Book: 2007年2月アーカイブ

レトリックの第一人者による反・論理的思考のすすめ。論理的思考が通用する場面は、ディベートのように両者が対等な立場にある場合に限られ、実際は偏った力関係の中で説得の手段を見出さなければならない。

著者は詭弁というのが勢力のない側が使った場合にそう呼ばれるだけで、普通によく用いられていることを示す(「あなたは平和憲法の改悪に賛成ですか?」)。

その上で、定義からの議論と因果関係からの議論を両立させないほうがよいこと、論点のすり替えはより重要な問題への移行だとする意見、先決問題要求の虚偽は実際意図がみえみえで詭弁にもならないことをレトリックの教科書を参照しながら説明する。

共通するのは、議論は主張者が誰でも同じなのではなく、主張者の信条・態度・信頼度(エートス)を巻き込んだ上で説得力が生まれるということだ。これは従来に論理的思考の本ではあまり触れられず、また触れられたとしても無碍に否定されていたことではないだろうか。

著者の書き方がすでにレトリックの教科書のようになっていて面白い。新書で紙幅が限られているためだとは思うが、トピックが少なくて物足りないので、もう2,3章くらい多くてもよかったと思う。

子どものいる家庭への財政支援、母親が働きながら子どもを育てられる環境の整備、女性就業率の増加による男女共同参画、夫の家事負担……今、政府や社会ではこうした流れを推進しようとしている。

筆者はこれらが"少子化対策としては"効果がない(だからといって不必要だと言っているのではない)ことを統計データから示し、少子化対策として有効な手立てはありえないと断言。少子化社会に見合った体制を提言する。

少子化の最大の問題は、産みたいけれども産めない人が増えたとか、きょうだいの数が減ったということではなく、都市化や期待水準(生活水準の理想)の上昇にあるという。

自分の生活水準を大幅に下げるくらいなら結婚はしなくてもよいという考えが未婚化・晩婚化を招き、また政府の子育て支援策は、結婚や子育てにおける生活水準の理想をなまじ上げてしまい、かえって控えさせることになってしまうという(第6章)。

統計から導き出される根本的な少子化対策は、都市に住む人間がみんな?@田舎に疎開し、?A農業を営みながら?B三世代同居で暮らすことになるのだが、それは無理な話である。?@?A?Bともに世の中の流れが全く逆方向に動いている以上、少子化は止めようがない。

そこで筆者は、少子化のデメリットを検討。経済の衰退、労働力不足、社会保障費の増大を挙げる。これを受け入れた上で、年金負担の世代間分配など社会制度の整備を説く。

筆者が結論として言いたいことは男女共同参画の否定では決してなく、結婚したい人もしたくない人も、子どもを産みたい人もそうでないひとも、公平に扱うことで結婚や出産の選択を自由にするということである。

こうしてみると、柳沢厚労相の「女性は産む機械」発言は、現在結婚し出産した女性ばかりを保護している政府のイデオロギーを見事に言い表したものであろう。要するに「産めよ殖やせよ」政策なのだ。どうして政府は「そうですよ、そういうつもりでやってます」と開き直らないのだろうか。

少子化問題は今一番ホットな話題のひとつ。筆者の言う「選択の自由」は完全には同意しかねるが、世間の常識を問い直し、たくさんの視点を得られたことは収穫だった。

『つっこみ力』

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新聞やテレビの情報や大学の授業で教わることに対して、専門的な知識なしに、面白いかつまらないかという観点で反応する力を「つっこみ力」と呼び、メディアリテラシーやリサーチリテラシーに代わるものとしてその効用を説く。

つっこみ力には3つの軸がある。まずは分かりやすさを心がけること、愛。

『わかりにくい説明をする学者も、これと同じじゃないですか。わかりやすく説明したら、なあんだ、学問ってのは、どうでもいいことを難しく説明してるだけなんじゃん、と世間に知れ渡ってしまうから、ご自分の権威を保つために、難しい言葉でカモフラージュするんです。』
『学問は伝わってナンボです。伝わらずに、自分だけわかったつもりになってたら、無意味な自己満足です。』

