Book: 2008年11月アーカイブ

僧侶が結婚するのは日本では当たり前のようになっているが、世界的に見れば日本と韓国のごく一部にすぎない。そんな日本で仏教ブームといっても、教義的なものが主流で戒律が省みられることは少なかった。しかし持戒は釈尊以来の仏教の伝統。本書は、インドから近現代日本に至るまで通史的に戒律の歴史を追う。新書とは思えぬ内容が詰まっている。

鎌倉時代のある僧侶の誓文から、当時、僧侶の間で男色が一般的であったことが分かる。その僧侶は、36歳にして過去に95人の男性と交わったことを告白し、100人で止めることや浮気をしないことなどを誓っている。相手は童子や稚児と呼ばれる垂れ髪の男性で、貴族出身で10歳から寺に入り、給仕など僧侶の身の回りの世話をする者たちである(牛若丸のようなイメージ)。絵巻にもそのような姿の童子が、僧侶と同衾している図が残っている。「男色をしなければ、欲望が溜まって悟りを開くことができない」などと正当化されることもあった。

日本仏教史ではあまり触れられないが、鎌倉時代に起こった叡尊による戒律復興運動(新義律宗)や親鸞による無戒宣言は、こうした男色の広まりを背景にして起こったものだと筆者は見る。確かに10代から坊主にカマを掘られたり、掘るのを見聞していればこのままでいいのか?と思わないほうが不思議だ。

この流れで、中国から招聘された鑑真による東大寺・筑前観世音寺・下野薬師寺の国立戒壇、それを否定して最澄が作った延暦寺の大乗戒壇、さらに叡尊らによる自誓受戒(仏・菩薩から直接受戒する方式)、それに刺激を受けた延暦寺の興円・恵鎮、戦国時代末の西大寺系の明忍、江戸末期に道徳と持戒を説いた慈雲といった戒律復興運動が説明されている。復興しても復興してもすぐに廃れてしまうのは、戒律を守る難しさを物語るものであろう。

筆者はあとがきで、現代の日本仏教にも戒律復興が必要ではないかと述べている。「さまざまな欲望を断って(断とうとして)、利他行に邁進する僧の生きざまは、新たな生きるモデルを生むのではないでしょうか。」「己を捨て、私財や時間すべてをなげうって活動できるのは、独り身のしがらみがない方々ではないでしょうか。」

本当のことである。結婚している僧侶はみな離婚し、これからは僧侶たる以上結婚してはいけない、とまでするのはもうほとんど不可能だろうが、少なくとも「日本の僧侶は牧師だ」とか「大乗仏教が最もソフィスティケートされた姿」などと下手な正当化をせず、破戒していることにただ恥じ入るべきだろう。飲酒や蓄財も同じ。そうでなければ、戒名など与える資格はない。

仏教は葬儀や法事に関わらないで、生きている人の救済に努めるべきであるという主張がある。先祖供養は中国以来の伝統で儒教によるものであり、インドで生まれたものではないとも言われる。しかしこの本では、インド初期仏教の経典で説かれる先祖供養の意義を明らかにし、そうした主張にアンチテーゼを唱える。

『盂蘭盆経』は偽経(中国撰述)であることが知られているが、その元になるお経がインドにあった。『撰集百縁経(avadaanashataka)』と、『餓鬼事(petavattu)』である。前者では目連が通りがかりに500人の餓鬼と会い、後者では舎利弗が4つ前世での母だったという餓鬼と会う。そして救うための供養は、王舎城の縁者やビンビサーラ王によって行われている。『盂蘭盆経』では目連が母のために自ら供養するという話が、出家者として辻褄が合わなかったが、これなら納得がいく。中国撰述とはいえ、全く根拠のないものではなかったのである。

