おの: 2012年8月アーカイブ

仏教と人権

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アショーカ王に、クナラ太子という息子がいた。気高く美しい眼をもっていたが、お寺で僧侶から、眼があまりに美しすぎて将来失われそうなこと、そのため仏の教えを学んで、心の眼、法の眼を開くように言われる。そのうち義理の母である王の第三夫人が言い寄ってきたのを退けたことから恨まれ、偽造した王の命令で両眼をえぐり取られ、追放されてしまう。盲目のさすらい旅は苦労の連続だったが、やがてたまたまアショーカ王の御殿にたどり着く。真相が明らかになり、怒ったアショーカ王が犯人の第三夫人を死刑にしようというとき、クナラ太子はこのように述べた。


「ほとけさまでさえ、過去の業をのがれることはできないのです。まして人間は、だれしもが、宿業のむくいをうけなければなりません。わたしの眼がえぐりとられましたのも、自分がつくった罪のむくいであって、だれもうらむべきではないと思っています。……もし夫人が、こんどのようなたくらみをしてくれなかったら、わたしはいつまでもたよりにならない肉眼にこだわって、たかぶったり悩んだりしていなければならなかったでしょう。それを思うと、わたしは、夫人に感謝こそすれ、すこしのにくしみももってはおりません。」

クナラの過去の罪とは猟師だったときに鹿の眼をえぐりとって食べていたためであり、太子に生まれたのは長者の息子だったときにお金を出して壊れた仏塔を直し、仏像を建てたからだという。

この話は『大人のための仏教童話』(東ゆみこ著)で知ったものだが、著者は「クナラは、自分の苦しみがどこから来ているのかを理解し、その苦しみの連鎖を、自分の敵ティシャラキタを赦すことによって断ち切ろうとした」と解説している。

これを読んだとき、私は真っ先に悪しき業論だと思った。現世でのハンディキャップは過去世が原因だと説くことで、現実の問題に取り組み、改善していく未来志向の努力を放棄させ、社会差別を肯定してしまう恐れがある。この説話にそのような意図は全くないとは思うが、そう読み取ってしまう自分が過剰反応なのか。

曹洞宗では、宗務総長が世界宗教者会議で「日本に部落差別はない」と発言した事件以来、人権学習を研修に必ず取り入れ、差別問題の解消に取り組んできた。私も10年以上、そういった研修を受けてきたが、ややもすると「これはアウト」「これはセーフ」というような線引きに腐心するだけで、人権問題の本質を考えないまま不安ばかり与えたようにも思う。(このことは曹洞宗でも認識しているようで、近年の人権学習は差別事件から自死、いじめ、介護問題などに移ってきている。)

お釈迦様が自らを業論者であるとおっしゃったように、仏教と業論は切っても切れない。それが解釈の問題であれ現代の人権問題と衝突するとき、教義と人権を両立できるのか、どちらかを捨てなければならないのかを悩む毎日である。

ちなみに人権擁護委員としては、違法性、具体性、加害者、被害者などの要件を満たさないものは人権侵犯事件として調査対象にならないので、ここまで悩むことはない。

8月20日から5日間にわたって松本の信州大学でシンポジウム「伝統知の継承と発展―インド哲学史における"テキスト断片"の意味をさぐる」が行われ、1日半だけ参加してきた。昨年、存在論をテーマに開かれたインド哲学合宿に引き続いて2年連続の開催だが、今年はウィーン大学/アカデミーとの共同開催となり、国内はもとより、斯界の著名な学者がたくさん訪れた。

テーマになった「テキスト断片(Fragments)」というのは、散逸した文献の一部を、現存する文献の引用箇所から集めたもので、インド哲学史の展開をより細かく見ていく上で重要な資料となる。ウィーンではすでに収集作業を始めており、データベースも構築されている。

発表はテキスト断片の発見報告から、断片に基づく新しい思想史の提案、写本による異読の解決や、思想史的背景の考察まで多岐にわたった。テキスト断片収集というのが決して単純作業でないことがよく分かる。

引用はたいてい、誰の言葉かを断った上で、「以下のようにいう(ucyate, uktam)」から「と(iti)」までに行われる。しかし、中には誰が言ったか明示しないものや、直接引用したのか、脳内変換して書いたのか判然としないこともある。引用ですらない(仮想反論とか、作者不明の俗言とか)ことだって考えられる。そのためほかの文献との比較や、内容の吟味が必要だ。

