Book: 2006年4月アーカイブ

『仏教vs.倫理』

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「人間」のルールである倫理だけでは回らなくなっている現代、死者という他者を媒介にして超・倫理を模索する試み。

……と書くと何やらオカルティックだが、亡くなった家族や知己のことを思い出して、自分の生き方に何らかの指針を与えるということは、多くの人がしていることだろう。物言わぬ故人は、その沈黙によって我々に行動を迫るのである。

筆者はこの態度に根拠を与えるものとして、『法華経』を提示する。法華経では釈尊が過去から未来にかけて他者として関わり続ける死者として捉えられ、菩薩を媒介にして我々衆生に関係を迫る。

でも話は仏教を信じれば万事解決ということでは決してない。現状肯定によって社会差別や戦争参加を促してきた本覚思想を批判し、大乗仏教の説く慈悲にも満幅の信頼を寄せず、「死者を食い物にする」ような現状のままの葬式仏教も否定する。仏教もまた、問題を洗い出し鍛え直さなければならないのである。

日本において死者と長い間向き合ってきた仏教にとって、葬式仏教自体は決して否定されるものではないという。むしろ死者の声を聞きとり、生者との共同できる体制を作るためにきちんと考え直し、哲学を打ち立てることが大切であると。

理念だけではない、実現可能な方策を、釈尊を含むあらゆる権威を排しながら謙虚に、しかし強かに考究する態度は引き込まれる。また論考の途中で言及される清沢満之、毎田周一、高木顕明、島地黙雷、田辺元など、あまり知られていない近代の仏教思想家・哲学者の思想と活動、広範な経典や禅語の引用、神道や戦争問題とのかかわりも興味を喚起され勉強になった。現代仏教学は多岐な分野にわたる学際的なものだと思うが、ここまで幅広くできる人はそういるまい。

仏教学者にとっても、僧侶にとっても、読んだら何かせずにはいられなくなるような、刺激に満ちた本である。

『ホットドッグ・プレス』の連載だったということで、あまり期待してはいけないのかもしれない。インドの性愛指南書『カーマ・スートラ』を「愛の駆け引き」という観点から見直した本。

誘惑の方法から気のない相手を袖にする方法まで、セックスの周辺にある男女のふるまいを中心に取り上げる。もちろん、セックスそのものについても爪を立てる、歯でかむなどの特徴的な要素に焦点をあてつつ紹介するが、『カーマスートラ』の眼目は単なるハウトゥーセックスではなく、広範な男女関係全てにわたるものであるというのが筆者の主張だ。

帝政ローマ期に著されたオウィディウス『アルス・アマートリア』、中国・前漢期に作られた『素女経』から、極端な快楽主義を唱えた18世紀フランスのシャルル・フーリエ、そして現代日本のカリスマAV男優・加藤鷹まで古今東西の幅広い性愛文献を渉猟し、『カーマスートラ』との異同を説いている。

これだけ面白い切り口がたくさんあるのに、紙数の都合か執筆の方針なのか、表層的な印象がして単なる「ネタ本」に感じられた。「官能の『カーマスートラ』解読」とあるならば、背後にある快楽の哲学的問題や東西の文化比較(例えば、厭世主義・禁欲主義との関係とか)まで掘り下げてほしかったと思う。まあ、そんなところを『ホットドッグ・プレス』の読者は求めていないのかもしれないが。

古代ギリシア以降,切り離されていたレトリックの2つの側面〜修辞と論証〜を認識論から組み立てなおし,古今東西の用例を加えながら分かりやすく説いた書.

柱となるのが直接的類似性・プロトタイプによる提喩(シネクドキ),結合性・クローズアップによる換喩(メトニミー),そしてその両者をまたぐ間接的類似性による隠喩(メタファー)の3つ.それぞれの違いを詳しく論じながら,これが修辞法でも議論法でも大きな役割を果たしていることを示す.

論理的思考がもてはやされる現代だが,多くの人に説得力をもち,共感を呼ぶのは必ずしも論理的に正しいものとは限らない.言葉自体の問題ではなくて,その背後に横たわる人間の認識パターンがものをいうからだ.誰しもネットで情報発信できる今,2000年以上の歴史を経て,一時廃れていたレトリックの重要性が高まっている.

アリストテレスからキケロ,クインティリアヌス,さらにはペレルマン,トゥールミンに至るレトリックの歴史が平易に解説されていて分かりやすい.また豊富な実例・引用は,それを読んでいるだけでも面白い.

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