Book: 2010年3月アーカイブ

ドイツ(ミュンヘン)に長いこと住んでいるジャーナリストが、現地から最新のドイツ事情をお届けする。2004年に発行された本の文庫版。『ドイツ病に学べ』がとても面白かったので著者買いした。これだけの内容が、500円で読めるのは幸せである。

「ドイツ人ってどんな人たち?」「変わり行くドイツ社会」「ドイツ生活を楽しむには?」「ドイツ人と会社生活」の4章に分けられ、各章バラエティに富んだ15前後のトピックから構成されている。いずれも印象批評ではなくて、インタビューや数字を交えていて、読み応えがある。

・仕事上の手紙にはきちんと答えることが強迫観念。官庁に取材の手紙を送ってもちゃんと返ってくる。あわててドイツ人からのメールに返事した
・狩猟民族的な特徴。真冬で外がマイナス十度でも窓を開けて換気したり、夜は窓を開けたまま寝たり、照明が暗くても平気だが、晴天には弱い。寒がりの私には想像できない世界
・教会税は毎月所得税の8〜9%を税務署が天引き。独身サラリーマンで月1万円くらい納める。教会脱退者は増え続けており、20年前は94%いたキリスト教信者が64%に。日本の寺離れと似た現象が起こっている
・新生児の名前は性別が分かるものを付けなくてはならない。どっちでも使える名前では、もう1つ付けるよう求められる。日本よりも無茶な名前が少なそう
・ナチスの建物を保存し、掲示板を立てる。「自国の歴史を批判的にとらえればとらえるほど、他の国々との友好関係を深めることができる」とブラント元首相。自由主義史観とは対極にある考え方だ
・オクトーバーフェストで民族衣装を着る若者が増えている。将来への不透明感が伝統や保守主義に回帰させるのではないかと著者。ボードゲームもそうですね
・「あなたたち日本人は働くために生きているように見えますが、我々ドイツ人は休暇を楽しむために働いているのです」とあるドイツ人。6週間という休暇は個人主義の強いドイツ人が仕事で他人と衝突するストレスを解消するために必要なもの。ドイツ人も楽じゃない

「ドイツ生活を楽しむには?」はミュンヘンのローカルな話が多くてついていけなかったのと、「ドイツ人と会社生活」は新刊『ドイツ病に学べ』のほうがずっと詳しいが、1トピック3ページ半くらいで簡潔にまとめられており、好きなところから読んでもかまわない。ドイツ全般に関心のある方であれば楽しんで読めるだろう。

著者ホームページ

化粧品メーカーから納棺師に転職。数多くの遺体のメイクを手がけてきた著者のブログを単行本化。

故人と真剣に向き合うことで、誰しもおくりびとになる。だから決められたサービスだけでなく、お客様がほしいものを悟って提供することが付加価値であるという。ブログなのでタイトルも文体も軽く、死者の尊厳や救済などとは無縁のようにみえるが、実際は真摯に仕事に向き合われているのだろう。

おくりびとの原作『納棺夫日記』や、独居死を描いた『遺品整理屋は見た』のように死そのものにはあえて触れず、あえて死体の見栄えだけにこだわるというのも、ひとつの態度である。遺体メイクの練習や遺体の肌年齢など、男性の私には興味が持てない話もあったが、女性ならいろいろ考えさせられるのかもしれない。

元ブログ:今日のご遺体

巧言令色少なし仁とはいうものの、表現なしに言いたいことは伝えられないし、ちょっとした表現に相手に知られたくない本音が出てしまうこともある。どういう言い方がディスコミュニケーションを生むのか、言語学的・語用論的な側面から分析した著。

日本人・日本語には、長ければ長いほど丁寧、文を閉じたくない、言葉よりも心が大事、聞き手の気持ちを汲み取る、状態・動作に釣り合う資格・身分であるかどうかに敏感、これから話すことを端的に表す談話標識の発達、上から目線に思われないように工夫した表現を選ぶ、情報を間接的に手に入れたことの明示などの特徴がある。これらを意識して、かつそれが過度にならないように注意しなければならない。

「お疲れさま」は目上の人に使ってもよいが、「ご苦労さま」は使ってはいけないのはなぜか。日本語では、他人の気持ちを勝手に断定してはいけないからであるという。疲労は物理的・肉体的なものなのでよいが、苦労は主観的な判断なので、勝手に断定するのは越権行為になる。だから「コーヒーが飲みたいですか」と気持ちを聞くのではなく「コーヒーでもお飲みになりませんか」と意向を聞く。この原則は、目上の人とのコミュニケーションで知っておいて損はない。

「私ってハーブ大好き人間じゃないですか。」というのが不愉快に感じるのは、こちらが知るはずもない情報なので否定も肯定もできないところに、肯定することを強要されるからだと分析する。人間には、自分を尊重してほしいという「おもての願望」と、逆に干渉されたくないという「うらの願望」がある。要求に対して断る自由を与えるなど、うらの願望を満たすものが配慮ある丁寧な表現と言うことになる。私は「うらの願望」のほうが強めだが、世の中全てがそうではない。この2つの相反する願望もバランスを取るようにしたい。