さらにA.アクルジュカル教授(ブリティッシュコロンビア大学)が指摘していたように、見かけ上は同じ言葉でも、学派によって、時代によって全く違う意味が与えられている可能性があることも考慮しなければならない。かつてある学派がよい意味で使っていたものが、他学派が批判的に取り上げることで悪い意味に変わってしまうこともある。だから文脈までおさえた収集をしないと、無意味な情報になりかねない。

気の遠くなるような作業だが、その分やりがいのある仕事でもある。問題はそこまで時間の取れる人が、はたしてどれくらいいるのかなというところか。このプロジェクトを始めたE.プレッツ博士も、あちこちの学会で忙しいという。

シンポジウムは2人が30分ずつ発表しては30分休むというのんびり日程。久しぶりに会う人、初めて会った人とゆっくり話すことができた。快適に過ごせたのは、ホストの護山さんや、スタッフの岩崎さんたちが発表を聴く暇もないほど駆け回っているおかげである。話の中で専門の勉強がちっとも進んでいないのが恥ずかしく、時間が細切れでも勉強できるという言葉には力づけられた。

さて今回の学会の案内に、この期間はサイトウ・キネン・フェスティバルがあるのでホテルが取りにくくなるから、早めに予約しておくとよいでしょうと書かれてあった。それでホームページを見ると、学会の会期中にオーケストラのコンサートを発見。早速発売日に購入しておいた。プログラムは、シューベルトの交響曲第3番と、R.シュトラウスのアルプス交響曲。どちらも決してメジャー曲とはいえない。指揮者はイギリス人のD.ハーディング。

コンサート会場である松本文化会館がどこか調べてみると、大学のすぐそばだった。カンファレンスディナーを欠席して歩いて行くとわずか10分ほどで着いた。ホール入口にあるサイトウ・キネン・フェスティバルの看板を見て興奮する。

プログラムを買って席につく。1階A席、通路に面した左側である。プログラムをめくると、知っているのは山形によく演奏に来てくれる長原幸太さん(いつの間にか大阪フィルをやめてフリーになっていた)ぐらいで、あとは外国の奏者、外国のオケで活躍する日本の奏者などが多い。オーボエはシュトゥットガルト放送交響楽団首席、トランペットはベルリンフィルソロ奏者、トロンボーンはウィーン交響楽団首席など、隙のない豪華メンバーである。聴いたこともない音色、アンサンブルが飛び交う。

シューベルトは30分くらいの小粋な作品。随所におっと思わせる仕掛けが施されていてエキサイティングだった。奏者は30名ほどの小編成だったが、休憩を挟んでアルプス交響曲になると一挙に80名(+バンダの金管10名)ほどに。次から次へと出てくる奏者に聴衆の拍手も高まる。

アルプス交響曲は50分ほどで、楽章や途中休止がない大曲。アルプスの1日の情景を夜から夜まで描くが、解説によるとシュトラウスがニーチェに傾倒し「力への意志」をこの曲に込めたものだという。トゥッティの大迫力、シンバル3本の威力、2階から聴こえてくるバンダの響き、木管の美しいアンサンブル、謎の効果音も美しく聴かせる弦楽器など、耳も目も休む間がなく、演奏時間があっという間だった。

興奮に浸りながらバスに乗り、駅前のインドレストランでヒンディー語を話しながら遅めの食事をとってホテルに帰着。

プログラムにはA.オネゲルの劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』が載っていた。かつて小澤征爾が紹介し、日本でもよく演奏されるようになった曲目である。ジャンヌ・ダルク役のイザベル・カラヤンは指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンの娘だという。これは聴きたい!と思ったが日程が合わず。

学会も有意義だったし、コンサートも最高。新幹線を使っても往復10時間かかるが、また松本に来たいと強く思った。

僧侶の音声障害

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朝日新聞:木原千春さん(僧侶の音声障害を調べた医師)

長崎大学病院耳鼻咽喉科の医師が、僧侶の音声障害を調べているという。長崎市仏教連合会への調査で、半数以上が声のかすれやのどの痛みを感じ、「お経の時にたんがからみ、微妙な音階が出せない」「焼香の煙でのどに異常を感じる」という悩みが寄せられたという。

まだ調査段階で治療法や予防法を提示できるまでには至っていないようだが、私達に対し心を砕いてくださっている方がいることがとても嬉しい。

私もここ半年、のどが本調子でなく低音が出にくかった。のどに力を入れる発声方法がダメージを与えるのかもしれない。そんな中、先々月から教わっている御詠歌の先生に喉に力を入れない発声法を教わり、だいぶ調子が上向いているような気がする。

また、数年前から喘息になり、風邪を引くとしばらく咳が抜けない。曽祖父や大叔母が喘息持ちという遺伝に加え、つくばの古い官舎のカビや、毎週乗っていた新幹線の乾燥した車内なども原因だったかもしれない。お医者さんからは線香の煙が原因ではないかと言われ、法事では焼香を使い(煙が出るのはわずかの間)、線香は最後の略三宝で立てるようにしている。

線香やお香を燃やすとどのくらいの大気汚染物質が出るのでしょう?