さらに驚くべきことに、釈尊は先祖が餓鬼道に落ちたときのみ、供養が有効であることを述べている。『増支部』ジャーヌッソーニ章で、天人・人間・畜生・地獄にはそれぞれの食べ物があり、布施の功徳はためにならない、餓鬼も餓鬼の食べ物があるが、友人知人・親族縁者が人間界から「かれらのために」と布施することによっても生き長らえるので、布施の功徳が役に立つと説かれる。

著者はこれを解説して、地獄では人間界とのコンタクトが取れないので、回向に気づいてもらえないとする。回向とは、功徳のやり取りをするのではなくて、善行為に対して心(喜び)が共鳴することだと考えるためである。この功徳回向=心の共鳴という観点から、お盆・お彼岸・葬儀・法事などでの先祖供養も釈尊の教えに適うものであるとしている。

心の共鳴については論証が十分とは言えず、著者の独断だけでなくもっと幅広い観点からの検証が必要だが、釈尊が先祖供養を餓鬼道に限定していたという指摘は特筆すべきである。近年、曹洞宗では施餓鬼を施食と言い換える運動があるが、餓鬼以外に施すことができないのであれば、施餓鬼は施餓鬼でしかないことになる(それを承知の上で、施食と呼んでもよいのかもしれないが)。

もっとも釈尊の教説も、取りようによっては先祖が苦しんでいると脅して布施を強要していると見られなくもない。誤解のないように伝えるのは難しい面もあるが、法事やお盆の意義を再考する貴重な機会となった。

『納棺夫日記』

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映画『おくりびと』の元になったという本。富山県入善で、経営していた飲食店がつぶれ、夫婦喧嘩で妻が投げつけた新聞の求人欄から、葬儀社に勤めることになる。やがて納棺夫と呼ばれるようになり、死者と向き合う日々を綴る。

映画の元にどういう事実があったのかを知るのがまず面白い。映画で仕事を知った妻から「汚らわしい!」と言われたり、友人から「まともな職につけ」と言われるのは腑に落ちないものがあったが、原作では前にも浮気をしていて同じ台詞を言われたことがあったこと、友人ではなく家柄にこだわる叔父が元だったことを読んで納得できた。

それよりも興味深いのは、死者と真正面に向き合う中からつむぎ出される言葉である。死から目をそらして仕事をしている葬儀屋や僧侶、美しい死に際を邪魔する現代医学、生死の現場から離れた観念だけの宗教への痛烈な批判は耳が痛い。

その最大の要因は、『悟り』を説きながら悟りに至る努力もしない聖道門の僧職者たちや『信』を説きながら真に阿弥陀を信じようともしない浄土門の僧侶たちが、教条的に『信をとれ』といったりしているところに起因する。信もないのに、信をとれというのは、愛もないのに『愛しなさい』と言うに等しい。(p.202)

著者によれば、人は誰でも死ぬまでには〈ひかり〉に包まれ、涅槃(成仏成就)に入るという。ただ死ぬどれくらい前にそういう状態になるかは、釈尊のように45年になることもあれば、現代医学で「頑張れ頑張れ」と言われて直前までそうならないこともある。だがいずれにせよ最後には例外なく涅槃に入ることを、著者は多くの安らかな死に顔を見てきた経験から確信している。

まず生への執着がなくなり、死への恐怖もなくなり、安らかな清らかな気持ちになり、すべてを許す心になり、あらゆるものへの感謝の気持ちがあふれ出る状態となる。この光に出合うと、おのずからそうなるのである。(p.102)

生とは何か、死とは何かについて、今までにない見方を与えられて、読後もいろいろ考えさせられる。

すぐ最新の物理学とか言ってオカルトに走るのと、どうも他人事のような調子になるのとがピンとこないが、ところどころなるほどと思うこともある。

議論していると、ああも言える、こうも言えるという余裕がなくなってくるのが善くも悪くも日本人だと思います。つまり感情移入能力が高いということかもしれませんが、そういう人はやはりトコトン議論しちゃいけません。(p.21)