次は相手の興味をひきつけること、笑い。そのためには正しさや批判力ではなく、おもしろさという付加価値を高めなければならない。

『どんなに論理的に正しい批判だろうが、正論だろうが、一人でも多くの人に伝わり、納得してもらわないことには、なんの力も持たないのも真理です。それがキビシい現実です。』
『正しいと思ったことを、いかにおもしろく伝えられるかが重要なのに、識者も学者も教育者も、それをあまりにも軽視しています。大衆に媚びる必要はありませんが、ウケを狙いにいくことは、大切です。』

そして権威だろうが偉い人だろうが、遠慮なくつっこむ勇気。論理的に反論できなくてもいい、茶化してでもいいから、何かヘンだということを意思表示しておこう。

『周囲の人を愉しませて巻き込み、相手をいじるパフォーマンスを見せることで、「そういわれりゃあ、なんかヘンだ」という感覚を、多くの人の頭に植えつけることができればいいんです。』

この後、経済学者のインセンティブ理論や日本人の肩書き先行的な職業観、失業率と自殺率の相関などに実際につっこんでみせる。ただ茶化しているだけかというと、10年スパンで長期的な視点を持った再チャレンジ社会や、家を売れば借金の中区なる住宅ローンの仕組みなど、はっとさせられる意見も。創造的なアイデアというのは、笑いの中から生まれるのかもしれない。

ところどころクスリと笑える文句があって、読み物としても楽しめた。

「我利我利亡者ぼったくり坊主」がテキトウにつけた戒名よりは、自分自身や家族でふさわしい漢字を使って自作しませんか?という本。資料として戒名の歴史と戦国武将や殿様たちの戒名つき。

殿様の戒名は感心するほどたくさん調べられており、確かに戒名カタログにはなっているが、広く浅くの雑学本といったところ。後半は対談形式になっているが、戒名談義というよりも戦国歴史オタク談義といった体。むしろ歴史に興味のある人向けかもしれない。信長の戒名がどうして2つあるのかなどは面白い。

戒名や位階を金で買うといういわゆる戒名料問題が現代日本仏教の大きな問題であることは否めないが、あえて言わせていただくと僧侶だけの責任ではなく、宗教的な領域に見栄などの世俗をもちこむ一般人の招いたことでもある。

『以心伝心で、お礼の金が動いたのは確かでしょうが、今みたいに、お寺の坊主のほうから、「居士はいくら、大居士ならいくら、院殿がくっついたらこのくらい」なんて、さも定価表でもあるように要求する露骨なリンク制度が始まったのは、そんなに古いことじゃないんじゃないでしょうか。』という記述があるが、たとえ以心伝心であっても見返りのお金ならば布施ではない。

戒名料については誤解を生むものだとして仏教界では廃止ということになっている(名目を変えたりして要求しているところもまだあるが)。また地方では寺院と檀家との日常的な交流の延長線上でその人に相応しい戒名をつける努力がなされている。そういった点をうやむやにして「我利我利亡者の坊主」「ぼったくり仏教」を連呼されると、じゃあお前さんたちはどれほど正しい信仰に生きる仏教徒なのかと問いかけたくなってしまった。

葬式仏教によってなおざりになってしまった現代の諸問題に、気鋭の仏教学者や僧侶が立ち向かった論考集。

掲載されている論考は序文を含め16篇。生命・環境といった倫理的な問題を第1部に、仏教と社会との関わりの歴史を第2部に、実践的な立場からの問い直しを第3部にする構成で、興味のあるところから読み進めてよいようになっている。

全体に通底する問題意識は、編者代表の末木文美士氏が主張してきた大衆迎合主義からの脱却である。

仏教は平和主義であるとか、仏教は生命を大事にするとか、口先だけのきれい事をやめようではないか。自分の感覚として何が大事なのか、自分自身を見つめ、そして考え直すところから出発するのでなければならない。経典に書いてあるからとか、宗祖がこういったから、ということは、もちろん宗派内の「公」としては成り立つし、それは否定しない。しかし、それは宗派を離れたら何の説得力も持たないことを認識しなければならない。(pp.27f)

