おの: 2007年12月アーカイブ

年末の法事

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住職からのクリスマスプレゼントは塔婆。毎年この時期は、法事をしていなかった檀家さんに塔婆を配って歩く。

年末まで法事をしていない檀家さんには、これまでいろいろな対処をしてきた。はじめは突然お邪魔して押しかけ法事。家の人の慌てぶりを見てこんな罰ゲームみたいなのはやめようと思った。それから合同法事に切り替えたが本堂が寒すぎてこれまた罰ゲームみたい。そこで今年は予め本堂で独りでお経を読んで、塔婆を配るという方法にしてみている。

法事は、お寺や親戚から言われてするものではないと思う。先立った家族に感謝を捧げ、自分の生活を反省してこれからの誓いを立てる。これが法事の意味である以上、忘れていたとか、年忌を数え間違えていたというのならともかく、自発的にしないと意味がない。

そういうわけで11月くらいで法事を締め切ってしまうお寺もあるが、私は今年もぎりぎりまで檀家さんからの連絡を待った。しかしあまり年の暮れも迫っては気の毒ということで、今日明日の連休で全部を終えたわけである。残りはわずか4、5件だけであり、1日2日で回れる範囲内である。

回る先では「申し訳ありませんが勝手にこちらで供養させて頂きました」と「お具合はいかがですか」の2つを述べるように心がけ、押し付けがましくなく、相手に罪悪感を抱かせたりしないように気をつける。それでお布施を頂けるかどうかは別の話である。法事は、お布施をもらえるからやっているのではなくて、あくまで住職の修行なのだ。

玄侑宗久氏は「墓参や法事をしない檀家にはどう対応する?」という質問に、いろいろいていいんじゃないかと答え、「こんにちは」「お元気ですか」「いや、べつに用事じゃないんですけど、近くまで来たもので」というようにちょっと檀家さんに出かけることを勧める(『お坊さんだって悩んでる』)が同感。金の切れ目が縁の切れ目では檀家さんも浮かばれまい。

幸いにして行く先々では笑顔で迎えていただいた(内心は焦っているのかもしれないが)。信頼は日々の積み重ねから。先日の東京ボーズコレクションのワークショップで、末木先生が「葬式のときの説教ほど聞きたくないものはない。無理してしゃべらなくてもいい」と厳しい意見を述べていらしたが、お葬式のときだけ顔を合わせてしたり顔で説法されたって、聞く耳なんてもたないのである。

願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし
我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを

コミュニケーション能力がなく、また必要とも感じていなくて、根拠のない自己肯定感をもち、社会と分断されつつある「絶対弱者」の存在を考える書。

「絶対弱者」の特徴として以下の9点が挙げられている。
1.知的好奇心はある
2.社会的な成功をめざした行動もしている
3.しかし地味な努力・社会的なコミュニケーションを軽んじる
4.自分の振る舞いの結果への想像力の不足
5.学習せず自己正当化する
6.親との関係を引きずっている
7.相手の感情を想像できない
8.自己が肥大化
9.社会的なコミュニケーションを必要と考えていない

「絶対弱者」は低所得層・若年層だけでなくあらゆる層におり、病気でもないため治療やカウンセリングも受けられず、現代社会でどんどん取り残されているという。

共著だが、三浦氏は塾・予備校で出会ったどうしようもない生徒たちの経験から、渋井氏はジャーナリズムの世界でライターとか言いながら何もできない若者たちの経験から説き起こしている。それ以外の層にどのようなかたちで存在しているのか分からないが、思い当たらないこともないわけではない。

さらに上記のような絶対弱者の特徴を、現代若者論のキーワード「ひきこもり」「アスペルガー」「非モテ」などとの異同を考察。多角的に現代人像に迫ることに成功している。

ただ両著者が「絶対弱者」についてイメージに違いがあると表明している通り、一様ではないようだ。三浦氏によればコミュニケーションどころか、最低限の社会常識すら身につけていないイメージであるが、渋井氏は人によってコミュニケーションが取れたり取れなかったりするというイメージ。上の9つの特徴にどれも当てはまらないと断言できる人がいないように、「絶対」という言葉とは裏腹に漸次的・相対的な面もありそうだ。

