Buddhism: 2011年2月アーカイブ

地元の公民館の主催で、昨年に引き続き写経教室(全4回)が開かれ、講師として呼ばれた。大雪の中、毎回12〜13名の参加者があり、こうして仏教に興味を持って下さる方がいらっしゃることが嬉しい。

上田紀行氏が立命館大学で行ったアンケートによると、仏教に対していいイメージをもっている人は9割にのぼるのに、「日本仏教に対して」と聞くと65%、「日本のお寺さんに対して」は25%、「日本のお坊さん」に対しては1割になってしまったという。仏教の講座を開くなら、お寺よりも公民館のほうが人が集まりやすいということは言えそうだ。

昨年は般若心経の読解を試みたが、いくら平易な言葉にしても般若心経は難解だということを痛感した。そこで今年取り上げたのが初期経典の『ダンマパダ』。後世の創作が多い大乗仏典とは対照的に、お釈迦様の生の声とされる初期経典は非常に直截的で分かりやすい。

中村元先生の岩波文庫版をもとに、パーリ語の原典を見ながら自分にしっくりくる訳語を検討し直した。パーリ語自体はまともに勉強したことはないが、語彙も文法もサンスクリット語から推察できるものが多い。またもとの韻文の雰囲気が出るよう、できるだけ短くした。『ダンマパダ』は全部で26章あるが、毎回1章を取り上げ、冗長な部分は抜粋にしてある。

