おの: 2009年1月アーカイブ

日本人は無宗教を恥じることはない。むしろどんな宗教も分け隔てなく接するという寛容さは日本人の美点であり、宗教が対立を生む現代においては大きな価値になるから自信をもて、という本。

成田山のようにたくさんの参拝者が訪れる宗教施設は世界のどこにもないし(成田山1300万人、メッカ500万人)、観光に神社や寺院はつきものである。大いに賑わう元旦の初詣も、冠婚葬祭のいずれもが立派な宗教行事である。しかし日本人にはその自覚がない。それは神道、仏教、さらにキリスト教を択一でなく信仰している現状と、そして宗教というのはイスラム教のように生活を変えるほど何かを拝むものだという観念から来ている。

この原因には、長い年月を経て形成されてきた神仏習合に基づく文化、明治政府が「神道は宗教にあらず」として国民全体の習俗や道徳に位置づけようとしたこと、創価学会の強硬的な折伏やオウム真理教の事件への警戒感が強まったこと、また個人よりも社会を優先するべく「こころ」をひとつにするために無私や無心というような「無」に価値を置いてきた国民性があるという。

そして現代、9.11事件を引き起こしたイスラム原理主義や宗教間の対立が世界中で際立つ。これが本当は教義の対立ではなく利害の対立であることは、十字軍、法華一揆、一向一揆という歴史からも明らかであるが、宗教はどうしてもその看板になりやすい。

そこで日本人が取る無宗教(無の宗教)は、社会に宗教的対立を生まないために重要になってきている。これから日本は外国人にとって魅力的な国として、自国の文化を発信していけるだろう。

出家の制度が崩れたことを堕落ではなく無宗教の流れと捉え、階層を作らずに継続していけることを評価する。原理主義によって排外主義・非寛容や暴力を生むよりもずっとよい。

終章のJUniverse(日本が無宗教によって異文化を受け入れ、世界全体になっていく)など日本賛美すぎるところはついていけないが、無宗教という側面から見た宗教史的な考察はとても興味深く、混迷する仏教の未来を考える上でも示唆に富んでいる。

この頃メールへの信頼が落ちている。送ったのに届いていない、送ってもらったのに受け取っていない。ミクシィのメッセージのほうがよほど確実だ。毎日いくら迷惑メール報告をしても次々と舞い込む新しい迷惑メール。インターネットはいったいどうなっているのか気になってこの本をとった。

本のタイトルの答えはいかがわしい業者(資金が足りないか、放送倫理に抵触するものを取り扱う)がほとんどで、あとは詐欺師、怨恨を持っている人である。どうしてこんなに迷惑メールが多いのかというと、送信コストがかからないのに引っかかる人が多い(あるアンケートではクリック率39%と)からである。

来るもの拒まずで架空アドレスからでも確認せず受け入れてしまう「人のいい」メールサーバ、どうしてもグレーゾーンが残るために迷惑メールを防止しきれない改正特定商取引法などの法律はいずれも迷惑メールを防いでくれない。サーバのチェック機能やデジタル署名など新しい仕組みも用意されているようだが、それも同様である。厳しくすれば、必要なメールまではねられてしまうからである。

一番は情報リテラシということになる。本書で「秘伝・迷惑メール対処法」というのはメールアドレスを公開しない(あるいは@マークを別の文字で出す)、捨てアドレスを使う、NGワードで排除、HTML形式のメールは避けるなどのありきたりなものばかりだが、結局それくらいしかないんだろうなというのが結論か。

「もう死にたい」「この世から消えてしまいたい」……特に理由もないのに人生が苦しいと感じている人へ、仏教からどういう答えができるかを真剣に探る書。お坊さんの本というと、説教じみたものを想像して嫌がる方もいると思うが、そういった抹香臭さは微塵もない。

釈尊や道元禅師の教えを土台にしつつ、僧侶が陥りがちな仏教用語のマジックワードを排し、自分自身の言葉で語ろうとしている。それだけでなく、小さい頃から生きがたさを感じた結果に出家した筆者自身の悩みが共有されており、上から目線ではない。さらに、僧侶が避けて通りがちな現代の問題にも積極的に意見を述べている。

「オンリーワンはナンバーワンよりきつい」では、石ころでなく花、しかも花屋の店先に並んだものという選択を経ていること、またそれを特別だと認めてくれる人がいないと意味がないという。価値を認められたい自分が寂しく、また虚しい。無差別殺傷事件の犯人も、身の回りの悪いことを死者の祟りと考える人も、自殺を図る人も、このあたりの空虚さを起点にして考える。