ともかく面白いのは三浦氏と予備校の学生たちのやりとりを描く「絶対弱者の風景」である。受験期特有の異常な精神状態もあるだろうが学力まるでダメでなぜか自信満々という学生たちが続々登場。三浦氏が正面から向き合い、何とかコミュニケーションをとろうと試行錯誤し、ときに優しくときに厳しく接する姿には胸を打たれる。大学の全入時代や学力格差と絡めた考察も秀逸で、これらの部分をもっと広げたら立派な受験参考書になりそうだ。

地元のご寺院さんの集まりで講演を依頼され、つくばから日帰りで行ってきた。与えられたテーマは「現代インドの仏教徒」。前回「般若心経の読解」というテーマで講演したとき、その中で「インドのお寺で般若心経を読んできた」という話をしたら興味を持ってくださったようでリクエストを受ける。

まずインド仏教衰亡の内的要因と社会背景を話す。檀家さんとお話ししていると、お釈迦様がインド人だということは知っていても、今のインドが仏教国ではない(国勢調査で仏教徒は全人口のたった0.8%)ということまで知らない人が多い。

それからチベット仏教、ヴィパッサナー瞑想法、新仏教徒の3つについて概要を説明。ダライラマ14世、ゴエンカ、アンベードカル、佐々井秀嶺の4氏についても触れた。一番興味を持ってもらったのが仏教徒=被差別カーストという話。インドに厳然として残るカースト制度の身分差別と、仏教の平等思想の相克は釈尊以来2500年も続いている問題だ。

その平等思想を背景として、再びインドの仏教徒が増えつつあるという話は元気がなくなってきている日本仏教にとっても勇気付けられる。

それから一昨日の東京ボーズコレクションでの話(直葬=葬儀に僧侶が必要とされなくなっている)と重ね合わせ、インド仏教衰亡の状況が現代日本仏教の置かれた状況に類似しており、日本仏教も滅びる懸念が強いこと、もう一度仏教の平等思想に立ち返り、現代社会で活かしていくことで衰亡を免れるかもしれないことを説いた。自分でも意図していなかったが、話しながらこういう風にまとまったのはあとから振り返っても感心する。

それから2時間ほどの懇親会。先週の役員会で今年の飲み納めにしようと思っていたが、結局やむを得ず飲んだ。終わって21時の新幹線でつくばへ。25時到着。明日は大学の最終講義である。

今日は築地本願寺で開かれた東京ボーズコレクションに行ってきた。

11時に着いたが、本堂から穏やかならぬラップが流れてきたので避難。まず虹の子供広場「ノッポさん&キミちゃんとあそぼう!」を見る。結構子どもが来ていた。手話付き「大きなノッポの古時計」を一緒に歌う。

出店でうどんを食べてから、12時30分からの東京ボーズコレクション法要『世界の平和を願う』へ。お坊さんたちが列を組んで登場し、中央のタラップを行って帰ってきてから法要を始めるという、まさにコレクション。天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済&曹洞宗、日蓮宗、日蓮宗尼僧の順番で各自10分ほどのパフォーマンスを行った。

天台宗はおだやかな声明、真言宗はリズミカルな声明、浄土宗はヨーデルのような技巧的な声明、浄土真宗は西洋音楽的な歌、臨済&曹洞宗は質実剛健な読経、日蓮宗は気合がこもった木剣、尼僧はさわやかな声明とバラエティに富んでいた。身内びいきかもしれないが、曹洞宗のお坊さんの低頭が一番低かったのが嬉しい(ほかの宗派は30度くらいでピタリと止める)。

それからみんなが出てきてパイプオルガンと太鼓が盛り上がる中で散華。各自がそれぞれの散華文(らしきもの)を唱えていて、低声も響く。クライマックスは華が舞い散りそれはそれは見事なものだった。

すっかり心奪われて見とれていたが、次のお坊さん学習塾「10年後のお寺をデザインしよう。」がもう始まっている時間。急いでかけつけると末木先生が時間を大幅にオーバーして講演しているところだった。相変わらずだなぁ。

