Buddhism: 2007年3月アーカイブ

今日の夜に予定されていた御詠歌の練習会は、参加者4人という寂しい状況だったが難曲の『歓喜』を心ゆくまで練習できて満足。

今年、師範養成所を卒業したばかりの新人さんが現れて嬉しかった。師範養成所とは、全国の若き僧侶が2年、計30日間にわたって研修する梅花流の虎の穴。私も数年前にお世話になった。寝食を共にしてひたすら御詠歌に取り組むうちに、強い絆が生まれる。

休憩中に聞いた話だが、今期の師範養成所は、期間中(研修中ではないが)に1人お亡くなりになったのだという。私と同じくらいの年令で急逝。

そこで研修中に仲間は遺影を飾り、毎朝供養のお経を皆であげて、食事も毎食お供えし、遺影の前に法具を開いて研修する。最後の祝賀会は遺影の前に酒を継ぎに行く人が絶えなかったそうだ。

実に切ない話であるが、ここまで宗教団体らしい行動は、集団になって感情が増幅したのかもしれない。でもこんな危なっかしいとさえ思えるぐらいの情の熱さが、僧侶として大事な資質なのだろうと思った。

振り返るに最近の私は、僧侶の世間への説明責任ということに意識が偏りすぎて、感情の共有とか吐露といったものに重きを置いてこなかった気がする。

涼しい顔をして他人事みたいに説法しても、ついてくる人は少ないのだ。法話ひとつとっても、絶えず自分の問題として問い続け、もっと皆と一緒に泣き笑いしなければと思った。反省。

それにしてもそんな年で世を去らなければならない人がいる一方で、同じくらいの年令の私がのほほんと御詠歌を続けられているのも何かの巡りあわせなのだろう。生きているという、ただそれだけで価値があることをもう一度かみしめなければなるまい。

名も知らぬその若き同志に合掌。

僧侶と性欲(2)

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欲望に負けた!25歳修行僧が女子高生買春(スポーツ報知)
うぶな子が…」僧侶が15歳女子高生買春(日本テレビ)

出家者のセックスそのものを禁じた原始仏教とは異なり、世間の中にどんどん入りこんでいかなければいけない大乗仏教においては、まず世間法に順ずることが大事になる。一僧侶である前に、一市民であれというわけだ(小市民であってはいけないと思うが)。

一休さんも、遊郭に出入りしたり庵に女を囲ったりしていて、僧侶からはずいぶん冷たい目で見られていたというが、庶民には親しまれていたのだから人柄の魅力のほうが大事なんだろう。

今の僧侶は、お坊さん仲間から尊敬されているのに、世間からは冷たい目で見られている方が多いような気がする。

私の見聞する範囲でも、新宿で覚せい剤を買ったとか、下着泥棒をしたとか、少女にわいせつ行為をしたとか、そんな僧侶がいるそうだが犯罪行為は誰でもアウトだ。

一方で、研修中に毎晩風俗に通っていたとか、二号さんがいるとか、修行中に同性愛関係になったとかいうのは、倫理的には僧侶としてどうかと思うが、犯罪ではないので少なくとも表沙汰にはならない。

今回の事件は、未成年に買春という犯罪行為が問題になるのであって、欲望が抑えきれないのなら、夜にこっそり風俗店にでも行けばよかったのだろうと思う。煩悩はえてして、僧侶として目覚める大きなきっかけになるものだ(真言立川流ではないが)。

このお坊さんはまだこれから何十年も生きられるのだから、罪を償い、世間から慕われるような立派なお坊さんになってほしい。

ついでに。

寺の本堂倒壊、7人危機一髪で脱出

朝日新聞の一面に丸つぶれの本堂の写真が出ていたが、死者が1人も出なかったのはすごいことである。神仏の御加護か。
でも、それは結果論であって、お寺や神社は地震で倒壊しても決して死者が出ないということではない。この頃、本堂の耐震補強工事をしているお寺が多いが、うちもしたほうがよいのかなと思った。