この世に生まれてきてしまったのは、誰のせいでもないし自分の責任でもない。自分には生まれながらの価値などなく、この生という事実を引き受けようと覚悟を決めたときにはじめて、価値が生まれる。

信仰は神仏との取引ではないというのは至言。宗教家とは、悩める人の漠然とした「問い」を言葉で言い表せる「問題」に変えていくのが仕事であるという。

「信じる」ことは「賭け」だというが、それはギャンブル中毒の原因である「瞬間的な自己解除」を伴うのだろうか。筆者は何度も死ぬことを考えてきたのに、釈尊や道元を読んだ結果、生きるほうに賭けたというが、その決定には覚悟がある。これは、主体も責任も放棄することで快感を得られる「賭け」とは異なるのではないだろうか。

語り下ろした内容をまとめるという構成のため、内容が行ったり来たりしているが、心に響く言葉がたくさんあった。

死者に向き合う

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映画『おくりびと』のもとになった『納棺夫日記』に、僧侶がお葬式を行いながら死者と向き合っていないという批判があった。お葬式は遺された人のためだけに行うという僧侶もいるが(『坊主のぼやき』)、死者と真正面から向き合わずして、どうして遺された人に救いの手を差し伸べられようか。

とはいえ、数をこなしているうちにどうしても慣れっこになってしまうのは避けがたい。そこで、死者と向き合えるような仕組みを自分に課してきた。そうすることで、意識が低いときでも(例えばお葬式があまりに続いてうんざりしてきたときなど)、否応なく向き合わせられるというわけだ。しかし惰性というのは恐ろしいもので、新しい手立てを次々と考えないとすぐ効かなくなってしまう。

まず住職になった当初に心がけていたのは、喪家ではゲラ笑いしないこと。当然のように見えるが、冗談や笑い話をする僧侶も少なくない。式中だけしかめっ面をしていて、控え室に戻った途端ゲラゲラというのは、批判が寄せられるところである。家族が亡くなった気持ちで過ごせば、顔を作らなくても自然に相応しい顔つきになる。そのため何度も心の中で何度も死んだことになった家族には悪いけれども。

しかし笑わなくても、遺族の悲しみにはどうしても無感覚になりがちだ。そこで『追弔御和讃』の奉詠を始めた。「その名を呼べば答えてし笑顔の声はありありと……」歌詞をかみしめながらお唱えすることで、大事な人を亡くした気持ちを起こし、その気持ちにどうやって寄り添えるかをじっくりと考える。聴いている遺族もこのお唱えでだいぶ心の垣根を取り払って下さる気がする。

ところが『追弔御和讃』も、何度もお唱えしていると歌詞をかみしめなくてもすらすらと出てくるようになってくる。そこで1年前くらいから始めたのは、枕経の後で故人の額に手を当て、南無釈迦牟尼仏、南無観世音菩薩と唱えることだった。この行為は、誰に教わったものでもないが、正法眼蔵道心の巻の「またこの生のをはるときは、ふたつのまなこ、たちまちにくらくなるべし。そのときを、すでに生のをはりとしりて、はげみて南無帰依佛と、となへたてまつるべし。」という文言に基づく。

死者に直接触れるというのは、死の実感が湧く一番の方法である。ある人はもう冷たく、ある人はまだぬるいが、確実の私の指から熱を奪っていく。その冷たさは、帰ってからもしばらく感覚として残るくらいだ。そこで私は死者から大切なものを頂く。それは「生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸」という言葉の実感である。私もやがてこうなる日がやってくる。それまで虚しく時を過ごすまい。生きる覚悟である。

この方法もいつまで私の自覚を促し続けられるか分からないが、その先はというと過激になりそうで怖い。

今日の仏教会で聞いた話。田舎の火葬時間は90分、時間をかけて焼くので骨がきちんと並んで出てくる。でも都内はその半分、半分焼けたところで魚を裏返すようにして焼け残った部分を焼くので、骨がずれてしまうのだそうだ。これで焼き魚が食べられなくなった方がいたらごめんなさい。

山形弁日記

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昨日は昼に檀家さん亡ぐなやったって言う電話あって、つぐばさ居だったもんだがら、急に帰んなねぐなった。

もどもど山形さは金曜日に長男ど行ぐごどになってだったもんだがら、2日早まったなよ。保育所さ長男どご迎えに行って、それがら妻の職場さ車置ぎに行って、駅まで送ってもらって。長男は急に山形に行がれっこどになったもんだがら、きしゃましったっけ。