次に小谷みどりさんが急速に変わっている現代の死のあり方をお話。病院死が増えたため遺族は生前に「予期悲嘆」を済ませており、葬儀は親睦がメインになっていること、葬儀は「直葬(儀式をせずに病院から直接に火葬納骨してしまうこと)」は都内で急速に増えている(2〜3割とも5割とも)、これからの檀信徒は「住職のファンクラブ」でしか成り立たないことなどを述べインパクトがあった。

おふたりとも共通していたのは、葬式仏教を儀式だけでなく、臨終から遺族が立ち直るまでの長い期間に推し進めるべきだというものだった。特に末木先生が「社会活動に力を入れすぎて身近なところがおそろかになっている」という指摘が心に残った。

休憩後は各宗派の青年会などで活躍する若手僧侶のパネルディスカッション。10年後お寺が生き残るには、目的意識のないイベントをただやるのではなく成仏とは何かとか内省していかなければならないという天台宗・本間師の考えには大いに共感。このあたりが出家者でなくなった日本僧侶の切り札になりそうだ。

質疑応答では教団は次世代に対してどんな支援をしているのかを聞いたが、それは末木先生も感じていたようで「教団の中間部あたりからの支援が必要」というコメントを述べられた。個人のスタンドプレイではどうしても限界がある。教団が若手の創造的な活動を支援することによって点が線になっていくと思う。ちょうどこの「東京ボーズコレクション」のように。伝統教団はとかく保守的なものだが、こうしたイベントを支援する真宗はエライ。

年配の僧侶から見ればきっと眉をしかめるようなイベントだったかもしれない。しかし見に来ている若い人たちが、葬式で後姿を見る以外に僧侶を見ることがあるだろうか。今回のイベントは、多くの人にとって僧侶という存在を再発見するよい機会になったと思う。ぜひ来年も。そしてできたら曹洞宗でも(無理だろうな……)。

コラボレーション法要「散華」
ゲリラデモ中の「仏像ガール」

家事育児も毎日のリズムができてくるとそれほど難儀ではない。慣れが肝心、でも新鮮な気持ちも失いたくない。

お寺の雑誌の表紙絵を見て、長男が聞く。
長男「これなーに?」
長女「おしゃかさま」
長男「おしゃかなしゃん? とっと?」
長女とふたりでウケた。ちなみに観音像だったが、お釈迦様と答えられる長女も大したものである。

長男は言葉の習得真っ最中。「たべる(tabelu)」が「たれぶ(talebu)」になるが、これは子音のlとbが交替している現象で興味深い。

長女は帰宅後インターネットをしていることが多い。ちらっと覗いたら中村優一(仮面ライダー電王のゼロノスの人)ブログなんか見ている。慌てて「見なくていいよ」なんていうあたり、すっかりおませさんだ。

もうそんなことをしている間に明日妻が帰国。早いものだ。

岩手で6月に起こった住職殺人事件の容疑者が逮捕された。境内に父のお墓がある親族で、金を借りに来たがずいぶんなことを言われ、住職と母親を刺して現金十数万円を奪ったという。

岩手日報:45歳店員の女を逮捕 一関・東山強盗殺人
日経スポーツ:住職ら殺害の女「侮辱的なことを言われた」
産経ニュース:「岩手住職親子殺害」返り傷の血痕DNAから浮上「明るいオバさん」…何を「侮辱」されたのか

近年警備会社を頼むお寺が増えているようだが、お寺は誰でも出入りできるところだから、この手の犯行には対策がない。そもそもお寺は性善説を取らなければならないところであり、またものを惜しまずに与えるという布施の心で接しなければならない。そこに付け入られるとお手上げである。

私も夜になるとふと不安になることがある。田舎のお寺だから現金なんて数万円しかないのだが、押し入るほうはおかまいなしだろう。それで命を落としたら大損だ。虎に足を切って食わせたお釈迦様の前世のような志もないし。

昔だったらお寺から何かを盗んだり、住職を傷つけたりしたら地獄の中で最も恐ろしい百間地獄と言われていた。しかし今は住職もただの人。蓄財するから金を借りに来る人も出る。僧侶の僧侶たる所以を考えねばなるまい。

2日目の夜は長男・私・長女というフォーメーションで朝までぐっすり。

山形の母から電話があったとき、長男が「見てこれ」と言って手の甲に描かれたアンパンマン(保育所で先生に描いてもらった)を受話器に当てていたのがおかしかった。そういう発想って、大人になるとなくなるなぁ。

