Book: 2006年7月アーカイブ

『葬式と檀家』

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檀家制度は、江戸時代のキリシタン弾圧から始まった。すなわち島原の乱でキリスト教徒を危険視した幕府が仏教への改宗を徹底させ、キリスト教徒でないことを寺院が保証する寺請制度が敷かれて、元キリスト教徒であるかないかにかかわらず全国民がいずれかのお寺の檀家になった。

本書は、この事情を古文書を丹念に取り上げて明らかにしたものである。

伴天連追放令を機に藩の態度が急変―小倉、元キリスト教徒が改宗したことを証明する寺請証文の誕生―熊本、1637年に起こった島原の乱の始終と翌年に発布された密告奨励制度、身分保障機関として指定された寺院の繁栄―浄土真宗、堕落する寺院を排した神道請制度の試み―岡山、キリスト教徒本人だけでなく親戚一同が投獄された恐怖政治―岡山・熊本、戸籍簿となる「宗門人別改帳」と寺院が偽作した「御条目宗門檀那請合之掟」、寺請の拒否をちらつかせて離檀をさせなかったり不義密通を強要した寺院―熊本・神奈川。

古文書(よくぞこれほど残っているものだ)を徹底的に照合し、歴史上無名に等しい人物を丹念に追いかけながら、その社会背景を考察する道筋は見事。当時の状況がありありと蘇ってくるようで引き込まれる。

「つねづね、大不義坊主多く候ゆえ、旦那もはしばし承り候えども、ぬしぬしが口ゆえ坊主を迷惑させ申す儀もいかがと存じ、だまり居り申し候ゆえ、一入年々不義大きにまかりなり候…」(池田家文書)

公僕となって国家権力を後ろ盾に、民衆から派手な収奪を繰り返していた僧侶に、もはや仏教だとか信仰などというものが残る余地はない。

寺院はそんなところではなくて、信仰の拠り所でもあったのではないかという期待も、筆者は切り捨てる。そういう構造になっているのだから。

「信仰心による喜捨に支えられて、堂于が維持され拡大されたというのは表向きの説明にすぎない。われわれの先祖たちは、食い扶持をへらしてもその資金を寺へ運ばされたのである。そしてその資金を拒否すれば身分的差別・宗教的差別をうけたことはすでに指摘したところである。」

寺院には明治元年の神仏分離令、太平洋戦争後の農地解放令に続き、現在は農村の過疎化と葬祭業者の進出によって第三の危機が訪れていると筆者は言う。江戸時代から寺院の拠り所になってきた檀家制度が崩れつつある今、寺院は本当の意味での寺院(修行と信仰の場所)になれるのかもしれないと思った。

ブッダを生涯通して神格化しようとする仏典から距離を置いて、成道前のブッダ=シャカを人間的な迷いや疑いの中にあった存在として捉えなおし、家族も子どもを捨てて「家出」した本心を探る。

南伝によればシャカは長男ラーフラが誕生したその夜、または御七夜に家を出たとされる。一方北伝ではシャカが家出をした29才のときに妻が妊娠し、成道した6年後に誕生したという。

筆者は北伝を重視し、ヒンドゥー教の四住期の3番目に当たる林住期やサティヤグラハ(禁欲の実践)を実践したマハートマ・ガンディーの生涯を重ね合わせて、シャカの出家は趣味みたいなもので、その後もときどき家に帰ってきて妻と交わっていたと考える。その結果、成道の頃に子どもが生まれたのであると。

タパスを貯めるための苦行(禁欲が基本)をはじめに求めたブッダが、ときどき妻と交わっていたというのは俄かには信じがたい話だし、当然仏典のどこからも支持されない筆者の想像に過ぎないが、シャカをあくまで人間と見る視点は面白い。

しかし、肝心の「ブッダは、なぜ子を捨てたか」について筆者の答えは「自灯明、法灯明」という程度で、すぐさま「ブッダに捨てられたラーフラは、どうやって立ち直ったか」という話に変わっている。

さらに、その後は仏教とはどんな教えか、日本に伝わった仏教はどう変容したかというようにテーマからどんどん脱線し、しまいには現代においてブッダの存在を感じられるのはどこかというように信仰告白のようなものになっている。

