Book: 2007年3月アーカイブ

悟りを目指す原始仏教から、救済を目指す大乗仏教、そして死ねばたちまち成仏という日本仏教へと変容してきた仏教の歴史を分かりやすく説き、御霊信仰・先祖崇拝という日本人古来の死生観をふまえて、現代における仏教やお寺のあり方を問う本。

市井の仏教研究家による本だし、キャッチーなタイトルも軽いのであまり期待せず読み始めたが、なかなかどうして、学術的にもしっかり押さえられているし、著者の考察も筋道が通っている。それでいてこの手の話に陥りがちな仏教原理主義からも距離を置くバランス感覚もある。経験談も織り交ぜられていて楽しく、すっかり敬服した。

長寿国家の日本では、かつてのはかない死生観が薄れつつある。「人間八十歳を超えると、まず三分の二はボケる。ボケるから死ぬことなど考えない。ボケない方も延命治療で何がなんだか分からないうちに一生が終わるという時代」である。

そんな中、葬儀を中心にして発展してきた伝統教団の足場が急速にもろくなっている。しかし仏教信仰ではなく民族習慣の強みから、今後も寺院による葬儀は続いていくだろう。

そのカギとなる戒名のあり方を再考し、葬式仏教に徹して、「無量の光によって故人をつつみ、遺族の悲しみをやわらげ、会葬した人々に仏に頼ることのたしかさを信じさせ」なければならない。

戒名料などの名目でお寺がお金を要求することに対して、お寺がよく批判されるが、「社会的な立場と財力を表現できる」ものと考えた庶民にも責任はある。

しかしそれももう昔の話、今は「戒名が故人の生前の業績や社会的な地位、あるいは人柄といったものが反映されず、単にお布施の額に寄って決まる」ようになってしまい、「戒名の尊厳と価値」が薄れて「戒名が金銭と名誉欲の上に胡坐をかいている」という。

最後に筆者は、戒名をつけるならば戒の意味を真に問うこと、そうでなければ戒名のない(俗名のままの)仏式葬も認めることを提案する。

私が読んだ限り「困る」というより快哉を叫びたくなったが、多くのお寺で戒名料は大きな財源になっているため、僧侶の側からこうした問題提起がしにくいのは事実である。

しかし早いところそういう状態から脱却して、信仰を築く努力をしていかないと、お寺の運営どころの話ではなくなっていくのだと思う。

著者は福島にいらっしゃるようなので、一度直接お話を聞いてみたい。

『学者のウソ』

コメント(0)

危険と叫ばれた住基ネット、実は意義があったというゆとり教育、環境によいという脱ダム、少子化対策になるという男女共同参画……学識者が先導し、それにマスコミが乗って喧伝された数多くの社会問題は、その是非が検証されないままになっている。なぜ学者は平気でウソをつくのか、社会に悪影響を及ぼした責任を取らないのかを考察する書。

この考察のため、まず科学=過去の事例を分析し、未来の予測を立てる学問の方法論から説き起こし、その不完全さを悪用して利益誘導する学歴エリート=学者、マスコミ、官僚、経営者を糾弾する。そしてウソを見破るために目的のすり替えを正し、一般が納得できる価値を守るため、言論責任保証・先見力検定という具体的な試みを示す。

誰も反対できない理想を掲げ、その理想に自分の利益を強引に結びつけて正当化するのが学歴エリートの常套手段。目的と手段は別々のはずなのに、手段(学者の利)を否定すると目的(理想)まで否定するように仕向けるのは詭弁であるという。

筆者もまた学歴エリートであるが、自戒の念をこめてまとめたと書いているところに好感がもてた。ただ性悪説を意識せざるを得ない言論責任保証がどこまで普及するかは疑問が残る。

専業主婦が優遇されているという主張があるが、実際共働きの夫婦は二重に基礎控除を受けており、さらに子どもの保育サービスも受けられる。現行の税・社会保障制度で一番得をするのは、夫婦とも中・高収入を得ているエリートカップルの世帯だというのは同感。

また筆者は、大学・大学院で自分が合格することで他の人がそこで学ぶチャンスを奪ったのだから、その分きっちり勉強し、その成果を社会に還元する責務を負うと述べ、ところが今の学歴エリートは競争を勝ち抜いてきたことで既得権益が得られたと思っているのが倫理の欠如につながると指摘する。全くその通りだと思う。

ちなみに社会科学以外の文系学問、つまり人文学は科学ではなく、学説の正当性の評価が難しいという弱点をもつという理由から考察の対象から外されている。哲学には真実もウソもないのかな?