常磐線まで30分くらいあって、ひたぢのうしく駅は寒いもんだがら、だんだん具合悪くなってきてよお。昨日がら咳止まんねくて、風邪だったんだべな。常磐線も新幹線もずっとウトウトしったった。長男は窓がら外見だり、うだ歌ったり、機嫌よぐ遊んでだったげんど、保育所で昼寝もしねで来たもんだがら、さすがに福島あだりで寝だ。

赤湯駅まで母に迎えに来てもらって、家さ帰って体温測ったら38度。でもこれがら上山まで枕経に行がんなね。妻が心配してタクシーで行ぐよう言ってでけっちゃもんだがら、タクシー呼ばって出発。

タクシーの中ではぐったりしったったげんど、喪家の家さ近づぐどなしてだが具合良ぐなるんよ。お陰でお経も御詠歌も咳き込まねでちゃんと読まっちゃ。仏様のおかげだべが。

家さ帰ったなは夜9時でタクシー代は往復27500円。でもこんな熱で運転して事故起ごしたら、こんなもんでは利かねぐなっぺがらしょねごでな。今日はだいぶ具合いいぜ。明日は午前午後ど2つお葬式あっから休んどがねど。

ぜんそく

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ここ2,3年、咳で悩まされている。今回は10月のエッセン以来、咳が抜けない。お正月に「それはドイツに行ったお坊さんだけがかかる病気ですよ」なんて言われたが、どうやらぜんそくということのようだ。

何年も前にかかったつくばの開業医ではぜんそくと診断され、気管支拡張薬のテオドールと、ステロイド吸入薬のパルミコート、セレベントを処方された。今考えるとこれが正解だったが、このお医者さんは誰を診察してもぜんそくと言うといううわさを聞き、咳き込んで苦しいと言うこともなく、薬代も高いので症状がよくなるとやめてしまった。

それからは専ら対症療法でしのぐ。咳止めにもいろいろあって、メジコン、フスコデ、リン酸コデイン、麻杏甘石湯、柴胡清肝湯、抗アレルギー薬としてアレジオン(エルピナン)、オノン、セレスタミンなどいろいろ飲んできた。この年でお年寄りのような薬の多さになったこともある。

ぜんそくの症状として、ちょっとした刺激で咳き込む(タバコなど)、かぜをひきやすいというのを見て、自分が正真正銘のぜんそくであることに納得した。どちらにもあてはまる。虚弱体質ではないのである。

ぜんそくは気管支アレルギーなので、アレルゲンが何かということになるが、スギと、線香の煙のようだ。線香にはスギが使われているが、それも関係しているのかもしれない。職業病ともいえる。今度から、お葬式のときは迎え線香を略してもらおう。

現在は花粉症の予防も兼ねてエルピナンとオノン、そして咳止めにフスコデ、そして前にもらったパルミコートを服用中。薬漬けだが、変なウィルスをもっているわけではないので、目の前で咳き込まれてもご安心ください。

セールス電話

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先ほど、都内のマンションを買えとかいう電話が来た。山形ではお寺のイメージダウンにならないよう、「大変申し訳ありませんが、またの機会によろしくお願いします」などと言って丁重にお断りしているが、つくばでは容赦なく最初から切り札の「お断りします」を使う。そのほうがあちらにとっても時間を無駄にしなくて済むだろう。

ところが今日は「お断りします」が効かなかった。前置きが長引きそうだったので「何のご案内ですか?」と聴いたところ、「まあまあ、まだ話の途中ですから」と話をやめない。そこでしびれを切らせて「お断りします」の切り札を使ってしまった。

このタイミングが悪かったようだ。セールスは食い下がる。「どういうものかご存知の上で断られるんですか?」「いいえ、興味がありませんので」「興味をお持ちにならないかどうかは、お話を聞いてから……」と言ってこちらの答えを聞かずしゃべり始めた。話をなんとか遮って再び断り、電話を切るとまたかかってきた。

第2ラウンドはうっかり「お話を聞く時間がありません」と言ってしまった。これは母がよく使う手だが、あまり効き目はない。早速「それではいつならお時間をいただけますか?」という返事。強気で「いつでもありません」と言ってなんとか退ける。「いつでも時間がない」なんて、自己嫌悪に陥るような危険なカードをよく出したものだ。

それでも粘る相手に根負けして、話を聞くことにした。タフさには感心するが、馴れ馴れしいのはダメだ。「ご主人様はお勤めですか?」「どうぞ話を続けてください。」「会話しましょうよ。」「会話はしたくありません。手短にお願いします。1分くらいで。」「それでは話をまとめて後でお電話します。」それからかかってこないところを見ると、やっと諦めてくれたか。

しつこいセールスを、フェアかつ短時間で退けられる作戦は何かないものだろうか?

