おの: 2008年1月アーカイブ

『憑神』

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幕末の江戸、文武に秀でながら婿入り先を離縁され、実家でくすぶる別所彦四郎は、つい足を滑らせて見つけた川原の祠に神頼みをする。ところが「三巡稲荷」と呼ばれるその祠から現れたのは、貧乏神、疫病神、死神であった!

映画公開で気になっていた作品。主人公の、幕末においても仁や忠を忘れない志の高さと、ときどき垣間見せる人間の弱さ、そして妻子への愛情が胸を打つ。大商人に扮した貧乏神、相撲取りに扮した疫病神、女の子に扮した死神の、神様らしくない個性豊かさもおかしい。

主人公はあくまでちっぽけな人間であることによってしまいには神を凌駕する。
「限りある命が虚しいのではない。限りある命ゆえに輝かしいのだ。」

時代小説はほとんど読まないが幕末の風雲急と江戸の生活がしっかりした時代考証に基づいて生き生きと描かれており、最後まで読みきった。

千の風になって

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来週の講習会で発声練習にしようかと思い、『千の風になって』の梅花譜を作成した。オリジナルの西洋譜はヤマハの「ぷりんと楽譜」から購入。105円でネットからダウンロードして印刷できるというのは便利だ。

「千の風になって 仏教」で検索すると面白い意見がたくさん読める。この歌詞は仏教に反するか反しないかで両論あるようだが、「私」はお墓にいないが、お参りをするのは無駄ではないというところだろう。

真っ先に連想するのは良寛和尚辞世の句である。

かたみとて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢば

それとご詠歌にもなっている道元禅師の和歌。

峰のいろ 谷のひびきも 皆ながら わが釈迦牟尼の 声と姿と

自分を取り巻く身近な自然の中に亡き人を追慕するという感覚は、往く者と遺される者が共有できるものだろう。

それではお墓参りは無駄なのか。『千の風になって』ではただ「泣かないで下さい」と言っているだけで、お墓参りを否定するわけではない。お墓にだって千の風は吹いているし、光は降り注ぎ雪は降り、鳥は鳴き星はきらめいているのだ。そしてお墓で亡き人に包まれ安心すれば、泣く必要はない。

問題はお墓の前かどうかではなく、亡き人に真心で向き合えるかということだろう。ただし多くの人はどこでも簡単にそんな気持ちになることはできない。そこで亡き人への思いを強めるために、お墓という「装置」が必要になる。「お墓参りなんかしなくていい」と思っている人の、いったいどれくらいが亡き人に真摯に向かい合う機会を持てているのか。

生きている人の救済が声高に叫ばれている現代仏教で、死者との対話なしに生きる指針が作れるのかという反省がなされつつある。墓前であれ日常であれ、亡き人たちのことをゆっくり思う機会をもちたい。

梅花譜:千の風になって(PDF)

分かりやすい葬儀

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お葬式続きで山形滞在日数が増える。今月はこれまでお寺で2件、伴僧が3件。往復の交通費と体力を節約するため昨日から長女を連れて山形へ。来週火曜日まで。

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葬儀は儀式であるとしても、参加者に分かりやすくなければならないと思う。

この頃葬儀で案内や解説をする機会が増えた。近隣では一番若い人がすることになっているらしい。開式の10分前くらいから、葬儀の流れと参列者にお願いすることを説明する。

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はじめに授戒という儀式が行われます。戒名をお授けするものです。戒名とは仏弟子になった証でありまして、授かるにはいくつか守っていただかなくてはならないことがあります。

まず懺悔と申しまして、これまでの行いを振り返り、悪いところがあれば反省いたします。

これによって身も心も清らかになったところで16の戒めを授かります。お釈迦様、その教え、教えを守る我々に全てをお任せするという誓い、悪をなさず、善行を積み、人々を助けるという誓い、人を殺さない、盗まない、嘘をつかないなどの誓い(酒を飲みすぎないと浮気しないはこの際言わないでおく)があります。これらを胸に刻んでいただいた上で、はじめて戒名を頂戴するわけです。

授戒が終わりますと読経に移ります。これは仏教にゆかりのある全ての仏様・菩薩様・神様――お釈迦様、お文殊様、お普賢様、お地蔵様、観音様、弥勒様、お不動様――これらの方々をこの会場にお招きしてお導きを願うものです。

読経が終わりますと告別の儀式です。弔辞弔電を賜り、お導師様から引導が渡されます。「引いて導く」という言葉が示すとおり、仏の教えに引き入れて仏の世界(あの世のよいところ)にお導きします。

