Buddhism: 2004年11月アーカイブ

石窟寺院めぐり

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 日本人10名ほどでバスをチャーターしてプネー近郊の石窟寺院めぐり。
 石窟寺院とは断崖になっている岩山に横穴を掘って作った寺院。ストゥーパが置かれた本堂(チャイティヤ)と、僧侶たちの住まい(ヴィハーラ)からなる。時代は紀元前200年〜紀元後200年まで上座部が作ったものが第一期,それからしばらく空いて紀元後5〜7世紀に大乗仏教が作ったものが第二期.あとは場所によって金剛乗(密教)や,ジャイナ,ヒンドゥーが後代になって相乗りしたところもある.
 第一期は偶像崇拝を避けて仏像が彫られず,本堂でもストゥーパ(卒塔婆〈そとうば〉の語源となったモニュメントで丸いドーム状の置き物)が本尊になっていた.シンプルな作りになっている.第二期になると大乗仏教徒が盛んに仏像や菩薩像を彫り始める.その上豪奢な彫刻まで残し,壮麗な寺院となった.どちらがいいかは,好みである.
 プネーやムンバイのあるマハーラシュトラ州というところはデカン高原の入り口になっていて,こうした断崖が多いため,石窟寺院が盛んに作られた.そして山の高いところや森の深いところに作られたのが幸いして,破壊を免れて現在に至る.これまでにマハーラシュトラ州全体で23箇所,合計900の石窟が発見されているという(うち400はJannarというところに集中しており,あとはだいたい1箇所あたり10〜20ぐらいずつ).
 有名なのはアジャンタとエローラで,高校の世界史でも習うほどだ.その2つもプネーから1泊すれば十分回ることができる.だが今回訪れることになったのは,通好みの石窟寺院,カルラ,バジャ,ベルサ,シェラルワディという4箇所.いずれもムンバイとプネーの中間に位置し,駐在員の方々はよく行っている様子だった.
 険しい山を登った先にある,当時の仏教の繁栄を物語る壮大な彫刻にしばし心を奪われた.
カルラカルラ(Karla/Karli)
 実は本堂の大きさがインドで一番大きい(525平方メートル)というところなのである.2番目に大きいアジャンタでも369平方メートルで,群を抜いているのが分かる.ただ建設は紀元前1世紀くらいと,やや新しい.他の寺院に負けじと頑張って掘ったのだろう.
 現在はヒンドゥー寺院が出店していて,そこへお参りに来る人と,ピクニックに来る若者・家族連れで大いに賑わっている.中腹まで車で行くことができ,あとはちょっと登るだけで見晴らしのいい高台に上がれるのもいいらしい.入場料はインド人5ルピー,外国人100ルピー。プネーに住んでいることを主張したが,聞き入れられなかった.「インドに高い税金払ってんのに,またここでたくさん取られるのは解せない!」と駐在員の方が言っていた.
 本堂に入ると中央奥にストゥーパがあり,両脇に柱が並んでいる.柱にはブラーフミー文字(お釈迦様の時代から全国的に使われていた文字).後で調べたら,寺院への寄進者の名前が彫られているらしい.どこのお寺も同じだなあと思う.当時はここに僧侶が住まい,在家信者の寄進で暮らしていたという.
 階段を登る参道はずっと両脇に商店が並び,お供え物や軽食,音楽テープ,サリーまで売っている.人もわんさか集まり,駐車場は満車.ムンバイから来たという高校生の一団などがいて,口笛を鳴らしたりしていた.にぎやかさが印象に残る場所だった.

バージャバジャ(Bhaja)
  カルラの近くにある寺院.こちらは最初から徒歩で行くほかなく,かなり登ったところにある.でも石の階段がよく整備されており,登るのに苦労はない.登ったところでまたもや入場料100ルピー.
 ここは小さいリンガ(シヴァ神の象徴)が申し訳程度にあるだけでヒンドゥー寺院がなく,インド人で来ているのは単なるピクニックである.それでもなかなか賑わっていた.お年寄りも見かけられ,あれだけの階段をサンダル履きでよく登ってきたものだと感心する.
 駐在員の松田さんが仰っていた通り,規模は小さいながらも趣のあるところだった.むき出しの岩がかなり残っており,また掘ったところが一部崩れていて,そのため断面図のように構造が分かって面白い.また,14基のストゥーパがずらりと居並ぶところも面白い(普通はひとつの本堂に1つずつ).ストゥーパ屋さん? それとも過去七仏・未来七仏? 不思議だ.