ときには世間の常識とずれていること、空気とずれていることを言わなければいけないことがある。そのときのポイントとして著者が挙げるのは、はっきりロジック(精密な推論)を示して妥当性を理解してもらうこと、空気を読んでいることのアピール(受け入れにくいことは分かっていますよ)、時間がかかることをあらかじめ理解しておくこと(急かさず環境を整える)の3つである。つい思い付きで言ってしまいがちだが、それなりに受け入れてもらうには周到な用意が必要なのだ。

帯に書かれている直したい用例は次の通り。本書を読むと、なぜ直したいのかが説明できるようになる。
この件につきましては、誠に申し訳ありませんでした。(意図せぬ限定)
おかげ様で志望校に合格しました。(自信過剰)
そういう場合は事前に連絡をするものです。(常識の押し付け)
この仕事、君にでもやってもらおうと思っているんだけど。(悪い例え)
「このホッチキス借りてもいいですか」「まあ、いいよ」(悪い断言回避)

割と当たり前のことをわざわざ難しい言葉で理論化していると思しき箇所もあるが、これも言語学者が正確を期した書き方か。察する文化に慣れきってしまうと言いたいことも言えなくなりがちだが、言うべきときにこういった性向を押さえた上で言えば、摩擦は最小限になるし、目上の人とも、気後れせずに話ができそうだと、自信が付けられた。

表題の答えは現世と来世の間にある世界を七日間ずつ七回さまよって、七回の審判を受けるからで、なぜ七なのかといえば七曜ということと、七という数字は素数で縁起がよいという説明がなされている。

中陰四十九日説の由来は、『阿毘達磨大毘婆沙論』(インド、2世紀ごろ)第七十で設摩達多という人の説として「中有極多住七七日。四十九日定結生故。」という文言に由来する。ほかにも七日以内という説と無限という説が挙げられている。ここでも根拠述べられていない。インドでも時間のひと区切りであった七日を適用したものという説明しかなさそうである。

とはいえ、後世には冥土の旅の絵解きなども作られ、死者が三途の川を渡って地獄極楽めぐりをするという観念が一般化しているので、それと四十九日を重ねて説明を試みてもよかったのではないか。

仏教にはとてつもない広さや長さがあるのを数学的に分析したくだりは面白い。お釈迦さまの守備範囲である一仏土は、小世界十億個分で、小世界を太陽系くらいの広さと仮定すると、一仏土の幅は100万光年。さらに西方浄土は十万億仏土なので、1000京光年の遠くになるという。

天人の寿命は500歳だが、天界の1日は人間界の50年にあたるので、人間で言うと9125000歳。しかしこれは天界でも下のほうの下天の話で、もう少し上の兜卒天は、1日が人間界の400年にあたり、天人の寿命は4000年に延びる。人間で言うと5億7600万年である。ここに住む弥勒菩薩が人間界に現れるのが、釈尊入滅後56億7千万年といわれており、1桁違うがだいたいこの計算に合致する。

「劫」という時間の単位は、実際何年かを考察してもらいたかった。天女が百年に一度、羽衣で7km四方の石を軽くひとこすりして、その石が摩擦でなくなるくらい、または7km四方の箱に芥子の実をつめて、百年に一度一粒ずつ取り出し、全てなくなるくらいが一劫である。

本に書いていないので自力で計算してみる。すりきれのほうは定量的な評価ができないが、芥子の実の直径を0.8mmとすると、体積は0.512立方mm。7km四方の箱には2垓8446京個入るから、一劫はその100倍で284垓4600京年ということになる。

世界は20劫ずつ成・住・壊・空の段階があり、合計80劫で1サイクルとなる。現在は住劫の第9劫だそう。仏教の尊い教えは、百千万劫に1度会えるかどうかだという説き方があるが、その長さを年で表したら、2溝8446穣年となる。お釈迦様の教えに行き会うまでいったい何回生まれ変わって待っていなければならないのか。

仏教由来の単位である恒河沙、阿僧祇、那由他には30桁くらい足りないが、宇宙ができた137億年前、地球が誕生した46億年前なんていうのはごく最近の話という気がしてくるから面白い。

ほかに大仏の黄金比や、百八つの煩悩の計算など。こじつけに感じる説明もあるが、仏教のいろんな数字に着目して整理した本として面白く読めた。

朝日新聞に2年間にわたって掲載されたコラムを加筆修正したもの。初期仏教の思想を、現代の生活に即して紹介する。著者は花園大学の教授だが、空理空論に走らず、また抹香臭い説教にもならず、日常の言葉で語っているところがよい。

