おの: 2007年6月アーカイブ

法話に泣く

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今日は朝から近くのお寺さんで新潟からいらした布教師の法話を聞く。般若心経を読み、坐禅をしてから90分の法話。

話題は仏壇のお参りの仕方、徳を積むこと、無常に生きる我々、感謝など。説教臭くなく、たとえ話や実例を交えての分かりやすい法話だった。話し方も「えー」や「あー」などがほとんど入らず、さすがプロ。

岩手であったというお話を聴く。

母子家庭の母親が、小学生の娘を残して交通事故で亡くなった。身寄りはほかになく、福祉施設もいっぱいだったため、母親のお葬式で導師をした住職さんがしばらく預かることに。いっこうに心を開かないその子、口を開けば「お母さんは今どこにいるの?」と訊くばかり。
そんなある日、法事で「亡くなった方は、仏壇の中で安らいでおりますよ」という法話をしたところ、その子が陰で聞いていたらしい。お菓子が皿ごとなくなっていたので、おばあさんがその子の部屋に見に行ってびっくり。すぐに呼ばれた住職さんも部屋に入ってびっくり。
部屋の奥にお皿のお菓子。その奥にはダンボール箱が縦に置いてあり、蓋を広げて仏壇のようになっていた。箱の中にはたどたどしい字で「おかあさん」と書かれた紙が貼ってあった……。

ちょっと前、朝日新聞に載っていた母を亡くした子どもを育てる父親の話でもそうだったが、こういう話はもうダメ。途中からうつむいて我慢していたが、とうとう涙が溢れ出してしまった。涙を流したのは何年ぶりだろう。

釈尊は「愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。」と仰った(『法句経』)。しかしたとえ煩悩だとは分かっていても、私は当分の間、愛情というものを捨て去ることはできなさそうだ。

終わってからは気を取り直して美味しい蕎麦とわらび汁を頂く。心身ともにリフレッシュする半日だった。

写真はパソコンを移動した小屋の2階からの眺め。風もよく通り、見晴らしがよくて気持ちいい。
外の眺め

とかくかみ合わない対話を、ディベートの方法論などを応用して解消するヒント集。3部構成で、基礎編では「論証」のイロハを学び、応用編では10のルールを提示しながらこじれた対話を整理、実践編では3つのダメな対話の修復を試みる。

解決の要点は、まず論点を明確にすること、その論点について経験的事実に基づいた根拠を述べること、その根拠から結論を導く論拠に注意すること(これが結構難しい)である。「10のルール」も、この要点を敷衍したものだが、ここでグライス流の寛容と協調の原理を導入するところが新しい。

寛容の原理とは、揚げ足取りをせずに相手の言いたいことを聞き手も力を合わせて再構成しようとすることである。「あなたの言いたいことは〜ということですか?」「あなたの意見の背景には〜という考えがあるのではないでしょうか?」など。

協調の原理とは、逆に話し手が必要な情報を提供し、証拠のないこと・関係のないことは言わず、あいまいさを避け、相手の発言に応答することをいう。いわゆる会話の格率である。

この2つは、無条件に相手に同調するということでは決してなく、あくまで対話のスタートラインに立つためのものである。その上で対立や問題の解決をしていかなくてはならない。

「10のルール」のうち、この2つの原理に関係するのは「2.相手の主張に対して、直接的、局所的に反応しないように心がける。」と「3.相手の主張には何らかの背景があることを想定し、なぜ、そう主張するかについての質問をしてみる。」「8.より信頼できる根拠を互いに提示するように心がける。」この3つだけでも意識すればこじれた対話も改善するだろう。敵対的になってはダメだ。

しかし実践編の3番目、夫婦喧嘩を修復するのはどうも成功した感じがしない。

[再構成案](p.197)
妻「自分で使ったお皿は台所の流しまでは自分でもって行ってね」と私が頼んだら、「わかった。そうするよ」と応えて終了する話じゃない。なぜ、素直な言い方ができないの。
夫 最初に僕が「はい、そうするよ」と従順に応えなかったから、君は僕に腹を立てたわけだ。
妻 だって、その言い方って感じがわるいでしょ。
夫 まあ、そうだね。
妻 でも、あのとき、あなたは、気持ちに余裕がなかったのね。だから、そんな当たり前の提案に「そうするよ」と答えられなかったのね。
夫 余裕を持って聴けば受け入れられる提案だったね。