日本の社会は、とりわけ戦後、宗教に対して冷淡であり、敵対的でさえあった。(中略)そのような逆風が続く中で、仏教界の側も萎縮し、自らの教団の中だけに閉じこもり、外の世界との共通の議論の場を絶って自己防衛に徹する姿勢を続けてきた。(pp.296f)

しかし実際に現代の諸問題と仏教をリンクさせるのは容易なことではない。前川健一氏は、脳死と臓器移植について仏教の教義に照らし合わせた結果、全く正反対の結論になっていることを指摘し、「特定の倫理的決定の正当化であるよりも、健全な懐疑主義(p.77)」が必要であることを述べている。また、安易なリンクは、仏教が抱える性差別(熊本英人『仏教とジェンダーフリー・バッシング』)や戦争肯定(石井公成『不殺生と殺生礼讃』)の歴史を再び招くことにもなりかねない。

そこで上田紀行氏が、縁起や慈悲を説くだけでなく縁起や慈悲に生きることが必要だと述べ(p.47)、菅原伸郎氏が教師が「仏教を教えるのではなく、仏教で教える」(p.149)と述べているように、仏教をまず学び、自分のものさしできちんと取捨選択して、それを実践する中にこそこれからの仏教の存在価値があるようだ。

しかし具体的に何を実践するかというと、「寺という場所を生かしながら、地域のNPOなど市民と連携して、寺の社会的役割を打ち出していく(秋田光彦談・http://www.asahi.com/kansai/kokoro/taidan/OSK200702130025.html)」とはいうものの、なかなか難しいのが現状である。

上田紀行氏の著書『がんばれ仏教!お寺ルネサンスの時代』でも、藤井正雄氏の著書『仏教再生の道すじ』においても、芥川賞作家の玄侑宗久氏のような稀なケースを除いて、お寺に閉じこもってはいないにしても、あまりお寺から離れていない印象を受ける。

本書はその意味で、現代における仏教実践の端緒なのだろう。道を誤らないポイントを押さえつつ、道に飛び込んだとき、どんな未来が開けるかは、全国に25万人いるという僧侶と、仏教を愛する全ての人々ひとりひとりの肩にかかっている。

世の中に蔓延する当たり前が、疑ってみると結構怪しいことがたくさんある。これをセールス(ポイント制は本当にお得?)、数字(予備校・塾の合格率は本当?)、言葉(「××協会」って公的機関?)、「科学的」(梅干が血液をサラサラにする?)、安全(ネット情報の信憑性は?)、メディア(選挙結果予測の報道は正しい?)、通説(学校英語は悪者?)、組織(会議で一致した意見は正しい?)、自分(自分の意見はコンプレックスの裏返しではないか?)というように9つに分類し実例を並べ、注意を促す。

筆者がアンケートの項で述べている「量が少なく、分かりやすく、簡単に読める」本である。その分、掘り下げてはいない。

疑うというのは、真偽を不確定の状態にすることだ。その後、吟味して真か偽かをきちんと確かめなければならない。その吟味に必要なデータやエネルギーがなければ、単なる懐疑主義者でしかない。本書でも、ちょっと考えればウソと分かるような項目(これが殆どなのだが)を除くと、ただ疑っているだけでその先に進んでいないのがやや不満に感じた。

「宗教に入っても大丈夫?」の項目で、疑うポイントとして金銭の要求、無償労働の要求、肩書きの提供が挙げられ、このうちどれか1つでも該当すればカルト教団かもしれないというが、その要求の仕方を問わなければ、少なからずこの3つはカルト以外の宗教団体にも該当する。この3つがない宗教は、非社会的で極私的な「自分教」以外ありえないのではないか。

ネタ帳としてはよいが、項目が多すぎて、ひとつひとつの項目には考察が不十分という印象をもった。

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