インドの仏教では当初、肉食と殺生は切り離して考えていた。生き物を殺さないようにして暮らしつつ、お布施はありがたく頂かなくてはならない。しかし一部の仏教徒が肉食しなくなったのは、インド社会の「肉には穢れがある」という考えに影響されてのことだという。それでは「差別の沼に足を踏み入れている。」

お寺は、野宿で暮らす修行者を気の毒に思う人が建てたのが始まりである。今も、お寺に固定資産税がかからないのは、公共物だからであり、仏道修行という業務、誠実さという家賃を怠ってはならない。建物だけは立派なんてことになっていないか。

仏教は本来、非社会的な宗教であり、世間の片隅で悩む人たちをそっと受け入れてきた。お釈迦様が、自分の出身の一族が滅亡させられてしまうが、政治的にも軍事的にも抵抗しなかった。それは「仏教は政治に関わることができない」というメッセージだという。

その一方で、社会に迎合してしまう危険性がある。日本中の僧侶がこぞって戦争協力をしたのは、当時の善意でもあっただろう。この「宿命的板挟み」には、自分の考えが絶対正しいと思わないことと、仏教がもつ独自の世界観を失わないことで正しい判断を心がけるしかない。世界平和だって、ときに全ての人の幸福になるとは限らない。

宗教の実体は、資金調達と使途、決定システム、一般社会からの批判に対する対応、政治へのかかわりの4点が注意点である。ありのままに社会に向かって公開できているか。不都合なことは隠していないか。

仏教の3つの柱に入っている「僧」とは、集団としての僧である。集団生活には、雑事に時間をとられず、病んだり老いたりしても支えてもらえる相互扶助システムがある。僧侶は、みんなと力を合わせて修行に専念していることによってのみ、敬われる存在になるということだ。

慙愧=良い人を敬い、至らぬ自分を反省するのはとてもよいことであるとされる。劣等感も、心の大切な栄養であるという。傲慢になって地道な努力をやめてはならない。

仏教では自業自得ということをよくいう。でも著者は「そうやって批判する人は、今苦しんでいる人たちの、苦しみの原因を、きちんと論理的に説明できるのか」と反問する。社会の巡り合わせまで考えることが必要であり、因果応報を誤ってはならない。

「お坊さんの価値」は、新聞連載時から気に入っていた一節だ。お布施の適正価格が決められないのは、僧侶の「姿や言葉」に対して払うものだからである。金額を、お布施をされる側が決めるのはおかしいことなのだ。

お釈迦様の遺言に「自灯明、法灯明」と2つあるのは、どちらか一方ではいけないからだと著者は考える。前者だけでは独りよがりになり、後者だけでは盲信になってしまう。「一見修行しているが、実際はパターン化した儀礼を繰り返すだけ」というのは鋭い指摘である。

ほかにも輪廻、自殺、科学、悟り、言葉など興味深い問題が続々。どの章を取っても、自分に当てはめてあれこれ考えたくなってしまう。折に触れて思い返し、考えていきたいことばかりである。

存在・言語・心・自然・絶対者・関係・時間という7つのテーマについて、仏教哲学の考え方を提示し、近代合理主義やポストモダニズムなどの西洋主導の哲学に対して新しい見地を見出そうとする書。

説一切有、唯識、禅、如来蔵、華厳、多仏、縁起、中観などの仏教哲学の粋を集め、その現代思想的な意義を模索する。

例えば五感の世界には物はなく事しかないのに、言葉が適用され、それが潜在意識に蓄積されて、世界を構造化するという唯識思想をもとに、言語で固定化された世界を解体する。これがいわゆる「不立文字」「教外別伝」であり、その上で坐禅や禅問答によって、高次元な問答や詩的言語に移行し、真実を語ろうとする。そう考えれば、禅と密教は遠いものではない。

また善意でさえも自我への執着から生まれているのに、善を実行し続けるのは、自覚的な選択によって、我執にとらわれた自我を変えていく。これが修行である。

天台における「草木国土、悉皆成仏」の論理は面白かった。釈尊と我々が住むこの世界は別物ではないから、釈尊が成仏した以上、この世界も成仏したといわなければならない(「依正不二」)。そこから自己の身心と自然の同一を見る。ほかの理由は本覚思想が色濃いが、釈尊によって成仏させられた世界に私たちが生きているという世界観は示唆に富んでいる。

道元の而今という時間論も分かりやすい。永遠の今以外に時間はなく、そこに立てば、老いることも死ぬことさえもない。生きている限りは、死なないし、死んだらもう死なないからである。やや詭弁がかった言い回しにも聞こえるが、坐禅の中で体得される覚悟というものだろう。

入門と題しながら難解な専門用語ばかりなのと、仔細な比較なしに、西洋哲学と比べてやたら「モダンではないか」というのは鼻につくが、その西洋哲学者を紹介していて知識が増えた。哲学だけで現代社会にはたらきかけるのは難しいだろうが、少なくとも仏教が現代を分析するひとつの道具になりうることを、本書は確かに示している。

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