バルセベルサ(Bedsa/Badse)
 少しプネー方面に近いところにある寺院.途中から舗装がなくなり,村を抜けたところでバスを降りると,またしも長い長い階段を登る.まさに今階段を建設しているところで,8割方完成していた.入場料はなかったが,階段が完成した暁には100ルピーになるのかもしれない.そうでなかったらおかしいと思えるほどの立派な階段だった.
 この寺院は,最初期である紀元前2世紀に作られたものだという.その後大乗仏教が5世紀に入って彫刻をほどこした.前方の岩(写真右側にちらりと見えている)を残したままで奥だけきれいに整備した点が特徴.そのため中は日がほとんど当たらず,とても涼しかった.幹線道路からも遠く,山も険しく,しかも入り口が狭くなっているという条件が揃っており,保存状態のよさは抜群.彫刻もひとつひとつ非常に鋭利な形で残っている.
 11月末とはいえ,日中の温度は30度を超え,乾期で太陽の照りつける中で階段を延々と登れば汗だくになる.もう3つ目ということもあり,登ったところでみんな腰を下ろしてへたっていた.
 しかしここにも家族連れ.赤ちゃんを連れてよくここまで登ってきたものだと思うと,インド人根性にまたもや関心.空気はうまいし,見晴らしはいいし,涼しいし,上り下りは健康にいいしで,石窟寺院は人気の観光スポットなのかもしれない.

シェラルワディシェラルワディ(Shelarwadi)
 プネーから20キロほどしか離れていないところにある小さな寺院跡.ここは現在,シヴァ寺院になっていた.入り口に牛の置き物があり,そこにいるおばちゃんに聞いても「仏陀?ストゥーパ?ヒンドゥー寺院ならあるけど…」という反応.小島さんが新聞社に問い合わせて調べておかなかったら,引き返していたかもしれない.
 小さいとはいえ,山をずっと登っていくことには変わりがない.みんなかなり疲れている様子.ゆっくり登ろうかな…と思ったところに,元気のいいおじさんが犬を連れて現れた.「ここは何のお寺ですか?」「偉大なるシヴァ神」と答えつつ,ものすごい速さで登っていく.私も負けじと付いていった.登りながらおじさんは「シヴァシャンバウ…」とシヴァ神の名前を唱え続けている.犬もすたこら階段を登っていく.付いていくうちに.勢いであっという間に寺院まで来てしまった.
 本堂だったと思われるところは見当たらず,僧院跡を改造してシヴァ寺院にしていた.リンガの周りを参拝し始めるおじさん.どうも毎日来ているのではないかと思われる.
シェラルワディの頂上 その奥に一歩足を踏み外したら崖の下という険しい道があり,そこを登っていくとまたもや僧院を改造したやや小さめのシヴァ寺院が現れた.こんなところに僧侶が住んでいたなんて…と思って横を見ると,さらに登る道があるではないか! 不安になりながらも,やたら危険な道をそろそろと登っていく.すると次第になだらかになり,山の頂上が見えてきた.
 何とここに,一件の寺院が建っている.そしてヒゲの長い聖者と,子供連れのおじさんがいた.あっけに取られていると,聖者が「入れ入れ」というので寺院に入り,そこでまたリンガを見る.お参りして出てくると,水を出してくれた.とても怪しくて飲む気にならなかったが,聖者が「大丈夫,濾過しているから」と(英語で)言い,しかもみんなが見ているので仕方なく飲む.なかなか美味しかったし,お腹も大丈夫だった.
 そうしているうちに,他の人たちもやってきた.聖者は珍しい来客を喜び,チャイを作り始める.それを飲みながらしばらく歓談した.聖者は,何とこんな山のてっぺんにある寺院に住んでいるという.サンスクリットはわからなかったが,何となく心の中を見透かされているような気がした.
 歓談していると「シヴァシャンバウ…」とまた聞こえてきた.先のおじさんが下からお参りを終えてここまで登ってきたのだ.あの命がけの険しい道も彼にとっては日課になっているようだ.帰り道もそこを通るのかと思って聞いてみると,安全な近道があることが判明.おじさんが案内してくれ,そこを通って帰る.おじさんも,帰りはそこを通るようだ.
 寺院自体は見るべきものがほとんどなかったが,人との出会いがここで一番の収穫だった.できればまたあの聖者に会いに行きたいものである.
 帰りはもうひとつ,仏教学者アンベードカル博士の寺院をちょっと見学.図書館で生活し,1日20時間勉強していたというマハーラシュトラの偉人である.新仏教を代表する近代的な寺院で,その大きさに驚いた.
 こうして解散は夜7時30分.実に10時間に及ぶ旅行で,階段の上り下りの連続はみんなこたえた模様.私はというと,自転車通学とヨーガのおかげかそれほどつらくなかった.インドに来て健康になったのかもしれない.またもやバスのチャーターからルートの下調べまでお世話になった小島さんにはとても感謝したい(写真提供:小島氏(シェラルワディ1枚目)).

