Buddhism: 2003年10月アーカイブ

パトナ空港 午前中はパトナの市内観光.とはいえ博物館と遺跡は月曜日で休み,ガンジス河も雨でよく見えず,ゴールガルという穀物倉庫の展望台に登った後は,駅前で買い物をしていた.とはいえ食べ物はハエがぶんぶんたかっていてとても買う気になれない.金属製の神像や額縁に入った神図ぐらいが関の山.それでも人間ウォッチングが楽しい.インドの旅行は買い物ではなくて人間を見るのが醍醐味なのだとつくづく感じた,
 お昼過ぎに空港着.運転手に別れを告げて飛行機へ.プネーへは,4時間で着いた.
 3人での旅行なので,早朝出発などの小回りがきき,トイレや買い物のときは待ってもらえるという柔軟性も高い.また道中,飛行機や車の中でずっといろいろな話ができたのも移動時間が長い旅行なので楽しかった.旅行計画から飛行機・宿・自動車の手配をはじめ,旅行中の諸経費まで出していただいた小島さん,関西ノリで場を和ませて下さった円実さんには,心から感謝をしたい.

 クシナガルの宿はこれまでよりも3倍ほど宿代が高く,その分快適だった.モーニングコールは頼んでもいないのに朝食に合わせて起こしに来てくれる.例によって5:30朝食,6:00出発.

