Buddhism: 2007年12月アーカイブ

年末の法事

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住職からのクリスマスプレゼントは塔婆。毎年この時期は、法事をしていなかった檀家さんに塔婆を配って歩く。

年末まで法事をしていない檀家さんには、これまでいろいろな対処をしてきた。はじめは突然お邪魔して押しかけ法事。家の人の慌てぶりを見てこんな罰ゲームみたいなのはやめようと思った。それから合同法事に切り替えたが本堂が寒すぎてこれまた罰ゲームみたい。そこで今年は予め本堂で独りでお経を読んで、塔婆を配るという方法にしてみている。

法事は、お寺や親戚から言われてするものではないと思う。先立った家族に感謝を捧げ、自分の生活を反省してこれからの誓いを立てる。これが法事の意味である以上、忘れていたとか、年忌を数え間違えていたというのならともかく、自発的にしないと意味がない。

そういうわけで11月くらいで法事を締め切ってしまうお寺もあるが、私は今年もぎりぎりまで檀家さんからの連絡を待った。しかしあまり年の暮れも迫っては気の毒ということで、今日明日の連休で全部を終えたわけである。残りはわずか4、5件だけであり、1日2日で回れる範囲内である。

回る先では「申し訳ありませんが勝手にこちらで供養させて頂きました」と「お具合はいかがですか」の2つを述べるように心がけ、押し付けがましくなく、相手に罪悪感を抱かせたりしないように気をつける。それでお布施を頂けるかどうかは別の話である。法事は、お布施をもらえるからやっているのではなくて、あくまで住職の修行なのだ。

玄侑宗久氏は「墓参や法事をしない檀家にはどう対応する?」という質問に、いろいろいていいんじゃないかと答え、「こんにちは」「お元気ですか」「いや、べつに用事じゃないんですけど、近くまで来たもので」というようにちょっと檀家さんに出かけることを勧める(『お坊さんだって悩んでる』)が同感。金の切れ目が縁の切れ目では檀家さんも浮かばれまい。

幸いにして行く先々では笑顔で迎えていただいた(内心は焦っているのかもしれないが)。信頼は日々の積み重ねから。先日の東京ボーズコレクションのワークショップで、末木先生が「葬式のときの説教ほど聞きたくないものはない。無理してしゃべらなくてもいい」と厳しい意見を述べていらしたが、お葬式のときだけ顔を合わせてしたり顔で説法されたって、聞く耳なんてもたないのである。

願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし
我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを

地元のご寺院さんの集まりで講演を依頼され、つくばから日帰りで行ってきた。与えられたテーマは「現代インドの仏教徒」。前回「般若心経の読解」というテーマで講演したとき、その中で「インドのお寺で般若心経を読んできた」という話をしたら興味を持ってくださったようでリクエストを受ける。

まずインド仏教衰亡の内的要因と社会背景を話す。檀家さんとお話ししていると、お釈迦様がインド人だということは知っていても、今のインドが仏教国ではない(国勢調査で仏教徒は全人口のたった0.8%)ということまで知らない人が多い。

それからチベット仏教、ヴィパッサナー瞑想法、新仏教徒の3つについて概要を説明。ダライラマ14世、ゴエンカ、アンベードカル、佐々井秀嶺の4氏についても触れた。一番興味を持ってもらったのが仏教徒=被差別カーストという話。インドに厳然として残るカースト制度の身分差別と、仏教の平等思想の相克は釈尊以来2500年も続いている問題だ。

その平等思想を背景として、再びインドの仏教徒が増えつつあるという話は元気がなくなってきている日本仏教にとっても勇気付けられる。

それから一昨日の東京ボーズコレクションでの話(直葬=葬儀に僧侶が必要とされなくなっている)と重ね合わせ、インド仏教衰亡の状況が現代日本仏教の置かれた状況に類似しており、日本仏教も滅びる懸念が強いこと、もう一度仏教の平等思想に立ち返り、現代社会で活かしていくことで衰亡を免れるかもしれないことを説いた。自分でも意図していなかったが、話しながらこういう風にまとまったのはあとから振り返っても感心する。

それから2時間ほどの懇親会。先週の役員会で今年の飲み納めにしようと思っていたが、結局やむを得ず飲んだ。終わって21時の新幹線でつくばへ。25時到着。明日は大学の最終講義である。

今日は築地本願寺で開かれた東京ボーズコレクションに行ってきた。

11時に着いたが、本堂から穏やかならぬラップが流れてきたので避難。まず虹の子供広場「ノッポさん&キミちゃんとあそぼう!」を見る。結構子どもが来ていた。手話付き「大きなノッポの古時計」を一緒に歌う。

出店でうどんを食べてから、12時30分からの東京ボーズコレクション法要『世界の平和を願う』へ。お坊さんたちが列を組んで登場し、中央のタラップを行って帰ってきてから法要を始めるという、まさにコレクション。天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済&曹洞宗、日蓮宗、日蓮宗尼僧の順番で各自10分ほどのパフォーマンスを行った。