仏蹟(4)ナーランダ

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ここが燃えに燃えたという図書館跡。3階建てだったという
ナーランダ

ラージギルを出てバスで15分、ここも馬車かサイクルリキシャーしかない。値段を交渉して馬車に乗り10分。ナーランダ大学跡に到着した。政府が発掘と整備を今も進めており、例によって外国人料金が設定されている。残念ながら博物館は金曜日休館。
ナーランダは世界最古の大学があった場所だ。もとは仏弟子シャーリプッタとモッガーラナの故郷で、仏陀も時々訪れていたところ。仏滅後もシャーリプッタの高名のため寺院が作られ、ナーガールジュナ(竜樹)を輩出している。大学になったのは5世紀で、12世紀まで続いた。7世紀にやってきた三蔵法師はここで5年間学び、当時ここに3000人の教師、10000人の生徒、900万冊の写本があったことを伝えている。門戸は狭く、入試があって10人中2人ほどしか通らなかったという。倍率5倍というわけだ。主として仏教が教えられたが、論理学、文法学、物理学、数学、薬学、なども学ばれていた。仏教論理学で名高いシャーンタラクシタはここの卒業生で、チベットに招かれて仏教を広めた。
滅びた原因はシャンカラ(ヴェーダーンタ学派)やクマーリラ(ミーマーンサー学派)など賢人を輩出したバラモン教の台頭、タントリズムの流行、仏教教団の中の分裂が挙げられるが、決定的なのはムガル帝国による弾圧で、図書館に火がつけられ6ヶ月間燃え続けたという。焼失した写本が今に伝わっていたら、仏教研究はもっともっと盛んになったことだろう。とても悔しい。ガイドは壁を指差して「この辺りが黒くなっているのが火事の跡だ」と言う。
ムガル帝国にだいぶ破壊されたものの、他の遺跡と比べてまだ原型をとどめている。11の建物は周辺が寮、中央が教室になっていて、井戸や浴室、排水溝なども残っている。寮は1部屋に2人住むようになっており、奥が先輩、手前が後輩だったという、ベッドのわきには本棚も。大学といっても僧院なので、麻雀をしたり酒を飲んだりするような真似は絶対にできなかっただろう。ひたすら勉強と崇拝に打ち込むしかないのだ。今なお残る10世紀前後の難解な書物は、このように世間から隔離されたところで長大な時間をそれだけに費やした結果生まれたものなのだろう。私も向学心をもっともっともちたい。
仏像などは全くないのだが、大学の雰囲気が気に入って4,5時間ほど滞在した。帰りはガヤーまでバス。ちょうどディワーリー(ヒンドゥー新年)の日で、全ての家で窓や屋根にろうそくやランプの火を点しているのが見える。全戸で電気まで消して雰囲気があるなあと思ったら、電力会社が2時間、サービス停電にしているのだそうだ。そんなの聞いたことない。宿泊はまた「ブッダホテル」。翌朝発の列車でプネーに向かったが、待ち時間を入れて35時間かかったので帰宅は翌々日である。