クシナガル
ひとたびは 涅槃の雲に 入りぬとも
月はまどかに 世を照らすなり
 クシナガルはお釈迦様がお亡くなりになられた土地だ.旅の途中で揚げ物に当たって動けなくなり,そのまま息を引き取った.御年80歳.沙羅双樹の下でお亡くなりになられたということでここには大きい沙羅の木がお寺の前に2本植えてある.これまた『平家物語』のモチーフとして名高い.
 涅槃というのは迷いの森から脱出するという意味で,一般にはお釈迦様が亡くなることを意味するが,悟りを開いたことも涅槃というので,前者は無余涅槃(むよねはん)または般涅槃(はつねはん),後者を有余涅槃(うよねはん)ともいう.ここはお釈迦様の体がこの世からなくなった訳で,無余涅槃.お釈迦様の最後を描いた『涅槃経』は,数あるお経の中でも真に迫っていて心打たれるお経だ.私は「汝ら,(私が亡くなることについて)悲悩を抱くことなかれ」というくだりは,いつ読んでも悲しくなってしまう.
涅槃像 寺院の中にはとても大きい金色の仏像が横たわっている.早朝でインド人のお坊さんたちが集まってお経を読んでいた.その側でお拝をして右回りに参拝する.お釈迦様が亡くなるとき,たくさんの弟子たちや神様,動物が集まってきて嘆いている涅槃図は子供の頃から寺で見ているが,その嘆きがここにはまだ空気として残っているようであった.
 そのお祈りの中に上半身裸の男が混じっていた.お寺の外に出て参拝していると,その男がガードマンに囲まれている.棒でべしべし叩かれて追い出されていた.何があったか聞いてみると,その男が参拝してから急にナイフを持って外で暴れていたらしい.ガードマンが1人手の指に怪我をしていた.タイミングが悪ければ我々が襲われていたかもしれない.お釈迦様のご加護というべきか,ガードマンにはお見舞いに10ルピーを出した.
 お寺の前にある沙羅樹は葉が何枚か落ちていた.ここに男がひとりいて,落ちている葉っぱを5枚ぐらい目の前で拾い集め,「50ルピー」とか言ってくる.ここまで図々しいと呆れておかしくなってしまった.葉っぱは自分で拾った.
 帰るとき,涅槃像のレプリカを売りつけられた.「10ドル!」という.無視していると「5ドル!」「1ドル!」「30ルピー!」とどんどん値下がりしていく.その値段ならと2つで30ルピーを提示したら,あっさり了解.お金を支払うと売り子は嬉しそうに,お金を涅槃像に捧げて頭を下げていた.こういう姿には好感が持てる.そのとたん,3,4人の売り子が群がってきた.しかも彼らは皆同じ涅槃像を持っている.結局お土産にいくつか買おうと思ったので同じ売り子からさらに5体30ルピーで購入.最初は10ドル(1200円)だったのが最後は6ルピー(15円).一体原価はいくらなんだろうと訝しくなった.
ヴァイシャリ ここでウッタルプラデーシュ州を後にして,その東のビハール州へ.道中の休憩ではつくばの妻に電話.こんな田舎から日本につながっていると思うと楽しくなる.「ホテル」という看板のほったて小屋があって,裏にある建物がホテルかと思ったが確かめてみるとそれは民家で,ホテルは結局そのほったて小屋だったり.
 国道を進むと,途中から左車線にトラックが約10キロに渡って停車していた.一体何台あっただろうか.小さい車は右車線ですれ違いながら行き来している.途中からすれ違うこともできなくなっていく.そこでトラックの運転手に聞いてみると,事故で先のほうが不通になっているとのこと.しかもその事故は2日前だという.つまりここで待っているトラックは,約2日前からここにいることになる.トラックの荷台では体を洗っている姿や,食べ物を売る売り子の姿も見られた.一体この先何日待つのやら,気の長い話である.
 とはいえ我々はそんなに待つわけにはいかない.幸い小さい車なら通れる迂回路があり,ビハールの田舎に進入していく.そこはこれまでと比べ物にならないような貧しい村々であった.ビハール州は湿地が多くて耕作がよくできず,ウッタルプラデーシュ州よりも貧しい.道のすぐ側は沼か湖,湿地のびちゃびちゃしたところに家が建っている.傾いて沼に落ちそうになっている家もある.舗装はかなり剥がれていて,でこぼこが激しくなっており,むしろこれなら舗装をしないほうがよいのではないかと思うくらい.車が池に落ちやしないかとはらはらした.ときどき,人が限界まで搭乗したジープ(この地方のバス)とすれ違ったが,日本では5人乗りくらいのところに,屋根の上も含めて15人くらい乗っていた.
 しかしこの細道が結局近道となってヴァイシャリまで4時間で到着.ヴァイシャリはかつて繁栄した大都市で仏陀も訪れたところだが,今はアショーカ王柱が唯一完全な形で残っている場所として知られる.入場料2ルピーの博物館があるが,展示物がことごとく小さい上に,電圧が低くて照明がよくなかった.アショーカ王柱のあるところは猿の王様がお釈迦様に蜂蜜を捧げたという微妙な話が残っているだけで,仏蹟の中では影が薄いほうかもしれない.ジャイナ教の開祖,マハーヴィーラの生誕地でもあり,生誕地の整備事業は着々と進行していた.
 ヴァイシャリの博物館の近くにあるレストランはディワーリーで閉まっており,小屋の食堂で軽い昼食.先客が大量にサモサ(※揚げカレーパン)を買っていったので食べるものは少しだけ.そして出てきた水は濁っていた.牛が体を洗っている裏の沼で汲んできたのではないかと思われる.当然ながら飲むのは遠慮した.
 雨も降っていてやや期待はずれのヴァイシャリからパトナーまでは2時間.広大なガンジス河を渡るとすぐそこだ.この都市もかつてはパータリプトラと呼ばれアショーカ王が統治した紀元前3世紀ごろは仏教都市だったが今はその面影もない.ホテルは今回最高級のホテル・マウリヤ.楽しかった旅も明日で終わりだ.

