おの: 2010年4月アーカイブ

次女の風邪

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保育園に通い始めて3週間目、次女が熱を出してダウン。慣れない環境で疲れがたまっていたのだろうか。長男の保育園でも、お休みしている子供が多いようだ。長男もバスから降りたときと、お風呂に入っているときに吐いた。

自宅で看病するといっても、特に変わったことはない。食後に薬を飲ませれば、あとはひたすら抱っこしているだけである。床に置くとすぐ起きてしまうが、抱っこしていればずっと寝ていてくれる。抱っこしながらでも、手を伸ばせばキーボードは打てる。平日に仕事がほとんどなかったのも幸いした。

週末に妻が帰ってきて看病を引き継ぎ、私は仕事のほかに長男と長女を連れて米沢に外出したりして一息。しかし次女はここで治らなかった。

一昨日の朝は普通に登園したが、帰りにはまた熱が上がっている。2回目のお医者さんでは抗生剤をもらったが、夜はなかなか寝付かない。一方、私は土日の仕事と遊び疲れがたたって、とうとう風邪がうつってしまう。昨日の午後は、座薬を入れた次女と布団でダウン。咳がひどくなり、歯がカタカタ言うほどひどい寒気がして体の節々が痛む。

一晩寝て私は持ち直したものの、次女は相変わらず熱が高い。というわけで今日もまた1日中抱っことおんぶである。

長男は保育園を休まずに回復。インドで生死の境をさまよった長女は、全く元気である。どちらも0歳児のころから保育園に通っているので体の出来が違う。

今日の長男の迎えのとき、長女に見張りをお願いした。帰ってくると次女が部屋を抜け出して階段の降り口に! 何でも、次女に本を読んで聞かせている間に本に熱中してしまい、次女が抜け出したのを気づかなかったらしい。

お寺といえばお葬式。お坊さんが病院を歩けば誰か亡くなったのかと思われる現代だが、江戸ではそうではなかった。

徳川家の菩提寺の地位を争った芝の増上寺と上野の寛永寺は大奥にロビー活動を行い、成田山と川崎大師は本尊の出開帳で人を寄せる。富くじばかりか貸金業まで行い、門前の茶店から女性アイドルが浮世絵デビュー。芝居や寄席を興行したり、付近には遊女屋ができあがったりと、今とは想像のつかない賑わいを見せていた。そんな江戸のお寺の表と裏を、資料を挙げながら紹介する。

・寛永寺門主の登城行列の歳は、町人に土下座が義務付けられた。ほかに土下座しなければならないのは、徳川御三家だけである。偉すぎ。
・家斉が厄除けで川崎大師に参詣する直前、山主が急死した。家斉は自分の厄の身代わりに死去したと聞き、それ以来、幕府からのバックアップを得るようになった。ストーリーが大切。
・大奥をバックに創建された谷中の感応寺には、寄進の長持ちの中に大奥の女性がこっそり忍び込み、お寺に運び込んで僧侶たちと姦通しているという噂がたち、わずか3年で廃寺になってしまう。お寺と女性には距離がある。
・将軍家から下賜された品で人集めをする寺院が後を絶たず、寺社奉行では、葵の御紋のブランド力低下を防ぐため、開帳を禁止した。しかし大奥を通じた寺院の政治圧力によって、禁止の効果はなかった。 すごい政治力。
・富札は1枚5000円前後で1等8000万円。富突が始まる前に、大般若会が行われた。8000万円当たっても、800万円は主催者に奉納し、次回の富くじを800万円分買い、経費として400万円を取られるので、結局手取りは6000万円くらいになる。宝くじよりひどい。
・建物修復のために集めたお金を、一般に貸し付けて利殖を図った。しかも、幕府の許可を得ることで、奉行所が督促状を出すことになり、債権も保護された。蓄財OK。
・1733年の人口統計では、江戸町人は53万人、男性は63%で、しかも独身者が多かったことから、遊郭や、美少女が給仕する茶屋が流行った。むさい男だらけか。
・浅草寺にお参りに行くと称して実は吉原に。「女房と雷門で出っ食わし」成田山参詣では船橋宿、大山詣では藤沢宿が、遊女屋として流行った。今も残っている。
・本尊が開帳される境内に芝居や見世物が並んだことには、批判も寄せられた。「畢竟見世物の序に参拝するに同じ、開帳仏もし物いはば、憮謐き小言いひ賜はん」花より団子。

