Buddhism: 2009年5月アーカイブ

昨日の日記で、亡くなった人は葬儀までに成仏するというモデルを提示した。この場合、人間に生まれ変わるということがどう組み込まれるかを考えなくてはならない。

成仏するということは、如来であるお釈迦様のいる兜率天(いわゆる極楽)に生まれるということで、我々の住む人間界とは境を異にする。そしてお釈迦様が再びこの世に戻ってこないのと同様に、こちらに戻ってくることはない。極楽は心の中にあるという禅宗の教えもあるが、それでも凡夫たちの心とは区別されるだろう。

そうすると、死後の道を2つ考えなければならない。成仏して本当の意味での還らぬ人となる場合と、人間界に戻ってきて生まれ変わる場合とである。この区分は日本人なら感覚的に受け入れられる考え方だし、インドの輪廻説の嚆矢である「五火二道説」や、道元禅師の『正法眼蔵』道心の巻からも支持される。

ただし、生まれ変わるとしても昨日の日記の1番目のモデルを採用しない以上、生まれ変わるのは人間界か天界(天国)とする。「人身得ること難し」といって、仏教では古来より人間に生まれ変わる確率が低い(つまり動物や虫に生まれ変わるほうが多い)ことを述べてきたが、少なくとも受戒して仏教を実践する者は、人間に生まれ変われると信じたい。

それでは人間に生まれ変わる場合、いつ生まれ変わるかというと、インド的な49日以内と日本的な33年以降という考え方ができる。

49日以内だとすれば、魂がどこかのお母さんの胎内に入って約9ヶ月、ちょうど一周忌のあたりに生まれてくる計算になる。かなり早く、遺族は悲しむ必要がなくなる(野島伸司『スコットランドヤード・ゲーム』)。ただ、親戚に出産予定がない場合、赤の他人にならざるを得ないという問題はある。

一方、33年以降だとすればずいぶん長く、1世代飛ばして生まれ変わってくることになる。亡くなったおじいちゃんはひ孫くらいになるだろう。この考えなら一族の中で再来する希望が持てるかもしれない。

先日どちらがいいか、お寺に来ているおばあちゃん方に聞いてみたが、80年以上も生きているので33年くらい休みたいそうである(笑)。一方、若い人やせわしい人は49日以内を選びそうだ。本人の希望が閻魔様に通るかは分からないけれども。

この生まれ変わりもたくさん繰り返していれば、やがて嫌気が差してくるか、すばらしい縁にめぐり合ってもう生まれ変わることがなくなるのであろう(佐野洋子『100万回生きたねこ』)。そのときが本当の成仏である。

こうして考えると、「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る」の「諸仏」は、将来仏になることは約束されているが、まだ輪廻していたい存在、つまり「菩薩」と考えたほうがよさそうだ。亡くなった人々はぜひ菩薩として生まれ変わり、自他共に幸せな人生を送ってほしい。

以上、この頃法事でいろんな話をしているうちに頭の中が混乱してきたので整理のために記す。

法事を行うにあたって、亡くなった人をどうみなすかという問題がある。大きく分けて2つあると思う。

1つ目は亡くなった人は浮かばれていないので成仏してもらうために供養しなければならないという考え方。

我々は六道を輪廻する存在であり、欲が深かったり、悪いことをしたりすれば餓鬼界、修羅界、畜生界、地獄に生まれ変わる可能性がある。人間の業は深く、無欲で悪事を全くしていないなどという人などいないから、その可能性は高い。

そこで、親族が本人に代わって善行を積み、その功徳を回向することで亡くなった人にポイントを貯めてもらい、そういう世界から脱してもらうために法事を行うと考える。

この代表がお盆で、餓鬼界に落ちた母を救う話が載っている『仏説盂蘭盆経』は、中国撰述の偽経であることが判明しているが、そのオリジナルであるパーリ経典『餓鬼事』の存在を先日知った。お釈迦様が、餓鬼界に落ちた亡者を救う方法を提示していたという。

たとえお釈迦様に遡る教えだとしても、このモデルは、宗教者にあるまじき恫喝に取られかねない。「ご先祖が苦しんでいます。お布施をして功徳を回向してください」というのは、遺族の不安を煽って儲けようとするインチキ新興宗教と変わらない。また、悪業を強調すれば「悪しき業論」に陥る恐れもある。「病気や貧乏で苦しんでいるのは前世に問題があったからだ」というのは、現状を肯定し社会問題や人権問題をうやむやにしてしまう。

そこで2つ目、亡くなった人は葬儀までに成仏しているという考え方がある。浄土真宗的な考え方に近いが、曹洞宗でも「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る」として受戒=成仏とみなす。「即」がポイントで、次第に成仏していくということではなくていきなり、そのままである。「頓悟」の伝統教説とも一致する。