シュラヴァスティ
きえてゆく 鐘のひびきに ききいれば
いつか澄みくる わがこころかな
 昨日に続き再びシュラヴァスティへ.旅程を考えて日が明けたらすぐに見始めるのがベストだということになり,5:30朝食の6:00出発.宿の朝食は6:30からだったが,交渉したら出してくれた.
 シュラヴァスティは祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)と呼ばれるお寺があったところだ.日本人には『平家物語』の文頭「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり」で有名.お釈迦様がここで25回もの雨季を弟子たちと過ごして,説法をしたとされる.鐘はないけれども少し離れたところに日本人が作ったものがある.今は発掘されたいくつかのストゥーパ(記念碑)や,僧堂の跡があるが,お釈迦様の時代のものではない.
 早朝に仏蹟を巡るのはとても気持ちがよい.空気も引き締まっており,すがすがしい気分である.本堂にはお釈迦様の台座があり,インド人の僧侶が一人お経を読んでいた(写真).その側で五体投地の三拝をしてから,どんなお経を読んでいるか覗いてみた.『マハーパリトラーナ』というパーリのお経.ちょっと声に出して読んでいると,僧侶がこのお経をあげると言って差し出してくる.断ると,お寺に行けば同じ本があるから大丈夫だと言って勧めてきた.お金はほしくなさそうだったが,この聖なる場所で毎日読まれている有難いお経本を,むやみに私の家の本棚に入れるべきではないと考え,結局受け取らなかった.この僧侶の穏やかな目が忘れられない.
 シュラヴァスティは小高い丘になっており,雨季を過ごすにはなかなか快適な場所だろう.台座でお拝をしていると,お釈迦様の声が聞こえてくるような気分であった.僧侶たるもの,お釈迦様の教えを常に求め続けなければならない.
 この後近くにあるマヘートと呼ばれるエリアへ.ここには大枚をはたいて祇園精舎を寄進したスダッタ長者のストゥーパと,改心した殺人鬼アングリマーラのストゥーパがある.
 シュラヴァスティを後にして一行はカピラヴァストゥへ.国道でない細い道を行くので4時間.ここは舎衛城と訳されるところで,お釈迦様が王族として育ったところだ.3つの門から街を見に出かけて老病死の苦しみを目の当たりにし,4つ目の門で出家者を見て出家を決意したとされる「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の話は有名な話だ.お釈迦様の出家後,跡継ぎを失ったこのお城は,お釈迦様の存命中に滅びてしまう.
 このカピヴァストゥのあった場所が定かではない.国境をはさんでインド側にあるものと,ネパール側にあるものとの2つがあり,インドとネパールが相譲らない争いになっている.もちろんインド人にとってカピラヴァストゥと言ったらインド側にあるものだけを指す.道を訊いたほとんどのインド人は,カピラヴァストゥがネパール側にもあるということすら知らない様子だった.

 そんなわけでインドがプライドをかけて整備しているカピラヴァストゥは,ほかの聖地よりもきれいになっていた.中央にストゥーパがあり,復元されたレンガと,広大な芝生,池,花まで植えられている.あまりに人工的でゴルフ場のようにも見えた.だがこんなインドの端の端まで訪れる人はまれであるらしく,近くには宿も店もない.ただ田畑が広がるばかりである.公園管理事務所には2,3人いたが,遠目からこちらを見ているだけだった.入場料も無料.
 さて次の目的地であるお釈迦様の生誕地ルンビニは,ここから30キロも離れていない.お釈迦様のお母さんのマヤ夫人(ぶにん)が里帰り出産でこのお城から出発したが,ほどなくルンビニで産気づいてしまう.だからカピラヴァストゥはルンビニから遠くないという訳だが,今この間にはインドとネパールの国境があり,インド人・ネパール人だけが超えられる.外国人は50キロほど離れたスノウリという街で手続きをしないとネパールに入国できない.それがわかって一行はスノウリへ.
国境 スノウリにある国境は,意外なほどにぎわっていた.インド人とネパール人は手続きなしで行き来できるため,双方から人がどんどん出入りしている.したがって門も開けっ放しで,我々が黙って通っても誰にも咎められないような感じがしたほど.空路なら10分で手続きが終わるのでそれぐらいだろうと思っていたのだが,この入国手続きに予想外に時間をとられた.運転手が書類をもってあっちこっちに行ったり,インドルピーをネパールルピーに両替したりしているうちに小一時間ほど経ってしまう.
 そこでまた昨日の夕方のことを思い出した.これからルンビニに行っても日が暮れるまでまた30分ほどしかない.ネパールのカピラヴァストゥは見ることすらできないだろう.そこで手続き終了寸前の運転手を呼び止めて,手続きを中止してもらう.払ったお金は返ってこないので,運転手はどうしても今日中に行きたい様子だったが,明日の手続きに必要なお金はこちらが出すということで納得してもらい,宿に入ることにする.
 夕方の余った時間,スノウリの街中を見物.といっても見るべきものはなく,店を見て回るだけ.観光客向けの店もなく,バケツとか,自転車とか,ハエがたかったお菓子なんかを見て回った.当然買うものもなし.国際電話があったので山形に電話.祖母には「今ルンビニの近く」と伝えた.蚊に刺されながらコーラを飲んで宿に帰る.
 ここの宿は食事は美味しかったが,それ以外は最悪.電圧が足りないらしく,暗いしお湯も出ない.夜中に蚊に悩まされて何度か起きた.もっとも,バックパッカー(低額旅行者)にとってはこれでもかなり贅沢なほうだろう.国境近くで1人,日本人のバックパッカーに会った.バスでヴァラナシへ行くという.

