Book: 2017年1月アーカイブ

平岡聡『〈業〉とは何か』読了。現在の困窮を前世の結果であると説いて差別を助長する「悪しき業論」に対する反省から、業ということ自体説くことを避ける風潮が現代の仏教界にはありますが、ブッダが自らを業論者といっている以上、避けては通れません。ブッダ以前のインド思想から、伝統仏教、大乗仏教へと業の思想史を概観し、さらに現代社会においてどのような意義があるかを考察します。

『沙門果経』において「人間の幸不幸はすべて過去の業によって決定される」という宿作因論、「人間の幸不幸は神によって決定される」という尊祐造論、「人間の幸不幸はすべて偶然の産物である」という無因無縁論はいずれも外道の見解として退けられ、「努力することでこの世の人生は変えられる、人間は変われる」という精進論がブッダの立場であるといいます。また、因果応報には仏典のあちこちで多くの例外があることから、業を普遍的法則や客観的事実とみなすことはできず、主観的事実(私にとってのみ意味のある事実)と理解すべきであると考察しています。『修証義』一章「因果の道理歴然として私なし」もそのように捉えたいところです。

よい行いと悪い行いは相殺せずどちらも混合して結果を生む「黒白業」、行為が終わっても潜在的な余力として心身に残り機が熟すると結果を生じる「無表業」(わかっちゃいるけどやめられない)、全ての有情が作り、その結果も全ての有情が受ける「共業」(連帯責任)、ブッダが前世で殺人を犯したことがあるという説話や、菩薩が衆生の苦しみを引き受ける「代受苦」などが興味深い話ばかりで、自分自身の毎日の生活でも思い出しています。

短い本ですが、『偽善のすすめ』『「昔はよかった」病』からの流れで読むと含蓄があります。

日本人の道徳心は決して荒廃していない、むしろ現代ほど強い時代はこれまでなかったという見解をもとに、道徳の副読本に「なぜ?」を問いかけていきます。「現代の日本人は過敏なんです。ありあまるほどの道徳心を持つようになってしまった結果、ささいなモラル違反にも敏感に反応し、過剰なまでに攻撃してしまうようになりました。」ネット社会でこの傾向に拍車をかけます。

いじめっ子を助けて友だちになったという話には「よのなかで本当に必要とされるのは、ともだちを作る能力ではありません。ともだちでない人と話せる能力なんです」、脚が不自由だった私がクラスの子と遊べなかったのをお父さんに叱られる話には「迷惑をかけまいとして、他人とコミュニケーションをとることまで拒絶してる日本人が、『ふれあいや絆を大切にしよう』だって? やかましいわ」、浜田広介の『泣いた赤鬼』には「青鬼の自己犠牲に甘えるだけで終わってしまったら、あまりにも非人道的です―ああ、人じゃなくて鬼ですけどね」とバッサリ。

最後は「いのちの大切さ」に切り込む。絶対に人を殺してはいけないといいながら、死刑を容認し、人を殺す可能性の少なくない自動車を運転するのは、「自分が納得できる理由があれば、人を殺してもいい」と考えているから。自分もいつか人を殺してしまう可能性を受け入れ、そうしないように努力するべきであること、そのためには多様性を認めることを教えようと結んでいます。

小中学校の道徳の時間をお借りして人権教室を行うのですが、虚しいタテマエではなく多様な見方を示し、自分の価値観と合わないときどのように受け入れるかという極めて現実的なことを子どもたちと一緒に考えていこうと思います。

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