そして皆様からお別れのご焼香を賜り、閉式となります。全体で1時間ほどの式になりますが、故人のご冥福を祈りながらご会葬をお願いいたします。

法要の間、皆様にお願いすることが3つございます。1つは合掌です。両手と5つの指をぴったり合わせ、指先を鼻の高さまで上げ、姿勢を正して合掌下さい。

次に読経です。途中でご案内しますのでお渡ししておりますお経本の○ページから『修証義』の第一章をお読み下さい。

そして最後にご焼香です。曹洞宗では本来2回が正式ですが、本日はたくさんの会葬者がいらっしゃいますので、1回のみにてお願いいたします。焼香が済みましたら一旦隣にずれて、次の方に香炉をお空け下さってからゆっくり合掌でお参り下さい。

以上、合掌・読経・焼香の3つでもって皆様に御会葬いただきます。どうぞよろしくお願いいたします。それではまもなくお時間です。最後までどうぞ心静かに、清らかにお過ごしくださいますようお願いいたします。
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故人のことやご遺族のこと、仏教の教義などは後からお導師様がお話しするので重複しないように実践的なことだけを話している。だが書き出してみると結構多いものだ。

自分が導師の場合はさらに亡くなった人がどうなるかということについての仏教の伝説や供養の意味などにも言及する。

「法要は意味が分からないのがありがたい」という意見もある。密教がその最たるものであろう。禅宗にも密教の影響はあり、陀羅尼を唱えたり印を結んだりしている。また、何の解説もなしに始まる葬儀には言葉では表せないような荘厳さを感じるのも事実だ。

でもお釈迦様の教えがどんなに深遠で凡夫には計り知れないものであっても、それを理解しようとする努力、人に伝えようとする努力を惜しんではなるまい。道元禅師は「教外別伝」を否定し、仏教が伝わるには教えを語りつくし、書き残す努力が必要であるという(『正法眼蔵』仏教の巻)。

また、戦後生まれの世代は納得しなければ参加できないという面もある。未来に照準を合わせるならば、分かりやすい法要というのは必須だと思う。

そのうちテーラワーダに伝わる『慈経』でも檀家さんと読んでみようかな。
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html

他人の行動によって自分の利害が変わるとき、どのようにふるまえばよいのか。リスク、インセンティブ、コミットメント、ロック・イン、シグナリング、スクリーニングと逆選択、モラル・ハザードなどゲーム理論のキーワードを、極めて身近な例をふんだんに盛り込みつつ解き明かす。

身近な例は理論を分かりやすくするだけでなく、それ自体が興味深かった。

・グーで勝ったら賭け金を10倍にするジャンケンの必勝法とは(みずから戦略的リスクを作り出す)
・病院が薬を大量に買わせる動機(インセンティブ)
・結婚指輪が高額になる理由(コミットメント)
・日本のオークションでヤフーが多い理由(ロック・イン)
・異性に容姿や服装をほめられていい気になってはいけない(シグナリング)
・1000万円からスタートして値下げしていくべきだったワールドカップのチケット
・リスクの高い人ほど保険に加入し、保険料を上げるとリスクの低い人から抜けていく(スクリーニング)
・「他店より1円でも高ければさらに値引き」とは「他店が同じか高ければ値引きしない」というシグナル
・スターバックスの成功は禁煙による差異化
・参加者が多いと予定価格を増やしてしまうオークションと、それを悪用するさくら

相手の気持ちを考えるというのは、何も道徳的見地からではなくて戦略的見地からも必要なことだと、強く思った。

宮崎禅師の遺偈

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慕古真心 不離叢林
末後端的 坐断而今

これは5日に106歳で遷化された曹洞宗大本山永平寺貫主・宮崎奕保禅師の遺偈である。遺偈とは僧侶の遺言のことで、毎年元日に書き改めることになっている。実際作っている人はあまりいないようだが、禅師様のこの遺偈は実際今年の元日、遷化されるわずか4日前に書かれたものだという。

「古の真心を慕い、叢林を離れず。末後の端的、而今を坐断す」と読むのであろうか。釈尊・達磨大師・道元禅師の仏道に倣って一生を修行道場で過ごしてこられた宮崎禅師のご生涯が滲み出ている。永平寺では「先人たちが歩んできた禅の道を、この永平寺にて歩んできたが、今まさに、その道が途切れようとしている」と解説しているが、後半は道が途切れるということではなく、この世に留まる最後の一瞬まで坐禅し続けるということだろう。まさに禅僧の鑑だ。