 国境管理事務所が6時から開くと聞いたので今日もまた5:30朝食,6:00出発.運転手のほうは昨日と同じ手続きなのでテキパキと,しかし1時間ほどかかっていた.そろそろ手続きが終わるかというとき,ネパール帽をかぶった警官に声をかけられる.ラコステのTシャツなどを着ているのでまた売り子かと思ったが,帽子が公務員の目印らしい.話を聞くと,外国人だったら車の手続きだけでは不十分で,各自入国ビザを取らなければならないと言う.そこで手続きが終わった運転手に待ってもらって再びインドの事務所へ.入国手続きの前に,インドで出国手続きをしなければいけないという訳である.
 インドの出入国管理事務所は道端にあって警官が2,3人.小島さんと円実さんの手続きは問題なくいったが,私のところで止まってしまう.私のインド入国ビザには「14日以内に登録が必要」と書かれている.これはプネーに住民登録をするという意味で,警官に住民登録証を見せた.「これではない.登録というのは,ネパール入国許可の登録だ」などと言ってくる.ネパールに入りたかったら,今からプネーに帰って,許可を取ってこいという.そんな無茶な!と目の前が真っ暗になった.multiple
entry(期間中何回でも出入国できる)のビザだと言っても警官はきかない.挙句の果てに「こういう許可証が必要なんだ」とそれらしい書類を出してくる(後日わかったことは,デリーかムンバイならば許可証なしに出国できるが,それ以外では居住地の警察で発行された許可証が必要とのこと).
 ここで小島さんが,「我々は3人で旅行しているんだから,一緒に通してもらえないと困る」とそっと袖の下500ルピーを渡す.警官は何食わぬ顔で「次からは許可を持ってくるように」なんて言ってハンコを押してくれた.日本だったらどちらも罰せられるような行為だが,インドでは当たり前のようにまかり通っている.ともあれ難関を脱して心軽やかにネパールに入った.
 一方ネパールの出入国事務所はとてもスムーズ.ビザも3日以内に戻ってくる場合なら無料.インド人の狡猾さとネパール人の誠実さを一度に見た気がした.この手続きに結局また1時間かかり,合計2時間も足止めを食ってしまった.一行はネパールに入り,ルンビニへと向かう.国境からルンビニへは30〜40分ほど.


あなうれし 花の御園に みほとけの
生(あ)れしよき日ぞ 讃えまつらん
 ルンビニはマヤ夫人がお釈迦様を産んだところだ.生まれてすぐ7歩歩き,右手は天を指し,左手は地面を指して「天上天下,唯我独尊」とのたまったとされる.事実そうだったのだろうか,後世の作り話ではないだろうかなどと考えてはならない.人々の心の拠り所となってきた伝説の重みを蔑ろにしてはならない.また,「唯我独尊」を,「お釈迦様だけでなく人は誰でも尊いものである」とする解釈があるが,私はこれに賛成しない.お釈迦様の尊さは,仏教徒にとって他の何かに代えられるものでは決してない.
 中央には大きな寺院があり,その中に遺跡がある.イスラム教徒によって顔を削り取られた像と,お釈迦様の実在を証明したという仏足跡がガラス張りで保存されていた.寺院の周りにはマヤ夫人が産むときにつかまったというアショーカの木,沐浴池やアショーカ王柱の復元(ちゃちい)があり,全体に明るい感じになっていた.誕生というのは誰であれ喜ばしいものである.
 博物館は日曜のみ開館.周囲には日本人の建築家が作った計画に基づいて各国の寺院がまさにお寺を作っているところだった.「総教日本」という日本のお寺もある.敷地内に店はあったがインドと違って売り子は全く寄ってこなかった.ネパール人の顔つきは日本人に近く,何となく好感が持てた.
東門 さて次はネパール側のカピラヴァストゥ.ルンビニから30キロぐらいにあり,現在はティラウラコットと呼ばれている.行ってみるとルンビニ開発局の職員が入り口にいて案内してくれた.
 現在は東門と西門の跡が残っているという.東門はお釈迦様がここから出家したという門だ.目の前に広がる広大な風景を見ながら,妻子を捨て,何もかも捨ててここを出たお釈迦様の気持ちを察して複雑な気持ちになった.

 両方見た人はたいてい,ネパール側の方が本物のカピラヴァストゥだと思うそうだが,私もそう思った.平地のインド側のカピラヴァストゥと比べて,ネパール側は起伏があり,お城に近い.2500年も経っているのでそれだけでは何とも言えないだろうが,雰囲気はよく出ている気がする.しかしネパールはお金がないと見えて,発掘はほとんど行っていなかった.

