Book: 2008年3月アーカイブ

2005年秋から8ヶ月ほどにわたって行われた産経新聞の連載「巨象が動いた」をまとめたもの。IT景気で急速に注目度を集めるインドの影の部分に光を当てる。

いまだ根強く残るカースト制度、売春の横行や花嫁持参金の高額化、ヒンドゥーとイスラムの対立、カシミール問題、大津波被災、HIVの急速な広がり、農村の貧困と自殺。IT景気で中間層が大幅に拡大し先進国並みの生活水準が目立つようになったインドでも、まだこれだけの心配事がある。

ヒンドゥー系の学校でのインタビュー(p.47)がばればれの嘘をつくインド人らしくて面白い。校長室にガンジー(イスラム教徒への融和政策を唱えたガンジーを、ヒンドゥー至上主義者は批判している)の肖像画が掛かっていないことを指摘されると「いえいえ、違う部屋に……」、翌日行くとちゃんと掛けられていたという。

一方RSS(民族義勇団)ではカーストに反対し、姓(姓からカーストが想像できる場合が多い)を呼ばない試みを行っているという。メンバー間のつながりを強くするためであるが、ヒンドゥー至上主義も伝統を取捨しているところが面白い。

カースト差別は大津波被害でも問題になった。カーストが低い被災者たちの支援が後回しにされたり、上位カーストが同じ避難所で侵食を共にするのを拒絶したりした。「大津波もカーストの壁だけは壊すことができなかった」という(p.70)。

カースト判断の大きな目印になるのが肌の色である。アーユルヴェーダ系の化粧品で一財産を築いたシャナーズ・フセインは言う。「肌の黒い男性が白い肌の奥さんをもらいたがるのは、生まれてくるに期待するからよ。少しでも肌の白い子どもができれば、その家にとって慶事だわ」(p.82)。

サブタイトルの割にネガティブな記事ばかりではない。JICAが技術指導して大きく品質を向上させた養蚕業、2014年までにインド全国で3500教室を意気込む公文学習塾、コルカタとムンバイのジムが張り合っている女性ボクシング、ヒンドゥー教徒がガンジス川が汚れているということを認めたがらない中で効果を上げにくいODAの水質改善事業。著者も書いている通りインドをいろいろな角度から切った断面のごく一部でしかないが、知らなかったインドのさまざまな姿に触れられて楽しかった。

朝日新聞の記者として「こころ」欄を担当していた著者が、仏教に惹かれ早期退社して得度、曹洞宗の僧侶となった。参禅会から始まって僧侶として生きるまでの一大顛末記。
東京国際仏教塾に入り短期修行、家の近くのお寺や金沢大乗寺での参禅、ついに発心して出家得度する。そして金沢大乗寺に1年間の安居。送行してからは得度したお寺の徒弟として法要や葬儀に参加しつつ、東京国際仏教塾の事務局長に就任した。
伊豆の小さいお寺に住まうも金沢大乗寺の堂長であった板橋禅師から本山に呼ばれる。僧侶になるのは僧侶の子どもがほとんどという現代日本で、本当の在家から僧侶になるには志と縁の両方がなければならないことがよく分かる。
筆者を支えたのは仏教の教え。特に「一切衆生悉有仏性」である。無我と自灯明の相克も、存在するものが互いに許し合っているということも、いただきますやごちそうさまの心も、この教えが源になる。理性をもって仏教に正面から向かい合い、悩み、自分なりの答えを出していく姿に心打たれる。

今生きている生が意に沿わないからといって目を閉じて、しょせん迷いの世界のことだと敬遠して別の生や涅槃の世界を思い描いたりしてもなんにもならない。「仏あれば」という条件が、「仏あり」という確定に変わるまで修行を続ける以外になすべきことはない、と。(p.178)

本書は仏教塾で行ったインド仏跡巡拝の旅、退社から参禅まで、得度から送行まで、現在と説法、その後の所在と5つの内容からなる。団塊世代で今の生活に何かもやもやしたものを持っていたら、この本が光明になるかもしれない。

著者は実は小学時代の恩師のお兄様。現在はうちのお寺の比較的近くに庵住まいしている。著者献本に感謝。

現代の仏教について自分の言葉で刺激的な発信を続ける2人の禅僧がついに出会うべくして出会った。生と死、言葉と世界、自己と他者、修行と菩提……こうした一件対立しそうなものの境界線上にあるものをじっくり語り合う。

僧侶の法話というと、悟ったようなふうの話が多いものだが、この2人は安易な答えを出さずにひたすら問い続ける。それは、答えがひとつに決まらないことが「無常」ということだからであり、絶えず変わっていく自分をしっかりと見つめ続けることだからである。死とは何か、言葉で言い表されないものとは何か、僧侶であるとはどういうことか、人間は慈悲ができるのか、宗教が今できることは何か、正法とは何か?