巻末に「お寺よ、もっと開かれろ!」というタイトルで著者と彼岸寺の松本圭介氏の対談がある。「若い人がお寺に来てくれない」ではなく、「来てくれるような仕組みを作っていない」と松本氏。世代間交流の場として、来ている人に任せて盛り上げてもらうというのはこれからのお寺のあり方として重要な視点である。

楽しく読めて、振り返れば現代のお寺について新しい視点も見つかるよい本。

平日夜はご勘弁

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妻が単身赴任となって2週目、今週は平日夜の外出が多い。月曜日は、保育園の父母の会役員会で19:00〜22:30で資料作り。火曜日は小学校PTAで18:00〜21:00で会議、水曜日は保育園の父母の会の会議で18:00〜19:00。今日はお寺の会議、明日は長女の音楽教室。お寺の会議は懇親会を欠席させていただいた。

日中はお寺の仕事がない限りのんびりしているが、朝起きてから子供たちを送り出すまでの3時間と、子供たちが帰ってから寝るまでの5時間は戦争である。その夕方から夜にかけて私がいなくなることは、致命的なダメージとなる。

私がいない場合、食事の準備、次女の食事、食器の片付け、子供たちの入浴・就寝と母が全部することになる。母はその後さらに祖母の介護があるため、就寝は毎日12時過ぎで、私のように子供たちと一緒に寝てしまうことができない。

月曜日は、次女を母の部屋で寝かせようとしたが、1時間くらい寝付かなかったという。11時過ぎになって、次女はようやく寝付いたところだった。長男と長女はしばらく待っていたようだが、疲れ果ててもう寝ていた。そこで火曜日は次女だけお風呂に入らずおんぶして待っていることにして、私が帰宅してすぐにお風呂に入れた。次女はもう背中で寝入っていたが、風呂に入れられても大人しい。水曜日はさらに早く帰って来られたので、3人とも風呂に入れて早寝できた。早寝できると、翌日の機嫌がすこぶるよい。

というわけで夕方は10分でも早く帰れば、それだけやることがある。会議や作業は致し方ないが、懇親会で酒飲みをしている余裕などない。もっといえば、会議でも無駄話をしている時間すらもったいない。

懇親会で管を巻いているお父さんたちには内心、「今、この時間に子供を見ているのは誰だ? 奥さんやお母さんに任せて、よくのんびり飲んでられるな!」と言ってやりたい。でも、本当にそんなことを言ったら角が立つので、せめて私の欠席を許して頂きたいと思う、主夫の私である。

結婚10年目

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昨日の夜に珍しく寝付かれなくてここ10年のことを振り返っていた。実は結婚してもう10年目を迎えている。

妻が就職した2001年3月に結婚してつくばに引越し、2002年4月に長女が生まれた。このとき私は住職になって3〜4年目で、大学院にもまだ通っていた。よく授業や読書会など出られたものだと今になって思う。

山形・つくば・東京を行ったり来たりする生活にピリオドを打つべく、2003年9月にインド留学。長女はまだ1歳半である。2〜3ヶ月おきに帰国していたが、第一次反抗期を迎えた長女に手を焼きながら、妻は私を死んだものと思って仕事を続けたという。

完全帰国が2年後の2005年。そして翌2006年1月に長男が誕生する。そこからは住職兼主夫として山形とつくばを往復する生活に戻った。学籍を抜いたので大学には行かなくなったが、代わりに秋葉原にちょくちょく通ったので(笑)、行ったり来たりする生活にピリオドは打たれなかった。育児を分担するべく、長女を山形によく連れて帰ったので、新幹線は飽きたと長女はいう。

8年間にわたる往復生活が終わった直接の原因は、2009年4月の長女の入学である。かねてより妻も私も、子供はつくばでなく山形(長井)で育てたいと考えていた。つくばのお勉強熱に辟易していたというのもあるが、実際問題私がすぐいなくなるのでは、下校してくる長女を迎える人がいない。いわゆる「小1の壁」というものである。

長男も地元の保育園に通える年齢となっていた。しかし、環境ががらりと変わった上に母親まで離れ離れになるのはつらい。そう思っていた頃、2009年2月に次女が誕生(作ったというべきか)。妻は育児休業を兼ねて、山形に1年間滞在することになった。この点で上の2人(と私)は母親を山形に留めた次女に感謝しなければならない。

