Buddhism: 2007年5月アーカイブ

唱衣念誦

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米沢であった研修会から気力で帰ってきた翌日はお医者さんへ。喉の痛みと咳痰で風邪ということだった。病弱だなぁ。

今流行っているはしかだが、私が罹ったことがあるか定かでないのでついでに検査してもらったらと母。お医者さんに申し出ると、検査キットもワクチンも全国的に売り切れており、秋まで品薄が続くという。「はしかは、すれ違っただけでもうつります。人の集まる場所、大学とか、駅とか、新幹線なんかが危ないです」……って全部行ってるところばかり!

夜は寺院会。声が出ないので隅のほうでウーロン茶を飲んで大人しくしていた。

水曜の住職研修会で面白いトピックを見つけた。その名も「唱衣念誦(しょうえねんじゅ)」。古い清規(禅宗のマニュアル)に出てくるもので、葬儀の最後に位置する法要だ。剃髪、授戒、入棺、挙棺、引導、荼毘と来て最後に行うものは、遺品の競り。これで葬式代を出すのだという。念誦なので十仏名を唱えるはずだから、こんな感じか?

さあさ取り出したるは、正絹の衣だよー!(清浄法身毘盧遮那仏、カーン)
肌ざわり抜群、新品同様!(円満報身盧遮那仏、カーン)
さあ買った買った、1銭からだぁ!(千百億化身釈迦牟尼仏、カーン)
2銭いないか2銭、おっと5銭出たよー!(当来下生弥勒尊仏、カーン)
……なんてことをするんだろうか(想像)。

もちろん今はやってない。念誦でどんなことを唱えていたのか、ちょっと調べてみたい。

水曜日から山形に来ているがまた風邪を引いてしまってバテていた。今日くらいからやっと調子を取り戻す。

水曜日の夜は住職の研修会「回向文の歴史と解釈」。絶不調の中、気力で米沢まで車を運転して参加してきた。休憩中のたばこの煙にはウンザリしたが、そこまでして行く価値のある講義だったと思う。

授戒作法のメインである十重禁戒の時代的変遷が面白い。十重禁戒とは仏弟子になるにあたってやってはいけないことを10にまとめたもので、中国で成立したとされる。中国の清規(マニュアル本)では、以下のように記述されていた(出家の場合)。

(1)不殺生(殺さない)
(2)不偸盗(盗まない)
(3)不淫欲(セックスしない)
(4)不妄語(嘘をつかない)
(5)不飲酒(酒を飲まない)
(6)不説四衆過罪(人を責めない)
(7)不自讃毀他(自慢しない)
(8)不慳貪(ものを惜しまない)
(9)不瞋恚(怒らない)
(10)不謗三宝(仏様に不敬の念を起こさない)

これが日本に入り、道元の『正法眼蔵』では以下の3つが変わる。

(5)不飲酒→不酉古酒
(6)不説四衆過罪→不説在家出家菩薩罪過
(8)不慳貪→不慳法財

このうち(6)と(8)は同義語による言い換えだが、(5)が大きく違う。「酒を飲まない」から「買ってまで酒を飲まない」へ。つまり信者さんがご馳走してくれたお酒を頂いても戒律違反にならないのである。ゆる!

さらに現在、得度(僧侶になる儀式)や葬儀で唱えるものは道元のものから2つが変わっている。

(3)不淫欲→不貪淫
(6)不説在家出家菩薩罪過→不説過戒

(6)は単なる省略なので意味は同じ。問題は(3)である。「セックスしない」から「性欲におぼれない」へ。つまり、配偶者との間で子どもを作るためのセックスが戒律違反でなくなった。

道元の時代はもちろんお坊さんは結婚できないから、酒は飲めてもセックスはタブー。これが明治時代に入って「肉食妻帯蓄髪の勝手たるべきこと」の勅令が出されて以来、解禁されることになる。さらに現代では実子が後を継がなければそのまま空き寺になってしまうところが多いから、解禁というよりも奨励とさえ言えるだろう。

ほかにも不殺生は狩猟やと殺を生業にしている人に配慮して「命を大切にする」と解釈されるようにもなっている。「動植物はともかく人は自分も含めて絶対殺さない」と解釈すればいいんじゃ?