 夏草や つはものどもが 夢の跡
廟 さらにその雰囲気を強めたのが帰りに寄ったお釈迦様の両親の廟である.もちろん後世に建てられたものであることは間違いないが,ここでは今もなお,現地の人によって供養が行われていた.我々が来るから見世物として始めたのかもしれないが,とにかく供養が行われていることにかわりはない.
 もはや当時の面影を残さない仏蹟は,他の遺跡と違って信仰の対象でもある.ここに現在進行形で供養が行われていると言うことは,一生に一度訪れるかの私たちにとっては非常にありがたいことだと思った.
 入り口に戻ると子供たちがわんさか集まっていて,群がるようにお金を要求してきた.子供は正直なものだと思ったが,周囲の家の作りを見ると,インドの寒村以上の貧しさが感じられ,可哀相に思われた.

法華ホテル ここにも博物館があるらしかったが,ディワーリー(現地ではラクシュミープージャーと言っていた)のため休み.帰りはルンビニにある法華ホテルという日本のホテルで昼食.日本の高僧が泊まるのだろうかと思うくらい,この場所に似つかわしくないたたずまい.宿泊費も食費も,東京都内のホテル並みだ.和室には畳敷きに布団がもう敷いてあり,その上きれいに掃除されていた.大浴場もある.レストランでは天ぷらなどの日本食もある.1991年にできたというからバブル全盛のころだろうが,12年経った今も手入れが行き届いているのが不気味なくらい.オーナーも客もほとんど来ておらず,40人ほどの従業員がどうやって食べているのだろうか心配になった.
 ネパールからの出国は簡単だった.ネパールの事務官は,「今度はネパールでもっとゆっくり過ごせるように来て下さい」と心温まる応対.その一方で賄賂をもらったインド警官は何食わぬ顔で応対,感謝しろと言わんばかりだったのが,少し頭にきた.
 とはいえネパールは平和な国では決してない.ゲリラがいるらしく,道で何度も検問があった.しかも銃を構えた兵士がドラム缶越しに銃口をこちらに向けていたのが恐ろしい.

またパンク
 国境を越えて一路お釈迦様涅槃の地クシナガルへ.しかしまたタイヤがパンク.近くの村でタイヤを修理してもらっている間チャイを飲んで過ごす.珍しい外国人の訪問で,医者だという人が見にきた.今日はディワーリーだけど仕事はしていると言っているそばから,お呼びがかかって帰っていった.彼の仕事場は道向かい.薬局みたいな小さな小屋があるだけだったので,「医者なのか?」と思って行ってみると,その小屋の中で女の子に注射をしていた.怪我をして抗生物質を打っているらしい.注射が終わってディワーリーの灯りを準備をしているところに,「喉が痛い」と言ったらその場で診察して,青いタブレットを出してくれた.インドの風邪薬は強くて胃腸をこわすと聞いていたので辞退したものの,こういう村医者が日本にもいたらいいなと少し思った.
 途中何度か踏切で止まったが,インドには踏切の有名な話がある.遮断機が降りると,車は右車線にもどんどん入っていく.遮断機が上がったときにすぐに出発できるようにするためだ.しかし踏切の反対側でも同じことが起きている.その結果どうなるか.遮断機が上がったとき,どちらも道路が全車線ふさがっていて車が少しも前に進めなくなってしまうのだ.それでもインド人はつい右車線に出てしまう.自分だけは大丈夫だという信念が,インド人の特徴なのかもしれない.
 この村で日が暮れてしまい,夜道を走ることに.無灯火の自転車が至るところに走っているし,街ではディワーリーで皆騒いでいるので人を跳ねはしないかとヒヤヒヤした.だがどの家でも小さいろうそくをたくさん点してディワーリーのお祝いをしている.電気もろくに通っていない村に,ろうそくの光が無数に浮かび上がってくるのは非常に美しい風景だった.

