おの: 2010年9月アーカイブ

白作務衣

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よくお寺に送られてくる作務衣のカタログに白作務衣というのがある。汚れるのが前提の作務衣に、なぜ白?と思ったら、白衣の代わりに作務衣の下に着るらしい。

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お盆の檀家回りに最適!
一年で最も忙しいお盆の檀家回り。そんな時重宝するのが白作務衣。車やバイクの運転も白衣と違って、ツッパリ感や着崩れする事もなく次の檀家さんへ。足さばきが良いので一日に回れる件数が増えること間違いなし。今年は白作務衣着用でのスケジュールを!
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……だって(笑)。そしてカッコいいお兄さんがスクーターにまたがっている写真が付いていた。ちなみに19,800円。

確かに、車に乗り降りしていると衣が肌蹴てきて、トイレ休憩がてら直さなければならないことがある。バイクだと衣の裾が風でめくられてマリリン・モンローになるのでなおさらだろう。

でも、ゴムで止められた袖が改良衣から出てくるのはカッコ悪い。また作務衣の上に改良衣を着ているのを、うちの近所のおばあちゃん方は「伊達政宗」(鎧姿に似ているからであろう)と言ってバカにしている。手抜きスタイルだということが見破られているのだ。

というわけで白作務衣はパス。

次女が週末から熱を出して、今日も保育園を休んでいる。熱以外は元気なものだから目が離せなくて何もできない。今やっと昼寝をしたところ。

9月17日に横浜・鶴見の総持寺において、前副貫主・斉藤信義老師の本山葬が行われた。昨年亡くなった直後に行われた密葬、今回の本山葬、さらに再来月に鶴岡の善寶寺と正法寺で本葬が行われることになっており、合計4回もお葬式を行うわけである。

修行時代の癖で今でも「方丈さん」と呼ぶが、イレギュラーな修行期間を認めたり、結婚式にお越し頂いたり、奨学金の世話をして下さったりと、私のような若僧にことさら目をかけて下さった。同郷の志(実は私の本家が方丈さんが生まれた大蔵村のお寺の檀家という縁もある)として、また大学の後輩として、博士論文の執筆や研究書の出版、大学への就職など、私に大きな期待を寄せて下さっていたが、その期待にこたえることが何一つできないまま、この世を去られたのはつくづく残念だった。

そんなわけでせめてお葬式には皆勤しようと参列を決めた。朝一番の新幹線で本山に向かう。鶴見駅から徒歩5分の道に迷った末の到着。受付は全てノートパソコンの端末で行われていて、領収書がすぐにプリントアウトされてくるというハイテクぶり。システム管理専門の和尚さんもいるそうで、これだけIT化が進んでいるお寺もないのではないだろうか。総持寺は能登から100年前に移転したお寺で、新しいものをどんどん取り入れるという姿勢がもともとあるのかもしれない。

昼食会場は260ものお膳がずらり。控え室もいくつかに分かれており、数えきれないお坊さんが集まっていた。私の行った控え室では善寶寺で修行していた仲間や、御詠歌仲間など、久しぶりに会う顔ぶれが並ぶ。お亡くなりになってもう1年近くになるので、葬儀というより法事といった風で、みんな和やかに談笑していた。これも方丈さんの縁に今なお結ばれている証であろう。

1000畳敷きの大祖堂で法要は行われた。ただでさえ広い上に、室中という奥の間に詰めて座っているので、読経と焼香になるまで、どれだけたくさんの人がいるか分からなかった。式は大勢の焼香に対応するためか、弔辞弔電を切り詰め、三仏事だけにしてあった。奠湯が総持寺副貫主、奠茶が永平寺副貫主、秉炬が総持寺貫主という最高の顔ぶれである。

曹洞宗では修行と悟りは同じものであると説く。そして悟りとは解脱である。であるならば、この世で修行し続けた禅僧はもうすでに如来なのであって、衆生とは交わらない世界に行くのではないか、遷化などしないのではないか、などと法要中に考えていた。だとすれば心の世界でしかお釈迦様に会えないのと同様、方丈さんにももうお会いできない。でも、方丈さんがこの世に残していったものはたくさんある。

「而今を重ねる」という言葉がどなたかの弔辞の中にあった。過去や未来にとらわれず、現在の一瞬一瞬に気持ちを込めて生きることができれば、私でも方丈さんのような生き方に少しは近づけるのかもしれないと思う。