保育所は5時迎えだが、少し遅れていって後片付けに手間取っているうちに5時半、6時に帰宅して夕食の支度。この間長女はインターネット、長男はみかんやパンを食べる。7時に夕食。お風呂を入れながら皿を洗って8時に入浴。そうするとだいたい9時には就寝できる。

私がいないときも9時就寝になるそうだが、夫婦揃うと10時になってしまう。この1時間の遅れは、気の緩みでのんびりしてしまうせい。それだけ、1人で子ども2人を見るというのは張り詰めているということだ。

食事を運ぶそばから食べ始める長男。ほら、こぼさないで! 長女はおかずばかり食べている。ごはんも食べなさい! え、のりで巻いて食べるって? 取ってくるよ。あーあ、こぼしちゃった。台ふき台ふき。ん、うんちした? パンツ替えようね……うーん、食べた気がしない。

先日山形で気づいたことだが、食べるスピードが異様に速くなっている。場合によっては祖母が箸をつける前に食べ終わるくらい。食べ終わるとすぐ立ち上がって何か始める癖がついているなと思ったら、こういう生活のせいか。

長男の第一次反抗期がやってきたようだ。保育所に迎えに行くと「ヤダ」と言って帰らない。服を着るのも脱ぐのも「ヤダ」ととりあえず言ってみる。これからもっと大変になりそうだ。

妻が海外出張のため今週は2人の子どもと3人で過ごす。妻は毎週のようにやっていることだけれども、私は何ヶ月かに一度なので緊張するものだ。

妻は土曜日に出発。私は日曜日まで山形にいたのでその間は妻の両親に来てもらう。駅までお送りしてからショッピングモールへ。ほとんど何も買わず、だらだらとウィンドウショッピングして帰る。週末はこのパターンが多い。

帰宅後、妻の両親が作り置きした夕食を食べ終わると、長男が泣き出した。「ママアッチ〜(ママを探しにお外に行きたい)」とひとしきり泣いた後「ニュウニュウ〜(牛乳飲みたい)」に切り替えた。食後のおっぱいはもう習慣になっているようだ。

昼寝をほとんどしていなかった長男、牛乳を飲んだら寝てしまった。起こして入浴。風呂の中で「チッチ(おしっこ出た)」と言ったが、本当にしていたのかは不明。ただその後、長男は風呂のお湯を飲んでいた。

21時就寝。夜ははじめ長男・長女・私の並びで寝ていたが、夜中に長男が呻るので長男・私・長女と移動。そのうち長女が起きて再び長男・長女・私、さらに長男が起きてきて長女・長男・私と場所を変更した。なれないパターンなので2人とも収まりが悪いみたいである。寝不足もあって9時間睡眠。

朝は特にトラブルもなく保育所に行けた。月曜は保育所にもって行く荷物が多いので、長女が長男の手を引いて連れてきてくれるのがありがたい。

あと1時間もしたら迎え。金曜日まで平穏に過ごせるといいのだが、どうなるだろうか。

外国人花嫁詐欺

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昨日は近所で外国人花嫁の紹介業をしている方がいらっしゃった。残留孤児の後見人になったのがもとで、よりよい生活を夢見る中国人女性と、結婚難の日本人男性のマッチングを始めたという。すでに40組のペアが近所にいる。

この方は会社を設立して関係各機関から許可を取り、合法的に進めているがこの頃違法な輩がはびこっているらしい。その手口を聞いた。

家は由緒ある旧家より割合新しいところを狙う。爺さん婆さんと40代の息子という家族構成が典型的だ。まずブローカーが家族と話をする。田舎は人がいいからここまでこぎつけるのは難しくない。でも爺さん婆さんはちょっとなぁと渋い顔。

そこでブローカー、それまで黙っていた息子に「ところであなたの女性の好みは面長か丸顔か」と訊く。実は車に面長と丸顔が待機しており、息子の答えに合うほうを連れてくる。連れてこられた女性は息子のそばに座り、流暢な日本語で息子をほめ殺し。息子はウブだから、決して悪い気はしない。爺さん婆さんも相好を崩し始める。

