おの: 2007年10月アーカイブ

12月15日(土)に築地本願寺で「東京ボーズコレクション」というのが行われるらしい。
http://www.engi.jp/tbc/

芥川龍之介『杜子春』をラップとダンスで。天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗の僧侶によるコラボレーション法要。フェアトレードグッズ販売と国際協力バザー。プチ修行と佛教相談。ロハス・マーケット。僧侶向けワークショップ「10年後のお寺をデザインしよう。」

……進んでるなぁ。コラボレーション法要とワークショップは非常に興味があるので行ってみたい。

超宗派の集まりになっているが、築地本願寺が本山である浄土真宗が先導しているのは間違いないだろう。カフェ・ド・シンランとか、本願寺LIVEとか、オープンテラス「ツナガルオテラ」とか、進みすぎているくらい新しいこと・若いことを推進している。若手の起用も盛んなようだ。そもそも門主が先進的な考え方をもっておられるのがいい。

21世紀型の宗教として参加型というのがある。若年層が参加したいようなものをお寺で提供していくには、若い僧侶のアイデアが必要になる。曹洞宗でも目線をしっかり下げた活動がもっとあるといいなと思う。

Zazen

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Today morning two ladies came to my temple to practice Zazen. Both are teachers of high school, one is Japanese and the other is American. The Japanese mailed me according to my web site and I arranged the date.

First I asked, "Should I explain in English?" The American lady, named Rebecca was little bit surprised, "Wow". She seemed not to imagine, a Japanese monk living in the country mountain can speak English.

She came to Japan in August and does not know not only Zazen, but also Japanese so much. I had to speak English until they leaved. It was challenging for me, but a lot of fun.

I have explained how to practice Zazen in English once. It is sometimes difficult to translate technical terms of Zen or Buddhism. But I found a magic sentense to explain every thing - "Like this." Very easy! By this they understood Zazen and started 30 minutes' sitting.

Zazen is a kind of meditation, but I noticed them to try not to think anything. It is very important point of Zazen to get nothing-ness.

After 30 minutes Zazen was over, but they could not stand up soon because their legs are paralized;

Drinking green tee, we talked much about religion, culture, and philosophy. She was curious and asked many questions. "Why does Hikikomori happen in Japan?", "Do you practice Zazen every day?(No!)", "What is the Japanese logic?" and so on. It was pity I could not find the word "Confucian"(in Japanese Ju-kyou).

Two hours passed very quickly. They said, "It was very interesting and We want to come again." "Come again, you are always welcome!" This is the speech I used to listen from many kind families in India.

住職10年目

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1998年の10月、祖父の葬儀があって私は洞松寺の33代住職となった。そこから数えて今月から、住職10年目を迎える。

あっという間だった気がするが、振り返ると結構激動といっていいくらい、いろいろなことがあったと思う。

1999年 修士論文提出、博士課程進学
2001年 結婚、つくばへ引越し
2002年 長女誕生
2003年〜2005年 インド留学
2006年 長男誕生
2007年 家を建てる

しかし住職になってからインド留学まで4年ほど、大学に学生として通っていたわけで、今考えると信じられない。今月はすでに山形とつくばを5往復。昨日の夜、秋葉原から山形に直帰して、今朝となりのお寺の葬儀のお手伝いをして、そのまま帰ってきたばかり。保育所の送迎はそのたびに妻や母にお任せになっている。

これからの10年はどんな風になるだろう? 家が建ったから、山形での子育ては確実として、博士論文の執筆、御詠歌の研鑽あたりが柱になるかな。あとボードゲームもね。

迷信・俗信も長い間に広まってきたものであれば何らかの知恵がその裏に隠されているはず。そんなの迷信だからといって取り合わないのではなく、その隠された知恵を大事にしよう。

標題の「なぜ夜に爪を切ってはいけないのか」=夜に爪を切ると親の死に目に会えないというのは、『日本書紀』に記述がある。曰く、爪には霊魂が宿っているから、幽鬼が暗躍する夜に爪を切ってはいけないと。
ほかにも暗いところで深爪をする恐れがあることや、ウブメという中国の怪鳥にが爪を食べにやってきて、凶事を招くという説が紹介されている。
(私は夜爪=世を詰めるという語呂合わせから、早死すると思っていたが)