仏蹟(3)ラージギル

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ラージギル


今もなお 鷲の高嶺に 月ぞすむ
人は入佐の 山とおもえど


ブッダホテルを早朝に出発にして、オートリキシャーでナンディニ・パークというバスターミナルまで30分。そこからバス「ビハール・シャリフ」行きに乗って2時間30分、90円。小高い丘に囲まれた旧都ラージギルに到着した。ホテルでは5時間かかると言われていたが、日本政府ODAによる舗装道路は快速だった。
ラージギル(ラージャグリハ)は仏典で王舎城と呼ばれる仏教にかかわりの深い土地だ。ラーマーヤナやマハーバーラタの時代にまで遡る記録に残っているインド史上最古の都で、仏陀の時代にはビンビサーラ王とその息子のアジャタシャトル(アジャセ)が統治しており、仏陀はこの2人によく招かれた。ビンビサーラ王が予言者から「あなたは今度生まれてくる息子に殺されるでしょう」という予言を受け、生まれてきたアジャタシャトルを幽閉する。しかしアジャタシャトルは母の助けで脱出、そして王を殺して自分が王座に就く。後に深い後悔に苛まれたアジャタシャトルは仏陀に帰依するのだが、この話がもとになってアジャセ・コンプレックス(ファザコン)という心理学用語が生まれた。
周囲を5つの山に囲まれ、攻め込まれにくいようになっている。それぞれの山はほどよい高さで、道があれば頂上まで30分ほどで登ることができ、それぞれの山の頂上にはジャイナ寺院が建てられている。その例外がラトナギリ(多宝山)で、ここには日本山妙法寺の藤井日達(にちだつ)上人が1969年に開いた世界平和塔(シャーンティ・ストゥーパ)がある。ここにはロープウェイのリフトが日本人(の資金)によって作られており、仏教徒か否かを問わず観光の目玉になっている。
しかし仏蹟として注目すべきはそのストゥーパではない。そのすぐ近くにあり、数々のお経の舞台となる霊鷲山(りょうじゅせん・グリッダクータ、サンスクリット:グリドラクータ)である。ロープウェイ乗り場から歩いて頂上まで20分ほど。ここも日本人(の資金)によって道が整備されており、とても登りやすい。「霊山橋」と名前のついた橋までかかっている。頂上には大きな石が斜めに突き刺さったようなかたちをしており、これが鷲の頭に似ていることから名前が付けられたが、今でも崩れずにそのままの形をとどめていた。
仏陀はラージギルに立ち寄ったとき、竹林精舎(ヴェーヌヴァーナ)に住まいつつ、ここまでわざわざ登ってきて説法を行ったとされる。経典が編纂されるのは仏滅後だが、その第1回仏典結集がこのラージギルで行われたということもあってか、冒頭が「このように私は聞きました。ある時、仏陀は王舎城の霊鷲山で...」と始まるお経が多い。法華経、般若経、観無量寿経などがそうだ。多くの場合がフィクションだとしても、この山に登ると祇園精舎にいたときのように仏陀の声が聞こえてくるようだ。しばらくの間坐って、般若心経と高嶺の御詠歌をお唱えしたが、その間訪れる人は誰もいなかった。
そこから3キロほど離れた別の山のふもとにある竹林精舎は整備され、外国人料金50ルピーで入場するようになっている。確かに竹が生えていて、その中央に仏陀が沐浴したというカランダ池がある。ここも人があまりおらず閑静な場所だった。そのすぐそばには大理石でできた日本山妙法寺がある。門前のチャイ屋は1杯5ルピーとか言ってきたので怒ったら3ルピーになった(喫茶店や空港などを除いて、チャイは1杯2〜3ルピーである)。
さらに山に近づくと、シヴァ寺院になっている温泉精舎がある。温泉が湧き出ており、これが癒しの効果を持っているとかで近くの住民が沐浴や洗濯をしている。入る気はせず、ちょっと眺めていたらバラモンがお祈りにやってきた。「仏教徒ですから」と断っても「(俺は)ノー・プロブレム」と言ってシヴァ・リンガを参拝させ、温泉に足まで浸からせ、その都度お布施を要求してくる。財布を開けて10ルピーを出そうとすると「100ルピー札があるじゃないか」などと言ってくるのでこちらも「私もプリーストだぞ。そういうやり方は...」と怒る。それで退散するかと思いきや、今度は「彼が仏教のプリーストだ」と次なる相手を......。ほかにも何人かから声をかけられた。ここに住み込んでいるバラモンではなく、早朝や夜に行けばいないらしい。でも温泉にちょっとだけ浸かることができたし、写真も撮らせてくれた(本当は禁じられている)のでよしとしよう。
この温泉精舎から20分ほど山を登っていくと第1回仏典結集が行われた七葉窟(サプタパルニー・ゲーハ)がある。窟といっても岩の下に隙間があるといった感じで、近くにあるシヴァ寺院の管理の関係上、午後3時以降は登山できない。そのため翌朝また行く羽目になってしまった。ジャイナ寺院の奥に何かあるのかと思い獣道を茂みをかきわけながらしばらく進むと、見晴らしのいい高台を見つけた。でもそのあたりは白いサルがたくさん生息していて、こちらの様子を絶えず伺っていたのが少し怖い。








