おの: 2008年10月アーカイブ

運動神経

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今日の午前中は保育所の運動会。前の日までの雨もすっかり上がり快晴で気分がいい。3時間ほどの中に2〜5歳児の全員に見せ場を作り、滞りなく次の競技、次の競技と準備していく先生方と父母の会の役員さんにすっかり感心した。

長女は保育所最後の運動会で、見せ場が一番多い。最初のかけっこ、障害物競走(とは言わないが)、となりの幼稚園生と綱引き、親子競技、ダンス、リレーと6回もある。そのほかに歌や終わりのことばまで。

このために毎日練習を重ねていたそうで、長女の足もいつの間にか速くなっていた。ただ、障害物競走は苦手がなかなか克服しきれなかったようで、のぼり棒は「視界に入らなかった」といってスキップ、鉄棒も前回りで頭が下になったままなかなか戻れない。

まさにこれ、子どもの頃の自分を見るようだった。背が高くて、体をうまく操れないのである。小中学校の体育の成績はいつも「3」。進学校の高校に行って初めて、運動神経が今ひとつの同級生の比率が高まったおかげで相対的に成績は上がったが、今年の夏に小学校の同級会で運動をしたときは実力差を見せ付けられた。

長女が生まれたばかりのころ、パパママ教室で体育の成績を上げる方法ということで、足を持って逆さ吊りにする(虐待ではない)なんていうのをやってみたが効果なし。長女は今、縄跳びも自転車もフラフープもほとんどできない。遺伝だなぁといまさら親近感を新たにした。長男のほうは運動が得意だった妻のほうが遺伝しているようだ。

ともあれ本人は最後に金メダル(クラス全員がもらえる)をもらって満足そう。よくできたご褒美に、帰りに好きなおやつを1つ。でも運動会の帰りに、妻と私でパフェとあんみつを食べたことは内緒にしている。

よく『眼蔵』はわからないと言う人がいるが、それは事情が違う。『眼蔵』がわからせないのだ。わかる『眼蔵』は無い。その不在が『眼蔵』を問うことを強い、『眼蔵』そのものが「問い」として呼び起こされる。 『眼蔵』は問われることでしか存在しない。ならば、『眼蔵』を読むとは、「正解」がないままに問い続けるという徒労に耐えることだ。それはまさに釈尊の「正法」が現世で持つ構造なのである。(332ページ)

『正法眼蔵』を「本証妙修(修行によって本来の悟りが現れる)」パラダイムで読むことを本質/現象二元論であるとして拒否し、変わって「縁起(修行によってものの生起を再構成する)」パラダイムを打ち出す。例えば「現成考案」はあるがままで何不足ない真実ではなく、現にそうなっている存在を問い続けることと捉える。

このパラダイムで読まれる『正法眼蔵』の説は、インド仏教が打ち出したapoha(言葉の意味=他のものからの排除)や、arthakriyaa/savyaapaaravaada(真実=役に立つこと)に通じ、道元が(もしかしたら著者の南氏も)読んでいないはずのこうした経論と同じ哲学に達していることに驚きを禁じえない。

ただ話は存在や世界の分析で留まらず、実践的な修行論に及ぶ。道元が導いたような問いの仕方を身につければ、ものの善悪まで判断できるようになってくるというわけだ。哲学が倫理につながっていくという論の進め方は、これまで気がついたことがなかった。

道元が不落因果、不昧因果、撥無因果、深信因果というときの一見相互に矛盾する因果の捉え方は、長く教団を悩ませてきたが(悪しき業論など)、修行の方法という捉え方で見事に解決されている。実体視された因果関係(誰も逆らえない天の法則みたいなもの)は否定され、修行の方法としての因果関係(修行への意志と教えへの確信を促すもの)は肯定されているというわけだ。

お世辞にも読みやすい本とはいえないが、じっくり時間をかけて言葉を噛みしめ、定期的に何度か読み返したいと思わせる本。

『おくりびと』

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映画脚本をもとにしたマンガだが、細かい設定が結構変わっていた。その中で一番よかったのは、主人公と妻以外が全員庄内弁をしゃべっていること。山崎努扮するNKエージェントの社長は、謎めいた雰囲気ではなく温かみがあり、近所のおばあちゃんや子どもたち(特にすぐる君)もいい味を出している。

さそうあきら氏はこの原作にうってつけの漫画家だったと思う。映画を見ていたのにまた泣けた。

おくりびと

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モントリオール映画祭グランプリ受賞で急に話題になった映画。オーケストラが解散になったチェロ奏者の主人公は、妻と共に故郷の山形に帰る。そこで「旅のお手伝い NKエージェント」という求人を見ていったところは、納棺の仕事だった。

笑いと涙(涙が断然多いが)がいっぱいつまった2時間。妻を喪った人(「今までで一番きれいでした」、子どもを喪った人「やっぱり私の子どもだと」、母を喪った人、大の男が泣き崩れるのを見るのはたまらない。久石譲の音楽が効果的に輪をかける。

それにしても、死体を扱う職業ってこんなに差別されているものなんだろうか。同級生は「まともな職に就け」というし、妻は「汚らわしい!」というし、仕事中にも「あんな仕事を一生して償うのか」と言われてしまう。私にはとても尊い、そして美しい、「師」とつくのにふさわしい職業だと思うが。

山形の風景も美しい。庄内弁もお見事。ただ、実際の話をすると納棺師はまだまだ都会の職業であり、山形では一般的ではないと思う(つまり家族が自ら死に化粧や納棺をしている)。