線香はいろいろな成分が入っているので、中にはアレルゲンになるものや、合成香料や化学糊など体に悪いものもありそうだ。目の前で線香を立ててお経を読むと、強制的に煙を吸い込むことになるので注意したい。

昔はお坊さんといえば、長生きする職業だった。それが線香の煙で呼吸器をやられ、法事の後の飲食供養で太り、後継者の減少でいくつもの寺をかけもちして不規則な生活と過労になれば、寿命も縮むというもの。どうしてそうなってしまったのか、因果なものである。

女子短大の講義

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地元の短大で教えている半期の講義が終わり、夏休みに入った。受講者は134人と、昨年のちょうど2倍にあたる。昨年は制度の関係で1年生しか履修できなかったのが、今年は1,2年生とも履修できるようになったので増えたようだ。全学で580人だから、5人に1人は取っている計算だ。入学前から、ホームページに公開されているシラバスを見て受講したいと思っていたなどという人もいて嬉しい。

今年度の15トピックは次の通り。これを毎時間1トピックずつ進めた。

1.日本語の中のインドの言葉
2.七福神の成り立ち
3.カレーライスの歴史
4.無常について
5.苦と解脱
6.輪廻と地獄
7.善悪の基準
8.愛と慈悲
9.ゼロの発見
10.心とは何か
11.身分と差別
12.議論と論理
13.仏教と女性
14.家族のあり方
15.恋愛と結婚

90分の授業のうち、トピックの講義は60分ほどで、あとの30分は前回の授業で寄せられた質問に答えるコーナーにした。質問のレベルは相変わらず高く、1週間かけて調べていかなければならないものも。そのため私にとってもとても勉強になった。

昨年は1年生だけで、ガリ勉風の学生ばかりだったが、今年は2年生もいるせいだろう、垢抜けた感じの学生や、ダルそうな学生もいた。それでも受講態度はみんな真面目で、私語を注意したのは1回しかなかった(眠っているのはいたかもしれないが、教室が広すぎて不明)。

資料はネットでダウンロードできるようにして、学生にはURLを教えた。ダウンロードできなくて、トップページに行ったら何かゲームのページだったとか。

昨年は普通のスーツで通したが(それだけでも普段作務衣の私には珍しい)、今年はインドのジョードプーリーを着て行ったり、仕事の都合で改良衣で行ったりしているうちにファッションショー状態に。質問で「先生は結婚していますか」というのがあって、はいと答えたら教室内が「えーーーーっ!」とざわめいたこともあった。生活感がないとか。

成績評価は出席点8割レポート2割として、毎回感想・質問カードを提出したものをチェック。さらにレポートは授業内容に関する小論文と、三十三観音(今年は置賜三十三観音が史上初のご開帳しているのに合わせて)レポートの2本。三十三観音レポートが今月〆切で、来月に成績を提出する。

感想・質問カードのチェックは、授業が終わって昼食のときにしていたが、全部読みながらなので小一時間はかかる。そこで米沢市内のタイ料理店や、学食を利用。学食はついたてで隔離された教職員専用テーブルがあるのでくつろげるが、ついたての陰ではあられもない姿で寝ていたり、恥ずかしいトークで盛り上がっていたりといった女子大っぷり。見ないふり、聞こえないふり。

はじめに「この授業は就職の役には立たないと思いますが、人生で参考になることがあるかもしれません」と言った通り、どの授業でも生きるとは何か、幸せとは何かということを考えてもらえるように努めた。将来何かに迷ったとき、授業のことを思い出して、資料ファイルを開いてくれたらいいなと思う。

道中の往復100分は、昨年はラジオを聴いていたが、今年はずっとマーラーの5番を聴いていた。マーラー5番の聴き比べについてはまた後日書きたい。

地元で教育者研究会というのがあって、ほとんどは校長先生が参加するものらしいが、縁あって私にも声がかかり、少しの時間ではあるが参加してきた。朝9時からまる1日の研究会だったが、長女の歯医者、長女と長男の水泳教室の送迎があり、さらに原稿執筆、家の掃除があってわずか1時間。講演は最後のほうだった。

