おの: 2015年3月アーカイブ

不邪淫=不殺生

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『印度学仏教学研究』最新刊が届く。後輩の論文「生き物を殺さないための性的禁欲―ジャイナ教在家信者の行動規範を中心に―」が秀逸。性交をすると、女性器内に住んでいる微生物を殺すことになるので、禁欲しなければならないという理論を紹介しています。徹底した不殺生を説くジャイナ教、殺生でなければ少しぐらい破戒してもよいだろうという甘えを打ち砕きます。

家事分担率

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日本経済新聞:データで見る夫の家事分担率 1位は島根、最下位は...

0歳の乳児がいる共働き世帯で夫15%・妻85%が平均。20~30代の男性6割以上が「男性も家事・育児を行って当然」と考えているのとギャップがあります。東北で夫の家事分担率が高いです。

CMがもとで家事ハラ論争などがありましたが、協力するべき夫婦が、綱引きをして勝ったの負けたのいう不毛を感じました。

島根が1位とか、東北が高いという記事ですが、共働きと専業主婦の比率、さらに共働きでも夫婦とも正規/妻がパートの比率が大きく影響していると思います。夫婦とも同じくらい働いているなら必然的に夫の家事分担率が高くなるでしょう。純粋に意識の問題ではないわけですね。

今、『「育休世代」のジレンマ』(中野円佳/光文社新書)を読んでそんなことを考えています。

春休み

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子どもたちの春休み。

長女が總持寺で行われる全国徒弟研修会に参加するため、郡山まで送り(片道140分)。長男を同行させ、帰りに福島のラウンドワンで遊んできました。夕方からお通夜が入っていたので早めに帰宅。

お通夜の裏で、熱を出した次女を母に頼んでお医者さんに連れて行ってもらい、お通夜が終わってから仕事帰りの妻を駅にお迎え。

そして今日は次女の卒園式。熱は座薬で無理やり下げました。次女の付き添いは妻に任せ、私は火葬場から直行で次女の出番にぎりぎりセーフ。そして午後からお葬式。終わってから別の家のお通夜。

明日の長女の迎えは妻に頼んで、私はお葬式に行きます。明後日は地区の総会の予定でしたがまたもやお葬式で、あちこちに代役を頼んでいるところ。

3日連続の葬儀に子どもたちの行事と、入り組んだパズルのような毎日です。明日はどっちだ?

十二支因縁

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経典勉強会で十二支因縁を取り上げました。苦しみと無明をつなぐ因果関係をどう説明するか、増谷文雄先生の翻訳を元に、自分なりの訳語で表してみましたが難しいです。