このようにして「噂されるとくしゃみが出る」「ミミズに小便をかけるとオチンチンが腫れる」「夜に口笛を吹くと蛇が出る」「貧乏ゆすりは出世できない」「若ハゲの男は絶倫」「ミョウガを食べると物忘れする」など、どこかで聞いたことがあるような話を、古い書物や民間伝承と、科学的な観点から分析する。

その裏に現れるのは行儀よく賢く健康に生きようとする古人の知恵である。中には荒唐無稽なものも含まれているが、それも人の弱さを表すものなのだろう。

1つの迷信に対し説明が1ページ半だけと物足りなさを感じるがその分たくさん紹介されていて、知らないものも多く勉強になった(あまり迷信を喧伝するつもりはないが)。

日本に20年以上住んでいるカナダ人ジャーナリストがアメリカの言いなりになっている日本や、体制に都合の悪い記事を出さない大手マスコミに警鐘を鳴らす。

筆者は「フォーブス」アジア太平洋支局長を務めていたが、ウィルス対策ソフト会社がウィルスをばら撒いているというスキャンダルを封殺されてからフリーになり、ヤクザやブッシュ利権など、大手マスコミのタブーに挑戦し続けている。

筆者によれば、北朝鮮は脅威ではないという。人口が日本の5分の1、GDPが100分の1では何もできない。ところがこれを煽るのはアメリカで、その目的は低性能のミサイル防衛システムや次世代戦闘機を売りつけて軍産複合体を儲けさせることにある。

イラク戦争開戦の理由が石油利権にあったことはもはや隠しようのないことになっているが、9・11が飛行機の激突ではなく爆薬によるものだったことが隠蔽されていることは知らなかった。イラン・イラクが石油取引をユーロ決済にしようとしたことがアメリカに狙われた一因だったと。

翻って日本。郵政民営化もアメリカの年次改革要望書によって進められたもので、相変わらず言いなりだ。国連への負担金が世界第2位、アメリカに40兆円ものお金を貸しているのに言いなりになっている日米関係を、筆者はこのように揶揄する。
「パチンコをやりたいから金を貸してくれ」
「はい」
「その間、おまえは外で待ってろ」
「はい」
「全部すっちまった。もうちょっと都合してくれ」
「はい」
「やっと出たから、この金で遊びに行ってくる。先に帰ってろ」
「はい」

そんな日本もいつまでも金が続くわけではない。国債・地方債の総額が国民の個人資産の総計1400兆円を超えるとされるのが2008年。さらにこの年は小渕内閣が発行した10年債償還の年でもある。この多重債務をどう乗り越えるのか。

通貨危機になった場合、IMF(国際通貨基金)に頼ることになるが、その際に起こる事態が2002年の「ネバダレポート」に記されている。
・年金30%カット
・国債の利払いは5〜10年停止
・消費税20%
・預金の30〜40%を財産税として没収

今の日本では、これくらいしないと本当の財政再建にならないのだ。こんな大問題に、政治家は口をつぐんだまま。

筆者が「全ての情報は、何らかの加工がなされている」と言うとおり、この本に書かれていることも信じがたいことばかりで、一種の煽りが入っているのかもしれない。そうだとしても、新聞などでは読めない別の面から多角的に物事を捉える必要性を感じた。

ブログやミクシィで、ある人物への非難が燃え上がり、収拾がつかなくなる「炎上」という現象を群集心理とネットの特徴から分析し、これからますます進むウェブ社会の方向性を探る。

筆者によれば炎上はウェブ社会になってから起こったことではないという。ラジオで放送された『宇宙戦争』が引き起こした火星人が攻めてくるというパニック、女子高生の会話が発端で取り付け騒ぎとなる豊川信用金庫事件、東ドイツのスポークスマンの失言がもとになったベルリンの壁崩壊など、リアル社会でも起きている。

しかしこれがウェブ上で起こると、可視化(目に入りやすい)とつながり(広がりやすい)という特徴によって急激になる。小さな流れがいつの間にか極端で大きな滝になるこの現象は「サイバーカスケード」と呼ばれる。対応できない状態になるだけでなく、叩かれた個人の情報がアップされたりととどまるところを知らない。