ある人が、太っている人に共通の口癖を発見したっていうんですね。それはどんなものかと言いますと、「これを食べなきゃ太らないのに、この一口が我慢できないのよね」とか、「寝る前の、この一口が太るもとなのよね」とか、「私って、水飲んでも太るのよ」って言いながら水を飲む。お菓子を食べる。そうやって期待をかけられると、寝る前の体も、おそらく期待に応えようとするんじゃないでしょうか。(p.44)

今行っていることの結果は、今受けるべきだということです。因も果も今一緒にある。修行も、その結果期待される証(悟り)も、修行そのものにある、という考え方です。将来のために我慢して今を過ごしていたら、そのまま地震で死んじゃうかもしれないでしょ。だから今していることの功徳は今味わうんですね。(p.85)

(日本の僧侶の妻帯について)私の師匠がこんなことを言ってくださいました。「大乗仏教が最もソフィスティケートされた姿だろう」って。つまり修行の悩みに対応するのが我々僧侶だとするなら、とても大きな苦悩を生み出す結婚生活に対しても、してみなきゃ応じられないだろうって。(p.177)

不安を抱える人には、その不安を共感して寄り添うという方法と、ちょっと別な視点を提供してみるという方法があると思うが、この本は後者を取る。悟ったような口ぶりも、心が弱くなっているときには頼りがいを見出せるのかもしれない。

笑顔の絶えない人、常に感謝の気持ちを忘れない人、みんなの喜ぶ顔が見たい人、いつも前向きに生きている人、自分の仕事に「誇り」をもっている人、「けじめ」を大切にする人、喧嘩が起こるとすぐに止めようとする人、物事をはっきり言わない人、「おれ、バカだから」という人、「わが人生に悔いはない」と思っている人―多くは望ましいとされる美徳に釘をさす。

その根底にあるのは、自分の頭で考えず、世間の考え方に無批判に従う怠惰な姿勢、多数派の価値観を振りかざし、少数派の感受性を踏みにじる鈍感さである。感謝の気持ちを忘れないのはいい。問題はその感謝を他人に当たり前の顔をして期待することだ。

「ひとに迷惑になることだけはするなよ!」と座右の銘のように言い続ける人がいる。これを筆者は思考の脳死状態と断ずる。ある人にとって迷惑でも、別の人にとっては歓迎すべきことかもしれない。大多数にとって迷惑になることというなら、少数派は切り捨ててよいのか。そもそも私たちが生きるということは、他人に迷惑をかけて生きるということなのだ。かといって自殺も膨大な迷惑。ではどうすればいいのかを思考しなければならない。そこまで考えれば、「ひとに迷惑になることだけはするなよ!」などと簡単には口にできないのである。

卒業する学生に対するはなむけの言葉が心に残った。この世は誰でも知っているように、どんなに努力しても駄目なときは駄目だし、たえず偶然にもてあそばれるし、人の評価は理不尽であるし、そして最後は死ぬ。それが社会であり、人生の真実である。普通のはなむけの言葉の各文の後に「どうせ死んでしまうのですが」というワンフレーズを付け加えてみせ、その後に著者のはなむけの言葉を載せる。「個々人の人生はそれぞれ特殊であり、他人のヒントやアドバイスは何の役にも立たない。とくにこういうところに書き連ねている人生の諸先輩の「きれいごと」は、おみくじほどの役にも立たない。(中略)どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい。死なないでもらいたい。生きてもらいたい。」

自分で悩んだり思考したりせずに人にあれこれと語ることはできないということを強く感じた。あと哲学の先生が大学から給料をもらっているのは恥じるべきだというのにも同感。「哲学のような何の役にも立たないことを教えて金になるのがそもそものまちがいです。」

第一版は立ち読みして内輪話(小谷野敦氏との喧嘩とか)に飽き飽きした覚えがあるが、文庫版になって読み返してみると、内輪話も具体例として説得力があった。

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