山形で家族一緒に過ごす1年間は夢のように瞬く間に過ぎた。遠方の友人が遊びに来たり、裏磐梯のペンションに泊まったり、妻はこの間に韓国や熊本まで出かけた。最初で最後のチャンスではないかと思われる。

そして今月から妻は平日につくばで仕事をし、土日に山形で過ごす生活が始まった。次女が小学校を卒業するくらいまであと10年は、今のような生活が続くだろう。

このように、昨年1年間を除いて、妻とはしょっちゅう離れ離れの生活でやってきた。結婚当初から予想されていたことなので、結婚式でよく聞かれる「明るい家庭」というフレーズは自分には空々しかったが、実際はそんなに悪くない。久しぶりに懐かしい友達に会うような新鮮さがあるからである。これからもそんな風にときめき続けられたら幸せである。

運転手

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今日は特に仕事がなかったが、家族の送り迎えで1日中車を運転していた。まるでタクシーの運転手みたいだ。

8:15 次女を保育園まで送り、帰宅*
8:40 デイサービスに行く祖母を見送り
8:50 長男をバス乗り場まで送り
9:30 アリファーさんを米沢駅まで送り、帰宅*
13;30 長男がバス乗り場に迎え
13:45 母を近くのお寺まで送り*
15:00 次女を保育園まで迎え、帰宅*
15:20 長女帰宅。次女におやつを食べさせる
15:40 長女を音楽教室まで送り*
16:10 母をお寺に迎え、帰宅*
16:40 デイサービスから帰宅する祖母を迎え
17:00 長女を音楽教室に迎え、帰宅*
19:20 妻を駅まで迎え、帰宅(これから)*

*印が車での出動。つごう6往復したことになる。いずれも往復20分くらいで空き時間もずいぶんあったが、細切れだった。このスケジュールは車を乗りながら考えた部分もあるが、パズルのようでなかなか楽しい。ちょっとでもヘマしたらアウトという緊張感は頂けないが。

今週は初めて、妻なしで子供3人を見た平日だったが、お葬式やホームステイ受け入れもあったにも関わらず、割と難なく乗り切ったと思う。綱渡り感はあるが、思っていたほど気合を入れることもなかった。母が次女をよく見てくれているのと、子供たちが風邪を引かず、夜泣きもほとんどせずによく頑張ったのが大きい。長女などは、毎朝6時に起きて自主的に通信教育の課題をこなし、朝のテレビ体操をするという日課を続けた。おいおい、受験生じゃないんだから。

来週からは通常保育となり、お迎えも遅くなるからずっと楽になるだろう。この調子で来週もいきたい。

これから妻のお迎え。4日ぶりに会う子供たちがどんな顔をするか楽しみである。

ホームステイ

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結婚直後から入っている外国語サークルの紹介で、我が家に3泊4日、アリファーさんというマレーシア人の女性がホームステイすることになった。

つくばでは私が仕事で急にいなくなるため、ホームステイを受け入れたことがなかったが、山形では実は受け入れ経験が豊富。というのも叔母が学生時代からよくドイツ人を連れてきていたからだ。昨年も全く日本語の分からない従兄弟が半月も滞在していた。

とはいえ、今回は妻がつくばに行き、初めて子供を3人とも見る中でのホームステイだったため、不安な面もあった。妻は電話でしゃべっただけで、顔を合わせていない。

開始時刻を早めてもらった葬儀を終え、至急帰宅して着替え。長女と長男を連れて米沢駅に向かう。駅に着いたときちょうど新幹線が入ってきた。子連れのお坊さんが迎えに来たとあっては、日本人だって緊張するだろう。アリファーさんもずいぶん緊張していらしたが、車中で(英語で)いろいろしゃべっているうちにだいぶ打ち解けた。

イスラム教徒で、牛と豚はダメということだったので、帰りにスーパーでエビや魚を買って帰ってきた。初日の夕食はタラのフライにエビのカレー粉炒め。食事準備中は意外に長女も長男もなついて、部屋に行っておもちゃやカルタなど見せている。でも次女は見ただけで大泣き。

