Buddhism: 2010年3月アーカイブ

お布施の金額

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昨年、市内の仏教会で各葬儀社に、葬儀の伴僧の人数やお布施の金額については不用意に助言せず、聞かれたら各寺院に問い合わせるように促すというお願いをした。お布施の金額は、寺院によって、家によって、人によって異なり、一律ではないからという理由である。

一口に寺院といっても、檀家数はさまざまである。一般に住職の生活が成り立つには300〜400軒の檀家さんが必要だと言われており、それより少なければ檀家さんの負担はどうしても大きくなるし、それより多ければ少なくて済む。また、護持会費(寺費、檀家さんの年会費)を多めにして経常費を捻出し、その分お布施を下げる寺院もあれば、逆に護持会費を下げてお布施の中から経常費を出す寺院もある。

次に家であるが、近年では平等になってきたとはいえ、何百年来の付き合いなので、家によってお布施の金額が異なることが多い。一般に総代と呼ばれる家、院号を受けたことのある家ほど、信仰の厚さをお布施の金額に反映することが多い。寺院として、家柄で差別するようなことは決してあってはならないが、先祖代々受け継がれてきた思いも受け止める必要がある。

しかし、いくら先祖代々信仰が厚くても経済状態が悪くて出せないこともあるし、お寺の怠慢で信仰を失わせてしまうことだってないとはいえない。反対に家に関係なく個人として帰依の心を深める信者さんもいる。

さらにその土地柄というのも実際ある。東北地方は全体的に高いとか、都市部にいくほどいわゆる相場は上がりやすいということがあるようだ。

そういうわけでお布施の金額は千差万別なので、寺院やその家の先祖のことをよく知らない葬儀社が助言できる話ではないのである。

このようなお願いをしておいて後から気づいたことだが、お布施の金額を寺院が答えなければいけないのは、なかなかきついことである。

というのもまずお布施は喜捨であって、料金でもサービスへの対価でもない。つまり寺院から請求するものではないのである。近年、国会で宗教法人など公益法人への課税が取り沙汰されているが、それはお布施が料金や対価のようになってしまっている現状を鑑みてのことだろう。

金額を寺院からはっきり申し上げるのは、親切からなのかもしれないが、料金と受け止められる可能性は高い。それでは見返りを求める気持ちが起こり、折角の功徳を失うことになってしまう。寺院がお経を読むとき、お布施をもらえるからなどという気持ちで読んでいては功徳がないのと同様である。お布施を頂くかどうかに関係なく、檀家さんのためにお経を読むし、檀家さんはお経を読んでもらえるかどうかに関係なくお布施をするというのが望ましい。

憎まれようがお構いなく、お布施を要求して否応なく功徳を積ませるのが住職の務めだという考えもあるだろうが、お医者さんだって教師だって威張っていられない今の世相からみて、納得できないことをやらせるのは難しい。

というわけで私は依然として金額提示を行っていない。でも葬儀社にお願いしておいて自分は知らんぷりというわけにもいかないので、葬儀の場合は寺の役員さんに聞くようにお願いし、法事・祈祷・供養の場合はここ10年に実際いただいている金額のデータを教えるという方法をとっている。

寺の役員さんにお伝えしている金額は、私が近隣の寺院から伺って調べた地域の相場である。しかし、その金額はあくまでも目安であって、変動してもかまわないことを必ず付け加えてもらう。役員さんは親切に「なんぼ多くてもかまわないから」と言って下さっているそうだ。住職に直接言われるよりも、寺の役員さんから聞いたほうが、その金額を守らなくてはいけないプレッシャーが少なく、料金であると取られる可能性も減り、また住職の独断や私利私欲からではなくお寺全体で情報共有されていることを分かってもらえる。データで提示するのも同じ効果がある。

別に住職を信用していないというわけではなくても、お布施の金額に客観性と情報公開度が担保されると、檀家さんは安心するようだ。

もちろん、結果的に誰からいくら頂いたかは公開しないし、金額にもこだわらない。あるお寺さんは、金額を帳簿につけるのは奥さんに任せて、自分はわざと知らないようにしているという。知ってしまえば、金額によって檀家さんを差別する気持ちが抑えきれないからだという。