定額給付金

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先日反対した生活支援給付金(現在は定額給付金)がまもなく採決されそうになっている。こんな稚拙なことしかできない自民党が政権を握っていることに歯軋りをする思いが続いていたが、最近のやり取りから、賛成してもいいかなという気持ちになってきている。

昨日、火葬に行く車中のラジオで、各党の言い分を聞いていたが、民主党は世論調査の反対意見の多さを盾に、自民党は世論調査の給付されたらもらうという意見の多さを盾に応酬していた。世論調査は説得力があるが、みんながそう思っているからといって正しいとは限らない。賛成・反対とも論理的な理由が必要である。

ちなみに、麻生総理が給付金を受け取るか受け取らないかも議論していたが、これも論点から相当ずれた話でどうでもよい。

先日のニュースで放送された国会の議論で、内閣が「減税では納税していない人が恩恵を受けられない」というのを聞き、なるほどと思った。

ドイツでは景気対策として新車購入の助成を行うという。確かに経済効果は大きいだろうが、これも車を買えるくらいの富裕層しか恩恵が受けられない。

定額給付金の恩恵が大きいのは、地方在住者だろう。不景気の影響をもろに受け、働く意欲があっても職がない。山形では「16時終業」「12月19日からずっと年末休暇」「週休4日」などの例を聞いた。60%の賃金保障より失業保険のほうが多いのだが、その先が見えないから辞められない。夏であれば野菜を作って食糧確保もできるが、冬は本当にやることがない。暖房費の節約のため、パチンコ屋やスーパーの休憩所に1日中いる。

そういう人々にとっては、12000円の給付金は1ヶ月の生活費にもならないとしても非常にありがたい。また、同じく疲弊している地方の商店にとっても、いくらかの売り上げ増が見込める。

一方、経済効果はまったく見込めないだろう。消費刺激を見込める中流層以上にとっては、金額が少なすぎるからだ。 4人家族で5万円くらい給付されたとして、それなら車を買い替えようという気になるだろうか。

以上のように、たとえ刹那的であっても、地方対策という意味で定額給付金には賛成できる。おそらく国が地方に恩恵を与えるようなこんなチャンスはもう二度と訪れまい。経済がグローバル化する中で、国家が国民の生活を守る時代は、どの党が政権についてもまもなく終焉を迎える。最後の線香花火をせいぜい楽しもう。

1週間の多様性

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新年早々バラエティに富んだ1週間だった。

月曜日はお葬式の導師、火曜日は大学の試験官、水曜日は演奏会の司会、木曜日はお札の名前書き、金曜日は大般若のご祈祷。明日はゲーム合宿である。七変化。

日曜日に妻と長男がつくばに帰り、私と長女が山形に残ることになった。もともとは長男が残ることになっていたが、お葬式が入った時点で困難が予想されたため、長女と交替になった。長男は仕事の邪魔をするばかりだが、長女はお手伝いもするし、一人でも遊んでいられる。さすが春から小学生。

月曜日、葬儀が終わってから高校の友人と飲む。が、その1人が肋骨を折ったとかで来られなくなり、急遽あちこちに電話をかけまくったところ、地元以外に共通の属性がないという変な集まりになった。しばらく会っていない人の近況を聞く。

心に残ったのは既婚の後輩が資格を取るため朝3時に起きていたという話。これぐらいしなければ博士論文は書けないだろうな。

皆が帰ってから試験問題を作って、翌朝に日帰りで大学へ。論理学後期試験の最終設問は、自殺をほのめかす友人を思いとどまらせる説得文を書くという課題を課した。論理とは人を離れて成り立たないものなのである。

これで2年間にわたる埼玉通いは終了。結局1回も休講にしなかったのは奇跡的である。

水曜日は隣町で開かれた室内楽のコンサートである。ステージマネージャー兼司会ということで、午後からずっと舞台裏を駆け回っていたが、こういうのは楽しい。

サンサーンスの七重奏曲の途中で、ヴィオラが焦って弓を止めるというシーンに遭遇したが、後で聞いたらユニゾンのヴァイオリン2人が結託して弾かないという悪戯。若手なのでこういうことは時折あるらしい(譜面にヌードの切抜きを貼るとか、スラーをスタッカートにするとか)。作曲家だって人間だから、笑って許してくれるよとか。僧侶にも回向文にグラビアの切抜きを挟み込むという悪戯をやったのがいたが「冒涜だ!」とこっぴどく怒られたのを思い出した。