フェミニズムや左翼・右翼などナイーブなところまで切り込み、具体例を交えながら主張していて分かりやすく過激なほどに刺激的な論考であった。

『仏教が好き!』

コメント(0)

ユングから仏教に至った臨床心理学者の河合氏と、チベット仏教から神話研究などを進めている宗教学者の中沢氏の対談集。2人とも仏教学者というわけではないけれども、仏教の捉え方は鋭くて深い。

収められている対談は6本。

「仏教への帰還」ではキリスト教・イスラム教・仏教の異同を検証。一神教の作る神と人/人と自然との「非対称性」に対して、仏教が備えている対称性を見る。秩序を崩す「シャーマニズム」と、秩序をつくる「野生の思考」の共存が仏教の基本であるという。この2つの相反する動きを両立させる仏教の知恵が現代において必要になっている。

「ブッダと長生き」では、早逝したキリストと長生きしたブッダ、ムハンマドを対比し、その思想の老獪さを考える。とりわけ迫害も受けず、普通の人間として死んでいったブッダの中道は、真理が世界と同居している点で魅力的である。

「仏教と性の悩み」では、仏教の戒律を現実の女性から離れることによって、世界の女性原理=空に近づくためのマニュアルと捉える。ブッダがいかにして弟子たちのセックスを禁止したかが分かる付録の『律蔵』抄訳が最高。屍姦・獣姦なんでもあり。

「仏教と「違うんです!」」では最後まで肯定をいわずただ否定し続ける仏教を、心のケアにおける否定の技法から光を当てる。それは世界の外にある何か(空とか法身)に到達する=悟るための手段である。安易な癒しではなく深い否定を。

「幸福の黄色い袈裟」ではキリスト教的な幸福=ものに恵まれた状態と仏教的な安心=ものが少ない・ちょうどよい状態で対比。本当の楽、人生の損得を考えることを勧める。自殺は悪ではなく損。

「大日如来の吐息―科学について」では仏教と科学について考察。否定的な見方をされる「科学」が近代科学に留まっていて、ハイゼンベルクのマトリックス理論など現代科学は仏教の曼荼羅と同じことを示していると指摘する。

いずれもほかのどこでも読めないような刺激に満ちた仏教論で、仏教の捉え方が少なからず変わったように感じる。次々と言及される文系理系の学者の思想が有機的につなげられているのも面白い。現代において仏教を思想面からどのように生かせるか、示唆するところ大であった。

大学を終えて就職先を考えているときにふとお坊さんになることを思い立った若い僧侶の日記。初出はブログなので文体が軽く、さらっと読める。

これといって面白いエピソードもないし、哲学科卒らしい論考もない「野郎の日記」だけれども、仏教やお寺に対する視点はきわめて斬新である。

「仏教コンテンツを売りこむこと」が仏教界に入った大きな理由のひとつだという筆者は、今のお寺が本来魅力的な仏教コンテンツに埃をかぶらせているという。コンテンツを時代感覚に適したものに料理し、インターネットなどの新しいチャンネルで発信し、潜在的なニーズを掘り起こし、そういう発信をする僧侶がお寺の大小に関係なく報われること。

したがって布教も、ただ仏様のありがたさを説くのではなく自分の言葉で伝えたい。僧侶同士で馴れ合い慕い合うよりも、庶民から慕われるように。檀家さんに「このお寺なら寄付して支えるだけの意味がある」と思ってもらえるようにいろいろチャレンジしてみよう。

実際に筆者は、東京・神谷町のお寺で寺院内カフェを開いたり、築地の本願寺でライブイベント「本願寺LIVE2005〜他力本願でいこう!〜」を成功させたりと、伝統教団がとってきたこれまでのスタンスから飛び出して活動している。