道徳の話で、伝統の押し付けでかまわないというような話だったのでいまひとつピンとこなかったが、最後の項目は胸に響いた。

自分を見つめることができる教師
・見られていることを忘れている教師(態度、言動、振る舞い、心)
・影響の大きさを忘れている教師(感化力、人格)
・教えることを忘れている教師(分かる授業、楽しい授業、充実感のある授業)
教師に権威がなくなった理由
・子供への迎合・諂い・機嫌取り
・対社会的貢献・職種の異なる人との付き合いの不足
・人生に対する確固たる指針(羅針盤)の喪失
誰でも一流の教師になれる
・教師の真の仕事に手を抜かない教師(授業、生徒指導、道徳教育)
・品性完成に向かい継続的努力をする教師(感謝と報恩、人心の開発と救済)
・寸暇を惜しんで本を読む教師(専門書、聖賢の書)

確かに先生方にも思い当たるところがあるのかもしれないが、僧侶にもぴたりと当てはまりそうなことばかり。

私たちは近所の檀家さんにいつも見られており、いろいろな場面で多大な影響力を与えている。それなのに、葬儀法事をただマニュアル通りにこなせばよいと思いがちで、布教や教化の貴重な機会であることを忘れてしまってはいまいか。

僧侶に権威がなくなったのは、檀家さんのイエスマンになって、お寺の外に出ることを怠り、自分自身がどのように生きるべきかを見失っているからだろう。

葬儀法事を通した布教教化、檀家さんの悩み事相談、法話などにまじめに取り組み、また肩は張らずに背筋を伸ばして毎日を送り、最近本を読む時間がないなどと言い訳せずちょっとずつでも読む。

惰性に振り回されず、気を取り直してお勤めしたいと思った。明日明後日は近隣のお寺のお葬式のお手伝いだ。
 
子供に古典を読ませようという話で、因幡の白兎の話が出た。どんな話だったのか思い出せないので長女に聞いたところ、しっかり教えてもらったのは内緒である(ついでに、天岩戸とヤマタノオロチの話も教えてもらった)。そんな長女に、21世紀版少年少女古典文学館シリーズの『古事記』を注文したところである。
昨日は午前中に米沢で福島から避難している人たちとのお茶会。午後からは山形で福島から避難している子供たちの学童保育を見学した。

駒沢大学に勤めている大学の後輩が、福島からひなしている子供やその親の勉強や生活を心配し、頻繁に山形を訪れてきている。そのたびにいろいろな人と会ってはたらきかけているが、私も一緒に会って話すことができるのがありがたい。地元にいるとかえってわからないことが多いものだ。

毎週水曜日に行われているお茶会に出るのはすでに5〜6回目で、来ている人とも顔見知りになってきた。今回は「ままカフェ」など子育てのNPO活動をされている土屋さんとお話し。米沢だけでなく長井でも学校帰りに子供たちが寄れる寺子屋的な活動ができないかを相談した。

今回は夏休みの長女・長男も連れていき、小さい子供をお世話して遊んでもらった。たくさんおやつをご馳走になったのは、私もである。

山形の学童保育は、浄土真宗の山形教務所で行われているもの。中学教育を退職後、駒沢大学で藤井君の授業を受けている森さんという方と、山形大学の教授で日本仏教を専門にしている松尾先生を途中で車に乗せて向かう。全て藤井君のアレンジである。

真宗の教務所は山形駅近くの至便なところにあり、礼拝できる60畳の本堂を備えている。ここに夏休み中の子供たちが9時から17時まで滞在し、ボランティアの人が宿題を教えたり一緒に遊んだりする。

ボランティアで来ている2人の学生に話を聞いたら、東京大学だという。東大−東北復興エイドというプロジェクトが、交通費を出して希望者を東北各地に送っており、フェイスブックでの募集を見かけて応募したそうだ。山形大学から自転車で来れるような近場に、わざわざ東京大学から来ていると聞いて、松尾先生(松尾先生も東大出身で、何年か前に特任教授も務めている)が奮起していた。

奮起している松尾先生とともに夕食を頂く。松尾先生とはメールでしかやり取りしたことがなかったが、研究のこと、お寺のこと、家族のことなどいろいろお話できてよかった。ボランティアで来ている学生はたまたまオーケストラでトロンボーンを吹いているそうで、これまた研究や進路のことを話す。

まる1日の外出となったが、今後の継続的な支援を考える上でも、また私の個人的な楽しみの上でも有意義な1日だった。

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