タンガ。サンスクリット語のトゥランガ(速く走るもの=馬)に由来する
タンガ

というわけで見どころ満載のラージギル、それぞれが離れたところにある上、山を登らなければ見られないものがあるので時間がかかる。ホテルはバスを降りてすぐ近くの「ホテル・アーナンダ」(1泊250円)。移動はほとんど馬車だったが、これがなかなか快適。馬の状態によって全部速さが違うのが面白い。どなられてもぶたれてもちょっと足を早めただけですぐ元の速さに戻る。御者もあまり観光ずれしておらず、素朴な人が多い。馬車に揺られながら、馬のたてがみを見て何ともいえぬくつろぎを覚えた。この街には、オートリキシャーが走っておらず、時々バスが駆け抜けるほかはこの馬車かサイクルリキシャーしかいない。そのため空気が澄んでいるのが嬉しかった。
起伏のある地形と、見慣れない乗り物。これだけでわくわくしてくるものだ。結局ここには1日半、行ったり来たりしながら過ごした。これだけいたのに、時間がなくてロープウェイに乗れなかったのは残念である。またもう1度来てみたいと思う。
夜に市場に出てみると、サイクルリキシャーのおじさんたちがヒマそうにしている。日が暮れると客足も途絶えるのか、雑談しながら1日の疲れを癒している。そこに混じって馬車の値段の話や仏陀の話などに花を咲かせる。「仏陀は人間の姿をした神様だからねえ」「いいえ、仏陀は人間です。だからこそ人の苦しみを知り、それを乗り越える方法を示すことができたのです」などと異教徒相手に布教モード。最初に女を買わないかと言ってきたおじさんは、リキシャー仲間に追っ払われていた。

ボードガヤ

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11月1日からヴァラナシでの学会とコルカタでの調査で北インド。それに付随してまだ訪れていない仏蹟を巡礼している。
今日はボードガヤ。お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開かれたところで、仏教の四大聖地の中でももっとも重要かつ豪華な場所だ。
ここに来るまで知らなかったのだが、お釈迦様は菩提樹の下で悟りを開かれてから7週間を、近くを転々として過ごしたという。つまり7つの瞑想スポットがわずか100メートル足らずのエリアに集中している。

  1. 菩提樹・・・麻原彰晃が座ってから厳重に柵が作られた金剛座

  2. アニメーシャローチャナ・ストゥーパ

  3. チャンクラマ・チャイティヤ

  4. ラトナグラハ・チャイティヤ

  5. アジャパラ・ニグローダ樹・・・ここでスジャータの乳粥を受け取る

  6. ムチャリンダ湖・・・本当はここから1.5キロ離れたところにある

  7. ラージャヤータナ樹・・・この後1に戻り、49日が満了。説法のためサールナートに向かう。


この7つを順に回ってお拝をしていくのはオリエンテーションのようで面白く、15分ほどで終えると深い満足感を得た。
明日は霊鷲山(りょうじゅせん、ラージギル)。眺望がすばらしいとのことでまた楽しみである。