酒とセックスで解釈がぶれるのは、ほかの戒律が教団の維持に必要な道徳であるのに対し、この2つはインド独自の文脈を抱えているからであろう。酒はインドの全宗教でタブーだし(精神がねじまがるとか)、セックスをしないことは行者がタパスという力を蓄える前提条件である。

一方中国や日本の儒教文化圏では、酒はそれほどタブー視されていないし、子孫繁栄が最重要課題だったからセックスは必要であった。その圧力に負けて戒律は徐々に俗化していったのではないか。

十重禁戒の変遷を見るといろんな歴史が垣間見える。それは、他者救済を目指した大乗仏教によって推進された僧侶の俗化と、儒教などの土着文化が共同でもたらした歴史なのである。

ちなみにモーゼの十戒の中では、殺人、姦淫、盗み、偽証、財産をせびることの5つが禁止事項。こっちのほうがずっと守りやすいし解釈がブレにくいな。

結論:お坊さんは、法事で酒が出たら飲んでもかまいません。不倫はいけませんが、子だくさんな家庭を築くのはOKです。

ベロ屋/口坐禅

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先日、先輩の和尚さんから面白いジョークを聞いた。

極楽にいるお釈迦様、竿にたくさんの舌を吊り下げて干しているという。この舌は何かといえば、亡くなったお坊さんたちのもの。生前、ありがた〜い話ばかりしていたので、舌は極楽に行くことができたが、それ以外の部分は……

こういう寒い話が好き。いったい出典はどこなんだろうか?

お坊さんの間でも、布教師を「ベロ屋」(舌で稼ぐ商売)と揶揄してみたり、立派な話をした後に「私なんて口坐禅(口だけで坐禅をしている)ですが」などと卑下したりするのを聞く。要するに雄言不実行ということだろう。

しかし、論理的には言っている内容と、それを言った人の行動は関係ない。タバコを吸っている人がタバコの害を説いたって全く構わないのである。それを「そう言うあんたがタバコを吸ってるじゃないか」と責めるのは、的外れな人格攻撃に過ぎない。反対したいなら、タバコに害がないことを主張するのが筋だ。

ただし、修辞学的には人格攻撃は十分ありえる。アリストテレスは『弁論術』でエートス(信頼に足る性格)、パトス(感情の喚起)、ロゴス(証明)という3つの説得手段を立てる。このうちエートスが傷つけられると、ほかの2つを満たしていても説得力を失うことは実際とても多い。

「先祖や親に感謝しましょう」と言いながら自分の親にはつらく当たったり、「お金に執着してはいけません」と言いつつお布施の額をがっちり言い渡したりするのでは、たとえ論理的には別問題だとしても、まともに聞いてくれる人もいるまい。

お葬式のときに亡くなった人に言い渡す十重禁戒(殺さない、盗まない、セックスしない、嘘をつかない、酒を飲まない、人を責めない、自慢しない、ものを惜しまない、怒らない、仏様に不敬の念を起こさない)。このうちいったいいくつ守れているんだろうかと、お葬式のたびに自分にも問いかけている。

住職の葬儀

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今日は隣町のお寺で昨年お亡くなりになった住職の本葬に詠讃師として参列。

詠讃師は3名で、『無常御和讃』、『追弔御和讃』、『聖号』を奉詠。あとそれぞれ1曲ずつ独詠があった。私は1番バッターで『妙鐘』。この曲は感情が高ぶりやすいので、いかに感情を抑えつつ奥ゆかしくお唱えできるかが難しい。やはり今日も抑えられず。

住職の葬儀は準備に時間がかかるため、いったん密葬と火葬をしておいて数ヵ月後に本葬を営むことが多いが、今回はさらに年をまたいで9ヵ月後の本葬となったため、一周忌と併修するに至った。全部の法要が終わるまで3時間。一般会葬者はもちろん、いつも座りなれているご寺院様方も途中で足を崩さなければならないほどである。

とはいえ、葬儀の構成は一般の葬儀とあまり変わらない。そもそも一般の葬儀自体が亡僧の葬儀法のコピーなのである。授戒はないが、棺の釘打ち、棺の持ち上げ、葬列の行進、蜜湯のお供え、お茶のお供え、松明による点火と全て省略せずに行うので時間がかかるだけだ。

もっとも大きな違いは、引導の有無である。僧侶は生前に成仏しているとみなすので引導は渡さない。注意深く聞いていたら、松明の儀式で導師が引導の目印である一字関(「喝!」とか)を言っていなかった。

僧侶が亡くなることを「遷化(せんげ)」と言い、来世でも僧侶として生まれ変わり、衆生と苦しみ悲しみを分かち合いながら悟りの世界へ導くとされる。成仏した以上は生死の別を離れているから「死んだ」とは言わない。その命はもはや永遠なのである(というと、ミイラになってるのにまだ死んでないとか言ってた新興宗教を思い出すのだが)。

引導を渡して成仏させる必要がないのに、どうして葬儀を行うのかといえば、「遺された人たちがそうしないと気がすまないから」なのだと思う。遷化された住職への感謝を、最大限の礼節を尽くして表す。そして現世での別れを胸に刻んで、新しい人生を歩んでいく。今日は、3時間にわたる法要が終わると、達成感とともに次への気力が湧いてくるような気がした。

しかし私なんかも「遷化」できるのだろうか? 現世でろくに衆生を導かず、欲のままに精進もせず生きている私がもう成仏しているって……?