相応部経典十二・二(雜阿含經卷十二・十六)
かように私は聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林にあるアナータピンディカ園にましました。その時、世尊は、比丘たちに告げて言った。
「比丘たちよ、私は今汝らのために、縁起を分析して説こうと思う。彼らはよくそれを聞いて、考えてみるがよろしい。」
比丘たちは、「大徳よ、かしこまりました」
と答えた。世尊は説いて言った。
「比丘たちよ、縁起とは何であろうか。比丘たちよ、無知によりてエネルギーが生まれる。エネルギーによりて認識能力が生まれる。認識能力によりて精神と物質が生まれる。精神と物質によりて感覚器官が生まれる。感覚器官によりて対象との接触が生まれる。対象との接触によりて感覚が生まれる。感覚によりて渇愛が生まれる。渇愛によりて執着が生まれる。執着によりて存在が継続する。存在によりて転生が起こる。転生によりて老死があり、愁・悲・苦・憂・悩がある。かくのごときがこの苦の集積のよってなれるところである。
では、比丘たちよ、老死(ジャラー・マラナ)とは何であろうか。生きとし生けるものが、老い衰え、朽ち破れ、髪白く、皺生じて、齢かたむき、諸根やつれたる、これを老というのである。また、生きとし生けるものが、命終わり、息絶え、身躯やぶれて、死して遺骸となり、棄てられたる、これを死というのである。かくのごとく、この老いと死とを、比丘たちよ、老死というのである。
また、比丘たちよ、転生(ジャーティ)とは何であろうか。生きとし生けるものが、生まれて、身体の各部あらわれ、手足そのところを得たる、比丘たちよ、これを転生というのである。
また、比丘たちよ、存在(バヴァ)とは何であろうか。比丘たちよ、それには三つの存在がある。欲界すなわち欲望の世界における存在と、色界すなわち物質の世界における存在と、無色界すなわち抽象の世界における存在である。比丘たちよ、これを存在というのである。
比丘たちよ、また執着(ウパーダーナ)とは何であろうか。比丘たちよ、それには四つの執着がある。欲に対する執着、見に対する執着、戒に対する執着、我に対する執着がそれである。比丘たちよ、これを執着というのである。
比丘たちよ、では渇愛(タンハー)とは何であろうか。比丘たちよ、それには六つの渇愛がある。物に対する渇愛、声に対する渇愛、香に対する渇愛、味に対する渇愛、感触に対する渇愛、観念に対する渇愛がそれである。比丘たちよ、それを渇愛というのである。
比丘たちよ、では感覚(ヴェーダナー)とは何であろうか。それには六つの感覚がある。眼の接触によりて生ずる感覚、耳の接触によりて生ずる感覚、身の接触によりて生ずる感覚、鼻の接触によりて生ずる感覚、舌の接触によりて生ずる感覚、身の接触によりて生ずる感覚、ならびに意の接触によりて生ずる感覚がそれである。比丘たちよ、これを感覚というのである。
比丘たちよ、では対象との接触(パッサ)とは何であろうか。比丘たちよ、それには六つの接触がある。すなわち、眼による接触、耳による接触、鼻による接触、舌による接触、身による接触、および意による接触がそれである。比丘たちよ、これを対象との接触というのである。
比丘たちよ、では感覚器官(サルアーヤタナ)とは何であろうか。視覚器官と、聴覚器官と、嗅覚器官と、味覚器官と、触覚器官と、意識とである。比丘たちよ、これを感覚器官というのである。
比丘たちよ、では精神と物質(ナーマ・ルーパ)とは何であろうか。感覚と表象と思惟と接触と意志と、これを精神というのである。また、四大種およびそれによって成れるもの、これを物質というのである。つまり、そのような精神とそのような物質とを、精神と物質というのである。
比丘たちよ、では認識能力(ヴィンニャーナ)とは何であろうか。比丘たちよ、それには六つの識がある。すなわち、眼識作用と耳識作用と鼻識作用と舌識作用と身識作用と意識作用とがそれである。比丘たちよ、これを識というのである。
比丘たちよ、ではエネルギー(サンカーラ)とは何であろうか。比丘たちよ、それには三つのエネルギーがある。すなわち、身におけるエネルギーと、口におけるエネルギーと、心におけるエネルギーとがそれである。比丘たちよ、これをエネルギーというのである。
比丘たちよ、では無知(アヴィッジャー)とは何であろうか。比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽に至る道についての無智である。比丘たちよ、これを無知というのである。
比丘たちよ、かくのごとくにして、無知によりてエネルギーが生まれる。エネルギーによりて認識能力が生まれる。認識能力によりて精神と物質が生まれる。精神と物質によりて感覚器官が生まれる。感覚器官によりて対象との接触が生まれる。対象との接触によりて感覚が生まれる。感覚によりて渇愛が生まれる。渇愛によりて執着が生まれる。執着によりて存在が継続する。存在によりて転生が起こる。転生によりて老死があり、愁・悲・苦・憂・悩がある。これが全ての苦の集積のよりてなるところである。また無知を余すところなく滅することによってエネルギーは滅する。エネルギーを滅することによって認識能力は滅する。認識能力を滅することによって精神と物質は滅する。精神と物質を滅することによって感覚器官は滅する。感覚器官を滅することによって対象との接触は滅する。対象との接触を滅することによって感覚は滅する。感覚を滅することによって渇愛は滅する。渇愛を滅することによって執着は滅する。執着を滅することによって存在は滅する。存在を滅することによって転生は滅する。転生を滅することによって老死は滅する。これがこの全ての苦の集積のよりて滅するところである。