翻るに新しいものに追われ、修行から程遠い生活をして、静かに忍び寄る自分の死を怖くて見つめられない自分がいる。禅師様のご生涯を真似ることなど到底できないが、最後の教えを大事に頂いて胸に刻み付けたいと思った。

今週はつくばと山形を2泊おきに移動する1週間だった。いつものことだとはいえ、1泊目というのは寝つきがよくないもので、2泊してやっとよく眠れる。だから2泊おきに移動するというのは疲れがたまらないいい方法だ。両方の家族にも顔を合わせられるし。

日曜日、家族みんなで山形からつくばへ。長男が車中で奇声を発してたいへんだった。これからしばらくは移動の大変な時期になりそう。深夜に着いてつくば泊。

月曜日、大学の試験問題を作成のはずがメールの返事や本のレビューを書いて、仮面ライダー電王の動画なんか見ていたら夕方に。慌ててようやく完成。非正規社員の雇用について賛否両論を読み、自分の考えを述べるという問題。大学生は何学部だって他人事ではないぞ〜。夕方に保育所に迎えにいく。つくば泊。

火曜日は大学へ。今週中にボードゲーム雑誌の原稿を仕上げなければならなかったので、道中ずっと原稿書き。試験監督しながら、そして山形新幹線の車内でも。山形泊。

水曜日は大般若の祈祷。夕方につくばに帰るつもりでいたが、会計簿・税務書類の作成、あと御詠歌の会員連絡があって終わらない。夜中まで作業して山形泊。

木曜日は朝から原稿書き。お昼に源泉徴収税を払って税務署に書類を出して、つくばへ帰る。子どもたちより早く着いたので夕食の支度。つくば泊。

金曜日は都内へ。高円寺のすごろくやさんへインタビューをしにいき、帰りに水道橋のメビウスでニュルンベルク行きの相談。この辺は仕事なんだか趣味なんだか分からない。休日だったとしておこう。保育所のお迎えには間に合った。つくば泊。

土曜日は千葉の檀家さん宅で法事。その足でそのまま山形に向かい、夜は御詠歌の練習。総武快速から新幹線への乗換えが、衣に草履姿ではきつかった。御詠歌の後はインタビューの原稿起こし。山形泊。

日曜日、今日はお昼にご祈祷があって、空き時間にインタビュー記事作成。夕方はヤハハエロという小正月行事で、これから行ってきます。寒い外でのご祈祷でまた喘息にならないようにしたい。山形泊予定。

お寺の税務

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今日は朝から年末調整。お昼に大般若会の法要に出て、熱を出した母をお医者さんに送って、なんだかんだとやっているうちに夜になってしまった。

お布施は住職の懐にそのまま入ると思っている人が多いようだが、少なくとも今はそうではない。宗教法人会計に入れ、経費や預金を除いて残り一部を給与として頂く。法人税はないが、給与分の所得税は納めなければならない。

毎年この時期になって始めるのが寺日誌からエクセルファイルへの入力。○月×日、だれ某からお布施いくら、○月×日どこそこから仏前生花いくらというようにひとつずつ入力していく。すでに年末から妻が時間を見て少しずつ進めていてくれたのだが、寺日誌に記載し忘れたものを通帳や領収書から拾ったりするのに手間がかかる。

入力が終わって最後ににシグマボタンを押すのが楽しみ。収入の合計から支出の合計を引いて、さらに預金を引くと給与額が分かる。普通は給与額から計算していくものだと思うが、お寺の収入はムラがあるので事後報告の年俸制をとらざるを得ない(定額にして足りない月には貸しにしておくという手もあるらしいが)。

さて給与額が分かったら、税務署の書類に記入開始。早見表で源泉徴収税額を割り出し、続いて所得から諸控除を引いて年税額を計算。この差し引きで年末調整額を割り出し、納付書に記入する。結構面倒くさい作業で、税理士にお任せしているお寺も多いようだが、私の場合は小さい寺だし、分からないところがあれば税務署で親切に教えてもらえるのでずっと独力でやっている。

そして源泉徴収票を作成し、市町村の市民税課に送って終了。

こんなことを1日やっていると頭はお金のことでいっぱいになってしまうものだが、そんなとき思い出すのが映画『ザ・カップ/夢のアンテナ』の一場面。ワールドカップを見たくてアンテナの購入に形見の金時計を売ろうとするブータンの少年僧に、長老が「お前は金儲けが下手だな。いい僧侶になるだろう」と言う。