仏蹟(2)ボードガヤ

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ボードガヤー

明けの星 仰ぐ心は 人の世の
光となりて 天地(あめつち)にみつ
ボードガヤ(ブッダガヤ)は釈尊が悟りを開いて仏陀になった土地で、仏教の四大聖地の最も重要な場所とされる。生誕の地ルンビニと涅槃の地クシーナガル、初転法綸の地サールナート、そのどこよりもたくさんの信者が参拝しており、活気があった。これもひとえに世界遺産にも登録されている大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)によるものだろう。アショーカ王が紀元前3世紀に建てたのが始まりで、その後シヴァ寺院になったり、しばらくは打ち捨てられたりしていたが、ビルマ人の僧侶が19世紀から修復運動を始めて今日に至る。寺院の裏手には菩提樹が葉を広げており、その根元に釈尊が座っていた場所とされる金剛座がある。ここには今もなお見えない力が漲っており、それが僧侶や信者を引きつけてやまないような気がした。
半年に及ぶ苦行と瞑想の末、苦しみに満ちたこの世から逃げ出すことを諦めたとき、自身の感覚が研ぎ澄まされてくる。呼吸、鳥の鳴き声、木の葉、そして太陽の光―釈尊は考えることをやめ、それらをあるがままに受け止めた。バラモン教が説くアートマンはなく、全てのものが無我であると悟ったとき全ての邪見は消え去った。そして大樹の下で黙想し、何日か後、深い黙想状態に入っていた夜が明けたとき、全てを悟って仏陀となった。西暦前528年、春の満月の日だったと言われる(日本では12月8日が成道の日とされている)。その大樹は仏陀にちなんで菩提樹と名づけられ、この地もブッダガヤと呼ばれるようになる。
この後仏陀はサールナートに赴いて最初の説法を行うことになるのだが、その前にここで49日を1週間ごとに場所を変えながら過ごしたと言われる。まず第1週は菩提樹の下、金剛座にて。
アニメーシャローチャナ・ストゥーパチャンクラマナ・チャイティヤ第2週は少し離れた場所で立ったまま、菩提樹を見つめ続けていたという。その場所には「アニメーシャローチャナ・ストゥーパ(瞬きをせずに見ていた塔)」があり、中には目をぎょろりとさせている仏陀の像が祀られている。
第3週は再び瞑想をしつつ、菩提樹のまわりを行ったり来たり歩いた。そこには蓮の花が咲いていたということで、現在は石で作られた蓮の花が18個並び、仏陀の足跡を表す。

アジャパ・ニグローダラトナグラハ・チャイティヤ第4週になると菩提樹のすぐそばでアビダンマ・ナヤと呼ばれる深い瞑想に入る。ラトナグラハ・チャイティヤという建物が目印。
第5週はアジャパ・ニグローダという別の木の下に場所を移して瞑想を続け、ここでガリガリに痩せていた仏陀にスジャータという村娘がキールという乳粥を捧げる。