事例として挙げられているのは以下のような事件である。

・乙竹洋匡ブログ炎上(悠仁さまの誕生で)
・上村愛子ブログ炎上(亀田興毅を応援して)
・あるある大事典騒動(志村けんの反省に)
・TDC炎上(おたくの反乱)
・JOY祭り(店員を殴ったことに非難)
・きんもーっ☆事件(おたくの反乱)
・スティーブさんの自転車を探すオフ(ノートを探し出す)
・タカラ騒動(ギコ猫の商標登録に)
・のまネコ騒動(エイベックスが著作権を申請)
・東芝クレーマー事件(まずい窓口相談を録音して公開)
・バズマーケティング失敗事件(NHKに出演した女子大生の話)
・銚子電鉄ぬれ煎餅祭り(赤字対策の煎餅がばか売れ)
・丸紅祭り(パソコン19800円)
・田代祭り(タイム誌のパーソン・オブ・ザ・イヤーに)
・川崎祭り(オールスターゲームのファン投票)
・塩爺(流行語大賞)
・ゴッゴル祭り(サーチエンジン最適化コンテスト)
・イラク人質バッシング(自業自得と)
・浅田彰の戯言(他国が攻めてきたら素手で応戦と)
・福島瑞穂の迷言(警察官は丸腰で逮捕に向かうべきと)
・「ジャップって言うな!」事件(極楽とんぼ加藤の謝罪動画から始まった誤解)
・犬糞女事件(韓国で犬の糞を片付けなかった女性の個人情報がさらされる)
・あびる優万引き事件(若い頃の強盗自慢で苦情殺到)
・鮫島事件(2ちゃんねるで話題になる架空の事件)

これらの例は、悪意が暴走しているものばかりではない。ときには善意や義憤から始まったものだが、それが膨張し手がつけられなくなることもある。

ここから筆者は、サイバーカスケード自体が悪いとか、規制するという発想ではいけないという。インターネットの長所でもあるので、それを活かしつつ両論併記のハブサイトや、成員が民主的に振舞えるアーキテクチャを構築しなければならないと。

提言は実効性があるかどうか分からないが、とにかく豊富なケーススタディとして楽しく読めた。「もちろん〜と言いたいのではありません」というフレーズを多用するあたり、筆者も相当ウェブでもまれているようだ。

ウェブ上にもう1人の自分がいるという時代、ウェブ特有のリテラシーというものの必要性を強く感じた。

−妻+母

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昨日から妻が1週間のアメリカ出張。1人で見られないこともなかったが、この機会に母につくばに滞在してもらうことにした。

いつもは祖母の介護で遠出しにくい母も、このたびは家の新築で祖母がホームに住んでいるため比較的自由。とはいえ、毎日ホームに欠かさず足を運ばないと祖母の機嫌が悪いから、かえって忙しくなったようなところもある。このたびのつくば滞在も、祖母から「(行くか行かないかは)お前の良識に任せる」などと言われてきたらしい。

表向きは子どもの世話ということになっているが、仮住まいの不便さや祖母の面倒見で疲れているのを少し休んでもらおうという魂胆だ。

母は土曜日に上京し、都内でコンサートを聞いた後つくばへ。一方の私は、急な葬儀(葬儀は急なものだが)が入ってしまい後からつくばへ帰ることになった。

妻を送って第1日目。来客も電話もない生活で、母は子どもたちと適度に遊びつつ、久しぶりにのんびりしていたようだ。午後からは長女のため本屋に行って、外食して買い物。大人が2人いれば、子ども2人連れの外食も恐くない。

1才半になる長男は、母の添い寝で夜泣きもせず朝まで寝たので、私もゆっくり休むことができた。1人だったら、夜中に何度か起きなければならなかっただろう。

今日は伴僧を頼まれて私だけ山形へ日帰り。保育所の迎えは母の仕事になり、昨日のうちに経路を確認しておいた。料理も運転もお任せでは母が休む暇もないが、その分子どもたちのいない昼間にに休んでもらおう。

明日は大学へ出講で、明後日は秋葉原でゲーム会。木曜か金曜にでも、昼間に都内の博物館や関東の親戚に連れていってみるつもりだ。

これからつくばへ。到着は21時の予定。

『死は成仏か』

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如来蔵思想研究の第一人者による仏教死生学。

死を乗り越えたとされる釈尊や仏弟子の(生物学的な)死、そして輪廻の世界に生きる菩薩の死。そしてなかなか救われない衆生の死を、分かりやすく説く。

仏教の立場から言えば、死すなわち成仏ではない。信仰なり修行があって、私たちの中に眠る仏性(成仏する資格のようなもの)が育てられ、いつの日か成仏するのである。

ただ日本には死すなわち成仏という考え方も広く行き渡っており、民俗学的観点から考える必要もあるだろう。

というわけで表題について答えを見つけるのは難しいが、四聖諦、八正道、十二因縁といったとかく難解になりがちな仏教の根本教説について分かりやすく説かれており、仏教入門としておすすめである。