この夫婦こわい〜(笑)。犬も食わぬ夫婦喧嘩、何をしても無駄だということを著者は示したかったのではないだろうか。

それはさておき、やや論文調で読みにくいけれども、前著『議論のレッスン』を新たな視点で発展させていて興味深く読めた。

人生の節目が希薄になり、死生観が貧困化している今、源信の『往生要集』をひもといて古来日本人がもってきたあの世の感覚とこの世の生き方をもう一度みつめなおそうという本。

比叡山僧だった源信の生涯や藤原全盛だった当時の社会情勢から始まり、『往生要集』の10章を1つずつ平易な言葉で解説。さらにこの後に広まった地蔵信仰と賽の河原の話、さらに宮沢賢治と「千の風になって」まで、古今の死生観を見事に描写している。

かつては地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界が克明に語られ、日本人の倫理観に影響を与えていたが、それもひとつの物語と化し、まともに信じている人は少なくなったような気がする。しかし地獄の残酷な記述を改めて読み直してみるとものすごいインパクト。こういう恫喝がたとえ方便としてであってもよいのかどうか分からないが、謙虚になろうと思わせるのに十分である。

しかし著者はとかく強調されがちな「厭離穢土」の章が『往生要集』の眼目ではないとする。何かの幸運でこの人の世に生まれたわずかな間に浄土=解脱を志さなくてはならない。

「当に知るべし、苦海を離れて浄土に往生すべきはただ今生にあることを。」

浄土思想というと現世否定かと思っていたが、今を自覚的に生きることが大切だという教えに感心した。

あとがきのダライラマの講演会の質疑応答で、「わたしに光を放ってください。会場のみなさんも法王のオーラを浴びましょう」といった人に、ダライラマが「そんな光は放てません。わたしは普通の人間です」と答えたという。迷信やカルトを離れつつ、来世を信じるというのは強靭な精神と厚い信仰の両方が要求されるのだ。そのための、よき道しるべを頂いたと思う。

引越し最終日

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……だったが私は昨日のうちにつくばに来て今日は大学の講義。電気・電話・水道・ガスの総引越しは、母が指揮&お茶出しで無事引越しを完了したようだ。頼んでおいた大工さんがタンスや冷蔵庫など重いものを運んでくれた。

大学の講義ははじめ違和感。考えてみれば先週は山形で長時間、和尚さんたちと山形弁でしゃべっていたので標準語が出にくくなっているのだった。引越し疲れもあるのかな?

というわけで講義は途中でやめて、学生に『百科審議官』を遊んでもらう。ヒモや付箋は用意できないので紙に三色のマジックでヴェン図を書いて、答えはそこに直接記入。制限時間内に、より多くのエリアに自分の答えを書けた人が勝ちとした。

ちなみに百科審議官を知らない人は↓をご覧下さい。
すごろくや:百科審議官

「このゲームは帰納法の手続きを踏んでいます。いくつかの例から仮説を考え出し、その仮説を検証して間違いなければ法則にできます。」

ちょっとのぞいた学生のヴェン図に私の名前。「動物」かつ「濁点がない」かつ「とがっている部分がある」……って一体どこがとがっているんだって?

勉強になったかは分からないけれども、楽しかったと好評だった。準備が少なく、ルールが簡単で、時間も短い。もっといろいろ紹介したいと思うが、なかなかこういうゲームはないものだ。

明日から解体工事が始まる。全部壊される前にお経読んでおかないと(地鎮祭とか、全部自前)。

引越し(3)

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連日の寝不足で朝寝坊したが、朝食後は荷物運び。夕方から御詠歌の寺院検定会、祖母の見舞い、総代さんから印鑑もらい、夕食後ゲームのレポートや新曲の御詠歌の吹き込み(そんな余裕あるのか)。

ちなみに吹き込んだ御詠歌は洞松寺ブログで公開中。今回はエコーをかけてみたら下手でもそれっぽい。音程が不確かだったり、鈴鉦が鳴らなかったりしていて修行が足りないなぁ。

