Book: 2007年6月アーカイブ

とかくかみ合わない対話を、ディベートの方法論などを応用して解消するヒント集。3部構成で、基礎編では「論証」のイロハを学び、応用編では10のルールを提示しながらこじれた対話を整理、実践編では3つのダメな対話の修復を試みる。

解決の要点は、まず論点を明確にすること、その論点について経験的事実に基づいた根拠を述べること、その根拠から結論を導く論拠に注意すること(これが結構難しい)である。「10のルール」も、この要点を敷衍したものだが、ここでグライス流の寛容と協調の原理を導入するところが新しい。

寛容の原理とは、揚げ足取りをせずに相手の言いたいことを聞き手も力を合わせて再構成しようとすることである。「あなたの言いたいことは〜ということですか?」「あなたの意見の背景には〜という考えがあるのではないでしょうか?」など。

協調の原理とは、逆に話し手が必要な情報を提供し、証拠のないこと・関係のないことは言わず、あいまいさを避け、相手の発言に応答することをいう。いわゆる会話の格率である。

この2つは、無条件に相手に同調するということでは決してなく、あくまで対話のスタートラインに立つためのものである。その上で対立や問題の解決をしていかなくてはならない。

「10のルール」のうち、この2つの原理に関係するのは「2.相手の主張に対して、直接的、局所的に反応しないように心がける。」と「3.相手の主張には何らかの背景があることを想定し、なぜ、そう主張するかについての質問をしてみる。」「8.より信頼できる根拠を互いに提示するように心がける。」この3つだけでも意識すればこじれた対話も改善するだろう。敵対的になってはダメだ。

しかし実践編の3番目、夫婦喧嘩を修復するのはどうも成功した感じがしない。

[再構成案](p.197)
妻「自分で使ったお皿は台所の流しまでは自分でもって行ってね」と私が頼んだら、「わかった。そうするよ」と応えて終了する話じゃない。なぜ、素直な言い方ができないの。
夫 最初に僕が「はい、そうするよ」と従順に応えなかったから、君は僕に腹を立てたわけだ。
妻 だって、その言い方って感じがわるいでしょ。
夫 まあ、そうだね。
妻 でも、あのとき、あなたは、気持ちに余裕がなかったのね。だから、そんな当たり前の提案に「そうするよ」と答えられなかったのね。
夫 余裕を持って聴けば受け入れられる提案だったね。

この夫婦こわい〜(笑)。犬も食わぬ夫婦喧嘩、何をしても無駄だということを著者は示したかったのではないだろうか。

それはさておき、やや論文調で読みにくいけれども、前著『議論のレッスン』を新たな視点で発展させていて興味深く読めた。

人生の節目が希薄になり、死生観が貧困化している今、源信の『往生要集』をひもといて古来日本人がもってきたあの世の感覚とこの世の生き方をもう一度みつめなおそうという本。

比叡山僧だった源信の生涯や藤原全盛だった当時の社会情勢から始まり、『往生要集』の10章を1つずつ平易な言葉で解説。さらにこの後に広まった地蔵信仰と賽の河原の話、さらに宮沢賢治と「千の風になって」まで、古今の死生観を見事に描写している。

かつては地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界が克明に語られ、日本人の倫理観に影響を与えていたが、それもひとつの物語と化し、まともに信じている人は少なくなったような気がする。しかし地獄の残酷な記述を改めて読み直してみるとものすごいインパクト。こういう恫喝がたとえ方便としてであってもよいのかどうか分からないが、謙虚になろうと思わせるのに十分である。

しかし著者はとかく強調されがちな「厭離穢土」の章が『往生要集』の眼目ではないとする。何かの幸運でこの人の世に生まれたわずかな間に浄土=解脱を志さなくてはならない。

「当に知るべし、苦海を離れて浄土に往生すべきはただ今生にあることを。」

浄土思想というと現世否定かと思っていたが、今を自覚的に生きることが大切だという教えに感心した。

あとがきのダライラマの講演会の質疑応答で、「わたしに光を放ってください。会場のみなさんも法王のオーラを浴びましょう」といった人に、ダライラマが「そんな光は放てません。わたしは普通の人間です」と答えたという。迷信やカルトを離れつつ、来世を信じるというのは強靭な精神と厚い信仰の両方が要求されるのだ。そのための、よき道しるべを頂いたと思う。

日本はお先真っ暗だという論調があるが、そんなことはない。アニメ・ファッション・音楽の日本文化、元気な高齢者、再生する地方、途上国への援助実績など、世界に誇るべきことはたくさんある。自信をもて日本人!という本。

政治家って、誰にも反対できないような理念ばかり並べて具体策となると方々に配慮してお茶を濁すという印象があるが、空回りの応援演説とは違い、どのトピックも具体的で説得力があった。

総裁選のとき、秋葉原で「自称『秋葉原オタク』の皆さん!」と呼びかけた麻生氏である。マンガに詳しい。牧美也子の『源氏物語絵巻』、横山光輝の『三国志』、『ゴルゴ13』、『沈黙の艦隊』、『加治隆介の議』、『キャプテン翼』……ぽんぽんと出てくるタイトルに「うわぁ、こんなのまで読んでるの、大臣」と驚く。日本がロボット大国になった理由として『鉄腕アトム』と『ドラえもん』があったのではないかという意見は面白い。