2日目は午後から、長女と長男を連れて山形市内へ。美術を勉強しているということだったので山形県美術館に行った。学校長名で写真撮影許可のお願いを持ってきていたので、それを渡すと撮影OKに。本物のモネの絵の前で記念撮影するのは初めてである。

その後、すぐ目の前にある霞城公園を散策。初めて行ったが、お城の堀を新幹線が走っていて面白かった。桜が咲いてもっと温かくなれば最高の眺めだろう。

電器店で携帯の充電器を買い、回転すし屋で茶碗むしなどを食べて帰宅。

3日目は朝、長女の小学校を訪問した。予めお願いしておいたところ、6年生の授業を1時間空けて頂き、アリファーさんの自己紹介、マレーシアの話、質問コーナーなどを楽しんだ。私は通訳。こんなところでエッセンの経験が生きるとは思わなかった。子供たちはアリファーさんが6人きょうだいというところと、マレーシアの東にあるジャングルにはワニがいるという話で興奮していた。

夜はもう1人のマレーシア人を受け入れてしている米沢の家族がいらっしゃって、総勢12名で会食。8人がけのダイニングテーブルと、今月買ったばかりの3人がけのソファーがフル活躍したのが嬉しい。

そして4日目の今日、また米沢駅まで送ってお別れ。帰りに感想を書いてもらったのだが、くつろいで楽しんでくれたようだ。1年中30度の国から来て、1度なんていうときもあったからしきりに寒がっていたけれども。

First of all thank you to Ono family for taking good care of me. They are such a happy family and they entertain me very good. Besides, they also prepared very good and delicious meals everyday for me. The family members are very friendly and polite with me.

今日は分散してホームステイしていた一行が集まり、東京タワー、秋葉原、浅草を回って、夜行バスで大阪に行き、ユニバーサルスタジオに行った後、帰国前にディズニーランドに行く予定だという。若いとはいえ、何という強行日程&節約ぶり。

妻なしで若い女性を受け入れるというので心配な面もあったが、子供たちがなついてくれたのと、母が可愛い可愛いと世話をしてくれた(一緒にお墓参りまで行った)のとで、リラックスして過ごしてもらえたのがよかった。「ファ」の発音ができない祖母も、「アリババ」さんと呼んで親しんでいた。私も、マレー語のあいさつを習ったりして見識を広められた。東京からだと遠いけれども、また受け入れしたい(国内ホームステイも歓迎)。

急に慌しい平日

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いよいよ妻の単身赴任が始まった。これから当分の間、月曜の朝から金曜の夜まで、妻なしで過ごさなければならない。山形から茨城までは5時間。妻も月曜と金曜に半日しか働けない分、火曜日から木曜日の3日間で取り返すのはたいへんなようだ。

月曜日は長男の保育園の入園式と次女のならし保育。長男は近所に通うが、次女はまだ1歳なので少し離れた別のところに通う。まず次女を車で送って、そのまま長男の保育園へ。役員なので駐車場整理をしたり、総会で自己紹介したり。妻は途中で抜けて次女を迎えに行ってきた(今週の月曜日の仕事は休み)。

帰宅して作った最後の昼食は、昨日トイザらスでもらってきた男の育児マガジンの「スペイン風オムレツ」に、パンとココアだった。手軽でなかなかいける。それから長女と一緒に妻を送って駅へ。遠ざかっていく長井線で手を振り続ける妻を見送る。

午後3時からは保育園の役員引継ぎ。4時から懇親会だったが、乾杯したらすぐにお帰り。デイサービスに行っている祖母を、お医者さんに連れて行くというタスクがあった。祖母の付き添いをして、薬をもらって、車椅子に乗せて帰ってきたのは5時半。でも今日はここで終わらない。

急いで着替えをして、6時から入棺と通夜。ここまで慌しかったので、喪家の前で車を降りたら気を落ち着かせてゆっくり歩く。切り替えが肝心だ。

通夜では遺族の方々と話し込んでしまって、気がつけば8時半。家から電話がかかってきて、子供たちがぐずっているから帰ってこいという連絡だった。お暇を申し上げて帰宅し、すぐに子供たちを風呂に入れて寝せる。

子供たちが寝たら起きて一仕事でもしようと思ったが、気がつけば朝だった。

母に次女の朝ごはんを食べさせる係をお願いし、朝のお勤めをして、長女と一緒に次女を保育園に送りに行く。帰ってきてすぐに出棺と火葬。火葬場から直接次女のお迎え。住職とパパを激しく行き来する。