 この日が実質的な旅行の第1日目.早朝の飛行機でラクノウまで1時間.ホテルから空港までのタクシーは,フロントでは150ルピーと言われたが実際は200ルピーだった.ホテルからのタクシーは値段が上がるのが普通らしい.
  ラクノウは仏蹟がたくさんあるウッタル・プラデーシュ州の中枢都市だ.デリーからはそれほど遠くない.この空港で旅行代理店が手配した運転手付きの車に乗り込む.手配したといっても白ナンバーだった.運転手はマノージ・グプタ(30).対向車の間合いを見極めた追い越し運転と人並もクラクションを鳴らしながら猛スピードで駆け抜ける豪快さの一方で,曲がり角に来るたびに必ず通りがかりの人に道を訊く慎重さも持ち合わせており,移動時間はかなり短縮された.5日間,合計1300キロを走行したが,人はもちろんのこと,犬や山羊も轢かなかったのは奇跡に思われる.英語はあまりわからず,ヒンディー語で話をする場面が多かった.

アヨーディヤ
 一行は一路アヨーディヤへ.ここは仏蹟ではなく,ヒンドゥー教の聖都とされる.アヨーディヤに行くという話をしたら,インド人の友人に「私も行ったことがないのに!」とえらく羨ましがられた.陰謀で都を追い出されたラーマ王子が,妻のシーターと弟のラクシュマンを引き連れて14年に渡る大冒険を繰り広げ,凱旋したときに,街の人々が灯りをともして祝った故事(『ラーマーヤナ』)が,ディワーリー(梵・ディーパーヴァリー 灯りの列)の元になっている.折りしもディワーリーの時期,この街は数日前までかなり危険な状態だったという.
 中心にあるラーマ寺院の裏に,イスラム教のモスクが建設されるとかどうとかで,イスラム教徒とヒンドゥー教徒が争っている.ヒンドゥー教徒は聖地奪還と言わんばかりに全国からアヨーディヤを目指して行進を始め,紛争を回避しようとする警察に大勢の人が拘束・逮捕された.政治問題も絡んでいるらしい.危険な状態が続いているならば訪問中止も考えられたが,マノージは問題ないと言っており,実際にも抗争の跡すらない平和な街だった.問題のラーマ寺院に参拝.行者がたくさんいて出迎えてくれた.お参りしているときに「Money!」というのは興醒めだったが,それにもだんだん慣れてきている.
犬猿の仲 近くにはハヌマーン(猿の神様)の寺院もあったが,本物の猿もたくさんいた.屋根をどたどた走り回ったり,道端で何か拾って食べたりしている.犬猿の仲というけれども,落ちている食べ物をめぐって猿が犬を威嚇するのを見て,本当なのだと思った.写真は争いが終わって去っていく犬とまた食べ物を見つけて食べている子供の猿.

プリー屋 昼食は屋台でプリー.お父さんと娘だろうか,2人でやっている.お父さんが調理,娘が盛り付けと配膳.隣の屋台でチャイを飲む.食事をしながら店主や休んでいるおじさんたちから情報収集.カタコトのヒンディー語でも,ジェスチャーを交えながら話をすると結構通じるものである.アヨーディヤをめぐるヒンドゥーとイスラムの争いのことを少し聞くことができた.
 ここから一行は北上,シュラヴァスティへ.ラクノウからアヨーディヤは80キロぐらい出せるいい道が続いていたが,ここからは国道であるにも関わらず,悪い道が多かった.舗装がはがれて穴だらけの街道,街や村に入ると極端に狭くなる道,時速は30キロが精一杯.ここから5日間,ほとんどこの調子だった.

パンク そんな道なので車がパンク.スペアタイヤに交換して,近くのパンク修理屋に駆け込む.空気つめとパンク修理だけのお店で,1回10ルピー程度.それでも空気をつめるコンプレッサーがあるだけ豪華だ.それなのに従業員が3人くらいいて,2人が小屋の中で暇そうに昼寝していた.隣の小屋は床屋になっており,パンク修理が終わる頃に客が一人やってきたが,パンク修理屋の親父が対応していた.パンク修理兼床屋,日本ではまずあり得ない職業の組み合わせだろう.
 道中何度か休憩をしたが,田舎ではトイレがない.「Toilet kahaan hai?(トイレはどこですか)」と訊くと「Toilet
nahiin hai!(トイレはありません)」という答え.どうぞその辺でご自由にということなのだ.道路の上で堂々とウンコしている子供もたくさんいた.女性だったらけっこう厳しい旅行かもしれない.