檀家制度や葬祭の意義が急激に変化している東京で、寺院が生き残るための新しい模索として捉えることもできるだろうが、寺院の社会責任など、全国的な文脈で捉えられるものも少なくない。最近、教団内の人の目を気にして小さくなっている僧侶としては読んで勇気付けられた。

それにしても、これだけ若い僧侶をどんどん法話会に招いたり、寺院内カフェやライブにゴーサインを出す浄土真宗も大したものだと思う。ほかの宗派もこれくらい積極的だったら、日本仏教はもう少し明るくなるのではないだろうか。

東大印哲の博士課程を終えて、福井の永平寺と宝慶寺で修行した著者が思い立って30そこそこでお遍路さんに出る。托鉢で道中費をまかない、野宿をしながら2ヶ月弱、1100キロを歩き通した記録。

著者は柔道の有段者でもあるので体力的には問題はないはずだが、自動車専用道路に入ってしまって警察に通報されたり、アベックがたむろする公園で眠れぬ夜を送ったり、道に迷って雨の崖を登ったりと、一寸先は闇の冒険譚になっており、淡々と書かれているのに読んでいてハラハラ、1日の日記が終わるたびにホッとするほど。

道中で考えたことが随所に挿入されているが、それがいちいち深い。仏教とは何か、禅とは何か、修行とは何か、真理とは何か……。特に僧侶が衆生をどうやって救えるのかという問題は、道中通して葛藤していたことであり、何度読んでも唸らせられる。

その他、禅宗で重んじられる坐禅と法要の法式はどう結び付けられるのかということや、現世利益の意義、菜食主義や不飲酒の是非など、僧侶として避けて通れない問題にも、真正面から取り上げていて傾聴に値するものばかり。

何よりも禅語がぽんぽんと出てきて、それを自分のこととして咀嚼していくのがすごい。訳が分からないまま引用して何となくありがたかっているなどということはなく、分かりやすい言葉で説いているのはただならぬ才能である。咀嚼するだけでなく、「葛藤記」という言葉が表す通り、大学の研究室や寺院の僧堂で培われた理念に自分の姿を重ね合わせようと努力し、それができずに慙愧するという繰り返しは、無骨なほどに真面目で頭が下がる。

貴重な歩き遍路のガイドブックとして(?)だけでなく、冒険小説としても、現代僧侶論としても面白く、示唆に富んだ本である。 私も「区切り打ち」でもいいから行ってみたくなった。

予定がいっぱいで生活がカチンカチンになってしまう「時間病」、そして頭で理解できないことは拒絶する「脳化」=都市化の中で、自然な出来事であるはずの死はどんどん疎外され続けてきた。我々人間こそが無意識の中で日々変化し続けていることを再認識し、仕方ないものは仕方ないと受け止め、目を向けるべきものはしっかり言語化していこう、という本。

内容的には『死の壁』とあまり変わらないどころか、8つの講演を1冊にまとめた本書の中にさえ、同じ話(ブータンの虫取りなど)が何度も繰り返されていてうんざりしたり、宗教や経済など著者の専門外のことについての考察(仏教は自然宗教であるなど※)などについては稚拙とさえ思われる箇所もあったりしたけれども、生と死について考えるときには貴重な視点を提供してくれる。

死体は「もの」、生きている人は「人」だが、二人称の死体(家族など)については「もの」とはいかないところから、「もの」や「人」というのはその共同体(「世間」)で決められた約束事であり、つまるところ恣意的な名前の付け方であるというところや、ものを知ることは自分が変わっていくことであるはずだという卓見は、なるほどと思うだけでなく、自分の問題として深く考えさせる。

著者の本が刊行過多なのは著者のせいだけではないと思うが、あまり大風呂敷を広げず、解剖学から言えることをもっと発信してほしいと思う。

※仏教は自然宗教
インド仏教は都市を基盤にしており、また日本仏教も都市生活者である貴族・皇族のものとして広がった以上、今のお寺が「山」にある程度で単純に自然宗教などということはできないはずである。

このアーカイブについて

このページには、2007年3月以降に書かれたブログ記事のうちBookカテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブはBook: 2007年2月です。

次のアーカイブはBook: 2007年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

アーカイブ

リンク用バナー