母は草刈のお客様にお茶を出したり、家事をしたりしながらだから時間がかかる。私の分はまもなく終了の見込みだが、母の部屋片付けはきっと明後日の深夜まで続くだろう。

明日はパソコンの移動をしてから、融資の申込に行ってつくばへ。

今日のメニューは8:30出棺、9:00御詠歌の講習会、13:30葬儀、16:00引越し、19:00御詠歌の講習、21:00地元青年クラブの懇親会と盛りだくさん。

引越しがやばそう。自分の部屋は見通しがついたのだが、2階にいってビックリ。大量の布団、未整理のタンス、置物の数々……無事終わるのかどうかは、予断を許さない状況だ。

荷物を運び出しながら、地震を予知して脱出するネズミを思い浮かべた。明後日までに運び出せなかったものはゴミ。火事のときのように、手当たり次第に大事そうなものを運ぶという感じになってきている。

玄侑宗久氏の芥川賞受賞作『中陰の花』で、お坊さんは何かに憑依されにくいという話があった。理由は頭の切り替えが早くて思いつめることがないから。思いつめていると、同じ波長の何かを呼び込んでしまうらしい。

合間合間にいろいろな人に電話しているが、それぞれ御詠歌のこと、融資のこと、次のお寺の行事のことと用件は全くばらばら。これだけ多くのことを同時進行しているなら、思いつめているヒマがないどころか、思いついたことを忘れないようにするので精一杯。こりゃあ何かに憑依されることはないなと、上記の話を思い出した。

明日は珍しく法事のない日曜日。さて1日でどこまで運び出せるか勝負だ。

日本はお先真っ暗だという論調があるが、そんなことはない。アニメ・ファッション・音楽の日本文化、元気な高齢者、再生する地方、途上国への援助実績など、世界に誇るべきことはたくさんある。自信をもて日本人!という本。

政治家って、誰にも反対できないような理念ばかり並べて具体策となると方々に配慮してお茶を濁すという印象があるが、空回りの応援演説とは違い、どのトピックも具体的で説得力があった。

総裁選のとき、秋葉原で「自称『秋葉原オタク』の皆さん!」と呼びかけた麻生氏である。マンガに詳しい。牧美也子の『源氏物語絵巻』、横山光輝の『三国志』、『ゴルゴ13』、『沈黙の艦隊』、『加治隆介の議』、『キャプテン翼』……ぽんぽんと出てくるタイトルに「うわぁ、こんなのまで読んでるの、大臣」と驚く。日本がロボット大国になった理由として『鉄腕アトム』と『ドラえもん』があったのではないかという意見は面白い。

弱者・貧者救済は当然政府の役目ということを何度も協調しつつ、
・高齢者が労働力になり、消費者になることで少子高齢化社会をポジティブに
・ニートは多様な生き方のひとつとして肯定
・教育の悪平等を解消するため中学校を義務教育でなくしてカリキュラムを多様にする
・靖国問題は国家の責任と遺族の感情を考えると一宗教法人ではなく国営化が望ましい
……賛否はともかくとして、発想豊かで大胆な発言で日本の見方がずいぶん変わった。

この人、総理大臣になりそうだな。

引越し引越し

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日曜日に長女とつくばに帰って、月曜は講義準備、火曜は大学で講義、水曜は秋葉原でボードゲーム。そして今日からまた山形である。

来週には家の解体が始まるので、せっせと荷物を運び出す。本堂や小屋の収納スペースは昨年からの整理のお陰でだいぶあり、困ることはない。でもそれ以上に荷物が多くて終わりがまだ見えない。

最近はほとんど聴いていないカセットテープの整理がたいへん。吹奏楽少年だった私が昔ラジオやCDからせっせと録音したテープ。ケースは燃えないゴミ、ラベルは燃えるゴミ、本体は有害ゴミと分けてごっそり捨てる。

1987年の吹奏楽コンクール課題曲(A『風紋』、B『渚スコープ』、C『コンサートマーチ '87』、D『ムービングオン』、E『ハロー!サンシャイン』)は、どれも印象に残っている。中学2年生だったわけか。懐かしい。

……なんて感慨に浸っていると終わらないのが片付けである。月曜日が〆切、急げ急げ。

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岩手の寺で住職と母死亡、殺人で捜査

雨の日の夜に、母と2人きりのお寺で見るこのニュース。一番怖いのは幽霊なんかじゃなくて生きている人間だと、子どものころ読んだ本の文句を思い出した。

料理好きなお母さんの子どもは成績がよい、お父さんの読書量と子どもの成績は比例する、成績「下」の子ほど親も子も肥満ぎみ、夫婦間の満足度と子どもの成績は比例する……まあ、一般的にそうだろうなということを統計で示した本。