9月10日から2日間にわたって、立正大学で行われた日本印度学仏教学会の学術大会に参加、研究発表してきた。発表するのも行くのも、7年ぶりである。

1日目は、感覚を取り戻すために何人かの発表を聴いておいた。朝一番の新幹線に乗り、真っ先に向かったのは7世紀の仏教論理学者ダルマキールティ(法称)の部会である。毎回人気を集める部会だが、今回も熱気に包まれ、発表が終わるたびに喧々諤々の議論が交わされていた。午後からはアビダルマ部会とインド文学部会をはしご。

心に残った発表は「プラジュニャーグプタの独自相理解」(東京学芸大学・小林久泰氏)。認識の根拠を未来の対象とするプラジュニャーグプタが、独自相を未来に位置づけている仕組みが面白い。それから「チャンドラキールティの論理学」(筑波大学・吉水千鶴子氏)。何も主張を立てず相手の批判だけを行う中観学派で、特に帰謬論証にこだわったはずのチャンドラキールティが、仏教論理学派の枠組みに沿って批判自体を主張と捉えていたという話である。午後からは「阿羅漢の智慧と仏陀の智慧」(東京大学・馬場紀寿氏)」。部派仏教で定まった教説の重点が、大乗仏教に引き継がれ声聞・縁覚像が作られたという。それから「記憶するしくみ―発智論・大毘婆沙論を中心として」(龍谷大学・那須良彦氏)では、刹那滅の中で、いかにして認識内容が受け継がれていくかという問題に3つの答えがあることを説いた。

写真撮影が終わったら総会・懇親会には出席せずに宿へ。キンコーズで原稿をコピーして、三鷹のテンデイズゲームズへ。ネットテレビに出演し、来月にエッセン国際ゲーム祭で発表される注目の新作を紹介してきた。

2日目は発表のあるインド哲学部会に張り付き。発表は15分間で、質疑応答が5分間というのはあっという間である。日本中からこの分野の研究者が勢ぞろいしているわけだが、不思議と緊張はしなかった。たとえ発表にケチを付けたとしても(付けられなかったが)、数少ない仲間である。そう思うと遠慮なくマニアックな話ができるのが楽しく、そしてわざわざここに来て聴いてもらえることがありがたかった。発表中に2回、ウケを取れたのが嬉しい。

午後からは仏教用語の現代語訳を考えるパネルディスカッション。コンピュータで参照できる辞書を作るプロジェクトが進行中で、その経過報告である。仏教用語は、苦・集・滅・道や貪・嗔・痴など、漢訳をそのまま使っていることが多く、それが現代において呪文のようになってしまい、教義について深く考えたり、知らない人に伝えたりする努力を妨げていないかという心配が背景にあるらしい。

予め「訳語は一例の提案」と言ってあったにもかかわらず、早速会場は「そんな訳語じゃダメだ」のオンパレード。原語のサンスクリット語やパーリ語にしても、訳語の現代日本語にしても、ニュアンスの捉え方は千差万別で、さらに長年研究してきたこだわりもあり、今後の難航が容易に想像された。

学会中には、同じ分野の研究者たちと親交を温めることができた。久しぶりに会う人と近況報告し合ったり、論文でしか見ていない人と初対面のご挨拶ができたり、この道に入ったばかりの若い後輩とお話したりと、懇親会に出なかったにもかかわらず、たくさんの人と話できて満足である。そして私も、住職や父親やボードゲームジャーナリストだけでなく、一介のインド哲学研究者だということを思い出すことができた。放ったままの博士論文に期待なさる方もおり、今回の発表を足がかりにできればと思っている。

帰りは秋葉原のR&Rステーションへ。店内で「小野先生ですか」とか声をかけられたのでビックリしたが(最初は昨日収録したネットテレビを見た人かと思った)、学会で私の発表を聴いた筑波大学の大学院生だという。聴けば私と非常に近い分野の研究をしている。学会では筑波大学の先生から今度遊びに来てよと声をかけて頂いた上に、ボードゲームを嗜む学生がいると知ってはぜひ行かねばなるまい。

「リーラー(遊戯)」というサンスクリット語がある。神様が世界を作った理由として挙げられる言葉だ。余裕をもって愉しみながら続けていくのであれば、研究もリーラーなのではないだろうか?

