Buddhism: 2008年6月アーカイブ

祈り、働け

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今日は8時から法事、位牌開眼、法事、墓地開眼、祈祷と5件。うどんを食べて午後は夕方まで境内清掃に汗を流す。夕食後は明日の会議の資料作り。やっと終了。

昨日の午後に講演会があって、終わってからの質問で坐禅の功徳の話になった。坐禅をすれば精神が修養されて慈悲深くなったり、よりよい人間なったりするのかという問題である。講師は道元の句を引いて、それを目的としていてはダメだが、ひたすら打ち込むうちに自然とそうなるだろうと仰った。

境内の作務も坐禅と変わらない。これは修行だなどと考えないで、ひたすら目の前の作業に打ち込む。まるでそれが本能であるかのように。ほかに目的を設定した途端、雑念が混じってしまう。「茶に逢うては茶を喫し 飯に逢うては飯を喫す」(瑩山)

といっても実際はお客様が来るからみっともないのは嫌だと思って掃除しているだけで、何のことはない、見栄にすぎないのだ。掃除をしているうちに汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟った釈尊の弟子、周利槃特を少しは見習いたいと思う。

昨日、首都高の小菅ジャンクションに「追い越したって行き先は別」という相田みつをみたいな垂れ幕が張ってあって感心した。南直哉氏は「真理はひとつ」ということの危険性と無意味を説いている(『語る禅僧』)。世界には多種多様な宗教・宗派があるが、登り道が別なだけであって頂上はひとつだという話はよく聞くが、そんなことはない。人もそれぞれ別の行き先に向かって歩いている。たまたま途中で一緒に歩いたりするが、いずれはまた別れていくだろう。

箒で落ち葉を掃きながら、僧侶としても学者としても親としても趣味人としても中途半端な自分にはっとしてそれを思い出した。追い越した、追い越されたというところにばかり気になって肝心のこと、自分がどこに向かっているのか忘れているのではないか。

……そんなことを考えながらの境内清掃。普段運動していない体は悲鳴を上げたけど、よい気分転換になった気がする。

不飲酒戒

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僧侶を酒気帯び運転で逮捕

公務員だけでなく、民間でも飲酒運転はクビになりつつあるが、僧侶は法事で飲むのがひとつの仕事みたいになっているせいか(いい身分だ)処分はそれほど厳しくないような気がする。衣姿というだけで検問をスルーできた時代もとうに過ぎ去り、こうやってマスコミで取り上げられるようになると何か変わるかもしれない。

律蔵で飲酒は「波逸提(はいつだ)」に属し、長老のもとで懺悔すれば許されると規定されている。最も重い波羅夷(はらい、教団追放)からみると相当軽い。しかも現代においては「酒に溺れて生業を怠ることなかれ」と緩く解釈されている。飲酒運転は十分溺れていると思うが、飲酒自体も問われ続けるべきだろう。「この飲酒は利他行なのか?」と。

昨年は15回ほど飲酒をしてしまったが、今年は5月までで5回。内訳は寺の役員会で2回、法事で1回、友人と2回である。師匠のところで懺悔はしていないが、これからも節制していきたい。飲まなければ飲酒運転もしないですむし。

参考:仏教と飲酒の問題(浄土真宗やっとかめ通信)

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