帰ってから葬儀の最後の準備をして、昼食をほおばり葬儀へ。これだけ切り替えの激しい中だったにもかかわらず、よい葬儀を執り行うことができた。気力は充実しているようだ。でも今日もここで終わらない。

帰宅して急いで着替え、長女と長男を連れて米沢へ。今日からマレーシア人が3泊4日でホームステイするのである。駅に着いたらちょうど新幹線が到着したところだった。

途中で買い物をして帰宅。イスラム教徒ということもあって肉はチキンのみ、卵かシーフード希望だった。マレーシア産のエビを買う。マレー語も、サンスクリット起源の言葉があって面白い(夫がスワーミーで妻がイストリー)。

マレーシア人の名前はアリファーさん。インターナショナルスクールの修学旅行のようなものらしい。日本語は話せないが、上の子2人が滅法なついて、今2階で一緒に遊んでいる。

今日は久しぶりにないもない日曜日だった。ゲーム会でも入れようかと思ったが、今週はハードな1週間になりそうなのでセーブモード。

朝ゆっくり起きて子供たちと仮面ライダーダブルを見て、1時間ほど原稿を書いてから、部屋のお掃除。布団を干したり雑巾がけをしたり。

午後からは子供たちの自転車練習を見ながら、はしごに登って雨樋の取り付け。冬は雪の重みで壊れてしまうため、いちいち付け外ししないといけない。

終わって妻の荷物をコンビニから送って、子供たちと山形市内のショッピングセンターへお買い物。春休み最後の日曜とあって駐車場はほぼ満車だった。

妻が買い物をしている間、次女を乗せたベビーカーを引きながら長男とトイザらスをチェック。1時間ほどあったが、知育玩具、ダブル&ゴセイジャー、ボードゲーム、シルバニア、ガシャポン、ガンバライドと見て回った。一切買わなかったが、私自身好きなのでどの売り場でも全く飽きない。

それからおやつを食べて休憩した後、子供たちを妻に任せてささっと夕食の買出しへ。長女は本屋、長男はゲームセンター。駄菓子だけ買って帰路につく。帰宅して食事の準備(といっても並べて出すだけの簡単なものだが)。終わって布団を敷いて、風呂場の妻に次女を渡して、入浴中にミルクを作って、あがったら服を着せる。

みんなが寝室に入ってから、明後日のお葬式の書き物。先ほど終わって風呂に入ったところ。自己採点だが満点パパな1日だったと思う。

明日から妻が単身赴任でつくばへ行き、子供3人は私が山形で見る。その前日となる今日、水入らずでゆっくりできたのでよかった。今朝、夢に妻が出てきた。電話先で泣き出したので(なぜか)新松戸駅まで迎えに行くという夢。私の無意識の心境を物語っているような気がする。

明日は長男の保育園で進級式、次女はならし保育の1日目で午前帰り。明後日は長女の始業式がある。そこにお葬式が入り、さらに3泊4日でマレーシア人がホームステイに来る。妻は明日の午後から不在。いったいどんな平日になることやら。

三時業

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仏教では因果応報とか自業自得ということを説くが、近年その解釈が揺れている。というのも、病気や貧乏に苦しむ人に対し、経典や僧侶が1000年以上の長きにわたって説いてきた「それは前世の報いですよ」というのがNGになったからだ。

NGになった理由は、この説法が現世を精一杯生きる努力を否定し、社会差別や人権蹂躙を肯定することになるからだが、その背景には、世俗主義が行き渡り、前世や来世を信じることや公言することが胡散臭くなったということもありそうだ。

しかし経典には相変わらず因果のことは説かれているわけで、どうにかして折り合いをつけないといけない。この頃は因果という言葉を出すこと自体控える人も多い中、頑張って書いている人の解決策は概ね次の3つのようだ。いずれも文脈を限定し、無条件に一般適用されるのを防ぐ。

1つ目の解決策は、仏道修行に限定することである。釈尊以来2500年の間続けられてきた修行を続ければ、必ず菩提に至るという話に限って因果応報を認める。釈尊もその弟子たちも、昔は我々と同じ凡人だった。だから我々も、未来には釈尊や弟子たちのようになれると信じて、代々伝えられてきた方法で修行する。