今日の勉強

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参考文献の書き方(出版社が先か、発表年が先かとか)を忘れて、他人の論文を見たりしていた。もうリハビリだこれは。

とはいえ、始めると段々勢いがついてくる。読解力は鈍っているのかもしれないが、サンスクリット語の文章もどうにかこうにか読める(論理学関係限定だが)。

六主張論議は、立論と反論のあとに、再反論を失敗することで始まる。再反論を失敗すると、過失が立論にも遡及する。このことから、立論はそれ自体ではまだ成立したとはいえず、正しい再反論を待たなければならない。これは、ニヤーヤ学派の反駁がない限り正しいという原則(anyathaakhyaati)に則っており、レトリックで言われる「主張は反論によって鍛えられる」にも通じる。本論からは外れるが、興味深い箇所だ。

ウダヤナという11世紀の哲学者がメインだが、その前にジャヤンタバッタという10世紀の哲学者の著書に興味深い著述を見つけた。それ以前の学者とウダヤナとの橋渡しになるような記述である。明日、これについてまとめて、いよいよウダヤナの部分に取り掛かる。

気がつくとパソコンのわきに本が10冊くらい積み重なっている。崩れる前に片付けよう。

今日の勉強

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……って週末に学会があるので今頃起動した次第。先週までに完成させたかったが、ボードゲームの和訳2本を抱えて全く着手できなかった。木曜まで4日で完成させないといけない。

学会の発表テーマは『六主張論議と審判・会衆の役割』。インド議論学で不毛な議論として出される六主張論議が、どうして「6」なのかという話。

今日はひとまず六主張論議とは何かというところから。梶山先生と石飛先生の和訳を参照したが、結局サンスクリット原文から訳した。定式化してみるとこんな感じか。

(1)A:XはPだからQである。何であれ、PであるものはQである。Yのように。
(2)B:PだからといってQとは限らない。確かにYのようにQのものもあるが、ZのようにQでないものもある。したがってXも、QかQでないかは確定できない。
(3)A:「XはPだからQではない」という主張でも、PかつQのものも、PかつQでないものもあるので確定できない。
(3’)(A:XがQではない理由が知覚されず存在しないので、PならばQである。」)
(4)B:(3)からXはQであると言えるならば、同じくXはQではないとも言える。
(5)A:(2)から、XはQでないと言えないことになるので他説追認である。
(6)B:(3)から、XはQであると言えないことになるので他説追認である。

本論部分は、インドで作っておいた和訳をもとに進める。明日は先行研究のまとめかな。

聴講は金曜日午前の第5部会(ダルマキールティ)が面白そうだが、間に合うかどうかは微妙。午後からは第4部会(唯識)あたりが聴きどころか。私が発表する土曜午前の第1部会(バラモン哲学)では知り合いが特に多い。午後はパネルディスカッションで仏教用語の現代語訳を聴講したい。

学会に出るのは何年ぶりだろうか。知り合いばかりで、関西勢があまりいないが、それでも久々なので緊張する。

エコドライブ

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先日、自動車屋さんに保険の手続きで寄ったとき、エコドライブのすすめが置いてあって、それからちょっと心がけて運転している。

日本自動車工業会:エコ・ドライブ

ポイントは「最初の5秒で時速20km」と「早めのアクセルオフ」。前者ははじめアクセルを踏まずクリープだけで進めることで、後者は100mくらい前からアクセルを踏まないことで達成できる。結果としてノロノロ運転となり、気がつけば後ろに2、3台溜まっていることもあるが、気にしない。

最近のガソリン代は1リットル135円前後。今の車は1リットルで13キロくらい走るから、1キロ10円の計算だ。毎日の保育園の送迎は往復15キロだから150円。この2つで合計13%燃料が節約されるというから、計算上は毎日20円くらい得していることになる。

それだけではない。まず安全運転は、事故に遭うリスクを下げる。先日、家の前の道から県道に出るとき初めてコリジョンコース現象を体験した。車が来ないなと思って県道に出ようとしたその時、いきなり目の前に車が現れたのである。お互い等速度で走ると相手の車が視界から動かないように見える。スピードが予め遅ければ、このような錯覚も防げる。

また、スピード違反で捕まる恐れもなくなる。先日、警察署で講演をしてきたばかりなので、取り締まりで捕まって「あ、あの時の和尚さん」とか気まずくなりたくないもの。

それから車中の揺れが少ないのが快適。雪国の道路(特に交差点)は、除雪の影響ででこぼこが多いため、スピードを上げるととても揺れる。なので交差点にゆっくり進入するとこんなに快適だとは思わなかった。チャイルドシートの子供にも優しい。

このようにメリットたくさんのエコドライブ。時間に余裕がないとできないが、この頃は長女の要望(6時半までに朝食を出せと)により5時起きになっているので余裕である。近所の人に有名になるくらい、ノロノロ運転でいくぞ。

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