帰りにブローカー「こんなに仲良くなったなら一晩泊まっていったら?」と女性を置いて帰る。手数料は200万円。息子はすっかり高揚しているため急いで支払うのだ。その晩は座敷になどに泊まるわけだが、女性は息子を誘惑して夜這いさせる。そして翌朝ドロン。

息子のプライドや家の威信に関わるため被害届は出にくい。仮に出ても、一晩の関係を盾に事実婚を主張すれば詐欺の立件は難しいという。ドロンした女性はしばらく福島や新潟に雲隠れしてほとぼりを冷ます。ドロンされた息子はもう立ち直れず、一気に老けてしまうそうだ。

結婚は男女の関係だから必ずしもうまくいくとは限らない、ということを逆手に取った悪行。悲しいな。

合法な手続きでお見合いしても結婚生活が長く続かない可能性は大いにある。40組のペアがうまくいっているのは、ひとつはまず男性が現地に実際行ってあちらの家族と共にお見合いしてくるというのと、もうひとつはみんな同郷で時々会う機会を儲けているからだという。親族のつながりと中国人コミュニティが、結婚生活をバックアップするのだ。

この先日本は労働人口の減少に伴ってどんどん外国人労働者が増えていく。そうやって来日した人たちが孤立しないような仕組みが必要だと思う。とりあえず私は中国語と韓国語をもう少し話せるようにしておくかな。

戒名に使えない字

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今日はこれから葬儀。

戒名は戒名字典というものがあって、これをもとにして考える。以前「字典をパラパラめくって適当なところで指を入れて決めるのに、戒名料何十万とかいうのは馬鹿げている」というような批判を読んだが、戒名は故人の性別・年齢・配偶者の有無・信仰の厚薄・お寺への貢献度・社会的活動や地位・趣味・性格などを考慮して総合的に付けているし、戒名料やそれに類するものは一切頂いていない。

戒名で使わないほうがいい字を三除の法、二箇の大事という。三除の法とは、1.奇怪な難字、2.無詮の空字(乃・也・於・但など)、3.不穏の異字(争・恥・敵・悩など)を指し、二箇の大事とは1.歴代天皇の尊号と年号・祖師の法名を使わない、2.麟・龍・駿・鹿・亀・鳳・鶴などを除き動物を表す文字(いくらペット好きでも犬・猫はNG)は使わないというものである。子どもの名づけにも応用できそう。

ほかにも他宗を象徴するような文字(誉・釈・日)や読みから悪い連想をするもの、典拠のない熟語、同音の連続(清真晋心信士など)、入声の連続(妙覚吉楽信女など)も避ける。

ここまでは戒名字典に書かれていることだが、さらに私が気をつけたほうがいいと思っているのは遺族の名前の文字だ。故人の俗名をうまく盛り込むのは遺族が故人を思い出すよすがにできるのでよいが、そこに本人以外の人が混じるのは考えものだ。

その家で代々同じ文字を使っている場合は別として、遺族が故人の戒名を見たら自分の名前が使われていたというのは、あまりいい気持ちではないのではないか。人によっては「お前も早く死ねということか」と思われかねない。

戒名は聖俗を分かつものである以上、俗名を入れるべきではないという人もいる。そこまで極端な考えはもっていないが、遺族の心情に配慮して戒名も考える必要があるということだと思う。ときどき知らない遺族の名前を使ってしまうことはあるけれども、少なくとも喪主の名前は使わないようにしている。

『怪笑小説』

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自分のことは棚に上げて人の粗ばかり探してしまう人間の弱さを奇想天外なストーリーで描き出す。

オチは無理やりな感じもしないではないが、筋書きのインパクトで一度読み始めたらやめられない。

UFO=たぬき説に一生を捧げる『超たぬき理論』と、郊外のさえない住宅地で起こった殺人事件がとんでもない方向に発展する『しかばね台分譲住宅』が特に可笑しかった。「アルジャーノンに花束を」のパロディである『あるジーサンに線香を』は考えさせられるところも多い。

ミステリー作家東野圭吾によるコメディ作品、ほかにも読んでみようと思う。

不自由さの幸せ

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お寺の用事が入ったので先週の木曜から長女だけ連れて山形入り。ひと通り終えて昨日の午後からつくばに帰ったが、今日の昼に訃報が入ってまた山形である。つくばにはわずか一晩しかいられなかった。

