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大学の後輩である馬場紀寿君の『初期仏教――ブッダの思想をたどる』(岩波新書)読了。最新の研究状況を踏まえつつも、「贈与」や「自律」というような生きた言葉で仏教の本質的部分を描き出している。

まえがきで仏典の読み方として現代的読解、伝統的読解、歴史的読解があるとし、著者は歴史的読解を目指す。アーリア人が定住・都市化する中で生まれた仏教は、既存宗教のバラモン教や、生まれた時代を同じくする唯物論と前提や用語を共有している。天界への再生、諸要素の集合に過ぎないという人間観、輪廻からの解脱といった思想について、どのように意味を変え、新規性を生み出しているか分析することが、歴史的読解である。

『法句経』や『経集』といった韻文の仏典は、最古の仏典としてお釈迦様が実際におっしゃったことに近いという説に筆者は疑問を唱える。これらは阿含経典の小部にはいっており、どの部派にも伝えられている長・中・相応・増支部に対して、後から三蔵に加えられたものと考えられている。そのため「おそらく当時のインド社会に広まっていたものが仏教に取り込まれて、人気を博したものである」とみる。相応部には韻文の諸経典を「外部の諸経典」として批判する記述も引用されている。

後半は四聖諦・五蘊・六処・(五~十二支)縁起といった仏教の基本思想を別々ではなく、総合的に捉えていく試み。基本には、生存は五蘊の集合であって全て苦しみであり、渇望を断ち切ることで輪廻から脱することができるというアイデアがある。「自己は諸要素の集合に過ぎず、諸要素を統一する主体などない」「渇望がある限り、執着が起こり、生存が繰り返し作られる」これが仏教の新基軸であるという。

仏教において「自己の再生産」を停止した「再生なき生」は、自己が輪廻から解放されることではなく、「欲望・生存・無知からの心の解放」であり、「自己を作り上げることの停止」である。涅槃は煩悩の炎が吹き消されることという解説があるが、五蘊=木の枝、執着=燃料、貪瞋痴=火で、涅槃は「燃料の供給を停止して、薪を焼く火が消えること」と説明するので合点がいく。さらに子孫繁栄や生天を象徴するバラモン教の祭火が消えることを暗示しているという。

大乗仏教や日本仏教などその後の展開については本書の対象外ではあるが、「再生なき生」=仏陀成道後の出家生活に焦点を当て、それを仏滅後まで延長したものと考えることができよう。「消滅」と捉えがちな初期仏教の目標を、生き方の根本的な転換とすれば、現代日本仏教まで道の一筋が見えてくるように思われた。

人権擁護委員研修で講師だった方が編著者。

東京大学で、毎回さまざまな障がい者やその関係者を招いて行われたゼミの様子と、参加した東大生の感想が綴られている。

人工呼吸器がないと生きられないALS(筋萎縮性側索硬化症)、文字だけ読み取れない学習障害ディスクレシア、医療ケアの必要な障がい児をもつ親、障がい者の就労支援、障がい者の触法行為、精神障がいの幻覚や妄想、障がい者の性欲という7つのトピックについて、解説の後に東大生の忌憚のない感想が記されている。

勉強しかできない、運動が苦手、コミュニケーションが不得意といった東大生にありがちなコンプレックスに加えて、中にはトランスジェンダーや双極性障害の方もいて、障がい者の現実を目にして改めて自分自身を見つめ直している。優等生的な感想にならないよう気をつけて書かれた文は、心の機微を表現する力もあいまって、何か分からないけれども皆で途方に暮れていたあの頃の自分を思い出させる

彼女にはあって僕にはない何かがある。「自由」だ。厳密に定義すればややこしい話になるだろう。だがここではあえて定義せずに進めたい。それは生まれ持った体も生きる環境も周囲の人間も関係ない「自らの精神の自由」とでも言うべきだろうか。目の前で笑いながら話す、常に誰かに押してもらわなければ移動することさえ出来ない車いすの女性は、人生の地に足を付け、その足の指で地面の土を握りしめるように確かな日々を送っている。教室の中ではただ圧倒されるばかりだった。(御代田太一「自由」)

障害者差別解消法が施行されて3年目。自分の同じところがあり、違うところもあり、一括りにできないさまざまな障がい者について、自分と切り離さずに関心を持ち続けていきたい。

初期経典ですらお釈迦様が語ったものか、弟子が付け加えたものか定かではないのだから、仏教はその時代その時代を生きて衆生の悩み苦しみを取り除いてきた諸々の仏祖の教えと理解して、現代には現代の「ブッダ」がいてもよいという。「吾等が当来は仏祖ならん(『修証義』)」をさらに推し進めて、「いつ仏祖になるの? 今でしょ!」である。

仏教とは、最初に真理を悟ったゴータマ・ブッダと、それを追体験した仏教者たち、さらには真理が具現化された偉大なブッダたちが、そこに生きる人々にふさわしい苦悩からの脱却と救済を説き、一方でその教えを信じ、その道を歩んだ人々の総体である。

初期経典が全てお釈迦様が説いたと考えにくい例として、十二支縁起が、三・四・五・六・八・九・十とさまざまに説かれていることや、身分や女性の差別を当然にようにみなす経典(『小業分別経』など)、生苦が結果になったり原因になったりしていることが挙げられ、悟りを開いたお釈迦様が人を見て法を説いたという「対機説法」で説明するには無理があるという。