このモデルでは、成仏のために法事をする必要はもうない。もっとも「修証一如」という考え方もあるから、法事をし続けている限り成仏しているのであって、法事をやめれば成仏も止まると言えなくもない。しかしそれも、供養する側とされる側が一緒に修行し、一緒に成仏するのであって功徳のやり取りをするのではない。

ではどうして法事をするのかというと、亡者に功徳などを与えるのではなく、逆に亡者から何かを頂く、あやかるためであると考えられる。頂くものは思い出であり、教えであり、恩である。仏壇やお墓で静かに手を合わせ、亡くなった人が今の自分を見たらどんな顔でどういう言葉をかけるだろうかとあれこれ想像する。「死者の声を聞く」という作業である。そしてそれを励みにして、恩返しのつもりでこれからの自分を生きていく。

葬式や法事は生きている人のためにするものだという意見もあるが、亡くなった人を偲ぶことができなければ手間隙をかけて葬式や法事などできない。亡くなった人はやはりそこにいてもらわなければならない。

一見してよさそうなこのモデルも、信じれば信じるほどモラルハザードの恐れが高まる。どんな悪いことをしていても、自堕落な生活でも、死んですぐ成仏できるなら、善い生き方など目指さなくてもよい。だったら他人の迷惑など顧みず、好き放題のことをして死を迎えようということになってしまう。もっとも、このモデルを聞いてタガが外れるほど、普段から神仏を畏れて生きている人も少なくなってきているのかもしれないが。

この頃の法事の法話は、2つ目のモデルに基づいている。一番の理由は、遺族の安心が故人の成仏につながると考えられるからである。循環論法のようになるが、故人が成仏していると和尚さんが言えば遺族は安心し、遺族が安心すればそれを見た故人は成仏できる。だから成仏を先取りするのである。

あるお寺さんで、寺院会計と護持会会計を一緒にして、総代が使い道を決めたいという声があったという。つまり、大きな建物を作るので、寄付を低く抑えるために和尚にもっと出させたいということらしい。

寺院会計とはお布施のことで、住職の裁量で経費・給与・貯蓄に分配される。護持会会計とは、いわゆる寺費のことで、本山に納めるお金や保険、境内の整備などに充てられる。どちらもたいていの場合、毎年決算額の作成が義務付けられているが、寺院会計のほうはわざわざ配布しないこともあって(請求があったときのみ開示)、中身をよく知らない人が多い(だから「坊主丸儲け」と言われる)。

その寺院会計の分配は、誰が決めるのが正しいのだろうか? お布施の使い道は誰が決めるべきか?

規則上では、宗教法人の責任役員である。責任役員は複数おり、代表役員である住職もこれに含まれる。住職以外の責任役員とは、法類の和尚さん、寺族、檀信徒代表などであり、総代であることが多い。つまり、住職と総代の協議の上で決めることになる。責任役員の議決権は平等なので、住職がイエスといっても総代全員がノーといえば通らない。反対も然り。

したがって「和尚さん、ちょっとお布施たくさんもらってるんじゃないの? その中から百万くらい今度の建物に寄付しなさいよ」という意見が総代の大勢ならば、住職は百万出さなければならないことになる。

上述のお寺さんではまさにそういう状況になっている訳だが、住職はこう言っていた。「そのお布施は、私がお経を読んで頂いて来たものです。お経を読まなくても皆お布施をお寺に納めて下さるなら文句は言わないけれど。」

お布施は確かに喜捨であって労働の対価ではない(その点で「お経料」「戒名料」という言葉は正しくない)。だが、住職の活動によって生まれたものであることも間違いはない。住職のお経や法話を聞いて、あるいは日ごろの振る舞いを見て、この人のもとにお金を送れば意義がある、世の中に役立ったと言えると判断する。でなければドブに捨てるのと変わらないことになってしまう。

であれば、そうやってお布施を生み出した住職の裁量を、不文律的に尊重してもらうほうがよいということになる。もちろん住職はそれに甘えて私腹を肥やしてはいけない。できるだけよい使い道を自律的に考えなければならない。このあたりが、会社とお寺の違いと言えそうだ。

問題は、住職が「この和尚なら使い道を任せても間違いない」という信頼を総代から勝ち得ているかであろう。パチンコ入り浸り、高級外車を乗り回し、夜は飲み屋を飲み歩きでは、お布施も泣く。

山形に帰ってきてから、私の収入はお寺一本になった。遊ぶのは副収入でですという言い訳はもう効かない。ストレスをためないように、かつ無駄遣いをしないようにバランスよく使っていきたい。

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