今週末まで山形にいることになったが、その今週末、妻はアメリカ出張にいってしまうので10日ほど会えない。子どもたちは、妻の両親に手伝ってもらって見てもらうが、今月も綱渡りだ。

新幹線で山形に入ると雪が降っている。子どもが一緒なら喜ぶだろうが、大人で喜ぶのは除雪作業員くらいだ(「あ、お金が降ってきた」というらしい)。

今回は子どもを連れてきていないが、つい昨日長女が残していったお絵描きを見つけて胸が切なくなった。再来年からは子ども2人が山形で生活する予定だが、聞けば妻も単身赴任に耐えられるか不安だという。

今週のAERA「40歳は女の新・結婚適齢期」特集に、44歳の女性が結婚を考えるようになったきっかけとして、会社の同僚が41歳で高齢出産したことを挙げていた。「職場復帰した彼女は午後7時までに仕事をバタバタを片付けて帰る。その「不自由さ」が羨ましかった」とある。

お寺だけだったら相当時間に余裕はあるだろう。しかし家族がいてバタバタしているのは実はとても幸せなことなんだと思う。もちろん、僧侶として家族の絆のもろさ(人は命ははかなく、また気持ちも移ろいやすいこと)など重々承知しているつもりではあるが、いやそれゆえにこそ、家族が愛おしくなるのである。

とはいえ家族と一緒にいるとそんなことを思わないばかりか、もっと自分の時間がほしくなるばかり。子どもがいないときだけでなく、そばにいて付きまとわれているときもこんな心持ちでいたいものだ。

いわゆるウェブ2.0が今後どのような方向に進んでいくのかを、20のトピックで考察した本。

アマゾン、レコメンデーション、行動ターゲティング、仮想通貨、グーグル、プラットフォーム、ベンチャー、マネタイズ、ユーチューブ、動画、TV、番組ネット配信、雑誌、新聞、セカンドライフ、ネット下流、ツイスター、リスペクト、リアル世界、ウィキノミクス。

ウェブサイトの検索・閲覧履歴を記録し、それに合わせた広告を配信する行動ターゲティング。これが携帯電話をプラットフォームとしてGPSやおサイフケータイ、メール、さらに通話を通じて行われたらすごいことになる。

「たとえばおサイフケータイの情報を使えば、毎日同じ駅と駅を通過しているという事実に対して「この人はこの駅と駅が通勤経路なのだな」と機器の側が認識することができる。夕刻、いつもより早く駅に着けば「今日は早かったな」と認識して駅周辺の買い物情報をその人の行動に即して提供することもできるし、いつもより遅ければ「ちょっと一杯」の居酒屋情報をその人の好みに合わせて提供するようなことも可能になる。」

うぜ〜。これに頼りきりで思考停止し、機械に操られる人間が出てきそうなのも怖いし、絶えず自分の行動が監視されているのも怖い。

望ましいのは音楽のプロモーションをクチコミで行うというモデルで成功したマイスペースのようなSNSで人をつなげ、セレンディピティ(新しいマッチング)を作ることだ。ある趣味が共通の知人がもっている別の趣味に興味をもち、人のつながりの中で自分の人生を豊かにしていく。

ほかにもNHKがオンデマンド配信を始めるようになって、少チャンネルで広告を独占してきたテレビ業界に異変が起こる話や、ニコニコ動画のコメントが実はデータベース化されているという話、ターゲットが細分化されすぎてインターネットに対抗できなくなる雑誌、インターネットにしか楽しみや希望を見出せない地方の若者フリーターがネット周辺を変えていく話、ブログからミクシィへ、そしてトゥイッターへ流れるコミュニケーション圧力からの回避、ウェブ上の集合知からプロダクトを生み出すクラウドソーシングなどが興味を引いた。

グーグルやアマゾンのもたらしたインパクト以上にすごいものはまだ生まれていないようだが、ウェブの世界も静かに大きく変わっていくのだろう。その中でどういう活用をするべきか、アンテナを張っていきたい。