天台宗はおだやかな声明、真言宗はリズミカルな声明、浄土宗はヨーデルのような技巧的な声明、浄土真宗は西洋音楽的な歌、臨済&曹洞宗は質実剛健な読経、日蓮宗は気合がこもった木剣、尼僧はさわやかな声明とバラエティに富んでいた。身内びいきかもしれないが、曹洞宗のお坊さんの低頭が一番低かったのが嬉しい(ほかの宗派は30度くらいでピタリと止める)。

それからみんなが出てきてパイプオルガンと太鼓が盛り上がる中で散華。各自がそれぞれの散華文(らしきもの)を唱えていて、低声も響く。クライマックスは華が舞い散りそれはそれは見事なものだった。

すっかり心奪われて見とれていたが、次のお坊さん学習塾「10年後のお寺をデザインしよう。」がもう始まっている時間。急いでかけつけると末木先生が時間を大幅にオーバーして講演しているところだった。相変わらずだなぁ。

次に小谷みどりさんが急速に変わっている現代の死のあり方をお話。病院死が増えたため遺族は生前に「予期悲嘆」を済ませており、葬儀は親睦がメインになっていること、葬儀は「直葬(儀式をせずに病院から直接に火葬納骨してしまうこと)」は都内で急速に増えている(2〜3割とも5割とも)、これからの檀信徒は「住職のファンクラブ」でしか成り立たないことなどを述べインパクトがあった。

おふたりとも共通していたのは、葬式仏教を儀式だけでなく、臨終から遺族が立ち直るまでの長い期間に推し進めるべきだというものだった。特に末木先生が「社会活動に力を入れすぎて身近なところがおそろかになっている」という指摘が心に残った。

休憩後は各宗派の青年会などで活躍する若手僧侶のパネルディスカッション。10年後お寺が生き残るには、目的意識のないイベントをただやるのではなく成仏とは何かとか内省していかなければならないという天台宗・本間師の考えには大いに共感。このあたりが出家者でなくなった日本僧侶の切り札になりそうだ。

質疑応答では教団は次世代に対してどんな支援をしているのかを聞いたが、それは末木先生も感じていたようで「教団の中間部あたりからの支援が必要」というコメントを述べられた。個人のスタンドプレイではどうしても限界がある。教団が若手の創造的な活動を支援することによって点が線になっていくと思う。ちょうどこの「東京ボーズコレクション」のように。伝統教団はとかく保守的なものだが、こうしたイベントを支援する真宗はエライ。

年配の僧侶から見ればきっと眉をしかめるようなイベントだったかもしれない。しかし見に来ている若い人たちが、葬式で後姿を見る以外に僧侶を見ることがあるだろうか。今回のイベントは、多くの人にとって僧侶という存在を再発見するよい機会になったと思う。ぜひ来年も。そしてできたら曹洞宗でも(無理だろうな……)。

コラボレーション法要「散華」
ゲリラデモ中の「仏像ガール」

戒名に使えない字

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今日はこれから葬儀。

戒名は戒名字典というものがあって、これをもとにして考える。以前「字典をパラパラめくって適当なところで指を入れて決めるのに、戒名料何十万とかいうのは馬鹿げている」というような批判を読んだが、戒名は故人の性別・年齢・配偶者の有無・信仰の厚薄・お寺への貢献度・社会的活動や地位・趣味・性格などを考慮して総合的に付けているし、戒名料やそれに類するものは一切頂いていない。

戒名で使わないほうがいい字を三除の法、二箇の大事という。三除の法とは、1.奇怪な難字、2.無詮の空字(乃・也・於・但など)、3.不穏の異字(争・恥・敵・悩など)を指し、二箇の大事とは1.歴代天皇の尊号と年号・祖師の法名を使わない、2.麟・龍・駿・鹿・亀・鳳・鶴などを除き動物を表す文字(いくらペット好きでも犬・猫はNG)は使わないというものである。子どもの名づけにも応用できそう。

ほかにも他宗を象徴するような文字(誉・釈・日)や読みから悪い連想をするもの、典拠のない熟語、同音の連続(清真晋心信士など)、入声の連続(妙覚吉楽信女など)も避ける。

ここまでは戒名字典に書かれていることだが、さらに私が気をつけたほうがいいと思っているのは遺族の名前の文字だ。故人の俗名をうまく盛り込むのは遺族が故人を思い出すよすがにできるのでよいが、そこに本人以外の人が混じるのは考えものだ。

その家で代々同じ文字を使っている場合は別として、遺族が故人の戒名を見たら自分の名前が使われていたというのは、あまりいい気持ちではないのではないか。人によっては「お前も早く死ねということか」と思われかねない。

戒名は聖俗を分かつものである以上、俗名を入れるべきではないという人もいる。そこまで極端な考えはもっていないが、遺族の心情に配慮して戒名も考える必要があるということだと思う。ときどき知らない遺族の名前を使ってしまうことはあるけれども、少なくとも喪主の名前は使わないようにしている。

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