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2つの梵網経

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写経教室で、2つの梵網經(梵動経・長阿含経典第一①、梵網経・盧舍那佛説菩薩心地戒品巻下②)を比較してみた。十善法戒と十重禁戒は5番目から異なる内容だが、十重禁戒に寄せて分類。単なる禁止事項ではなく、積極的に行うべきことも同時に記されている。

殺さない=救う
①生き物の殺害を放棄し、生き物の殺害を離れ、棒を捨て、刀を捨て、羞恥心があり、憐愍の心があり、すべての生き物の利益をはかり、哀れみのこころを寄せる。
②全ての命あるものを故意に殺してはならない。菩薩とはいつも慈悲と孝順の心を起こし、全ての衆生を救うものである。それなのに仏弟子が心のままに、あるいは楽しんで衆生を殺すならば、波羅夷罪である。

盗まない=幸せを助ける
①盗みを放棄し、盗みをせず、与えられた物を受け取り、与えられる物だけを期待し、盗み取ろうという心がなく、自ら清らかになっている。
②呪い盗んでも、供物でも盗品でも、ひと針ひと草でも、故意に盗んではならない。菩薩とは仏性と慈悲と孝順の心を起こし、いつも全ての衆生の幸福を助けるものである。それなのにその逆に、他人の財物を盗むならば地獄に堕ちる罪である。

性行為をしない=清らかに生きる
①清らかならざる行為を放棄し、清らかな行為を行い、清らかならざる行為を決して行わず、淫欲と卑俗の行為を行わない。
②動物であろうと、天女であろうと鬼女であろうと、あるいは性器以外であろうと、性行為をしてはならない。菩薩とは孝順の心を起こし、教えと人を清らかにするものである。それなのにその逆に、淫欲の心を起こして動物であろうと、近親者であろうとかまわず性行為を行うのは慈悲のない者であり、波羅夷罪である。

嘘をつかない=真実を語る
①嘘を放棄し、嘘をつかず、真実を語り、真実を貫き、変説せず、信頼すべきであり、世間の人々をだまさない。
②見ていないものを見たと言ったり、見たものを見ていないと言ったり、体や心で嘘をついたりしてはならない。菩薩とはいつも正しく見、正しく語り、全ての衆生にも正しく見、正しく語らせるものである。それなのにその逆に、全ての衆生に邪に見、邪に語り、邪に行うならば波羅夷罪である。

酒を慎む=智慧を広める
①酒を飲むことをしない。
②全ての酒を作ってはならない。酒は罪の原因や条件となるものである。菩薩とは全ての衆生に明るい智慧を起こさせるものである。それなのにその逆に、全ての衆生に倒錯の心を起こさせるならば波羅夷罪である。

悪口を言わない=教化する
①中傷する言葉を放棄し、中傷することばを語らず、こちらの人々を離反させるために、こちらで聞いてはあちらで中傷して語ることをせず、あちらの人々を離反させるために、あちらで聞いてはこちらで中傷して語ることをしない。このように離反した人々を和合させ、和合した人々を一層親密にさせ、協調を愛し、協調を好み、協調を喜び、協調を促す言葉を語る。
②菩薩とは、非仏教や大乗小乗の悪人が仏教の中で不法・不埒なことを説くのを聞いて、いつも慈悲の心を起こしその悪人たちを教化し、大乗のよき信仰をもたせるものである。それなのに自ら仏法の悪口を説くならば波羅夷罪である。

自慢しない=耐え忍ぶ
①他の人たちが賞賛しても、喜んだり、嬉しく思ったり、得意に思ったりしてはならない。喜んだり、嬉しく思ったり、得意になったりするならば、それはあなたたちの障害になる。そのときあなたたちは、真実を真実として正しく知らなければならない。
②菩薩とは全ての衆生に代わって批判や辱めを受け、悪事は自分でかぶり、よいことは他人がしたことにするものである。もし自らの徳を持ち上げ、他人の善行を隠し、批判させるならば波羅夷罪である。

欲張らない=与える
①花飾りと香料と塗油を装着したり塗ったりすることをせず、踊りと歌と器楽の観覧をせず、大きな寝具と華美な寝具を使わず、一日一食を食べ、夜の食事をとらず、時ならぬ時の食事をしない。
②菩薩とは、困窮した人がやってくれば誰でも、必要な物を何でも与えるものである。それなのに菩薩が悪い心や怒りの心を起こして、一銭も一針も一草も施さず、教えを求めるものに一句も一偈も微塵も教えを説かず、それどころか罵り辱めるならば波羅夷罪である。

怒らない=慈悲の心を起こさせる
①他の人たちが誹謗しても、怒ったり、不機嫌になったり、心を不快にしたりしてはいけない。怒ったり不快になったりするならば、それはあなたたちの障害になる。怒ったり不快になったりしているとき、他の人たちが正しく語っているか、誤って語っているかを判断することはできない。
②菩薩とは全ての衆生に善根を生じさせ、争いごとをなくし、いつも慈悲の心を起こさせるものである。それなのに衆生であろうと幻であろうと、悪口で罵り辱め、手で殴り、棒で叩いても気が済まず、前の人が謝ってもまだ怒りを解かないならば波羅夷罪である。