宝塚のお寺の住職による痛快な毒舌説法集。

世間には死に関するタブーが実にたくさんある。祟りとまでは言わないにしても、縁起が悪いとか、祭り方が悪いとかそんな言説はよく耳にする。仏教の観点ではそのほとんどが迷信に属するものだが、タチの悪いことに僧侶がお先棒を担いで喧伝していることも多い。

筆者の区別は単純明快、人を不安にさせるものは迷信、安心させるものは仏法。面倒臭い理屈はない。

「拝まん奴に限って、祀り方がどうのこうのと、祀り方ばっかり問題にしよるわ。一生懸命に真心こめて拝んでさえいれば、万一悪いところがあれば、神仏の方で都合ようにしてくれはるわ」

「法事ちゅうのは、お経もあげられん亡者に代わって、坊主が本尊に拝んでやるのやがな。だから回向というのや。亡者は坊主の後ろで一緒に本尊さんに手を合わせているわ」

本に登場する迷信深い人たちを笑う私も、兄弟などが位牌を複数作ると帰る所が分からなくなって困るとか、そんな言説を鵜呑みにしていたことに反省。

「お母さんとしては、両方に帰れるように兄弟二人に祀って貰えたら本望だろうに」

そして迷信にすがりつく衆生を喝破する。

「家族が病気したり不幸があったりすると、その原因や責任を他人になすりつけたがるが、なすりつける相手が見当たらない時は、方角や家相や先祖やその他動物の霊にまでなすりつけようとする。それらのものこそいい面の皮というものである。」

お寺にいる以上、これぐらい精神的に余裕と活力をもって檀信徒と接したいものである。

長い間語り伝えられてきた英知は、生半可な知識よりずっと意義深いものだ。1979年に初版だったこの本が、30年近く経った今文庫化されて読んでも、古さを感じないのはそういうことわざの力によるものだろう。

夜目遠目傘の内(私の好きなことわざでもある)、三尺下がって師の影を踏まず、目くそ鼻くそを笑う……語呂がよくて覚えやすく、人の心理をしっかり描き、ときには生きる指針とさえなることわざ。その裏にある意味を読みやすい筆致で引っ張り出す。

桜切るバカ梅切らぬバカなんていうのは、園芸のコツぐらいにしか考えていなかったが、教育でもイデオロギーでも杓子定規はダメだという教えがある。

餅は乞食に焼かせろ、娘は棚に上げ嫁は掃きだめからもらえ、売り家と唐様で書く三代目、人の行く裏に道あり花の山など、ちょっと聞きなれないことわざも知ることができてお得。よく言ったものだとか、粋だねぇとかことわざを伝承してきた日本人に感心することしきり。

これだけ移り変わりの激しい現代、古人の知恵を生かすことなんてないのかなと思いきや、そんなことはないものである。時代や国を問わない普遍性が垣間見られたような気がした。

展覧会の絵

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水曜日は葬儀が出て山形に戻っていたために、ピアノリサイタルを聴くことができた。長井高校OB会主催で奏者は木曽真奈美さん(http://www.haginojibika.com/piano/index.htmlなぜ耳鼻科のドメイン?)。

数年前、長井高校で捨てられようとしていたボロボロのピアノが実はスタインウェイ社のものであることが分かる。しかも1920年代に制作された年代もので、今の値段だと1億円以上はしたものだったという。一体誰が購入し、当時の長井女学校に設置されたのかは不明。

そんなに歴史と価値のあるものならばと、長井高校のOB会が立ち上がりピアノを修復しただけでなく、何年かに1度コンサートを開くことになった。そんなストーリーも素敵だが、リサイタル自体もすばらしいものだった。

前半はチャイコフスキーとラフマニノフの小品。休憩前に後半演奏される『展覧会の絵』の解説。奏者の木曽さん自身がプロの司会者かと思うくらいの明瞭な言葉で、しかも感情をこめてお話された。

