Buddhism: 2008年5月アーカイブ

NET縁

コメント(0)

ネットで寺の後継者決まる 縁組み第1号は神戸の光顕寺

浄土真宗・西本願寺派が「NET縁」というのを開いていて、お寺に入りたい住職、住職を探しているお寺、寺院後継者の縁組を行っているという。進んでるなあ。

曹洞宗でも昔、本庁でお見合いパーティのようなものを行っていたというが今は聞かない。僧侶は未婚という建前がまだ根強いのかもしれない。でももはや禅師様だって既婚の時代、旧態依然としていてはいけないと思う。

浄土真宗は僧侶の数が多いと聞くが、曹洞宗は寺院数に比して少なく、深刻な後継者不足が始まっている。過疎化が進む田舎のお寺の場合、無住になったらもう半永久的に住職が来る見込みはない。檀家さんが私のようなお寺のバカ息子をちやほやするのもそのためだ。

寺院はこれから30〜50年で急減するというのが識者の見方だが、現場では葬式が増えているせいか危機感があまりない。ただし子どもに跡を継がせようと考えている人は確実に少なくなっている。跡を継いだとしても、兼業僧侶のほうがよいという考えも多い。

宗門の中では修行をもっと厳しくして少数でも強い意志をもつ人だけでやっていくべきだという意見と、もっと簡単に資格を取れるようにして後継者不足を解消すべきだという意見に分かれているが、どちらがよいというものでもない。その前にまず、情報の行き交いにくい中でマッチングをもっと積極的にしていくほうが先決である。

夫婦や家族で運営されているお寺って、お参りして気持ちいいものですよ。

連休の法事三昧が明けて一息。数が多いとどうしてもルーティン化してしまって気が抜けるので注意したい。

このごろ法事の後の法話で、故人はすでに成仏していることを強調している。その根拠となっているのが「衆生受仏戒、即入諸仏位(衆生は戒律を受けた時点で、諸仏と同じ立場になる)」という文言。葬儀で戒名を受けたときに成仏しているというわけだ。

故人はすでに成仏しているから、法事はさらに成仏を祈るものではない。ましてや供養しないと化けて出るとか、タタリがあるなどという理由でするものでもない。「徒に所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或は外道の制多に帰依する事勿れ、彼はその帰依に因りて衆苦を解脱すること無し(タタリなどを恐れて神や外道を信じてはならない)」なのである。そこで日常の反省と感謝、そして報恩の誓いを立てるために行うべきものだと説く。

ここで気になっているのが、「同時成道(成仏は個人単位ではなく全世界同時になされる)」と「修証一如(成仏は修行の末ではなく、修行の中にこそある)」という教えだ。

法事の文脈に当てはめると「同時成道」は故人の成仏と遺族の安心は同時にあるものであり、いつ故人が成仏したかは、遺族がいつ安心したかによると説明できる。遺族が故人を思い出して、笑顔を思い浮かべることができれば故人は成仏したということだと説明すると、納得してもらえることが多い。

一方「修証一如」のほうは、故人は戒名をもらって成仏したが、修行し続けなければならないということになる。だから故人が成仏したと安心して怠けることなく、精進し続けなければならない。

ここまでの説明ならばよいのだが、反対の見方をすると危険なことにもなる。「同時成道」ならば、逆に遺族が不幸せということは故人もあの世で苦しんでいるということなのか? 「修証一如」ならば、供養をやめたら故人は極楽から転落してしまうのか?

けれども、そんなことを言えばタタリの話と違わなくなってしまう。世の中にはそうやって不安を煽っておいて救いの手を差し伸べるマッチポンプの似非宗教もあるが、仏教はそうであってはなるまい。

確かに遺族が不幸せならば、故人も安心して成仏できないだろう。だがそれは、遺族の不幸せが故人のせいであるというのとはまったく違う。因果関係が逆だ。自分の人生をネガティブに捉え、責任転嫁していては苦しみは解決しない。

それにしても遺族は不幸せなのに故人は成仏している(他はこれ吾にあらず)とか、遺族は幸せなのに故人は成仏してない(菩薩となってこの世にとどまっている)というケースはないのだろうか。他者論が大きな問題になる大乗仏教の観点なども援用しつつ、こうした問題を哲学的に考察していきたい。

このアーカイブについて

このページには、2008年5月以降に書かれたブログ記事のうちBuddhismカテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブはBuddhism: 2008年3月です。

次のアーカイブはBuddhism: 2008年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Buddhism: 月別アーカイブ

アーカイブ

リンク用バナー