヒンディー語で交渉し、相手に自分を見抜かせなかったからできたことと思っていたが、もしかしたらそれでも儲けは出ているのかもしれない。本書でも「手のうち(利益が出る最低のライン)を見せない」「追い詰められたふりをする」の例で出てくる。

「何よりもインド人が優れているのは、人を見抜く力です。いろいろな角度からその人を観察し、その人がどんなタイプの性格なのか、何を望む人なのか、そして何を隠している人なのか、そういったことを鋭い観察眼で見抜くことができます。」交渉に限らず、磨きたい力である。

葬式の前日

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お葬式のやり方を習ってきたわずか1週間後、檀家さんがお亡くなりになり早速実践の機会が訪れた。昨日は秋葉原水曜日の会を早めに退出して新幹線で山形へ。すぐ衣に着替えて枕経。
今日は庭の掃除から1日が始まる。ここ数日嵐が続いて、境内がえらい散らかっているためだ。ブロアーで吹き飛ばしていたらガソリン切れ。おとなしく箒で黙々と掃く。
幸い喪家から掃除の手伝いがたくさんやってきて、1時間ほどですっかりきれいになったが、ブロアーと箒で手がすっかり痺れてしまい、書き物の筆がぶるぶる震える。
筆のノリが悪いので、ときどき休みながらミクシィで他の人の日記にコメントを書いたりしていた。これまでも何度か議論になったボードゲームの初心者論だが、ミクシィのおかげでいろいろな人の意見が読めて勉強になる。
夕方からは観音講中で御詠歌を唱えに喪家へ。紫雲替節、慈光、無常、追弔、妙鐘、聖号の6曲。泣きながら聴いている遺族に対して、つとめて平静に淡々と唱えたが、故人の生前を思い出すと自ずと涙がにじんでくる。
今一旦帰ったところで、これから通夜のお経読みだ。通夜はこれまで住職が行かず親族だけでひっそりと行われてきたが、先週の研修で通夜説法を勧められたこと、夜にロウソクの光が輝くところで読むお経というのはまた格別だと思ったことから今回初の試み。仏式の葬儀とはどういうものか、ゆっくりお話をしてきたい。
今日届いた宗報に「位牌専用プリンター」なるものを発見。
http://www.gendai-jiin.jp/ihi.html
「位牌印刷専用ソフトで、どなたでも簡単に印刷できます」って……ありがたくねー。

方向性を失い行き詰ってきた現代において仏教をもう一度問い直し、そこから引き出される答えを社会に還元していくことはできないかを考察する本。

大谷大学と京都・相国寺での連続講義をもとにした講義録であり、話は拡散気味だが鋭い見方が随所にちりばめられ、はっとさせられる。

また内容的にはちくま新書の『仏教vs.倫理』に重複している点が多いが、葬式仏教、神仏、禅学といった仏教特有のトピックから切り込まれており、アカデミックなアプローチに安心感を覚える。

死者を絶対的な他者と捉え、死者の霊魂の有無に関わらず実存的に我々が直面する死者との関係性が論考の骨組みである。ここから、葬式仏教に積極的な意味を与え、経典を読み直し、社会に向けて仏教独自の立場を打ち出していけるという。

また神道と仏教の別、禅万能論、一神教と多神教といった極端に簡素化された二項対立の図式を危険だと警告し、一概に言えない多様な側面があることを示す。迷いながら、悩みながら、しかし地道に進もうとする考察に共感。

「今まで日本の中に仏教が根差してきた、その根底を形成している葬式仏教をむしろ反省し直して、それを出発点として、言ってみればどのようにして葬式仏教を本当の意味あるものにできるのかという視点から見ていく方が、日本仏教をこれから生かしていく道になるのではないかと考えています。」

「それぞれの時代によって、その時代の流行の思想、あるいは時代の価値観というものを単に受け入れているだけではないのか。国が戦争といえば戦争に賛成する、国が民主主義といえば民主主義に賛成するだけではないだろうかという疑問が残ります。」

仏教学者にも僧侶にも示唆に富んだ本であろう。

お葬式のやり方

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僧侶の現職研修会「在家葬法の原点」に参加し、お葬式の方法をおさらいしてきた。
「ならばあえて開き直って「葬式仏教」大いに結構。研鑽に研鑽を重ねて、一部の隙も無き諸荘厳の中、素人には真似し得ぬ揺るぎなき自身と威風を持っての一挙手一投足なれば、自ずと行事見成して無言の中に法輪を転ずる事に成るのではあるまいか。」(講義資料より)
曹洞宗は禅宗だから坐禅だけしているというわけではない。密教的な要素を含みつつ、他宗派よりいち早く在家葬を取り入れ、全国展開を成し遂げた。その方法は地域差があるものの、細部にわたって厳格に定められている。それは、曹洞宗の宗旨が「威儀即仏法、作法是宗旨」という、かたちがそのまま本質なのだということに由来するものであろう。かたちから入り、かたちに終わる。
今日は実習ということで、実際にお葬式をいつもやっている通りに実演して、講師の先生が「ここが間違っている」と指摘するものだった。受戒は坐して授ける、剃刀は額と両側に当てる、戒律ごとに戒尺を打つ、洒水は実際に水を位牌につけて施与する、十仏名は一句一句切る、引導法語ではコツの紐を右手から離さない、たいまつをもったらお棺を拶眼、払子は基本3回、脇導師は一字関を言わない、法語は全開にして読む、一字関の直前で払子を振るなど、微に入り細を穿つ指摘。いい加減にしていることもあったのでとても勉強になった。
私はたいまつの右左点(4〜6周目)が反時計回りではなく時計回りになっていたこと、洒水で「滅除煩悩炎」と唱えていたことが間違っていた(灌頂洒水は弟子に仏血を与えるためのもので、煩悩の消火水ではないとのこと)。次回から修正したい。
洒水ではランバン加持というのがあって、龍相(三本指)で洒水枝をもち器の中の水を真言を唱えながら攪拌する。すると、普通の水が甘露の法乳水になるという。これってインド神話の乳海攪拌の話そのもの。こんなところに息づいているんだと妙に感心した。

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