お寺の詭弁

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「お寺の常識、世間の非常識」ということは多々あるが、お寺はお寺の論理を説明するのに、詭弁を弄することがある。

「学校を出たばかりの若い者に百万、二百万の車を買ってやるクセに、末代まで残る戒名になんでゼニ金を惜しむんだ」(村井幸三『お坊さんが困る仏教の話』)

これと似たようなパターンで、「この世に生まれるときには何十万と出すんだから、この世を去るときにもせめてそれくらい出しなさい」というのも聞いたことがある。家族である以上、生きていても死んでいても平等に扱えという論法である。

これを修辞学では「類似からの議論」といい、すでにアリストテレスも触れているほど昔からある(『弁論術』第2巻23章)。前者はさらに、若者より年長者が丁重に扱われるべきであるという論拠(「なおさら」論)も加えて論法を強化している。

しかし、どこまでを類似と認めるかによって、この論法は説得力をもたなかったり、逆に反論の余地もある。

「車代(出産費用)とお布施はその目的も性質も全く違う。そういったものは関係ないので比較にならない。」
「もし同じにしろというなら、子どもや孫のことでお寺にお布施をしているわけではないのだから、亡くなった人のことでお布施をしなくてもよいことになってしまう。」

さてこの判定だが、宗教的な行為であるお布施が三輪清浄(お布施、お布施を出す人、受ける人に私利私欲があってはならないという教え)を謳う以上、一般的なお金の使い方とは一線を画すわけだから、安易に同列に並べるお寺のほうが負けだと思う。仏教でお布施は清らかなものだとされているのに、お寺のサービスを半ば強制的に買わせるのでは清らかになるはずがない(インド論証術でいう定説逸脱-apasiddhAntaという敗北の場合)。

実際はお寺のほうが立場が強いことがほとんどだろうから、まともに反論することはまずできないだろう。「もし出さなかったら、どうなっても知りませんよ……」などと明言しているわけではないが、これは「威力に訴える論証(appeal to force)」または「恐怖に訴える論証(appeal to fear)」という詭弁にあたる。お寺がこんなことを言えば二重に詭弁を犯していることになるのだ。

論理的に矛盾していても力で勝ってしまうお寺だが、檀信徒の信仰をなくすという点では負けているともいえる。さらに言えば、お寺がお布施の金額に口出しするのは、利益誘導と捉えられても仕方ない。

寺院を維持していくのにそれなりのお金が必要なのは間違いないが、その前に十分な信仰と信頼が大前提になっているということを肝に銘じて、日々の教化にいそしみたい。

僧侶と性欲

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住職ざん殺で少年を逮捕、買春めぐるトラブルか
http://www.newsclip.be/news/2007301_009960.html

日本でもつい先日、除霊と称して少女に性的暴行を加えた北海道八雲町の住職が逮捕されたが、一部の心ない僧侶に仏教が貶められるのはつらい。

しかし同じ仏弟子として知らないふりもしているわけにもいかない。せめて他山の石に。あまり抑圧しすぎないことが大切なのかもしれない。いまどきの不邪淫戒は「異性に近づかない・セックスしない」という宗教的な誓願ではなく、「不倫しない」という倫理的なものにすり変わっている。

一昨日訪問した松戸のお寺さんのエッセイを思い出した。日本の僧侶が結婚していることに疑問を抱いたフランス人の青年に真摯に答えて、異性との接触が禁止されているのではなく、「むさぼること」が禁止されているのだと答える。 それをよく守った上で、尊敬と信頼のある伴侶と協力して、修行を完成させたいと。

なるほど、こうして考えれば、不邪淫戒もまた宗教的(しかも大乗仏教的な)な誓願に戻せるのかもしれないと思った。それにしても中道の難しさよ。

私? 日本にドイツの下ネタゲーム『おっぱい神経衰弱』と『ポルノスター・プロジェクト』を紹介したのは何を隠そう、私であります。中道には、当たらずとも遠からずといったところかな(ホントかよ!)。

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