2つ目の解決策は、未来志向に限定するというものである。過去は変えられないが、未来は今の努力で変えていける。努力が無駄になったように見えることがあっても、さらに未来において実ることを信じるべきである。

3つ目の解決策は、自分だけに限定することである。イラクで拉致された日本人に自業自得というように、他人のことをとやかくいう筋合いはない。複雑な因果関係など分かるわけがない。だが、ひたすら自己を頼り、自力でものごとを成し遂げる。

どれも腑に落ちるものばかりだが、因果応報をこのように解釈するのはよいとして、昔の経典を、このように捉えることはできるかが問題だ。

『正法眼蔵』の「深信因果」は、まさに1つ目の解釈を支持する。「修因感果(因を修行して、果報を感得する)」という言葉もある。だから生半可に仏法を勉強したぐらいでは、因果の話をみだりにしてはいけないという。

しかしその次の「三時業」は、仏道修行に限定した話ではなくなっている。善悪の報いを、?@生きているうちに受けること、?A次の来世で受けること、?B次の次以降の来世で受けることが「三時業」である。

?@の例として、道に迷って死にそうになった猟師が、助けられた熊を裏切る話が出てくる。7日間も山中で看病され無事下山できたのに、仲間の猟師と行って熊を殺してしまう。肉を集めようとしたそのとき、スパッと両腕が落ちた。これが生きているうちに受ける悪業の報いであるという。こえ〜。

また善業の例もある。宦官が去勢されそうになった牛500頭を、私財をなげうって助けたところ、男根が生えてきて男になった。王様はこのことを聞いて、後宮担当だった宦官を、政治の高官に据えたという話。首を斬られるというオチじゃなくてよかった。

?Aの例では、五逆が出てくる。父殺し、母殺し、修行者殺し、釈尊への傷害、僧侶団体の破壊をした者は、無間地獄に落ちる。父母殺し以外の3つを犯したデーヴァダッタが出てくる。いかに彼が苦しむかが説かれる。でも現代で、親殺しの事件があったときに「彼は必ず無間地獄に落ちるだろう」なんていうお坊さんがいるだろうか。

?Bの例は、善行をして一生を送ったのに地獄に落ちてしまう人の話。しかしこの人は、前世の悪業の報いが今来たのだから、あとは天上に行くばかりだと喜んだという。もしここで、今まで善行をしてきた功徳は無意味だったと思うならば、地獄から出られないという。この逆、つまり悪行の限りを尽くして天上に行ってしまうケースもある。因果はないと考えることが戒められている。

とはいえ悪業は必ず報いを受けなければいけないわけでもない。そのために懺悔がある。懺悔すれば悪業はなくなるか軽くなる。そして善業は一緒に喜ぶことで増加する。業のコントロールができるというところが落としどころになっている。

この例には、上記の1〜3の解決策が当てはまりにくい。あえていうなら2の未来志向か(?Bなど特に)。あくまでも例だから、言わんとするところは1だというならば、例に当てはまらない理屈を、仏道修行に当てはめる無理が出てしまう。そうなってしまうことまで含めて、「生半可に仏法を勉強したぐらいでは、因果の話をみだりにしてはいけない」というのだろうか。臭いものにフタみたいな結論だったら嫌だな。

まずブッダは女嫌いだったのかというところから。

尼僧の入門にあたって8つの条件(八敬法)をつけたとされる。
1.出家後百年経ていようと、比丘には誰であれ礼拝しなければならない。
2.比丘を罵ったり謗ったりしてはならない。
3.比丘の罪・過失をみても、それを指摘したり告発したりしてはならない。
4.式叉摩那として二年間過ごせば、具足戒を受けても良い。
5.僧残罪を犯した場合、比丘比丘尼の両僧伽で懺悔しなければならない。
6.半月毎に比丘のもとにて、教誡を受けなければならない。
7.比丘のいない場所で、安居してはならない。
8.安居が終われば、比丘のもとで自恣を行わなければならない。
真言宗泉涌寺派大本山法楽寺:仏教徒とはなにか(比丘尼)

