梅花流の最近のブログ記事

ありがたいお唱え

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4泊5日にわたる大本山總持寺の御征忌会から無事帰宅。台風も通過する中、早朝から夕方までずっとご詠歌をお唱えしていた(正座で足が痛かった・・・)。

先月の講習会で、講師の静岡の安田光彰・正伝師範より、ご詠歌にとって大切なものは信仰心をいかに養うか、抱かせるかというお話を頂いた。お唱えを聴いた方が「上手い」と思うのではなく「ありがたい」と思うお唱えを心がけ、私たちが熱中しがちな声や節回しは二の次だという。

聞き手としての勉強も大切で、粗探しではなく、個性を味わう心のゆとりをもち、唱え手の心を聞き取ることを心がけましょうというお話だった。ここでも信仰心が必要になる。ご詠歌の曲想には「敬虔に」が多く、信仰心をもってお唱えするにはまだまだ修行が必要だ。

「上手い」でなくて「ありがたい」お唱えを目指す――その意味をずっと考えていたところ、大祖堂に響き渡るお唱えは、詠讃師ひとりひとりの魂が伝わってきて本当にありがたいものに感じられるようになった。声や節回しの先にある唱え手の心。旋揺法にばかり気を取られていては一生分からないもの。そこに焦点を合わせられれば、仏祖の御声が聞こえてくるように思われる。

梅花流の師匠逝く

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大町摂取院前住職・神尾(長岡)昭臣師の本葬に参列。

20代の頃、静岡・洞慶院にて丹羽廉芳師、安田博道師、大島賢龍師といった曹洞宗梅花流の創始者たちに真言宗密厳流のご詠歌(伝承曲)を教え、梅花流の創設に大きな役割を果たされた。お亡くなりになる2年前、梅花流研究プロジェクトの佐藤俊晃先生に同行して当時のお話をお伺いできたのは本当にありたがいことだったと思う。

伝えまし 受けつぎ来たり ありがたや

先月行われたご詠歌の発表会の記事が公開された。私のお役目は歌詞解説(後半)。

曹洞宗山形県第二宗務所:【梅花】梅花流第49回奉詠大会

教区長と宗務所役職員(多くが未経験者)によるお唱えは威神力を感じて特にありがたい。人を感動させるお唱えは技法ではないということに気付かされる。

非思量の詠唱

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曹洞宗総合研究センター編「『梅花流指導必携』の変遷」を読み終わる。一番心に残ったのがこの箇所。

私は詠道に於ては「一に信、二に声、三に節」と従来の標語を改める必要があると提唱するものである。少くとも正法を高く掲げて孤高清節を守られた高祖大師の流を掬む我が梅花流の詠道にあっては「信は道元功徳の母」との教意に徹して「信心第一」の心構えを忘れてはならない。
 詠歌道にこの「信心第一」の心が失われる時、詠歌は単なる喉自慢、声自慢となり、小天狗大天狗輩出して、徒らに他人をけなし合い、自讃毀他、百鬼夜行の浅間しい世界を現出するであろう。それでは何の為の詠歌和讃かわからないことになってしまう。(久我尚寛『梅花流詠道要訣』昭和29年)

まるで65年経った今のことを言っているような内容。お唱えの上手下手に気を取られず、お唱えの中の信心の深さ、「非思量の詠唱」を追究していきたいと思うところだ。

12月に徳島・海陽町の城満寺という禅寺で行われた法要に参加してきた。

By Kamikami70 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

城満寺は曹洞宗を日本中に広めた瑩山禅師が28歳のときに開かれたお寺である。翌年にここで「授戒会」という大きな法要を開き、宗門の教えを初めて四国に伝えた。梅花流ではこのことを「御年二十九宗門の大戒伝えしその年にお授戒法会をなしたもう」(太祖常済大師瑩山禅師修行御和讃)とうたっている。