1回目は第1章「ひと組ずつ」。唯心論的世界観が述べられる。
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ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその者につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその者につき従う。影がその体から離れないように。
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだく者には、怨みはついに止むことがない。
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだかない者には、ついに怨みが止む。
実にこの世においては、怨みをもって怨みが止むことは決してない。怨みをすててこそ止む。これが永遠の真理である。
「ここにいる我々は皆、死を免れない」と知らないから人々は争う。このことわりを知れば、争いはしずまる。
悪いことをなす者は、この世でも、来世でも悔いに悩む。「私は悪いことをした」と悔いに悩み、地獄におもむいて、さらに悩む。
善いことをなす者は、この世でも、来世でも歓喜する。「私は善いことをした」といって歓喜し、天の世界におもむいて、さらに喜ぶ。
たとえためになることを数多く語っていても、それを実行しない者は、牛飼いが他人の牛を数えているように、出家者ではない。
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、欲望と怒りと迷妄とを捨てて、正しい理解につとめ、感情的にならず、執著しない者は、出家者である。
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2回目は第8章「千という数にちなんで」。量より質を重んじる態度は、後代の道元にも引き継がれている。
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無益な言葉を千たび語るよりも、聞いて心の静まる言葉を一つ聞くほうがすぐれている。
無益な言葉の詩が千あっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。
戦場で百万人に勝つよりも、たった一つの自己にうち克つ者こそ、本当の勝利者である。
自己にうち克つことは、ほかの人々に勝つことよりもすぐれている。常に行いを慎み、自己を整えて、自己にうち克った人を負かすことは、神にも、天人にも、悪魔にも、梵天にもできない。
百年の間、毎月千回ずつ祭祀を営んでも、自己を修養した人を一瞬でも敬うならば、百年の祭祀よりもすぐれている。
この世で功徳を求めて一年間神を祀り捧げ物をしても、行いの正しい人々を尊ぶ功徳の四分の一にも及ばない。
つねに自己を修養している人を敬えば、四つのものが増大する。すなわち寿命が延び、顔色がよくなり、健康になり、体力がつく。
素行が悪く、心乱れながら百年生きるよりも、善き行いに励み、思い静かに一日生きるほうがすぐれている。
愚かに迷い、心乱れながら百年生きるよりも、智慧をもって思い静かに一日生きるほうがすぐれている。
なまけて、無気力に百年生きるよりは、自己を向上する努力をふりしぼって一日生きるほうがすぐれている。
諸行は無常であると知らずに百年生きるよりも、諸行は無常であると知って一日生きることのほうがすぐれている。
不死の境地を知らずに百年生きるよりも、不死の境地を知って一日生きることのほうがすぐれている。
最上の真理を知らずに百年生きるよりも、最上の真理を知って一日生きることのほうがすぐれている。
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3回目は第12章「自己」。大乗仏教の原理と相容れないくらいの、徹底した自己責任が展開される。少林寺拳法で唱える「聖句」はここから取られている。
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自己が愛しいと思うならば、自己をよく守りなさい。賢い人は、人生のどの時期でも目覚めている。
まず自分を正しく整え、その次にほかの人に教えなさい。賢い人はそうするから非難されないのである。
ほかの人に教える通りに、自分でも行わなければならない。自己を整えた人しか、ほかの人を整えることはできない。自己は実に整えにくいものだから。
自己にとって自己こそが主である。どうしてほかの人が主となろうか。よく整えた自己によってこそ、得難い主を手に入れる。
自己が作り、自己から生まれ、自己から起こった悪が、愚かな人を打ち砕く。ダイヤモンドが宝石を打ち砕くように。
徳のない者は、敵が望むような不幸を自己に対して行う。蔓草が沙羅の木にまといつくように。
悪いことや、自己のためにならないことは為しやすい。ためになることや善いことは、極めて為しがたい。
愚かにも、悪い考えのために、徳の高い人や、聖者の教えを罵るならば、自身が破滅する。カッタカという草の実が熟すると自身が滅びてしまうように。
自ら悪をなせば、自ら汚れ、自ら悪をなさざれば、自らが清らかである。清きも清らかざるも、自己による。人は、ほかの人を清らかにすることはできない。
たとえほかの人にとってどんなに大事なことでも、そのために自分のつとめを捨て去ってはならない。自分の目的をよく考えて、自分のつとめに専念せよ。
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4回目は第15章「楽しみ」。ちょうど2月15日は涅槃の日で、平安を楽しみ生死を超えるという涅槃について理解を深めた。
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怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく楽しく生きよう。怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく暮らしていこう。
悩める人々のあいだにあって悩むことなく楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって悩みなく暮らそう。
貪っている人々のあいだにあって貪らず楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって貪らないで暮らそう。
一切のわずらいなく楽しく生きていこう。光り輝く神々のように、喜びを食物とする者となろう。
勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで生きる。勝敗を捨てた穏やかな人こそ、安らかに生きる。
愛欲ほどの火はほかにない。憎悪ほどの罪はほかにない。このかりそめの身ほどの苦しみはほかにない。心の平安ほどの楽しみはほかにない。
飢えは最大の病であり、我が身は最高の苦しみである。この真理をあるがままに知ったならば、涅槃という最上の楽しみがある。
健康は最高の利得であり、平安は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、涅槃は最上の楽しみである。
孤独の味、心のやすらぎの味を知ったならば、真理の味を味わいながら、恐れもなく、罪過もなくなる。
愚人と共に歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、仇敵と共に住むようにつねにつらい。心ある人と共に住むのは、親族と共に住むように楽しい。
したがって智慧ある賢者、よく学び、忍耐強く、戒めを守る、貴い聖者・善き人、英知ある人に親しみなさい。月が星の進む道に従うように。
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講義の後は写経。毎回漢訳の般若心経ばかりでは芸がないので、今回も写仏(仏像の絵を写す)と、新たに梵字の般若心経を選べるようにした。現代のインドで使われているデーヴァナーガリー文字よりも、弘法大師が伝えた悉曇文字のほうが重みがあっていい。写仏は、塗り絵などすれば文化祭に出せるのではないだろうか。

参加者の多くは昨年からのリピーターで、毎回楽しみにして通っているとのこと。本当にありがたいことである。公民館長によれば、また来年の冬に行われる予定だという。今度はどんな話にしようか、1年かけて考えておきたい。

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