仏法を謗らない=教え導く
①粗暴な言葉を放棄し、粗暴な言葉を語らず、温和で、耳に心地よく、愛情がこもり、心に訴え、品位があり、多くの人に喜ばれ、多くの人に好まれるような、そのような言葉を語る人である。
②菩薩とは非仏教徒や悪人が一言でもお釈迦様を批判するのを見れば、三百の鉾が心に刺さったかのように苦しむものである。それなのに自らの口で批判し、信仰心や孝順心を起こさせないどころか、悪人の間違った見方を助長し人に誹謗させるならば波羅夷罪である。

一切煩悩経

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中部経典第2経。煩悩をなくす7つの方法が説かれている。

  1. 自覚:欲望・生存・無明を引き起こしている我見・疑惑・戒めや掟への執着をなくし、四諦に意を注ぐ
  2. 防護:五感と思考を外界の刺激から遮断する
  3. 受用:衣食住は機能性のみを考え最低限とする
  4. 忍受:暑さ寒さ、飢え渇き、虫、悪口に耐える
  5. 回避:危険なところや行くべきでないところに行かない
  6. 除去:欲望・加害・不善を滅ぼす
  7. 修習:思念・教えの選別・努力・喜び・安息・精神統一・無関心を学ぶ

服はただ暑さ寒さを防ぐため、食事はただこの身体を保つため、住まいはただ風雨をしのぐため。シンプルに暮らすことは、余計な悩みをもたないで済むということにもつながるはずだ。

三時業

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『傘松』1月号に宮川敬之師による『正法眼蔵』「三時業」の講義録。『修証義』に引用された「造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る」が、宗教的な文脈での善悪を一般的社会道徳にすり替えられ、差別事象を助長することになったという批判をどのように受け止めるかという問題について考察されている。

  1. 順現報受(行いの結果をこの世のうちに受ける):自未得度先度他(修行した功徳を自分のためではなく他のために廻らし向ける)
  2. 順次生受(行いの結果を次の来世で受ける):帰依三宝(仏法僧を信仰することで救われる)
  3. 順後次受(行いの結果をそれ以降の来世で受ける):恒修善行(菩薩行の果報を個々の生で受けなくても常に行う)

一方、悪業は「そのような修行を行わず、吾我に塗れたまま生きていくこと」とし、悪果は「吾我に塗れた、自己中心的な欲望に生きて苦しみを助長する」と捉えられている。

現在の苦しみの原因については判断を保留し、吾我のあやふやさを認め、坐禅を行じていくという積極的な姿勢によって「深信因果」「三時業」は差別を離れ、修行の実践に結びついていく。この解釈だと、諸悪莫作・衆善奉行を自分が心がけるだけでなく、他人に勧めることもできるだろう。

帰依三宝で思い出したのが、次女が幼い頃、私の真似をして本堂の座褥で五体投地のお拝をしたこと。座褥によだれが付いていたのが印象深くて今でも覚えているが、この善業はよい果報をもたらす(すでにもたらしている?)のかもしれない。誰であっても、仏様に合掌することは善業であり、本堂や仏壇で仏様にお参りしてもらうことが住職の仕事というのも理解できるような気がする。

妙法蓮華経・常不軽菩薩品を読解。誰にでも「私はあなた方を軽蔑しません。あなた方は軽蔑されていません。なぜならばあなた方は皆、求法者の修行をして、完全な悟りに到達した阿羅漢の如来になられるからです」と声をかけ、罵られたり嘲られたりした者が、死ぬ間際に法華経を授かって一発逆転、仏となって広く敬われたというお話である。

「常不軽」の原語はSadāparibhūtaで「(周囲から)常に軽蔑された者(sadā-paribhūta)」とも「常に軽蔑されていない(と言っていた者)(sadā-aparibhūta)」とも解釈されるが、お経では周囲から常に軽蔑されていたとは書かれていないため、後者が有力だと思われる。漢訳の「常に軽蔑しない」と能動的に解釈することは文法上ありえないので、意訳ということになるだろう。崩れたサンスクリット語という説明もあるようだ。

なすべき務めを果たしていれば、たとえ軽蔑する者がいたとしても、仏様はちゃんと分かって見守っていますよということかなと思った。「心身自らも愛すべし、心身自らも敬うべし」(道元)

sadaparibhuta.jpg

理の如く思惟せば

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「私の説いた法を君たちは検証し、議論し論理的な根拠に基づいてそれは良いと納得するならば、信仰してもよいものなのだ」「宗教の教祖はたくさんいますが、私の説いた教えを信じなさいという人ばかりで、私の説いた教えを検討しなさい等という方は、釈尊以外の誰もいませんよね」「問答をする時には論理だけによって論証しようとし、それ以外に教証を引用し、『...と説かれるが故に』というのは不要である」「まずは仏典を学習して、学習した内容を繰り返し思考し、思考を繰り返して確証を得たものについて更に修習を繰り返すことを通じて、精神を改革することができるのです」

大般若経理趣分「理の如く思惟せば」という文言と同じ教え。経典祖録を鵜呑みにせず、そこに書いてあることを五感・論理・話し合いを通して真実かどうか検証し、その上で会得したいものだ。

それにしてもダライラマがよく言及する『量評釈(Pramānavārttika)』と『入菩提行論(Bodhicaryāvatāra)』の全章日本語訳が切望される。

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