やまがた婚活応援団+(プラス)という、県内の仲人さん、婚活イベント関係者の研修会で講演。「独身者の意識に寄り添って」という題で、若い世代への偏見をなくすよう各種統計を詳細に見て、キーワードとして「絶食系男子」「非モテ」などを紹介。最後は『正法眼蔵菩提薩埵四摂法』でお坊さんらしく締めました。

愚かな人は、他の人のためになることを優先すると、自分の利益がなくなると思うものだが、そうではない。思いやりとはひとつのことであり、自分と相手両方のためになるのである。

知らなければならない。共に生きること(同事)とは、海があらゆる水を拒まないことである。さらに知らなければならない。水もまた海を拒まないという徳を備えている。だからよく水は集まって海となり、土は重なって山となるのである。

我逢麺

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何だこれは?曹洞宗の大本山が監修した「精進料理」のカップ麺が登場

横浜・鶴見にある大本山總持寺の新しいお土産。そばとうどんの2種類あり、1つ300円と高いが、味はなかなかのものでした。

綱渡り

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今日は綱渡りの一日でした。

9時から出棺経だったのが、朝に別の方の訃報が入り枕経。それから出棺となりました。8:40まで葬儀の打ち合わせ、8:50に次女のバス送り、9:00から出棺経と、ここは10分刻み。

午後からの葬儀は施食会があるので、火葬場から葬祭ホールに行き、角塔婆書き。初めての経験なので、左右のバランスがなかなか取れず時間がかかりました。

お寺に帰ったのは正午近く。洗濯物を干し、昼食をとっていると、伴僧の和尚さんが体調不良で急遽来られないという連絡が入り、急いで代役を探すことに。45分以内に葬祭ホールに来られる方という厳しい条件でしたが、何とかお願いできました。

そのごたごたで「葬送の辞」を置き忘れてきてしまうも、うろ覚えで何とか切り抜け、伴僧の和尚さん6名の大衆威神力で葬儀・施食会を無事に済ませました。...

ここで16時過ぎ。急いでお寺に帰り、保育園から帰ってくる次女のお迎えにぎりぎりセーフ。

やや放心状態でいるところに、次女がうんちを漏らしたとかでお尻を洗って現在に至る。今日の夕食は折り箱と冷凍食品で済ませる所存です。

こんな綱渡りで何とかなったのは、み仏のご加護があったからに違いありません。感謝しています。

葬式の迷信

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近所のミニデイ講演会から帰宅。前回の写経教室で関心が高かったお葬式に関する迷信について、特に友引、清め塩、北枕、親指隠し、夜爪について、そのような迷信が生まれた背景をお話してきました。

迷信か否かを見分けるポイントは、人の心を不安にさせるか、安心させるかだと考えています。例えば地元には「しだみ(亡くなって4日目の葬式は避ける)」というものがありますが、これを行うとまたお葬式が出るからという理由ならば迷信、亡くなった方の遺体を1日長く家に置いておきたいからという理由ならば迷信でないといえます。四角四面ではなく、遺族の意をくんだ臨機応変な対応が求められます。

困った時の神頼みではなく、普段からのお参りが、いざというときでも動じない心を生み出します。

"Grant me that I may not be a coward, feeling your mercy in my success alone; but let me find the grasp of your hand in my failure." (Tagore)

朝日新聞で、ボードゲーム『枯山水』の記事。私のコメントが掲載された。読み返してありきたりだったなと反省。

僧侶としていわせてもらえば、坐禅しても徳は稼げない。坐禅は「無功徳」だからだ。功徳を生むのは坐禅ではなく、布施である・・・というと皆に笑われる。どうしてだろう?

枯山水

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