子供たち 都市部ばかりを回る旅行だが,こうした片田舎に突然止まってそこに住む人々の生活ぶりを知るのもいい機会である.都市部ではすぐに子供の物乞いがやってくるが,ここまで田舎になると子供も緊張して近づいてこない.左は警戒しながら逃げていく子供たちをやっと呼び止めて撮った写真.親も子供がさらわれるのではないかと言わんばかりに不安そうに見ていた.パンクが直るまでの30分ほど,ノスタルジックな光景に浸ることができた.
 ちょうどこの辺りからお釈迦様が活動した領域に入る.土地は広く豊かで当時ならば相当富裕な国であったことがうかがわれた.僧侶のような物を生産しない人々が行乞で生きていくためには,それなりに豊かである必要があるだろう.現代は土地が豊かでも経済的に豊かでないことが多いが,2500年前からあまり変わっているとは思えないのどかな田園風景に,とても心が安らいだ.
 シュラヴァスティに着いたのは17:30.日がどんどん沈んでいき,あっという間に暗くなってしまった.30分でここを見るのは時間的にも気分的にも無理な話.急いでぐるぐる回っていると,ガードマンが木に貼り付ける金箔を渡してきて,それを貼り付けてから50ルピーを請求された.急いでいなければ断ることもできたのだろうが,失敗.旅に余裕は大事である.
 6時になると日は完全に暮れてしまい,外国人入場料の2ドルがもったいないくらいで,ガードマンに掛け合って同じチケットで明日も入れないか交渉してみたが無理だった.その上売り子が群がってくる.素焼きのミニ仏像とか,パンフレットとか,挙句には日本円の500円玉を売ろうとするのまでいた.しかも日本語を心得ていて,「先生!先生!」と呼びかけてくる.さすがにこれにはウンザリ.
 シュラヴァスティに宿はなく,近くのバルランプルのツーリストバンガロー(国立宿泊所)に宿泊.客はほとんどおらず,公務員である従業員はとても暇そう.夕食の注文を3人で取りに来たり,テレビが映らないと言ったらまた3人で交換してみたりと,人が明らかに余っている様子だった.しかしそんな対応が誠実に見えて好感が持てた.

 仏蹟はインドの北東部,ネパールとの国境付近にある.今住んでいるプネーという街はインドの中西部にあり,博多から札幌くらいの距離がある.そこで第1日は大学が終わってから移動日となった.プネー発19:30の飛行機でデリーまで2時間.空港近くに宿泊.
 デリーの空港出口ではタクシーの客引きがうようよ.小島さんと,部下の円実さんは旅慣れたもので150ルピーのプリペイドチケットをカウンターで購入し,タクシーに乗り込む.ところが運転手が「Extra 20 Rupees!」などと言ってきた.理由を聞くと荷物代などと言う.カウンターでは荷物を見せた上で運賃を支払っているので,日本人だから小金をせしめようという魂胆が丸見え.3人がかりで運転手に文句を言って支払わなかった.そのうちタクシーは道を間違えてあちこち行った挙句,結局空港近くの宿に到着.運転手は着くと今度は「Extra 60 Rupees!」などと値上げしてくる.結局ホテルマンに追い払ってもらったが,チェックインが終わるまで入り口でじっとこちらを見ていた.
 もしプリペイドでなかったら,道に迷うふりをしてあちこち走り回り,高額なタクシー料金を要求してきただろう.インド人の抜け目のなさに,旅行者は油断してはならないことがいきなりわかった.

第1回:2003年

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 毎年10月,北ドイツの中都市エッセンでは「シュピール(Spiel)」という国際ボードゲームメッセが開かれる.世界中のボードゲームファンが4日間に14万人つめかけ,新作のボードゲームに興じるお祭だ.日本からも少なからず行っており,私も昨年初めて参加してその楽しさを堪能した.今年は10月23〜26日.インドではディワーリーという正月期間中で授業もない.ドイツへは,日本から行くよりも近いだろうとかなり真剣に検討していた.
 そんなところに,プネーで働いている企業駐在員,小島さんからお誘いがかかる.ディワーリーに,北インドの仏蹟を回る計画.これは大きな魅力であった.エッセンは遠いが,日本からでも割と行きやすい.しかし北インドというと,時間がかかる上に現地移動の交通手段が悪く,バスや電車を半日も待っているのではかなわない.小島さんが計画したプランでは,空港から車をチャーターして5日間,仏蹟の名所を効率よく回るというものだった.エッセンへの諦めはしばらくつかなかったが,何が大事かを自分によく言い聞かせ,お釈迦様の足跡を辿る旅へと出発した.

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