ただし100%そうであるということではもちろんない。成績が上の子どもで母親が料理好きというのは35.6%、成績が下だと18.9%まで下がるが、残りの6〜8割は関係ないわけで、それをあたかも料理好きと成績に因果関係があるかのように書くのは誤解を招くだろう。

料理好きでない、読書量が少ないと子どもが下流化するということではなくて、年収が少ないことが原因となって生活ぶりがそうならざるを得ず、また子どもも高等教育を受ける機会を逸するというのが本当のところのようだ。

調査の母集団が、母親が専業主婦かパートであり、正社員がほとんどいないというのも統計的に偏りを生んでいると考えられる。そのため、父親が高収入、母親が専業主婦が上流であるかのような印象を受けてしまう。

統計としては、個室があるかどうかと成績は無関係という項が印象に残った。最近、『頭のよい子が育つ家』などで成績のよい子どもは個室で勉強しないと言われ、そういう間取りの家ももてはやされているが必ずしもそうではないわけだ(まあ、そうだろうな)。

「女性は結婚しても子どもができても働き続けましょう」という風潮と手作りの食事による「食育」は相容れないこと、格差の背景には年中無休24時間営業という業種が増えたことという指摘は納得。

こういう親だと子どもの成績がいい悪いということよりも、子どもの頃の成績がどうだと今の生活ぶりがどうなのかとか、低収入でも下流化しないパターンを考察するというほうが意味があるのではないだろうか。

築地本願寺にあるX JAPANのhideへの思いを書き綴ったノート、平原綾香の「Jupiter」、ビートルズの「Within you, without you」、そして「千の風になって」、全国各地で開かれている「スピリチュアルコンベンション」、アルコール依存を断とうとする集まり「アルコホリクス・アノニマス」、自己啓発本「キッパリ!」、農業運動「ディープエコロジー」、映画「地球交響曲」、NPO法人「ビーグッドカフェ」……

スピリチュアルというと謎のパワーだとか前世占いとか胡散臭いものを連想していたけれども、筆者は「自分を超えた何かとつながる感覚」と広く捉える。昔からなかったわけではないが、今の世の中はスピリチュアル文化がずいぶんいろいろなところに広まっているのだと感じた。

従来は宗教がこのような感覚を提供していた。しかし多くの人が共通して信じられる「物語」は崩れつつあり、宗教者や儀礼を通さずに個人個人が直接「自分を超えた何か」につながろうとしている。

このような動きに対し、伝統教団は傍観しておいてよいのか。このままいくとお寺離れ、教会離れは深刻なものになりそうだ。傍観しないとすれば、どのような方策が考えられるのか。

人権・環境・平和をとっても、道徳ではなくスピリチュアル面からのアプローチもありうる。私自身はこういう感覚はあまり持っていないけれども、この感覚を理解し、寄り添って行動することも必要だと思った。

新聞記者である筆者はスピリチュアル文化を肯定的にも否定的にも書かず、事実を客観的に報告しているのが非常によかった。

金曜日は御詠歌の講習会。岩手からいらした特派師範の先生に、今年発表されたばかりの新曲をお習いする。このところ教えるほうばかりだったので、気を楽にして教わるありがたさを感じた。

新曲の『新亡精霊供養御和讃』は、曰くつきの曲である。昭和41年に山形県民会館で行われた全国大会で『盂蘭盆供養御和讃』という名前で発表された。『古城(♪松風さわぐ丘の上〜)』の作詞者(高橋掬太郎)、作曲者(細川潤一)、歌手(三橋美智也)トリオで作られ、レコードが吹き込まれた。

しかし当時の風潮か、僧侶でない人が作ったからか分からないけれども、その歌詞は後世に照らして問題があったのである。

一、生きのこの世は仮の宿 栄耀栄華の身なりとも
  心に負える罪あれば 死して後に報いあり
ニ、遠き仏陀の世にすらも 目連尊者のおん母は
  罪業ありて餓鬼道の 苦しみながく受け給う
三、斎を設けて亡き人の 冥途(よみじ)の厄難救わんと
  精霊まつる盆供養 仏の教えありがたや
  仏の教えありがたや