木曽さんによると、『展覧会の絵』の作者ムソルグスキーはバルト三国近くの村のおぼっちゃんに育った。日本からモスクワに行くより、モスクワからその村に行くほうが時間がかかるというほど辺鄙な、何もない村。大志をもって都会に出たムソルグスキーであったが、自信作のオペラは酷評され、母親が死んで、身の回りのものを売っては安い居酒屋に通う毎日。最後はアルコール中毒で死んだという。

そんな中、彼のほとんど唯一の友人だった画家ガルトマンが若くして死去。その遺作展で彼が見た絵が、『展覧会の絵』のモチーフとなっている。

ガルトマンの絵は、デッサンであったりラフスケッチであったりして、あの音楽からは想像もつかないほど簡素であった。ムソルグスキーは何を表現しようとしたのか。

それは、ただの絵の印象ではなく、自身の絶望的な境遇であり、ガルトマンとの別れの悲しみであり、冥福の祈りではなかったかと。

そうして聴いてみると、第4曲ブイドロは葬送行進曲に、第10曲キエフの大門の序奏は賛美歌と教会の鐘に聞えてくる。キエフの大門の絵は、街のコンテストにガルトマンが応募した作品で、好評を博したにもかかわらず、街の都合で建築が中止されてしまう。ムソルグスキーは、永遠の音楽の中で、キエフの大門を建立したのである。

そうして聴くと『展覧会の絵』の印象はまるで違う。木曽さんは実際にムソルグスキーの生地を訪れ、またサンクトペテルブルクにあるお墓にお参りして、この曲想を得たという。古いピアノの柔らかい音色とあいまって、物悲しく、胸を打たれる演奏だった。

しばらくプロムナードがリフレイン。私の大好きな作品のひとつだが、またさらに好きになった。ラヴェル版もいいけど、ピアノ版はまた一味違った味わいだ。

「展覧会の絵」の絵
http://www.geocities.jp/tatsuyabanno/Bilderausstellung/Bilderausstellung.html

鉄道の旅

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先週の土曜日に、土曜ワイド劇場『鉄道捜査官』を見る。山形が舞台で、私がいつも乗っているフラワー長井線でも殺人事件が起きる。長井線内にもスナップが貼られており、近くのお寺の奥さんがエキストラで出たというので見てみた。
http://www.tv-asahi.co.jp/dwide/20070929.html

車掌が「いつも乗っている地元のお客さんばかりでした」と言うセリフがあるけど、そんな分かるほど田舎じゃないぞ!とか、鮎茶屋にいくなら鮎貝じゃなくて荒砥からだろ!とか、白鷹から山形のレストランに勤めていて長井線で通うのはどんだけ鉄道マニアなんだよ!とか地元ツッコミはあるものの、いつも見慣れた景色が出るのは楽しい。特に長井駅での乱闘シーンは見もの。

私もこのところ鉄道三昧。人生は旅なのであります。旅先で仕事をし、旅先で遊び、旅先で家族と会う。雲のごとく、水のごとく。

昨日は高校の後輩と偶然、新幹線で行き会った。アメリカ人と結婚した彼女は帰省中で、ちょうど帰国する日。一緒だった1才4ヶ月のお嬢ちゃんは、美味しいときなぜか眉をしかめる仕草がかわいい。アメリカのこと、山形のこと、子どものことなど話しているうちにあっという間の2時間。

4日ぶりに家に帰ると、1才8ヶ月の長男を見たが、わずか数日で言葉が増えている。「アンパンマン、だ」「ライオン、だ」など。長女は相変わらずインターネット三昧で、キッズgooやプリキュア5の動画やホームページを見ている。マウスの操作は見事なものだが、目が悪くなるんじゃないかしら。

そんな子どもたちをよそに、わずか一泊で山形にトンボ帰りである。明日は保育所の運動会だし、妻に全部任せっぱなし。本当は今日から水戸の祇園寺で開かれる講習会に行く予定が、葬儀のため明日の夜から参加。山形から水戸へは小山経由で行くが5時間かかる。つくばからだったら2時間くらいで行けたのになぁ。

ここ10日間ほど、妙に行事が詰まっている。御詠歌、葬儀・法事、コンサート、大学……。それぞれは大した時間をとられないのだが、移動量が多い。3往復。

このアーカイブについて

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