それでは冒頭に書いた寺院・家・人によって異なるというのはどうかというと、うちのお寺の場合、お布施が変わりうるのは最後の人による部分だけで、あとはあえて考慮しないことにしている。隣のお寺と異なり過ぎるのは問題だし(どこのお寺のお布施が高いという話は、田舎なので親戚づてにすぐ伝わる)、家や戒名によってお布施は変えないというのが私の方針だからである(護持会費は家によってまだ差が残っているが、徐々に縮めたいと考えている)。戒名料も、それに相当するお布施も頂かない。

なので、当主は寺の役員さんから目安を聞いた上で、現在の経済状況と、お寺や住職への自身の信仰度を加味して最終的な金額を自由に決めることになる。最終的な決定に関して、こちらからは何も言わない(言ってしまうと、目安を下回ったときにケチだとか信仰が足りないとかいう話になってしまう)。

お葬式に行って戒名が院号だと「さぞたくさんお布施をされたんだろうな」と思う方もいるかもしれないが、その推理は必ずしも正しくない。戒名によってお布施が変わるという仕組みにしていないし、そもそも金額を提示せず後払いであれば多いか少ないかも分からないからである。

観音様の功徳

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法華経の観世音菩薩普門品は、曹洞宗でもよく読まれるお経である。そこでは、観世音菩薩を信仰する功徳が説かれている。このお経はお釈迦様が亡くなって400年ほどして、紀元前後ころから起こった在家信者による宗教文学運動の一環として西北インドで作られたという。どういう経緯で著作されたかは明らかでないが、実話に基づいているような気がしてならない。

パターンは決まっていて、窮地に立たされたときに観世音を念じれば助かるというもの。ひとつだけ、男女産み分けできるというのがある。

・財宝を船に積んで難破し、羅刹の国に漂着しても脱出できる
・処刑されそうになったときに処刑人の刀が折れる。足かせや鎖でつながれていても解ける。
・財宝を持って旅行中に盗賊に襲われても、無事に逃げられる
・息子がほしければ容姿端麗で上品で優雅な息子、娘がほしければ容姿端麗で上品で優雅な娘が生まれる。
(以上散文)

・火が燃え盛る穴に落とされても火が消える
・海で難所や怪物の住処に落ちても海に沈まない
・崖から突き落とされても太陽のように宙に浮く
・大石を頭上から落とされても一本の毛髪も害われない
・剣を持った敵に囲まれても皆改心する
・処刑されそうになっても剣はばらばらに砕ける
・足かせや縄で縛られてもすぐ解ける
・呪いや悪霊を仕向けられても送り主に還る
・鬼や悪魔に囲まれても一本の毛髪も害われない
・猛獣に囲まれても皆逃げ去る
・毒蛇に囲まれても毒が消える
・雷雨に襲われてもすぐ静まる
(以上偈文)

想像だといえばそれまでだが、まず発想が在家である。お坊さんなら、財宝を持って旅行したり航海したりしないし、息子や娘を望むこともない(日本仏教なら跡継ぎの息子がほしいところだろうが)。それからやけに迫害されている。今の新興宗教の一部のように、法華経を編纂した人たちは強烈な信仰心のゆえに非社会的な集団として迫害されたのではないだろうか。法華経を奉じた日蓮の佐渡流罪を思い起こさせる。

ただ、今の日本では功徳としてあまり魅力的ではない。猛獣や毒蛇に囲まれたりしないし。せいぜいオヤジ狩り・オタク狩りに逢わないといったところか。

今風に解釈すると、こんな感じだろうか。あまりに現実的だと、観世音を念じたのにダメだったということもありそうだが。

・預金先の金融機関が破綻して、借金まみれになっても逃げおおせる
・冤罪で懲役や死刑になっても、無罪判決が出る
・家が火事や地震に襲われても、無事に脱出できる
・交通事故に遭いそうになっても、無事でいられる
・詐欺に遭いそうになっても、騙そうとした人が損をする

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