……気分が悪くなるような歌詞である。具体的にどこに問題があるのかというと、一番は来世に期待して現世を軽視する点が、日常の修行にこそ悟りがあるという宗門の教えと矛盾する。

二番と三番は、現在の苦しみは過去の報いであるという「悪しき業論」が問題。釈尊の説く自業自得は、現在の行いや努力が未来を決めるというところに重点がある。それを前世の報いなどというのは現在の努力を否定し、差別を肯定することにもなってしまう。昔のお坊さんは言っていたかもしれないが、「前世の報い」とか「先祖のたたり」なんていうのは、どっかの新興宗教を除いて禁句なのである。

このような理由で『盂蘭盆供養御和讃』はすでに15年前に奉詠禁止になったのであるが、ほかの曲にない独特のメロディーは伝説になっており、ぜひ復活させたいという声があった。

さらに供養の御詠歌、特に49日までにお唱えするものがほしいという要望があり(葬送は『追弔御和讃』、一周忌から十三回忌くらいまでは『追善供養御和讃』、それ以降は『報恩供養御和讃』がある)、このたび歌詞を新しくして生まれ変わったというわけである。

一、永遠(とわ)の身命(いのち)と願えども 無常の風にさそわれて
  愛惜(おし)みて散れる花なれば 別離の涙頬つたう
ニ、揺れる灯明(みあかし)あの笑顔 あなたに逢えたよろこびと
  深い絆に結ばれた 煌く慧命(いのち)忘れ得ん
三、香華供えて調(ただ)す身に 想いはおのずと深まりて
  安寧(やすらぎ)念(ねご)う祈りこそ 蓮の開く縁なり
四、七七供養の毎日(ひおくり)に 戒名(みな)を称えて掌(て)を合わす
  行持(つと)むる而今(いま)のまごころを 回らし手向けんみほとけに
  回らし手向けんみほとけに

……当て字が多いのと、ちょっとお涙頂戴なのが玉に瑕だが、釈尊や道元禅師の教えが分かりやすく覚えやすく語られたよい歌詞だと思う。

全体を通して気づくのは、あくまでも遺族の視点で描かれていることだ。タイトルに「精霊」と掲げながら、亡くなった人はどこに行くか、いつどのようにして成仏するかについては全く触れられていない。

日本には『往生要集』のように死後の世界をありありと描く書物もあるが、曹洞宗は日常の修行を重んじるため、死後の描写をすることはほとんどない。道元禅師が49日の後に人間に生まれ変わるとか、釈尊のいる兜率天に往くとか簡単に述べている程度。

今回の歌詞解説にも「輪廻転生」「黄泉」「生天」「浄土」など古来からのさまざまな考え方を尊重しなければいけないとしつつ、「死後の世界はいずれも証明することができず、実際には解らないことといえましょう。」と記されている。

しかし供養をするということは、死後も何かが残るという信仰に支えられているのは間違いない。それは遺された人の思い出とか記憶に還元できるものではないだろう。『千の風になって』ではないけれども、亡くなった人はこの世界のどこか、あるいはあの世にいて、生きている人とつながっているのである。

科学的には名状できないものに対して、宗教が物語を与えることはグリーフケアにとって大事なことだと思うが、そこまで踏み込んでいないこの歌詞はドライというか、冷たいというか、そんな感じもする(これで棄恩入無為の教えから二番も否定したらさらに仏教的で、さらに供養から遠ざかっただろう)。せめて道元禅師の記述程度を反映させてもよかったのではないか。

そもそも仏教において「無記」とされてきた死者の供養。どういう意味があるのか、この機会に考えていきたい。

新亡精霊供養御和讃』(2007年6月18日録音、mp3ファイル)

般若心経の読解

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昨日はつくばから長女を連れて山形へ。夕方からはご寺院さんの集まりで講演。「般若心経の読解」ということでお話をさせて頂いた。

最近は鉛筆で書くシリーズとかニンテンドーDSとかで般若心経がちょっとしたブームになっているようだ。たくさんの解説本が出版され、仏教の多くの宗派で日常的に読まれている般若心経。でもその意味はあまり考えられていないように感じる。