お寺は300年ほど続いたが謎に包まれており、しかも江戸時代に入る前に戦火で焼失して廃寺になってしまった。大本山總持寺から住職が入り、復興したのは戦後のこと。さらに本堂が建立されたのが平成9年、現在の住職は五代目という、古くて新しいお寺だ。

その五代目の住職を務めているのが田村航也師である。神奈川の出身だがおばあさんの実家が栃木のお寺だったという縁で得度して、東大の大学院を出た後、大本山總持寺で修行。城満寺の兼務住職していた板橋禅師から譲られて2011年、瑩山禅師が開山された御年とほとんど変わらないくらいで城満寺の住職に就任した。

恩師である斉藤信義老師がご存命の頃、田村師とは東大印哲の同窓会でよく顔を合わせていたが、しばらくぶりに会ったのは大本山總持寺の法要に行くようになってからであった。彼は布教師寮に在籍しており、詠讃師をしている私とは法要のときよく隣り合わせになる。そのときはなぜ彼が徳島のお寺の住職をしているのか見当もつかなかった。

それからまた何年かしてこの度、法要でご詠歌を唱えてほしいというお招きを受けた。年末だったが何とかずらせる用事ばかりだったので、こんな光栄な機会も滅多にないだろうとお引き受けした。

行きは山形から大阪へ飛行機。田村師は関東で法事があるから、空港に迎えに行くという。徳島のお寺の住職がなぜ関東に?と思ったが、聞いてみるとおばあさんの実家である栃木のお寺のご住職さんが亡くなられたので兼務住職をしているのだという。そんな掛け持ち、聞いたことがない。

時間短縮のため伊丹から三宮に移動しておいて、田村師に神戸空港から車で迎えに来てもらい、一路城満寺へ。三宮から徳島までは淡路島を通って1時間半、徳島から城満寺までさらに1時間半の道のりである。途中食事をして、お寺に到着したのは23時近くだった。道中は、『甘露門』のサンマヤ戒は禅宗でどう捉えるべきかというような話などをしてきた。

お寺には、大本山総持寺から来ているというアメリカ人の修行僧と若い修行僧、病気で寝たきりの東堂さんほか、全然血縁関係のない者同士が暮しており、ユニークなサンガを形成していた。翌日に大きな法要を控え、しかも住職が不在という中でてんてこ舞いである。

法要には30人以上の僧侶が参加するが、外部者で山内泊は私のみ。朝のお勤めの後、みなさんがばたばたしている中、私は午前中いっぱい、山に登ってお墓参りをしたり、部屋で「成道」について調べ物をしたりするほどの余裕があった。今月はお釈迦様が悟りを開いたとされる12月8日の記念日があり、初期仏典でお釈迦様が悟りをどのように説いているか、気になっていたのである。四禅三明によってお釈迦様は悟りを開くことになるが、その中心は十二支因縁であり、それが難しすぎたから梵天勧請があり、そこで四聖諦による初転法輪へとつながるわけである。

法要は午後からで、近くのお寺でご詠歌をなさっている方々も集まってきて、曲によって一緒にお唱えもした。独詠の曲目は任されていたが、開山忌御詠歌と、城満寺のことを詠んだ太祖常済大師瑩山禅師修行御和讃を選んだ。凍えるほどの寒さも身を引き締め、畳のない本堂にご詠歌がよく響く。

法要が終わるとすぐ、導師を務められた横浜の和尚さんと徳島へ行き、ホテル一泊。田村師も別の法要を務められた大本山総持寺の後堂老師を送って徳島で一泊。翌朝に会うことができたが、これから松山に行き、東京にいかなければならないという。大悲心陀羅尼のノラキンジー=青頸はシヴァみたいだけれど観世音菩薩はヴィシュヌから来たのではないかというような話をした。二人ともインドの哲学や宗教を研究してきたので、どうしてもインドの話になってしまう。

田村師の出発を見送って、私は大阪へ。大阪でもう一泊して山形に帰った。栃木、徳島、松山、東京と飛び回っている彼の忙しさと比べると私は暇すぎる。

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