Buddhism: 2009年3月アーカイブ

伴僧

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お葬式のとき、導師を補佐するために呼ばれる僧侶を「伴僧」という。式場の準備から始まって、式中は木魚や鐘を叩いたり、導師にお線香を出したり、法要の案内をしたりする。基本人数は地方によって異なるが、私のお寺の近くでは2名、導師とあわせて3名で執り行うことが多い。

この伴僧が減少傾向にあり、その原因が葬儀屋さんのアドバイスらしいという話が先日の会議で出た。いわく、伴僧を少なくすればお布施が少なくて済むから減らしたほうがいいなどということを、喪家に話すという。そこで仏教会として葬儀屋さんに申し入れをするために、聞き取り調査をすることになった。私自身も気になっていたところだ。

葬儀社に勤める友人に聞いたところ、お布施の金額や伴僧の数について聞かれたらそういうことは牌寺に相談するように伝えるという。ところが、このところそういう相談がとみに増えているそうだ。昔と比べて親戚も近所もお寺も疎遠になり、ざっくばらんに話できないところで、葬儀屋さんはそういうことを聞くのに「ちょうどいい距離感」になっているという。確かにその通りで、普段から檀家さんとコミュニケーションを取っていないお寺にも責任はある。

牌寺に相談するようにとは言っても、「2人でいいでしょうか?」と聞かれて「いいんじゃないでしょうか」と答えることはある。それがニュアンスとして誤って伝わることがあるかもしれないと友人は心配していた。唯一の情報源が葬儀屋さんという状態では、仕方のない面もあるだろう。

そもそも、伴僧の減少傾向は葬儀屋さんのせいではないという声も少なくない。葬儀屋さんはどちらかというと葬儀を大きくしたいほうだから、アドバイスするならば伴僧を増やすように言うはずだ。むしろこれは大都市でのやり方が田舎まで及んできているという見方のほうが可能性が高そうだ。大都市では伴僧をつけないのが一般的で、1人でもいれば一体どれだけ由緒ある家なのかと訝しがられるほど。ホール葬しかり、伴僧の数しかり、都会のやり方は自然と地方に広がっていくものである。

地元には伴僧なしに葬儀はしないという頑なな和尚さんもいるが、伴僧なしでもいくつか省略することで物理的には葬儀はできる。実際、経済状態の苦しい方に頼まれれば、私は伴僧なしで葬儀を執り行っている。伴僧にはお布施の額がはっきり決まっているが、牌寺だけならお布施の額をとやかく言う必要がないからだ。

しかし、伴僧は導師が楽するためのお手伝いというわけではない。これについて近くの和尚さんに伺ったところ、「大衆威神力(だいしゅいじんりき)」というお言葉を賜った。僧侶はひとりひとり鋭い法力をもっているが、たくさんの法力を結集することによって更に法力が増し、一人では成し遂げられないことも成し遂げられるという禅語である。つまり縁の力である。この力をもって回向し、故人の成仏を祈る。

「人々皆道を得る事は衆縁による。人々自ら利なれども道を行ずる事は衆力を以てするが故に。」(学道の人がみな道を得ることは、同学同参のみんなの縁によるのである。人はめいめい自らするどい心のはたらきがあるのであるが、仏道を行ずることは同学同参のみんなの力によるものであるから。)(『正法眼蔵随聞記』5-4)

またお互いの寺院が伴僧を呼び合うことで、寺院が集合体として存続していくことができる。大きいお寺から小さいお寺へ、葬儀の多いお寺から少ないお寺へ金銭が分配されることで、どの寺院も安定し結束できる。伴僧が少なくなれば、生き残る寺とつぶれるお寺に分かれ、日常の大衆威神力が得られないだろう。

このような教義的な背景も含めて、葬儀屋さんに申し入れをし、これを機会にお互い協力的な関係が築けるよう、率直な意見を言い合えるようにしていきたい。

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