そもそも題名の「般若波羅蜜」も、最後の真言「ギャーテーギャーテー〜」も敢えて訳さず音写しただけだし、解説本には「意味など考えず読むのがよい」というのもある。頭を空っぽにして読めば、お経を体現したことになるんだとか。

でもそれが原作者のインド人の意図だったのか? また意味もないものをどうして三蔵法師が中国に持ち帰ったりするだろうか? お経である以上、そこには何らかのメッセージが込められているのであり、メッセージを読み取る努力を放棄するのは怠慢だろう。

トピックはおおむね以下の通り。
・お題が後に来るインドの書き方
・なぜ釈尊ではなく観自在菩薩が説くのか
・インドのお寺で般若心経を読んだ後、信者から「サードゥ、サードゥ」と言われた話
・なぜやたら舎利子を呼びかけるのか
・原文にない「度一切苦厄」を挿入し、原文にある「無明知、無明知尽」を削除した玄奘
・「不増不減」は「不減不増」がもとの語順
・「色即是空」はいいが「空即是色」は論理的におかしいのではないか(逆は真ならず)
・「真実不虚故」を「真実である。間違いがないから」と訳す理由(多くの解説書は「真実であり、間違いがない。ゆえに」と誤訳している)

一番の問題である空とは何か、般若波羅蜜とは何かは時間の都合で省略(実際、私の手に負えない)。

はじめにサンスクリット語の原典を音読。後日録音したので興味のある方はどうぞ。
サンスクリット原典 般若心経

時間も短いし楽勝かと思っていたが、聴衆はいつも私が指導いただいている先輩・大先輩の御住職さまたちでかなり緊張した。しかも終わってからの懇親会はいきなりカミ座に座らされ、皆がウーロン茶を注ぎにやっていらっしゃる。食事がほとんど喉を通らなかったのは言うまでもない。

幸いだったのは「楽しかった」という御講評を頂戴したこと。般若心経はここがおかしいとか、お釈迦様がこんな大事なときになんで瞑想しているのとか、ぶっちゃけすぎて法話としては失格だったのが新鮮だったのだろうか?

こんな不勉強の私に貴重な機会を与えてくださった諸先輩方に感謝。

この間、長女は母と寺族会に出席していた。幸いずっと本を読んだりお絵かきしたりして大人しかったので、皆にほめられたという。よかったよかった。

懇親会が終わって帰宅。長女とお風呂に入って疲れを癒し、山形にしては早い時間に就寝した。

冠婚葬祭は、しきたりや作法にがんじがらめにされた独特の文化である。特に結婚と葬送について明治から100年の歴史をひもとき、少婚多死社会における最前線に切り込む。

100年の歴史が示すことは、「人の習慣は永遠不滅のようで、変わるときには急激に変わる」ということだ。神前結婚式とチェペルウェディングにしろ、祭壇と霊柩車にしろ、社会の変化に合わせて業者がうまいことしつらえ、あっという間に普及したものである。

結婚も葬送も儀式である以上、形式的であることを免れない。皇室や有名人が新しい形式を生み出し、新しもの好きの世間が追随する。「世間並み」という意識でその形式を踏襲して普及し、次第に意味を見出せなくなって形骸化する。それから新しい形式に移行。歴史はこの繰り返しなのであった。

現代では何が起きているかというと、ゲストハウス婚とレストラン婚、家族葬と継承者のいらないお墓だという。この背景には家観念の完全な崩壊があり、都市部から全国に広まっていくだろう。

葬送の項は類書の要約に過ぎず、普通にマニュアル風になってしまっているが、結婚の項は独特のシニシズムが存分に発揮されていて実に面白い。ウェルカムベア、ケーキ入場、ケーキシェアリング……ほんとに恥ずかしいことを堂々とやるものなのだ。

「結婚式の招待状が舞い込んだら、まず見るべきは会場である。舌を噛みそうなカタカナ名前の開場だったら要注意。スカした雰囲気の招待状だったらますます要注意。敵は(敵ではないが)オリジナルの演出を目論んでいる可能性がある。」

ほかに昔のマニュアル本に記載されていた新婚初夜の過ごし方など爆笑。もう結婚した人もまだしていない人も、したい人もするつもりのない人も一読を。

葬送についても少しシニカルな視点で突っ込んでほしかったものだが、激しく実際的なので(墓地の移転は行政書士に手続きを頼むとか)、自分や家族の死後について心配な人には有用だろう。

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