これでは、本のタイトルは読者を欺いていると言わざるを得ない。

ブッダは、なぜ子を捨てたかというテーマを学術的に考察するならば、インドの宗教哲学全般の基調をなす解脱論(筆者もインドの無我VS日本の無私で少し触れているが)や解脱の条件(知識か、ヨーガか)、さらに当時のインドの社会構造や規範(マヌ法典に見られるような)をもっと掘り下げねばなるまい。

また、筆者が「〜ではないか」と仮定に仮定を重ねるならば、いっそヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』のように小説仕立てにしてもよいだろう。学術的に根拠があるような言い方をしつつ、想像でものを語るのは全く頂けない。

大学者だからこそ、論がこんなに筋道立っていないのはよくない。少しお年を召されたのかな。

レトリックを意味、形、構成に分け、30の項目に分けて小説などを例に取りながら解説した書。ジュニア新書だけに平易で、ところどころ若者受けしやすいレトリックも交えている。

筆者は英語学が専門であるが、「英語も日本語も、本質的にはそんなに変わらないと思っています」と言い、本書を通してギリシャ以来のレトリックが、日本語にも備わっていることを通して、日本語の独自性よりも普遍性を強調したいようだ。

だからタイトルは「日本語だけのレトリック」ということではなく、「日本語にもあるレトリック」という含みになる。タイトルから日本語の独自性というか前者を期待していた私としてはやや落胆した。

レトリックが目指すものは、白を黒と言い含める技術ではない。「魅力的な表現」「より適切な表現」「文脈をよく考慮して、伝えたい意味が過不足なく表されて」いることである。レトリックを離れてものを表現することはできない。「単なる言葉の飾りではなく、私たちの思いを表す根源的な表現法」なのである。

そういう意味で、レトリックの技法に無関心でいることはできない。話す上でも書く上でも、いくつかは無意識に使っている30項目を確認して、意図的にそして自由自在に使いこなせるようになりたい。

『初恋温泉』

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すれちがい続ける男と女が、温泉という異空間で何を見出すのか。

突如妻が離婚を申し出た夫婦―熱海、仲のよいおしゃべり夫婦―青森、不倫―京都、夫が仕事一辺倒の夫婦―那須塩原、高校生カップル―黒川。温泉には多少なりとも胸がきゅんとするような思い出があり、それぞれのシチュエーションについつい引き込まれてしまう。

「熱い湯に浸かっていると、とても贅沢な気持ちになれる。どんなことがあったとしても、まるでその日一日を祝福されたような気持ちになる。」……同感同感。

お話が肝心なところでぷっつりと終わってしまうのは作者の故意なのだろうか。ほとんどの話に、結末は用意されていない。あとは読者の想像に任せて、余韻を楽しむように仕向けているのかもしれないが、わくわくしながらページをめくると三行で終わっていたりしてフラストレーションがたまった。

あと男と女の口調がいつも一辺倒なのと、男が部屋に入ると決まってタバコを吸うのが陳腐。

人が死ぬこととはどういうことか、翻って生きるとはどういうことか、死んだらどうなるのか……という古来からの難問に、「時間」という概念を軸にして取り組んだ本。

「時間」には時計で刻まれるカレンダー的な時間と、感覚によって長くも短くもなる主観的・相対的な時間がある。後者を掘り下げると、死後にはすでにその人の時間はないことになる。筆者はこのことを指して死を絶対的な有であり、かつ絶対的な無であると結論している。

段階を追って時間を考察する中で触れられる科学史における時間(ビッグバン以前には時間はなかったとする宇宙論)、遊びという点で共通する老人と子どもの時間(老人が子どもをものを教えるというのは人間の本質であること)、生物学からみたエコロジカルな時間(時間は種や個体にとってそれぞれ固有のものがあり、相対的なものであること)、宗教における時間の超越(いかにして人間は永遠を手に入れるか)と、多岐にわたる視点がどれも興味深い。処々に目からウロコ。

あとがきでは、死者と生者は決して断絶したものではなく、共同体をつくるものであると説き、愛しい人を亡くした人のケアにまで及んでいる。

医療福祉関係者、宗教や哲学に興味のある方に非常におすすめ。

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