本日の遺偈
迂拙一期 八十二年
無得無失 大道現前

私も遷化された和尚様に少しでも近づけるよう精進したい。

法事Q&A

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連休中の法事の後にお話ししたことなど。

法事の時期に関して

Q:法事は命日より前にするべきだと言いますが、できない事情があるときはどうしたらよいでしょうか?
A:命日に予め家族でお参りしておけば後になってもよいでしょう。命日は故人の仏としての誕生日で、法事はその誕生祝ですから、命日近くに行うのが理想ですが、供養する人あっての法事なので、気持ちよくお参りしていただくためにも季節のよい時期を選ぶのはよいことです。

Q:祝事より先に仏事を済ませるべきだと言いますが、急に結婚が決まったときなどはどうすればよいでしょうか?
A:慌てていい加減に済ませるよりも、結婚の後で、お嫁さんや新しい親族と共に供養して頂く方がずっとよいことです。これがうちの先祖ですよと、紹介してあげましょう。

Q:法事が毎年のように続くので、次の年の法事を1年繰り上げて行うことはできますか?
A:2年連続でたくさんのお客様を呼ぶのが難しい場合など、「予修供養」を行うことはできます。ただしその場合は、次の年に家族だけででも供養をして下さい。その先祖にとっては、あくまで当該の年が本当の法事の年です。

Q:悪いことが続いて先祖の祟りだと言われたので、法事の年でないのですが先祖供養をしてもよいでしょうか?
A:法事の年でなくても供養したいときになさって下さい。ただし先祖が祟るというのは、少なくとも仏教の考え方ではありません。お亡くなりになった先祖は全て成仏していると考えます。供養は常に感謝の気持ちをもって行うべきで、悪いことが続いたからといって先祖のせいにしてはいけません。どんなに苦しいときも悲しいときも、ひっそりと守っていてくださるのが御先祖様です。そのようなことを言ってくる人は相手にしないのがよいでしょう。

法事の場所に関して

Q:お寺で法要をするのと、自宅で法要をするのとではどちらが望ましいでしょうか?
A:自宅が遠隔地にある場合はお寺でもかまいませんが、特別の事情がない限り、できるだけ自宅で行うのが望ましいです。故人の思い出が残る自宅で、いつも手を合わせているご本尊様の前で行うことが意義深いでしょう。

法事のメンバーに関して

Q:家族だけで行いたいのですが、親戚や縁者も呼ばなければいけないでしょうか。
A:故人にゆかりのある方ならば、できるだけ多くの方に供養していただいたほうが功徳がありますが、どこまでお招きするかは普段のつきあいにもよるでしょう。家族水入らずで供養するのもひとつの考え方ですが、その場合でも、家族全員が揃ってできるようにして下さい。

その他

Q:法事のお布施はいくらぐらいお包みすればよいでしょう?
A:お布施は料金ではありませんから決まりはありませんし、お寺から申し上げることではありません。自分で納得できる額を決めるべきですが、心もとなければ親戚や近所の方などから聞いて参考になさるのもひとつの手です。なおお寺ではお布施の金額は一切公表しませんし、後から少ないとか多いとか申し上げることもありません。

Q:法事は何回忌まで行うのでしょうか?
A:修行し続けることが悟りだというのが曹洞宗の教えですから、供養する人がいる限り、何回忌まででも行います。例えば道元禅師は750回忌が先年行われました。ただし、33回忌を過ぎれば以降は50回忌、100回忌と間は広がっていきます。たまたま50年に1度、100年に1度そのご先祖様にめぐり合えたという喜びの気持ちで勤めるようにしましょう。

……こんな話をしながら、つくづく日本仏教は先祖教だと思う。御先祖様を敬い、その加護を願いつつ、家族の絆を深め合うという信仰は、「愛する人も憎む人々もいない人々には、わずらいの絆が存在しない(ダンマパダ)」と仰ったお釈迦様の出家主義と相容れないところがある。血は水よりも濃いってことか。

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