私も当事者であるだけにかなりショッキングな本だった。

1991年から始まった大学院重点化。これは十八歳人口の減少が始まる直前に、文科省と東大法学部の主導で始められた。その狙いは、「成長後退期においてなおパイを失うまいと執念を燃やす"既得権維持"のための秘策」であった。

就職超氷河期も追い風となり、その結果1991年には10万人いた大学生が2004年には24万人。中には教授に薦められるまま何となく院生になってしまった人も少なくない。その結果生まれたのが、博士号を取得してフリーターという希望のない大量の30代、40代である。

各大学はいよいよ入学者が減少し、人件費抑制を余儀なくされている。新しい専任教員を採用せず、非常勤講師で授業を行う。文科省による「ポスドク一万人計画」も焼け石に水。数が足りないのと、任期が短いことで一時的な救済にしかなっていない。

私の仲間でも「ドクターコンビニバイト」なんて冗談を言っていたが、それがもう現実になっている。本書でも塾講師からパチプロまで、さまざまな仕事で糊口をしのぐ博士たちが紹介されている。行方不明や自殺者も多いという。結婚だってままならない。

「子連れの夫婦などは、日中から街をふらふらと歩いている「博士」を見つけると、危険なものを見つけたかのように反応し、我が子を自らの背中にサッと隠すことも珍しくない。「アアは、なっちゃだめよ」との声が聞こえてくるのは、こんな時だと、博士たちは涙ながらに語るのである。」(p.135)

筆者は、この状況を打開すべくいくつかの提案を行っている。ひとつは「ボトムアップ人間関係」への寄与。医者と患者、先生と生徒、介護士と介護される人といった上下関係が生まれやすい人間関係に入り、専門知識を生かして意思を疎通させ、平等な人間関係を築く手伝いをするという。例えば宗教界で学者・僧侶と一般の間を結ぶひろさちや氏のようなものだろう。

もうひとつは学問は学問、仕事は仕事と割り切って良識ある市民として生きていくやり方。学問自体ではなく、研究の過程で獲得した技能やフレームワークを応用して自分の生き方にするものである。

いずれも収入に直結するものではないが、少なくとも自分のアイデンティティーを確立させて道を開くものである。今や出口はそれしかない。「取っても食えないが、取らないと気持ちが悪い」点で「足の裏の米粒」に喩えられる博士号、所詮はその程度のものなのだと認識を改める必要があろう。

この状況が知れ渡れば、大学院も就職や職種の期待をもつ若者でなく、一度社会に出た経験豊富な人たちの比率が上がると筆者は予想する。すでに私の知り合いも年配の人が大学院で学んでいるし、大学すらそうなりかけているからおそらく事実だろう。これから10年後、20年後の大学のありようが大きく変わるのではないかと思った。

研究者の端くれとして迷っている私も、もう一度自分が歩いている道を見つめなおしたくなった。

少子化の主な原因を若者の雇用不安とパラサイトシングルの増加によるものと捉え、戦後からの時代背景の変遷や他国の状況を追いながら、対策を考える。

調査によれば男性も女性も結婚して子どもをもちたいと思っている人がほとんどである。しかし結婚できない、子どもが産めないというのは、筆者によれば、女性は父親以上に安定した収入が見込める男性と結婚したいが、そんな男性は今やほとんどいないという事情による。魅力格差と経済格差、事実とはいえ、読んでいて切なくなる話だ。

例えば青森で五割以上の女性が年収400万円以上の男性を求めているが、実際青森の未婚男性で年収400万円を満たすのは2.6%しかいないという。そして人々はできちゃった婚になってしまう。これではねぇ……。

しかし行政はこの経済格差をひた隠しにしているという。確かに今やどうしようもない問題だし、社会不安を煽ってはいけないのだろうが、少子化の最大の原因に目を背けていてはほかに見かけの対策をやっても効果あるまい。

著者の提言は?@若者が希望のもてる職をもつ、?A経済状態の悪い親でも教育のチャンスを、?Bワークアンドライフバランス、?C若者にコミュニケーション能力をである。理念的であるが、もはやそこまでいかないと何ともならないくらいの状況に陥っているのだ。

少子化問題に対する世間や学者の肯定的・否定的評価もしっかりと検討されており、多面的に問題を捉えられるのがよい。

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