ラージャヤータナ樹ムチャリンダ湖第6週は、やや離れたところにあるムチャリンダ湖。この湖の底に住むコブラの王様ムチャリンダが瞑想を妨げに来た魔羅と呼ばれる悪魔から仏陀を守った。
第7週にいた場所はラージャヤータナ樹が目印になっている。ここで人類を苦しみから救おうという誓いを立て、2人の商人タパッスとブリアリカから食べ物の布施を受けて、再び菩提樹に戻る。そして菩提樹に礼拝した後、この地を去ってサールナートに赴いたという。
さて私がコルカタ発の夜行列車でガヤー駅に着いたのは午前5時。駅前にある「ブッダホテル」にチェックインした後、オートリキシャーでボードガヤに向かった。約10キロの道のりは霧がまだかかっており、非常に寒かった。夜がだんだん明けてくる。これぞまさに仏陀が悟りの朝に見た太陽なのかと思うと感慨深い。
大菩提寺は入場料一切なしで自由に入ることができる。中は意外と狭く、そしてフローリングがしてあったり仏像がやけに金ピカだったりもするが、ほっとする温かさだ。朝早くから僧侶や信者が集まってお経やお拝を捧げていた。私もその中に混じってしばらく坐ってみる。何か大きいものに守られているような安心感があり、気持ちがとても落ち着いた。
境内はたくさんのストゥーパがあるがそれほど大きくはなく、ものの15分ほどで1周してしまう。朝ごはんを食べようと出ると、予想通り物売りが菩提樹の葉を売りに来た。ヴァラナシ以来、物売りには極度の警戒感をもっていた私はやや強い口調で断って、朝ごはんのドーサを頼んだ。しかしこの時点でまだ9時。はてこれから1日どうしたものかと考えていると、またさっきの物売りが朝ごはんが終わったかと言ってやってきた。土産はさておき、近くを案内するというのだ。お金は好きなだけでいいと言ったが、50ルピーとこちらで指定した。渋々了承するその男。
彼の名前はバッチュ・シン。後を付いていくと自転車を出してきた。この後ろに乗れという。でこぼこ道を自転車に揺られながらのんびり。市場を抜けて橋を越えると、そこにはのどかな村が広がっていた。通りすがりの人が珍しそうに私を見る。道はだんだん狭くなっていき、途中から自転車を置いてあぜ道を歩いていく。「ここはサイクルリキシャーでも来れない。自転車が一番さ」などと得意げなバッチュ。最初に連れてきてもらったのは仏陀に乳粥を捧げたスジャータを記念して作られたストゥーパだった。発掘された後があるが、古いレンガが残る小高い丘に過ぎない。
スジャータ寺院そこからまたしばらく歩くとスジャータ寺院。裏にはビルマ人が建てたもう1件のスジャータ寺院があり、さらに近くにはシヴァ寺院がある。ここではガリガリに痩せてあばら骨が浮き出ている仏像にスジャータが捧げものをしている像が祀られている。それほど古いものではないようだが、大菩提寺からずいぶん離れているにもかかわらず、こうして丁寧に祀られているのはありがたさを感じた。寒村に暮らしながらなけなしの一杯を勇気をもって差し出したスジャータの慈悲は、釈尊を通してはるか遠く我々のところまで届いている。
そして釈尊が成道後第6週を送ったとされるムチャリンダ湖へ。大菩提寺の境内にある湖はコピーだという。これがなかなか遠くて、2キロはあったのではないかと思われる。朝とは比べ物にならないほど暑くなってきたので、バッチュは途中自分の家に寄ってセーターを脱いできた。子どもたちが家から出てくる。4人の子どもがいるそうだが、バッチュの年令は私と同じだった。
それからフランス人が創設したという孤児院を案内される。ヴァラナシだったらもうこの時点で寄付を要求されるのを覚悟しなければならないだろうが、1時間見学して帰るまで、寄付の「き」の字も出てこない。バッチュはただ自分の村にある珍しいものを見せたくて連れて来たのだし、孤児院の先生方も子どもも珍しい外国人が来たということを喜んで迎えるのだった。私の心はここでほぐれた。
このところビハール州は天候不順続きで、農家には大きな打撃を与えている。その結果生活が困窮し、みなしごや捨て子が多く出た。そうした子どもたちがこの学校で生活しながら勉強している。フランス人の校長先生が里親制度のようにしてフランスから経済的支援をしてくれる人を探し、経済面をまかなっているという。英語と算数の授業を見せてもらったが、教育メソッドはユネスコのものを取り入れているとかで、充実した内容に見えた。特に授業中に私語を禁止せず、思ったことをどんどん言わせるやり方は子どもたちも楽しそう。始まってまだ3年というが、ここの卒業生がインド国内外で活躍する日が期待される。
再び大菩提寺に変える途中、バッチュは草むらにある石碑に祈りをささげた。彼の亡き父親のモニュメントだという。この辺りでは、お墓はないがこうした石碑がところどころにある。そしてそこはバッチュの家の田んぼだった。この田んぼでバッチュの先祖たちは、数え切れないほどの時間を仕事に費やしてきたのだろう。そしてバッチュも土産売りの合間をぬって、この田んぼを耕しているのだ。このとき、自転車をこぐ彼の背中がとても大きく見えた。
半日近くまわって50ルピーとはあまりに安すぎるが、それは約束。その代わりバッチュがもっていた土産を見せてもらい、仏足を拓本にした布や、菩提樹の木の皮に掘った仏像などを多めに購入した。バッチュはこれが嬉しかったのか、昼食を食べるところまでずっと一緒にいてくれ、手紙をくれと住所まで教えてくれた。もっとも、住所を書いたのは別の青年で、バッチュは字の読み書きができない。こういう人間に出会うことができたのは、幸せなことだった。
帰りはガヤーまでテンポ(オートリキシャーよりちょっと大きい乗り物)。行きは一人乗りだったので80ルピーかかったが、帰りは相乗りで10ルピー。ブッダホテルは駅前なのに1泊150ルピー。一見刑務所の独房のような感じだが、テレビまで付いていたる。お湯は頼んでもってきてもらうが、バケツ1杯のお湯を用意するのに30分かかる。ビハールは噂どおり停電の多い街だったが、その分どこのホテルにも大きい自家発電機が付いていてあまり困らない。方々の自家発電機から出る黒い煙が、街中を煙たくしているぐらいのものだ。
聖地を見たその日に不謹慎なことであるが、駅前のレストランでビールを飲んだ。料理を注文したらボーイが小声で「ビールありますよ」とささやいてきたのだ。頼んでみるとビール瓶には新聞紙が巻かれている。ヒンドゥー教もイスラム教もこの地は厳格で酒に対する目が厳しい。しかしだからと言って新聞紙を巻いたら余計目立ってしまう。周りの人たちもちらちら見ているような気がして、不謹慎感が5倍ぐらいに高まった。