昨日は1日中準備をして、今日は1年ぶりの大般若会。250枚ほどのお札に申し込み者の名前を書き、落雁とお守りをそれぞれ袋に包み、地区ごとに数を分ける。さらに本堂を荘厳し、法要が終わった後の料理や飲み物を注文し…と延々続く準備。

ぎりぎりになって法語が見つからず急いで書き直したり、礼盤の上で結跏趺坐したらまさか足がしびれてしまったりとちょっとしたハプニングはあったが、大過なく終了。太鼓係の和尚さんが腕を上げられていて、強弱を使い分けた撥さばきにゾクゾクした。

今回初めて、厄年と年祝の方の名前を導師自ら読み込んでみた。参加している人にとっては、法要中に自分の名前が読み込まれるのはとてもよい気持ちだろう。これは次回もやってみたい。

終わってご寺院さんを接待申し上げた後、役員さんと新年会。住職が家族で帰ってくるというのを役員さんたちは殊の外お喜びになり、上機嫌でワイワイガヤガヤ、お酒も進む。私はすでに今年3回目の飲酒ということもあって少しセーブ。

この間、別の新年会の案内葉書を作ったり、宗教法人の手続きをしたり、こまごまとした書類作成が多い。源泉徴収税の納付も残っている。そんな中、明日は温泉でボードゲーム合宿。ちょっと遊んで英気を養おう。日曜はご祈祷があり、月曜につくばに帰る予定。よいこにしていた長女への家族サービスは、リクエストにより後楽園のおもちゃ王国。

遺偈

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新しく買った絡子の裏が真っ白のまま年を越してしまったので、以前から作ろう作ろうと思って先延ばしにしていた遺偈(ゆいげ)をささっと作り、書き込んでみた。

遊空一期 至心詠己
成光無為 何以慙愧
(空に遊ぶ一期 至心に己を詠ず
 光と成りて無為 何を以ってか慙愧せん)

「菩薩であろうとしてこの空なる世の中を心の赴くままに過ごしてきた一生であった。真面目に自己自身を見つめ、伝えようとしてきたつもりである。今、光となって仏の世界にゆく。どうしてこれまでの人生を恥ずかしがることがあろうか。」というのが大意。

遺偈というのは禅僧の遺言である。いつ亡くなってもいいように、毎年元旦にしたためておくようが薦められる。たしなみというか。

住職になって10年、これまで150人の方を送ってきた。ほとんどがお年寄りだが、私より若い人もいる。そんな中で、自分だけは死なないという気持ちがどこかにある。頭ではそんなことはありえないと分かっているのに。

生死即涅槃、遺偈というのは死ぬ前の書置きではなく、日々新しい自分を生きるための覚悟なのだろう。

お正月から縁起でもないなどと言わず、皆さんも遺書を作ってみてはいかが?

初夢は御詠歌で

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フラワー長井線で終点の荒砥駅まで行き、御詠歌の講習会に参加する。若い人も集まっていて、全部で35人くらいいた。始まる前、納豆アイスを糸を引きながら食べている友人に「まずそー」と言ったら、周りにいた人から「そんなことを言うなんて見損なった」と口々に言われ、「冗談だよ〜」と必死に火消しをする。

講師はシキ先生という方で、女性だが尼僧さんではない。当てられた人たちが、なぜか先生ではなくて私にばかり意見を求めるので、先生はイライラしている。おまけに隣に座っている妻が「シキ先生はホラー映画がお好きですか」なんて質問をするものだから、「それは御詠歌と関係ありません!」と怒り出した。

私がお唱えしようとすると、先生は「あなたは上級者ですから教えることはありません」などと嫌味を言う。そこで何とか頼み込んでお唱えさせてもらった。永平寺第一番『渓声』である。ところが「い〜ろ〜♪」の上のレからドに下りるアヤが大ハズレ。音程が高すぎるのか、声が出ない。調を下げてもう一回(のつもりが同じ調)。「い〜ろ〜♪」あまりの酷さに目が覚めた。

なんだろう、この夢(ほんとうの初夢は今日か明日の夜に見る夢である)。

お水をあげ、坐禅をして、朝課は般若心経・理趣分品・消災呪で大般若祈祷、参同契・宝鏡三昧で祖堂諷経、大悲呪で開山歴住諷経、寿量品偈で檀越先亡供養。これで1時間半ほど。終わってから実際に『渓声』を唱え初めしてみたが、夢ほど酷くはなかったので安心する。

年始客への引出物は、立春大吉のお札、お寺のマッチ、ごまふりかけ、七福神飴、住職だより、石屋さんから頂いたパンフレットの6点。もうすぐお客様がいらっしゃる頃だ。

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