弱者・貧者救済は当然政府の役目ということを何度も協調しつつ、
・高齢者が労働力になり、消費者になることで少子高齢化社会をポジティブに
・ニートは多様な生き方のひとつとして肯定
・教育の悪平等を解消するため中学校を義務教育でなくしてカリキュラムを多様にする
・靖国問題は国家の責任と遺族の感情を考えると一宗教法人ではなく国営化が望ましい
……賛否はともかくとして、発想豊かで大胆な発言で日本の見方がずいぶん変わった。

この人、総理大臣になりそうだな。

料理好きなお母さんの子どもは成績がよい、お父さんの読書量と子どもの成績は比例する、成績「下」の子ほど親も子も肥満ぎみ、夫婦間の満足度と子どもの成績は比例する……まあ、一般的にそうだろうなということを統計で示した本。

ただし100%そうであるということではもちろんない。成績が上の子どもで母親が料理好きというのは35.6%、成績が下だと18.9%まで下がるが、残りの6〜8割は関係ないわけで、それをあたかも料理好きと成績に因果関係があるかのように書くのは誤解を招くだろう。

料理好きでない、読書量が少ないと子どもが下流化するということではなくて、年収が少ないことが原因となって生活ぶりがそうならざるを得ず、また子どもも高等教育を受ける機会を逸するというのが本当のところのようだ。

調査の母集団が、母親が専業主婦かパートであり、正社員がほとんどいないというのも統計的に偏りを生んでいると考えられる。そのため、父親が高収入、母親が専業主婦が上流であるかのような印象を受けてしまう。

統計としては、個室があるかどうかと成績は無関係という項が印象に残った。最近、『頭のよい子が育つ家』などで成績のよい子どもは個室で勉強しないと言われ、そういう間取りの家ももてはやされているが必ずしもそうではないわけだ(まあ、そうだろうな)。

「女性は結婚しても子どもができても働き続けましょう」という風潮と手作りの食事による「食育」は相容れないこと、格差の背景には年中無休24時間営業という業種が増えたことという指摘は納得。

こういう親だと子どもの成績がいい悪いということよりも、子どもの頃の成績がどうだと今の生活ぶりがどうなのかとか、低収入でも下流化しないパターンを考察するというほうが意味があるのではないだろうか。

築地本願寺にあるX JAPANのhideへの思いを書き綴ったノート、平原綾香の「Jupiter」、ビートルズの「Within you, without you」、そして「千の風になって」、全国各地で開かれている「スピリチュアルコンベンション」、アルコール依存を断とうとする集まり「アルコホリクス・アノニマス」、自己啓発本「キッパリ!」、農業運動「ディープエコロジー」、映画「地球交響曲」、NPO法人「ビーグッドカフェ」……

スピリチュアルというと謎のパワーだとか前世占いとか胡散臭いものを連想していたけれども、筆者は「自分を超えた何かとつながる感覚」と広く捉える。昔からなかったわけではないが、今の世の中はスピリチュアル文化がずいぶんいろいろなところに広まっているのだと感じた。

従来は宗教がこのような感覚を提供していた。しかし多くの人が共通して信じられる「物語」は崩れつつあり、宗教者や儀礼を通さずに個人個人が直接「自分を超えた何か」につながろうとしている。

このような動きに対し、伝統教団は傍観しておいてよいのか。このままいくとお寺離れ、教会離れは深刻なものになりそうだ。傍観しないとすれば、どのような方策が考えられるのか。

人権・環境・平和をとっても、道徳ではなくスピリチュアル面からのアプローチもありうる。私自身はこういう感覚はあまり持っていないけれども、この感覚を理解し、寄り添って行動することも必要だと思った。

新聞記者である筆者はスピリチュアル文化を肯定的にも否定的にも書かず、事実を客観的に報告しているのが非常によかった。

冠婚葬祭は、しきたりや作法にがんじがらめにされた独特の文化である。特に結婚と葬送について明治から100年の歴史をひもとき、少婚多死社会における最前線に切り込む。

100年の歴史が示すことは、「人の習慣は永遠不滅のようで、変わるときには急激に変わる」ということだ。神前結婚式とチェペルウェディングにしろ、祭壇と霊柩車にしろ、社会の変化に合わせて業者がうまいことしつらえ、あっという間に普及したものである。

結婚も葬送も儀式である以上、形式的であることを免れない。皇室や有名人が新しい形式を生み出し、新しもの好きの世間が追随する。「世間並み」という意識でその形式を踏襲して普及し、次第に意味を見出せなくなって形骸化する。それから新しい形式に移行。歴史はこの繰り返しなのであった。

現代では何が起きているかというと、ゲストハウス婚とレストラン婚、家族葬と継承者のいらないお墓だという。この背景には家観念の完全な崩壊があり、都市部から全国に広まっていくだろう。

葬送の項は類書の要約に過ぎず、普通にマニュアル風になってしまっているが、結婚の項は独特のシニシズムが存分に発揮されていて実に面白い。ウェルカムベア、ケーキ入場、ケーキシェアリング……ほんとに恥ずかしいことを堂々とやるものなのだ。

「結婚式の招待状が舞い込んだら、まず見るべきは会場である。舌を噛みそうなカタカナ名前の開場だったら要注意。スカした雰囲気の招待状だったらますます要注意。敵は(敵ではないが)オリジナルの演出を目論んでいる可能性がある。」

ほかに昔のマニュアル本に記載されていた新婚初夜の過ごし方など爆笑。もう結婚した人もまだしていない人も、したい人もするつもりのない人も一読を。

葬送についても少しシニカルな視点で突っ込んでほしかったものだが、激しく実際的なので(墓地の移転は行政書士に手続きを頼むとか)、自分や家族の死後について心配な人には有用だろう。

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