2004年11月10日(水)-----
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サールナート

千万(ちよろず)の 後の世までも 咲きかおる
御法(みのり)の花の御親讃えん
仏教の四大聖地のひとつに数えられるサールナートは、釈尊が初めて説法を行ったところ、つまり仏教発祥の地である。悟りを開いて仏陀になった釈尊は、苦行にこだわって鹿野苑(ろくやおん、パーリ:ミガダヤ、サンスクリット:ムリガダヤ、ムリガダワ)にいた5人の仲間のところに赴き、この世は全て苦しみであること、その原因は無知であること、苦しみをなくすためには真実を知るべきこと、真実を知るためには8つの正しい行いを実践するべきことを説く。いわゆる苦・集・滅・道の四聖諦と正見・正思・正語・正行・正命(正しい生活)・正精進(正しい努力)・正念(正しい注意)・正定(正しい坐禅)の八正道である。ときに釈尊35才。45年にわたる説法がここから始まった。
生き地獄のヴァラナシからわずか10キロ、オートリキシャーで40〜80ルピーほどで行くことができる。ヴァラナシとはうって変わって閑静な落ち着いたところだ。ヴァラナシの学会の前日、ここにある国立チベット研究所に宿泊していた私とI氏はまる1日を使ってのんびりと過ごした。








ダーメカ・ストゥーパ。5人のお坊さんがいるのが見えるだろうか
ダーメカ・ストゥーパ

ここのメインは巨大なストゥーパ、ダーメカ(サンスクリット:ダルマチャクラ)である。6世紀ごろに作られたといわれているがやけに大きい。中に入ることはできない(入口がない)。朝には近くの寺院からお坊さんが集まってきてお経を読んだり、プラダクシナー(右回りで1周する崇拝、右遶(うぎょう))をしたりしていた。
ストゥーパの前には僧院跡があり、その中央にムールガンダクーティ寺院(根本香積寺)の跡がある。釈尊が初めて説法を行った場所にちなんで建てられたもので、今は土台のみ姿をとどめる。その隣りにはアショーカ王柱も残っている(頭部は博物館に保存されている)。ストゥーパの反対側にも同じ名前の寺院があるが、これはスリランカのマハーボーディ教団が名前を借りて20世紀に建てたもの。古さはないが日本人絵師が描いた仏陀の生涯の壁画があり、またすぐ隣りには菩提樹と説法シーンを模した人形があって、こちらの方が見応えはある。
寺院跡の背後が鹿野苑で、囲いの中ではあるが今も鹿が生活している。ちょっとした動物園になっており、口を開けたまま全く身動きのしないワニや、狭いオリに何十匹も入れられたガチョウなどがいた。
遺跡の前には博物館があり、アショーカ王柱の頭部のほか、転法輪の印(胸のところで右手を「OK」、左手を「キツネ」のようにして組み合わせたかたち)をとった有名な仏像を見ることができる。物売りもしつこくなく、安心して参拝することができた。
どこにいってもお釈迦様もさぞ気持ちよく説法できそうだと思うほどの清々しさ。仏教は一切が苦しみであるという点からスタートするが、決してニヒリズムではない。苦しみを乗り越えて幸せを求めるというところに力点がある。この地には何かポジティブ思考を発露させる空気が漂っているような気がした。
遺跡の中ごろにはジャイナ教寺院があって、敷地が思いっきりかぶっていた。19世紀に建てられたものだという。そこからすればこの地が仏教の聖地として今日のように整備されたのはずいぶん最近の話で、それまでは荒れ放題で誰も手をつけてこなかったことが分かる。インドの仏教はこの地で完全に滅びていたのだ。

第2回:2004年

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小島さんが昨年選定した仏蹟は、最寄の空港から遠く、また鉄道も不便なところにあった。「残りはパトナから簡単にいける」という言葉を頼りに調べてみると確かにその通り。そこで翌年、ヴァラナシでの学会、コルカタでの調査の後に鉄道とバスを使い、1人でのんびり回ってみることにした。11月だったが閏暦の関係で今年もディワーリーにぶつかり、昨年のことを思い出した。
これで四大仏蹟の巡礼は満願。もともと億劫にしていた私にきっかけを与えてくださった小島さんには改めて感謝したい。仏縁というと大仰だが、何となく成り行きで留学してきたインドで、人の縁でお釈迦様と会うことができたのは、今後の人生にとって大きな意義をもつことだろう。

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