そう、お寺は商売ではない。利益にとらわれないことによって心の平安を求める。そのためにはあえて不器用でいたいものである。

東京ボーズコレクションで聞いてきた話だが、現代の死生観に大きな影響を与えているものとして全死亡者における後期高齢者(75才以上)の割合と、病院で亡くなる人の割合の急増があるという。9割近くの人が長生きして最期は病院で息を引き取る。

そうなると家族の死とはいえどこか他人事のようになる。「予期悲嘆」といって、亡くなる前に死を予期して悲しんでいるために、葬儀ではあまり悲しめなくなるのだ。そのため亡くなった人は大往生だったと締めくくって、やけに陽気な親戚の懇親会になってしまうのである。

懇親会自体はそれでよい。いまどき、葬儀か法事でもなければ親戚が一堂に集まる機会も少ないだろう。しかし家族の死が他人事なのは問題だ。家族は人間関係の基本。親を敬い、長年の労苦に感謝して送り出さなくてはならない。

そこでどこか他人事のようになっている家族に、大切な家族を亡くしたことにもう一度思い至ってもらうのに効果を上げているのが追弔御和讃だ。

一、その名を呼べばこたえてし 笑顔の声はありありと
  今なお耳にあるものを   おもいは胸にせき上げて
  とどむるすべをいかにせん 溢るるものは涙のみ
二、立ちては昇りのぼりては  哀しく薫ゆる香(こう)の香(か)に
  かずかず浮かぶ思い出よ  供えし花はそのままに
  霊位(みたま)の座をばつつむなり  清きが上に清かれと
三、一世の命いただきて    会うことかたき勝縁(えにし)をば
  夢幻となどかいう     うつつの形(かげ)は消ゆるとも
  うつろうものか合わす掌に 契りて深き真心は

身近な人が亡くなったとき、この曲を聴いて涙しない人はいるまい。枕経で唱えるもよし、火葬場で唱えるもよし、いい曲である。御詠歌仲間には、この曲を唱えて遺族のすすり泣きが背後で聞こえてくると、心の中でガッツポーズをするという人もいる(それは冗談だろうが)。

あまりに悲しすぎるので、若い方が亡くなったときには唱えないほうがよいと先生に教わった。逆に言えば、大往生と言われている方の前でお唱えするのは相応しい。

すっかり年を取ってここ数年は介護のことしか思い浮かばない。でもこの曲を聴いて若かりしあの頃を思い出してみよう。嬉しかったこと、怒られたこと、悲しかったこと、楽しかったこと。全てがもう二度と返らない過去のことなのである。あんなにたくさんお世話になったのに、私たちは何のお返しができただろうか。今私たちにするべきことは……。

葬儀は故人にとっても遺族にとっても、この後明るく幸せに生きる道につながるひとつの転機である。それをただ儀礼的なものに終わらせず、意義を絶えず明らかにしていくのは僧侶の役割だと思う。

追弔御和讃』(2007年録音、mp3ファイル)

日本サッカーがヨーロッパの強豪と比べて足りないものは自己決定力・論理力であると分析し、指導者ライセンス講習のディベートや、JFAアカデミーの言語技術指導を紹介する。

「なぜそんなパスを出したのか?」と監督が聞くと日本人の子どもたちは黙って監督の目を見ることが多い。これが筆者の留学先のドイツでは「だってペーターは足が速いんだから、そこに走るべきだから」と即座に答えが返ってきたという。

この差が、刻々と局面が変化していく中で究極の判断を求められるサッカーでは決定的になる。ひとつの答えしか許されず、答えが合っていたかに重点が置かれる日本の教育システム、答えはひとつとは限らないこと、失敗を重ねて経験を積むことを、言語技術の教育を通して子どもたちに身につけさせようとしている。

言語技術とは論理に留まらない。非論理的であっても、言葉を発する人の内面から出てくる自信や信念や経験に裏づけされていれば説得力がある。日本は伝統的に大事にしてきた以心伝心を捨てるのではなく、それに論理力を加えて飛躍できるのだ。

6才以下のおにごっこの反省、サッカーが好きな理由の議論、イメージトレーニング、8才以下のわざと察しない問答、行動の理由の説明、視点を変えること、10才以下の問答ゲーム、絵の分析、12才以上の主語の認識、理由や視点を皆で考える、など年齢に応じた言語技術の指導も具体的に説明。

サッカーに限らず、多様な価値観が並存する時代を生きていく子どもたち、私たちも学ばなければならないことである。

また日本のサッカーが弱かった時代の背景や歴代外国人コーチなど、ちょっとしたサッカー史になっていて内幕も楽しく読める。

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