さらに許可したのちも、アーナンダに「これで仏法は五百年しか持たないだろう」「女性が多く男子の少ない家は盗人や強盗に荒らされやすいように、女性が出家したなら、その法と律での清浄行が永く続くことはないだろう」「稲田や甘蔗の田に疫病が起こるとその田が永く続かないように、女性の加わっている教団は永く続かない」「ひとが大きな湖水に堤防を築いて水の氾濫を防ぐように、私は尼僧のためにあらかじめ八種の重法を設けて終生犯すべからずとしたのである」などと発言している。

どうやら本当のようだ。その上で、どうしてブッダがここまで女嫌いになったのかを、仏陀を産んで7日目に亡くなった母マーヤー、その妹で養母となったマハーパジャーパティー、そして第一王妃のヤショーダラーを軸に考察するのがこの本である。初期仏典を丁寧に読み込み、繊細な読み方でその秘密に迫る。筆者は「強引な推測・憶測を交えながら」と書いているが、論の展開が丁寧なので読んでいて腑に落ちる。

ポイントは、養母マハーパジャーパティーである。末の妹だったこと、弟王子ナンダを産むまで15年以上かかっていることから、マハージパジャーパティーは童女として正妃に迎えられ、シッダールタとは5,6歳しか違わなかったのではないかと推定する。物心つく前に母をなくしたシッダールタは、幻の母をマハーパジャーパティーに映す。やがて成長した2人は相思相愛の仲になっても、それは許されざる恋である。

ダンマパダの「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる」という言葉も、マハーパジャーパティーへの愛がもとになっているのではないかと筆者。シッダールタが出家すると、マハーパジャーパティーは身を大地になげうち、傷だらけに壊れ、狂ったように号泣、悲嘆したという。そして夫であるスッドーダナ王がなくなると、ただちに出家を申し出、断られても裸足で追いかける。このときのブッダの気持ち、マハーパジャーパティーの気持ちを推察するに余りある。

一方、悪妻として徹底的に描かれるヤショーダラーはシッダールタの従兄弟で、教団をのっとろうとしたデーヴァダッタの姉とされる。ほかにも妃はいたらしい。シッダールタがマハーパジャーパティーを慕っていたため夫婦仲は悪く、浮気して息子を産んだのではないかと、筆者は推測している。ラーフラ(束縛)と名づけ、その後すぐに出家したのはシッダールタにとっては実子でなかったこととも関係しているだろう。出家を知った妻の逆上ぶり、後からブッダとなって帰ってきたときに遺産を迫る強欲ぶりが醜く描かれている。

シッダールタは出家ではなく家出や出奔であると言うべきだというのも、このような状況ならむべなるかなである。仏教徒としてはシッダールタはこれほど凡夫だったのかと思うと落胆するが、煩悩は菩提への出発点であり、だからこそシッダールタは世を救うブッダになったのであろう。

神格化された伝承が多い中で、あえて人間味溢れる人間模様を描き出したことで、仏教の始まりの始まりに親近感をもたせてくれた。

お寺が忙しくなかったこともあって、思ったよりずっと楽に過ごすことができた。母が料理と子守をしてくれるので、食事をあげて風呂に入れるだけである。

心配された夜は、初日こそ家中に響き渡る泣き声で1時間近く泣いたが、2日目以降は夜中に1,2回、布団からはみ出して起きるくらい。フガフガいっているがすぐまた寝る。

寝つきもよい。風呂上りにミルクを200cc飲ませると、飲み終わる頃には意識がほとんどなくなっており、そのまま布団に寝かせてすぐ、もう一仕事できるほどだった。夜中起きなかったのも、このミルクのおかげだろう。

その代わり大量に食べるようになった。ごはんを茶碗一杯、おかず、バナナ1本をぺろりと平らげる。足りなかったり、食べたくないものを出されるとキーキー怒る。5日だけで結構太ったんじゃないかと思う。

食べ終われば機嫌がよくなって床で遊んでいるので、大人はゆっくり食事ができる。つくばではちゃぶ台だったので、子供が引っ掻き回さないよう、立って食べていた時期もあったのと比べれば快適である。

「上手」というと拍手をして、「ねんね」というと寝転がるという芸を覚えた。言葉は「バ(ナナ)」と「アンパ(ンマン)」だけ。3秒くらいつかまらないで立っていられるが、まだ歩けない。ハイハイのスピードは日増しに上がっているので、目を離した隙に玄関や階段に行かないよう注意していないといけない。

明日はそんな次女の入園式。今日、妻・長女・長男が帰ってきて5日ぶりに家族が揃う。

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