僕はですね、徹底的に相対化を止めない、裏切り続ける―つまり、「無常である」という言説を教えとして実現するには、一定の立場を常に自分で破壊していくことがぜったいに必要なんだろうと思うのです。(p.95)

偉い僧侶が「仏の慈悲、菩薩の慈悲はありがたい」などと言いますが、そんなことはどうでもいい。「そういうあんんたの慈悲は何なのか」を聞きたいわけです。(p.167)

方便や願生は一般に「ほかにも道があるけれどもそれを選ぶもの」と捉えられているが、これを「それ以外に選択肢がないことを引き受ける」という南さんの考えは心に残った。これが他者と強く結びつく大乗仏教の根本に関わるところである。

そのとき僕が思うのは、方便というものの厳しさです。「嘘も方便」みたいな言い方があるから、適当にやっていいのかと思うと大間違いでありまして、方便と〈全責任を自分に置いてやる〉という、一種の賭けなんですよ。(p.131)

「願生する」ということも、それは「好きにしていいんだよ」というようなものではなく、そこにしか行くところがないという状況で「わかりました」と引き受けて娑婆に生まれた、ということだと思います。(p.202)

現代の諸問題についても積極的な発言が見られるのもこの2人ならでは。釈尊、中論、法華経、般若心経、道元、親鸞、良寛をどう捉えるかという教義的な問題についても考えを深めるつつ、ある場面ではその博識を投げ捨てて一人の人間として同じ時代を生きる人々と共に歩み、共に考えようとしている。

〈個性〉というのは、やはり褒められる部分しか意味しないわけですよ。そうなると、子供は自分のなかの褒められる部分だけしか表に出せないから、分裂していく、それはとうぜんです。(p.236)

けれど、これは理屈ではない。なぜ自殺しちゃいけないのか。かくかくしかじかなんてことは、ぜんぶわかったうえで自殺するんですから。自殺する人間は、自殺しちゃいけない理由も、生きなきゃ理由も全部わかっている。(p.246)

この2人の対談自体がそうだが、ひとりで悩むよりも多くの人と出会うことが新しい局面を開いていく。本当に自分と問題意識を共有する人にめぐり合うことができたならば、自分の言葉はまっすぐその人の心の中に届くはずである。

お坊さんで、すぐお金の話をする人と、質問をいやがる人、「自分の寺は立派だ」みたいなことを言う人とは、長い付き合いはしないほうがいいと言います。だけど、そうでなかったら、とにかく誰でもいいから、お坊さんとお友達になりなさいよ、ということは言います。(p.312)

グサグサと心に刺さる言葉ばかりで、普段あいまいに思っている自分の中の〈問い〉を新たにすることができた。宗派問わず僧侶の方に一読をお勧めしたい。僧侶以外にも、生きること一般に苦しみを感じている方にはぜひ。癒しは得られないかもしれないが、自分の苦しみを読みながら聞いてもらっているような感覚になるはずだ。

死とは何かを、実存哲学、他者論、時間論、存在論から講義録というかたちで分かりやすく解説した本。

第1日では、すべての人は生まれた瞬間に「百年のうちに死刑は執行される、しかしその方法は伝えない」という残酷極まりない有罪判決を受けるという運命を突きつける。死に対する恐れ、それは自分のあり方に対する虚しさである。

第2、3日では自分の死が到来するはずの時間である未来を時間論から考察する。現在から見た未来(の予想)と、現にこれから起こる未来とは決定的に異なることを示した上で、未来の存在は何によっても保証されないこと、しかし意志によって直面できる新しい時間であることを説く。

第4日は他者論から絶対的に重なり合わない他者と未来の異同を考察。他者の死の経験から自分の死を考えられるかを試みる。自分で見ることができず、もう覚めることのない自分の死は正真正銘の無である。

そして第5〜7日は無を存在論から追究していく。「無」という言葉で表された瞬間、無は存在になってしまう。しかしそれと同時に、言葉で表されない無が立ち上がってくる。私がいなくなるとき、言葉の境界を越えて向こうに行くのである。

ハイデガーとサルトルをベースに、レヴィナスや西田に批判を加えつつ説得力のある論を展開しており、この問題に対する諸哲学者の見解も知ることができる。

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