一方、仏教が伝播した国々では「菩提」が儒教や老荘思想の影響を受けて「成道」と呼ばれるようになるといった格義仏教や、神仏習合や念仏といった独自の発展が見られ、それぞれの祖師が厚く敬われているのは、仏教がお釈迦様だけの教えだけではなく、その国その時代に合わせて展開していくものであることを示している。
最後に筆者は日本仏教について悲観的な意見を述べ、既存の仏教の立場や価値観を一旦離れて、人々の苦悩と切実な声に向き合える僧侶(現代のブッダたち)を作ることが必要であるという。「けしからん!」とばかり言っていては、衰退は歴史的に見ても免れないと。実際、東日本大震災や自死者の増加を背景に、僧侶の研修会で「傾聴」がクローズアップされており、そこから新たな動きが始まりそうな気配もある。現代人は今どんな風景を見て、何を感じているのか。今に生きる仏教を問う者たちは、僧侶か否かを問わず、すでに現れ始めていると思う。

『百年泥』

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作者は東大印哲で年上の後輩。チェンナイで日本語教師をしている経験から書かれているようで、作中の出来事とファンタジーの曖昧な境界が、著者自身と本作の主人公の曖昧な境界とリンクしていて、読んでいるうちに主人公の体験なのか想像なのか、それとも著者の体験なのか想像なのか分からなくなってくる。

借金返済のためチェンナイで慣れない日本語教師をすることになった主人公が、百年に一度の洪水で橋にあがった泥の山から出てきた品物から、自分自身や生徒のショートストーリーを思い出すという筋書き。ショートストーリーに起承転結があるわけではなく、美談も悲しい話もインドあるあるもごちゃまぜにされ、雑多で断片的で、収拾がつかなくなって結末を迎えるのはインドのお祭りのようだ。

小さい頃に母を亡くし、冷たい義母に育てられた無口な主人公は、自分の現実から距離をおき、現実にはならなかったがそうなる可能性があった世界のほうを見ている。それがこの作品の境界の曖昧さを自然なものとしている。現実か想像なのかなんてどうでもいいじゃないか、そこを分ける意味はないといわんばかりに。

これはありえた人生のひとつにすぎない、無限にある可能性の中で、たまたま投げた石が当たって鼻血を出しているのがこれにすぎない、そう思うとつい扱いがぞんざいになる。私にとってはるかにだいじなのは話されたなかったことばであり、あったかもしれないことばの方だ。

私がインドにいた頃を思い出してみると、良くも悪くも夢のようであったように思われる。あるいは当時の私から見れば、今の私のほうが夢のような可能性だけの存在である。一度、道路を横断中、とばしてきた車にはねられそうになったことがある(インドは車が右側通行なので、左右確認を間違えやすい)。運転手に「パーガルホー(馬鹿野郎)!」ど怒鳴られた。あの時死んでいたら、今はどうなっているだろう。

無限にある可能性の中のひとつに過ぎない現実。洪水の後のアダイヤール川のように渦巻いて、無限にある可能性の中のひとつに過ぎない未来が作られていく。これまでも、これからも。

『新潮』2018年10月号に作者の新作『象牛』が掲載されているのでこちらも読もうと思う。

「太初において、これは有のみであった。唯一の存在で第二のものは存在しなかった」「変容は、言葉による把捉であり、名づけである」(『チャーンドゥーギヤ・ウパニシャッド』)」に始まるインド哲学の存在論を系統立てて概説。「世界は一つのものから始まったのになぜ多様なのか」という問題について、増殖説、創作説、転変説、仮現説、多元説に分類して考察する。

インド哲学の概説書は多数あるが、いろいろな思想を辞書のように並べるものが多く、一本の芯を通したことで、六師外道、サーンキヤ学派の二元論、シャンカラの不二一元論といった難解な思想も非常にクリアになっている。特に筆者が専門としてきた文法学者バルトリハリ(5世紀)の言葉=宇宙原理説もオカルトなものではなく、言葉による世界の分節・構築であるということも理解できる。

あとがきで筆者は、倫理学・認識論・論理学については論じることができなかったと書いてあるが、存在論の思想史抜きにしては語れないものであり、存在論の応用問題であるといってもよいのではないだろうか。事実、世界を動かす原理としての業と神のせめぎあいは詳しく論じられており、それは倫理の問題に直結するし、シャンカラの思想の紹介では認識論に、神の存在論証では論理学に踏み込んでいる。

以前、インド哲学と西洋哲学の対論のシンポジウムがあり、そこで因果論の蓋然性について疑問が提起されたことがあった。そのときは最終的に聖典が根拠だから100%しかないというような答えだったと思うが、本書の最終章でニヤーヤ学派の見解として紹介されているように、業のはたらきと、神の助けの二本立てならば「この世の中で懸命に努力している人が、必ずしも懸命な努力の結果を受け取るわけではない」といった事態も説明ができる。机上の空論ではなく、生き方の問題にも関わってくるのだ。

『沙石集』の「神力も業力に勝たず」という言葉や、『正法眼蔵』の「仏性がないからこそ仏になる」という逆説的な説き方に触れられているところも、インドだけでなく日本にも通底する普遍的な問題であることが分かる。

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