Buddhism: 2008年1月アーカイブ

千の風になって

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来週の講習会で発声練習にしようかと思い、『千の風になって』の梅花譜を作成した。オリジナルの西洋譜はヤマハの「ぷりんと楽譜」から購入。105円でネットからダウンロードして印刷できるというのは便利だ。

「千の風になって 仏教」で検索すると面白い意見がたくさん読める。この歌詞は仏教に反するか反しないかで両論あるようだが、「私」はお墓にいないが、お参りをするのは無駄ではないというところだろう。

真っ先に連想するのは良寛和尚辞世の句である。

かたみとて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢば

それとご詠歌にもなっている道元禅師の和歌。

峰のいろ 谷のひびきも 皆ながら わが釈迦牟尼の 声と姿と

自分を取り巻く身近な自然の中に亡き人を追慕するという感覚は、往く者と遺される者が共有できるものだろう。

それではお墓参りは無駄なのか。『千の風になって』ではただ「泣かないで下さい」と言っているだけで、お墓参りを否定するわけではない。お墓にだって千の風は吹いているし、光は降り注ぎ雪は降り、鳥は鳴き星はきらめいているのだ。そしてお墓で亡き人に包まれ安心すれば、泣く必要はない。

問題はお墓の前かどうかではなく、亡き人に真心で向き合えるかということだろう。ただし多くの人はどこでも簡単にそんな気持ちになることはできない。そこで亡き人への思いを強めるために、お墓という「装置」が必要になる。「お墓参りなんかしなくていい」と思っている人の、いったいどれくらいが亡き人に真摯に向かい合う機会を持てているのか。

生きている人の救済が声高に叫ばれている現代仏教で、死者との対話なしに生きる指針が作れるのかという反省がなされつつある。墓前であれ日常であれ、亡き人たちのことをゆっくり思う機会をもちたい。

梅花譜:千の風になって(PDF)

分かりやすい葬儀

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お葬式続きで山形滞在日数が増える。今月はこれまでお寺で2件、伴僧が3件。往復の交通費と体力を節約するため昨日から長女を連れて山形へ。来週火曜日まで。

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葬儀は儀式であるとしても、参加者に分かりやすくなければならないと思う。

この頃葬儀で案内や解説をする機会が増えた。近隣では一番若い人がすることになっているらしい。開式の10分前くらいから、葬儀の流れと参列者にお願いすることを説明する。

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はじめに授戒という儀式が行われます。戒名をお授けするものです。戒名とは仏弟子になった証でありまして、授かるにはいくつか守っていただかなくてはならないことがあります。

まず懺悔と申しまして、これまでの行いを振り返り、悪いところがあれば反省いたします。

これによって身も心も清らかになったところで16の戒めを授かります。お釈迦様、その教え、教えを守る我々に全てをお任せするという誓い、悪をなさず、善行を積み、人々を助けるという誓い、人を殺さない、盗まない、嘘をつかないなどの誓い(酒を飲みすぎないと浮気しないはこの際言わないでおく)があります。これらを胸に刻んでいただいた上で、はじめて戒名を頂戴するわけです。

授戒が終わりますと読経に移ります。これは仏教にゆかりのある全ての仏様・菩薩様・神様――お釈迦様、お文殊様、お普賢様、お地蔵様、観音様、弥勒様、お不動様――これらの方々をこの会場にお招きしてお導きを願うものです。

読経が終わりますと告別の儀式です。弔辞弔電を賜り、お導師様から引導が渡されます。「引いて導く」という言葉が示すとおり、仏の教えに引き入れて仏の世界(あの世のよいところ)にお導きします。

そして皆様からお別れのご焼香を賜り、閉式となります。全体で1時間ほどの式になりますが、故人のご冥福を祈りながらご会葬をお願いいたします。

法要の間、皆様にお願いすることが3つございます。1つは合掌です。両手と5つの指をぴったり合わせ、指先を鼻の高さまで上げ、姿勢を正して合掌下さい。

次に読経です。途中でご案内しますのでお渡ししておりますお経本の○ページから『修証義』の第一章をお読み下さい。

そして最後にご焼香です。曹洞宗では本来2回が正式ですが、本日はたくさんの会葬者がいらっしゃいますので、1回のみにてお願いいたします。焼香が済みましたら一旦隣にずれて、次の方に香炉をお空け下さってからゆっくり合掌でお参り下さい。

以上、合掌・読経・焼香の3つでもって皆様に御会葬いただきます。どうぞよろしくお願いいたします。それではまもなくお時間です。最後までどうぞ心静かに、清らかにお過ごしくださいますようお願いいたします。
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故人のことやご遺族のこと、仏教の教義などは後からお導師様がお話しするので重複しないように実践的なことだけを話している。だが書き出してみると結構多いものだ。

自分が導師の場合はさらに亡くなった人がどうなるかということについての仏教の伝説や供養の意味などにも言及する。

「法要は意味が分からないのがありがたい」という意見もある。密教がその最たるものであろう。禅宗にも密教の影響はあり、陀羅尼を唱えたり印を結んだりしている。また、何の解説もなしに始まる葬儀には言葉では表せないような荘厳さを感じるのも事実だ。

でもお釈迦様の教えがどんなに深遠で凡夫には計り知れないものであっても、それを理解しようとする努力、人に伝えようとする努力を惜しんではなるまい。道元禅師は「教外別伝」を否定し、仏教が伝わるには教えを語りつくし、書き残す努力が必要であるという(『正法眼蔵』仏教の巻)。

また、戦後生まれの世代は納得しなければ参加できないという面もある。未来に照準を合わせるならば、分かりやすい法要というのは必須だと思う。

そのうちテーラワーダに伝わる『慈経』でも檀家さんと読んでみようかな。
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html

宮崎禅師の遺偈

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慕古真心 不離叢林
末後端的 坐断而今

これは5日に106歳で遷化された曹洞宗大本山永平寺貫主・宮崎奕保禅師の遺偈である。遺偈とは僧侶の遺言のことで、毎年元日に書き改めることになっている。実際作っている人はあまりいないようだが、禅師様のこの遺偈は実際今年の元日、遷化されるわずか4日前に書かれたものだという。

「古の真心を慕い、叢林を離れず。末後の端的、而今を坐断す」と読むのであろうか。釈尊・達磨大師・道元禅師の仏道に倣って一生を修行道場で過ごしてこられた宮崎禅師のご生涯が滲み出ている。永平寺では「先人たちが歩んできた禅の道を、この永平寺にて歩んできたが、今まさに、その道が途切れようとしている」と解説しているが、後半は道が途切れるということではなく、この世に留まる最後の一瞬まで坐禅し続けるということだろう。まさに禅僧の鑑だ。

翻るに新しいものに追われ、修行から程遠い生活をして、静かに忍び寄る自分の死を怖くて見つめられない自分がいる。禅師様のご生涯を真似ることなど到底できないが、最後の教えを大事に頂いて胸に刻み付けたいと思った。

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