オーケストラのシーンでは現在、山形交響楽団の音楽監督である飯森範親氏が出演し、ホルンの岡本さんもちらっと写っていた。庄内の風景は残念ながら鶴岡なのか酒田なのかさえ見当もつかなかったが、そばに神社があるNKエージェントの建物(パンフレットでは酒田だそう)はすごく味わいがあっていい。

火葬場の係が「死は門です」と言い、父は息子にメッセージを残す。死者と生者は決して分断されてはいない。「いってらっしゃい、また会おうの」というセリフが強く印象に残った。

私も子どものときに父が離別し、その後一度も会っていない。学生時代にオーケストラをやっていたことがあり、来年から山形に行き、山形に行けば死者を相手にする仕事が待っている。なんと主人公と境遇が似ていることだろう。そのため非常に感情移入してしまった。

「おくりびと」公式サイト

社会評論という角度からネットの現在を切り取ってみせる書。毎日新聞低俗記事事件、書き込みが殺到したニコ動の小沢一郎演説、40000回閲覧された志井和夫の国会質問(CGJ「志井グッジョブ」は笑った)、JJモデルブログ炎上事件、光市「1.5人」発言などを取り上げ、その背景まで分析する。

ネットで起きた事件を知るだけでも十分興味深いが、その背後にあるマスコミの弱体化、格差問題、ネチズン意識の変化、ネットの敵視などに対する分析も鋭い。著者が紹介した「ブログ論壇」の意見は感情的なものも多く、必ずしも論理的なものばかりではなかったが、当事者としての切実さがにじみ出ているのが心に響いた。でもだからこそ、ブログが一般問題として論じることが少ないのかもしれない。

一番印象に残ったのはブログの言論責任について。大学や会社に属している人が問題発言をしたとき、日本ではそれがパーソナルな場所(レンタルブログなど)であっても本人ではなく組織にクレームが行ってしまう(たとえば私の場合だったら、ここで書いたことへのクレームが曹洞宗の本庁に!)。おかしな話だと思うが、実際にはよくあることだ。個というものが日本では確立していないのかもしれない。

アメリカのカリスマ弁護士が書いたものをビジネススクールの先生が和訳したものだが、全然すごくない。この本で説かれていることを一言で言えば、「理詰めよりも謙虚に相手の立場を慮って」ということ。それしかできないから議論が苦手という日本人が多いのに。

訳者も後書きでこのことに気づいているようだ。

確かに、今までの日本は、あえて角立てて意見を戦わせるよりも、「俺とお前」に代表される、阿吽の呼吸、「お互いの気持ちを慮る」ことが重要視されてきた。(202ページ)

目的の達成のためにおべっか使いや、自分にだけ有利な表現などの詭弁も紹介されている。説得では不可欠なことかもしれないが、あまり褒められたものではない。

一番なるほどと思ったのは「意見と人格を一体化させない」という項。「○○さんの意見」と言わずに「Aという意見」ということで、人格否定と取られないようにするという、インテルの社長さんの話だ。でもこれは訳者解説で出てくる話。トホホ。

資産運用

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今日は午後からお坊さんの研修会だった。が、お葬式が入り、ヘロヘロになりながら夕方から参加した。

夕方の講義は資産運用についてで、講師は野村証券の方。超低金利時代の現在、預金だけでは資産は目減りするので高利の証券を。今アメリカの金融危機で証券も値下がりしているが、日本の「空白の10年」と比べるとアメリカは政府がいち早く動いており、2年くらいで収まるのではないか。なので今が買いどきと(本当はここまでは言い切っていない。脳内補完あり)。

まず必要な利率ありきという話で、リスクについては全く触れられなかった。「空白の10年」の頃と違い、アメリカの景気の影響を受けやすい現在はリスクが高いのでは?という疑いが起こる。だが、それよりも、僧侶の積極的な蓄財が倫理的に許されるのかというところが気になって仕方ない。「一日為さざれば、一日食らわず。」

もちろん、宵越しの金はもたないなんて主義ではお寺はやっていけない。だが、目の中が¥マークになってしまいそうなのも怖い。イヤでしょう、そういうお坊さんって。 ちなみに妻にもそういうセールスが来るが、「調べたり検討したりしている時間があったら働く。」近くのお寺さんは「運用する資産なんてねぇ!」どちらにも全く同感。

疲れがどっと出たところで、夕食は弁当を食べながら人権学習のビデオ上映。それが児童虐待についてなのである。近所の子どもが虐待を受けているようだ。どこに通告したらよいか、そして通告後どういう人が動くのか。食事が喉を通らなかったのは言うまでもない。

家に帰ったら長男が元気に遊んでいたのでほっとする。明日はつくばへ。

明日10時から、私のお寺で坐禅・写経体験会が行われる。これまで申し込まれた方は子どもを含む9名。当日参加もOKなのでこれをお読みの方はお誘いあわせてお越し下さい。

座禅・写経体験in洞松寺

「最上川アルクセッション」という観光イベントの一環として行われるもの。市内の寺院全部にアンケートをしたのに、やってもよいと行ってきたのはうちともう1ヶ寺だけだったらしい。気軽に訪れることのできるお寺って、みんなが求めているものだと思うけれどなぁ。

昨日の夜、寺院の会議があった。次回はいつにするという相談で、この日はダメ、次の日は別の人がダメと言っているうちに月末になってしまう。いまどきの住職は、想像以上に忙しいようだ。というか、私がヒマすぎるのだろうか?

JR東日本とタイアップした立派なチラシにもこの坐禅・写経体験が掲載されていてびっくり。坐禅はときどき行うが、写経は私の代になって初めてだ。

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